清水正の『浮雲』放浪記(連載81)


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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載81)

平成△年12月4日
 富岡の発する言葉は、言葉自体は重いが、当の本人が自分の発した言葉を背負うことができないので、何とも空しく響く。富岡は「僕が悪いンだ。責任は持つ覚悟だ」と言うが、いったいどんな責任の取り方を考えているのだろうか。富岡はダラットにいたとき、妻の邦子に三日に一度は手紙を書きながら、その同じ手で女中のニウを愛撫していた。しかもニウとの関係を曖昧なままにしてゆき子とも深い仲になった男である。ニウが富岡の子供を宿した時にも、一時金で解決をはかったまま、その後何の面倒も見ていない。
 富岡のやり方は、とにかくその場しのぎで一貫した計画性がない。妻の邦子、ニウ、ゆき子、おせいと次々に女をつくっては、その誰一人に対してもきちんと始末をつけられない。そんなだらしのない男が、鉄面皮にも「責任は持つ覚悟だ」などと平気で口にしてみせる。まるで女を弄ぶだけのプレイボーイのような口のききかただが、こういった軽薄だが、恰好つけのダンディな男に惹かれたのがゆき子であるから、責任などという言葉を持ち出せば、どちらもどちらということになる。
 富岡は子供が産まれるのは十月だということが分かっている。ゆき子から妊娠を告げる手紙を受け取って以来、富岡は子供のことをずっと考えていたに違いない。ゆき子は「明日にでも婦人科へ行っておろしてもらうつもりよ」と言う。この言葉を聞いて、富岡は瞬間どんな思いを抱いたであろうか。「富岡は何も言わなかった」と作者は書いているが、沈黙もまた沈黙を守っている。その時、富岡が何を思ったのか、作者は彼の心の中に入り込んで、逐一検証するようなことはしない。富岡の心のありようをとりあえず無視して、作者はゆき子の思いに寄り添う。作者は「ゆき子は生きているかぎり、煩悩は人の心に嵐を呼ぶものだと悟った」と書いている。ゆき子の心の中に、インチキ宗教の大日向教を創始した伊庭のもっともらしい言葉「彌陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とするべし。その中へは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願いにまします」という言葉が蘇ってきたのかもしれない。伊庭の宗教ビジネスとは違った次元で、ゆき子は「神を祭った道場にこもって、じいっと屈伏して祈ってみたい」そういった気持ちにも襲われる。
 富岡は「君は、俺をいやな奴と思っただろう?」と言う。こういう言葉を口にする男の内部にはどんな思いが潜んでいるのだろう。富岡は自分で自分を〈厭な奴〉と見なした上で、ゆき子もそのように思っているだろうと確信し、その上でこの言葉を口にしているのだろうか。描かれたかぎりで見れば、富岡は確かに〈厭な奴〉だが、しかしこの〈厭な奴〉が妻の邦子、ゆき子、おせいといった女たちを魅惑していることも事実である。女にもてるろくでもない男が、そのろくでなしから脱することは容易ではない。何しろ、こういったろくでなしは、ろくでなしそのものに女を引きつける秘密が宿っているのだと無意識のうちに思いこんでいる節がある。女は〈厭な奴〉を、それだけの理由で嫌うわけではない。ゆき子が彼女を本気で好きになった独身の加野よりも、妻帯者の富岡を選んだことがその一つの証ともなっている。

平成△年12月19日
富岡のような男は、女と男の泥沼劇を演ずるには格好のキャラと言える。富岡は弁解せずにはおれないし、眼前の女に対しては、その心をくすぐるような言葉を平気で吐くことができる。富岡はゆき子が彼のことを〈厭な奴〉と思っていることを知っているが、敢えてそのことを聞いた上で「子供だけは産んでくれよ。その日からでも僕が引き取る」などと、格好いいだけの言葉を平然と口にできる男なのである。約束を守らないペテン師男のいつもの手である。義理人情に厚く、口にしたことは守る男の中の男からすれば、富岡は箸にも棒にもかからないクズのような男である。 このクズ男の特長は、要するに見栄っ張りということにつきる。自分の実力の何倍もの評価を自分自身に下している男は、自分の発した言葉の嘘に気づかない。こういった男に惚れた女は、もともと相手の男に誠実など本気で求めていないから、最大限傷ついたような迫真的な演技をして泣いたりわめいたりはしても、決してそのことで相手の男ときっぱり縁を切ったりしない。要するに、女もまた相手の男にふさわしいキャラの女ということになる。
 狸と狐の化かしあいで、富岡が「子供だけは産んでくれよ」とゆき子に言ったのは、ゆき子が子供を産まないことをずるい男の直感で確信していたからこそである。先にも少し触れたが、ゆき子の懐妊した子供の父親が富岡であるという断定はどこにもないのである。パンパンとなって外人兵士相手に生計をたてていたゆき子は、富岡以外の男、たとえばジョオの子供を宿していた可能性もあるのだ。白人兵士ジョオの子供であれば、産み落とした時に弁解の余地はない。ゆき子にしてみれば、あくまでも富岡の子供を懐妊したのだと言い張るためには、子供を堕胎するほかはなかったのである。ゆき子の内部世界で交わされたであろう自己問答を、作者はいっさい書かない。作者芙美子は、ゆき子に徹底して加担する姿勢を崩すことはない。不注意な読者は作者の語りの調子に乗せられて、ゆき子を富岡以上にしたたかで狡い女と見ることはない。
 「おせいとの問題も、正直に君に告白するつもりだ」と富岡は口にしている。卑怯な男のやり口だが、この卑怯には相手の女の心をたぶらかす甘い蜜がたっぷり含まれているので、こう言われて本気で怒りを露わにする女はまずいない。現役の女を張っている女で、この富岡の言葉の欺瞞を的確に見破って、絶縁状を叩きつけるものはいない。ゆき子はすぐに「おせいさん、ご主人と別れたって言ってたわ」と応じている。ゆき子がここでどんな言葉を返そうが、いずれにせよ応じてしまったことで、富岡との泥沼劇の続行を願ったことは確かなのである。
 富岡は基本的には相手に対して責任をとることができない男であり、おせいとの関係に関しても、彼の切り札は「むりやり連れて行かれて」である。富岡は、ことの成り行きはすべて相手の意志によって展開しているのだとでも言いたいのであろうか。表面だけをなぞって見れば、富岡とゆき子の関係においても、積極的にアプローチしたのはゆき子であり、富岡は受け身の姿勢で応じていた。しかし、これはあくまでも二人の関係の表面舞台上のことであって、富岡は受け身の形で相手の女を虜にする罠の仕掛け人としては天性的なものを備えている。自分が今現在、同棲している女おせいに関して、眼前の女ゆき子に〈正直に告白〉する男は、場所が変われば、今度はゆき子に関しておせいに〈正直に告白〉するということになる。
 第三者の冷静な眼でみれば、富岡はとんでもない食わせ者ということになるが、富岡と関わっている当事者にすれば、富岡の〈正直な告白〉が絶妙な甘い蜜となって心をとろけさせるのである。結果、ゆき子は『性懲りもなく「おせいの誘惑に打ち勝てなかった」弱い男富岡には、いつも私がついていなければだめなんだ、私こそが富岡には必要なんだ』という思いこみに支配されることになる。愚かと言えば、こんなに愚かな女はきわめて稀だが、作者はこういった女の愚かさを徹底的に描ききることで、愚女を聖母的領域にまで高めたことも確かである。愚を徹すれば聖となる、ゆき子は泥沼を生ききって聖母の高みに至ることを作者によってあらかじめ方向付けられていたヒロインであったと言えよう。
 「おせいの誘惑に打ち勝てなかった」という富岡と、「すっかり疲れていた」ゆき子はバラックの喫茶店に入る。二人は〈ぎくしゃくした椅子〉に腰を下ろすが、この椅子は二人の関係性の隠喩ともなっている。〈富岡の子供〉をはらんだゆき子は、未だ産むという決断をくだすことはできない。おせいが借りた部屋を〈足だまり〉にして、半ば同棲している富岡の調子のいい言葉など今更信ずることはできない。産んだ子供が、もしもジョオの血を受け継いでいれば、どんな弁解もしようがない。富岡に対して心理的に優位性を保ったまま、侮辱され虐げられた女を演じつづけようとすれば堕胎のほかはない。しかし、妊娠した女にとって、惚れた男の子供であるかもしれない子供を堕胎するのは決してうれしいことではない。堕胎はどんな事情があれ〈殺し〉であり、新しい命を親の勝手な意志で絶つことに変わりはない。妻帯者の富岡と性的関係を持ったこと、妊娠したこと、邦子やおせいとの確執に苦しむこと、これすべてゆき子が罪悪深重、煩悩熾盛の衆生の一人であることを意味している。人間は生きている限りは煩悩とともにあるほかはない。この地上世界を舞台として、人生という罪悪深重な悲喜劇を全うするほかはないのである。心身共に疲労困憊しているゆき子ではあるが、しかしカチェリーナ・マルメラードワのそれに比べれば、まだまだゆき子は自分本位の苦悩にまみれているだけだとも言えよう。林芙美子は富岡の妻邦子の苦しみに関してはあまり触れていないが、彼女こそはこの小説においてゆき子やおせいなどよりはるかに苦しんでいたはずである。富岡は犯罪を企てて実行するようなワルではないが、女のために女を苦しめる罪深い男には違いない。