清水正の『浮雲』放浪記(連載82)


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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載82)


平成△年12月21日

〈三十九〉を読む

  顔色の悪い、ゆき子の顔を、じいっとみつめながら、富岡はポケットから煙草を出して火をつけた。ソーダ水を二つ注文した。ゆき子はぐったりと板壁に凭れて瞼を閉じた。何も考えるよゆうもない。そのくせ、湖水の白い飛込台に立っている、ランビァンのある日がほうふつとして浮んで来た。富岡もパンツ一つで黄昏の湖水に泳いでいる。近所のスタジオでやっている、ラグビイの騒々しいあの時の音も耳について、じいっとしていると、まるで泳ぎのあとのような疲れかただった。(316〈三十九〉)


 富岡はゆき子の顔を凝視するが、ゆき子は壁にもたれて瞼を閉じている。富岡はゆき子の現在を凝視せずにはおれないが、ゆき子は現実を見る気などまったくない。ゆき子にとって現実は八方塞がり、どこにも出口は見つからない。妻がいて、おせいとも関係して半同棲している富岡の言葉などに耳を傾ける気などさらさらない。ゆき子にとって唯一信じられる〈現実〉は、仏印のランビァンで富岡と過ごした幸福な〈過去〉でしかない。瞼をかたく閉じなければ蘇って来ない〈過去〉だけが、彼女が受け入れることのできる〈現実〉なのである。
 富岡に見えるのは、瞼を閉じたゆき子の顔だけである。富岡はゆき子との〈過去〉を、ゆき子と共有することさえできない。富岡に希望に満ちた将来はなく、蘇らせたい幸福な過去もない。幸せな〈過去〉を不断に蘇生させているのはゆき子であって、富岡の眼差しがゆき子との過去に特別の思いをこめて注がれることはない。仏印での〈過去〉に思いをよせれば、富岡の子供を身ごもって田舎へ戻ったニウのことも思い出さなくてはならない。ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは、自らの手で殺害したリザヴェータをほとんど思い出すことがなかった。富岡もまたニウのことをほとんど思い出さない。脳裏を瞬間的にかすっていくことはあっても、わずかばかりの手切れ金を渡して捨ててしまったニウのことで良心が疼くこともない。

  富岡は一服ゆるく煙を吐き出しながら、
 「ねえ、君はいま、いろんなことを考えているンだろうが、こんなになってしまったンだよ。僕は、どんなにでもつぐないをする。君ならばすべてを判って貰えると思うンだ」
 「伊香保では、やっぱり、おせいさんと、わけがあったのね」
  富岡は黙っていた。
 「あなたって、いけないひとね?」
  いけないひとねと言いながら、それでは、自分はどうなのだと、ゆき子は自問自答してみる。ほんのわずかではあったが、ジョオとの関係はどうだったのだろう…。淋しくて淋しくてやりきれなくて、ジョオとあんなわけになってしまったのだ。富岡は別にとがめだてはしなかった。そうした、人間の、ある時の心の空虚は、やっぱり、誰かに手を差しのべて行くより仕方のないものだろうか。伊庭との昔のくされ縁にしたところで、一種の空虚さがさせたわざなのである。
  自分だって、富岡と同じようなことをやっていたのだ。ただ、それを、気がつかないままでやりすごしてしまっただけである。(316〜317〈三十九〉)


 男と女の心のすれ違いが端的に表れている場面と言えようか。ゆき子は瞼を閉じて、ダラットで幸福であった時の一場面を視ている。富岡はその〈過去〉をゆき子と一緒に蘇らせることはできない。富岡に見えているのは、瞼を閉じているゆき子の顔ばかりである。この疲労困憊した顔からは、富岡を責めなじる言葉しか浮かび出てはこない。富岡が口にする「君はいま、いろんなことを考えているンだろうが」という時の〈いろんなこと〉の中に、まさに今、ゆき子が脳裏に蘇生させているダラットの場面などは入っていない。富岡は相手の女の現在と関わって肉体次元での関係に踏み込んでいくことはできるが、相手の内部世界への参入はほとんどできていない。要するに、富岡に欠けているのは想像力である。
 ゆき子は〈過去〉向きで現在を生きている女だが、富岡はいわば〈過去〉からも〈将来〉からも切断された、まさに浮雲のような〈現在〉を生きている。過去と現在に立脚し、将に来るべき将来を見据えているわけではないので、現在を行き当たりばったりで生きている。ゆき子にぜひ子供を産んでくれ、などと平気で口にできるのも、どんなつぐないでもするつもりだ、などと言うのも、要するに富岡が自分が置かれている厳しい現実を直視していないことを端的に示している。現実を直視して具体的な対応ができないでいる富岡と、後ろ向きで現実を歩いているゆき子の関係は、ふつうに考えればその関係性自体の続行があり得ない。すでに関係が破綻しているその二人の関係を敢えて続行させようとすれば、〈破綻〉の地雷を絶対に踏まないように、作者が小説構成上の工夫を凝らさなければならないことになる。
 富岡とゆき子の腐れ縁に幕を下ろそうと思えば、おせいの性格をゆき子以上に強靱なものとして描けば事足りたかもしれない。おせいが自分の部屋にゆき子一人を置いて姿をくらましてしまうような女ではなく、あくまでもゆき子と闘い、一歩も引かないような強さをもった女であれば、ゆき子がどんなにがんばっても富岡とおせいの間に亀裂を生じさせることはできなかったはずである。なにしろ、すでに富岡の気持ちは若いおせいに向けられており、勝負は戦わずして決定していたはずなのである。にもかかわらず、作者はどんなことがあっても富岡とゆき子の関係に幕を下ろすことができなかった。
 おせいは姿を消し、続いて登場するのが富岡で、しかもこの時の富岡はゆき子に対して実に友好的に、へりくだった姿勢で臨んでいる。ここまで来ると、富岡とゆき子の関係性を保持させている最大の原因は本人同士の次元を超えて、作者自身の、どんなことがあっても二人の関係を破綻させないという強い意志そのものであったということになる。この作者の意志がどこから生まれてきたのか。おそらく、ゆき子の富岡に対する異様なほどの執着は作者自身の恋愛体験に裏付けられていよう。現実では破綻した恋愛関係を、自らの作品世界の中では成就させたいという願望に支配されていたのかもしれない。