清水正の『浮雲』放浪記(連載80)


清水正への原稿・講演依頼、D文学研究会発行の本購読希望者はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。 ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載80)
平成△年11月24日

「あら、あなた、東京に出て来ていたの?」
 「ええ……」
 「どうして、こんなところに?」
 「私の知りあいの家だものですから?」
 「富岡います?」 
 「いま、留守なンですけど……」
 「嘘おっしゃいよ。妙なひとね……まったく、妙なことだわ。じゃア、私富岡がもどって来るまで、富岡の部屋で待ちましょう……」
  おせいは黙っていた。ゆき子は全身ががくがく震える気がした。何を言っているのか、自分でもよく判らなかった。
「奥さまのほうへお帰りになってるんですよ。昨日いらっしたばかりだから、当分いらっしゃらないンですけど……。奥さまおぐあいが悪いものですから……」
 「あら、そうなの、そうなら、なおいいわ。私もぐあいが悪いのよ。富岡の部屋であのひとが戻って来るまで、ゆっくり休息させて貰いますわ」
  おせいは困った様子だった。おせいの後ろの玄関を見ると、幾世帯も住んでいるらしく、子供のスクータアや、乳母車が入れてあった。おせいはがんこにそこに突っ立って動かない。ゆき子もがんこに立っていた。
 「玄関でもいいわ。このお家の方に事情を話して、私、待たして貰うわよ」
  おせいは抵抗する力もなくなった様子で、黙ってゆき子を二階へ案内して行った。広い廊下の突き当たりの部屋で、板の間敷きにうすべりを敷いた八畳間で、壁ぎわにそまつなベッドがあり、小さい枕が二つ並んでいる。壁にはおせいの紫めいせんの単衣や、シュミーズや、富岡の浴衣の寝巻がぶらさがっていた。観音開きのダイヤガラスのはいった窓には赤い塗りの小さい姫鏡台が置いてあった。食卓や、小さい茶箪笥も新しいのが並んでいる。ゆき子はいっさいが判ったものの胸のなかは煮えるような腹立たしさであった。やっぱりこんなことだったのだと思った。富岡はほんとうにいなかった。富岡のものらしいといえば、男物の浴衣だけである。(312〜313〈三十八〉)

 会話と描写の対比が際だった場面である。おせいとゆき子の会話のリアリテイよりも、室内の詳細な描写がリアリティを獲得している。おせいが嘘を言っているのか本当のことを言っているのか。作者はその判定を読者に委ねて、絶対的な判定を下すことを回避している。ゆき子はおせいの言葉の真偽を詮索するよりも、自分自身の眼で室内を執拗に見回す。〈粗末なベッド〉〈小さい枕が二つ〉、壁にぶら下がっている〈紫めいせんの単衣〉〈シュミーズ〉、〈富岡の浴衣の寝巻〉、〈赤い塗りの小さい姫鏡台〉〈食卓〉〈小さい茶?笥〉が、富岡とおせいの関係の現状を余すところなく伝えている。女が女の部屋を舐めるような目線でとらえれば、もうごまかしようはない。痛ましいような、せつないような十九歳のおせいの気持ちが反映された部屋の調度や衣装である。親子ほど年の離れた男を追って、おせいは亭主を捨てて上京した。富岡がおせいに東京で会う場所と日時を口にしていなければ、絶対に会うことはなかった二人である。もし東京での二人の出会いを偶然と言うのであれば、作者は〈偶然〉の必然を描かなければいけない。
 この場面を読む限り、富岡はすでにおせいとの新生活に入り込んでいる。ゆき子ははっきり言って捨てられた女である。作者は「ゆき子はいっさいが判った」と書いている。いさぎのいい女なら、黙っておせいのもとから立ち去って二度と訪れることはなかったであろう。しかし、読者はすでに十分、ゆき子がそんな女ではないことを知っている。作者は、ゆき子はいっさいがわかったものの「胸のなかは煮えるような腹立たしさであった」と書き加えている。ゆき子は竹をスパッと割ったような、諦めのいい女ではない。対象にどこまでも執拗に食らいつき、邪魔ものに対してはどんな手段を使ってでも排除しようとする。

平成△年11月27日

 「いつから、いっしょに暮してるの?」
 「いつからって、ここは私の部屋なンですよ。富岡さんは、田舎のほうにいらっして、東京に足溜りがないから、ここでお泊まりになるンだけど、私、その時は、階下でやすませて貰っているンです…」
 「足溜り? へえ、足溜りねえ…」伊香保の旦那さまどうなすって?」
 「別れちゃったわ…」
 「そう、それで、都合よくいったわけね」
  もう夕方だったので、子供たちが二階の廊下で騒々しく遊んでいた。おせいは黙りこくってベッドに腰をかけていた。ゆき子も黙りこんで出窓のそばにす坐っていた。ふと思いついたように、おせいは廊下へ出て行った。ゆき子はあたりを眺めた。おせいは、いったいどんな機会を掴んで、富岡といっしょになったのかが不思議だった。卓上に出ている二つの湯呑茶碗、部屋の隅にある男ものの雨傘、見ているうちに、富岡の身のまわりのものが、少しずつにじみ出て来た。おせいはなかなか戻って来なかった。ゆき子は廊下へ出て、遊んでいる七ツぐらいの子供を呼びとめて聞いた。
 「ここのおじさん、お勤め?」
 「うん」
 「夜は戻って来るンでしょう?」
 「いつも、何時ごろ、戻って来る?」 
 「もう、戻って来るよ…」
 「どこへお勤めしてるのかしら?」
 「知らない」
 「ここ、たくさんで住んでるのね?」
 「うん」
  ゆき子は、一種のアパートのようなものだと思った。(313〈三十八〉)
 

おせいの話から判明したのは、田舎にいる富岡が東京へ来た折りの〈足溜り〉におせいの部屋を利用していること、おせいは亭主の向井と別れたという二点である。おせいは富岡との深い関係に対してはいっさい口を割っていない。が、おせいと富岡ののっぴきならない関係は、部屋の壁にかかったおせいの〈シュミーズ〉と富岡の〈浴衣の寝巻〉が端的に語っている。口ではごまかせても、部屋の模様が真実を余すところなく語っている。おせいと富岡の関係の真実を見ても、黙って引き下がることができないのがゆき子である。
 短い会話と沈黙。この息詰まる沈黙に耐えられなかったのがおせいであった。おせいは、ふと思いついたように廊下へ出ていくとそのまま帰ってこない。作者は廊下へ出て行ったおせいの姿をまったく追わない。語りの視点はもっぱらゆき子に向けられている。ゆき子はおせいと富岡がいっしょになるそのきっかけが何であったのか不思議に思う。ゆき子は未だ、富岡がおせいのような女に牽かれるその理由を本当には分かっていない。描かれた限りの富岡は、おせいの若い肉体に牽かれている。おせいはゆき子と同様に、その精神性において魅力を潜めた女ではない。動物本能的な次元で富岡とゆき子は結ばれた。おせいと富岡の関係も、そこに精神的な結びつきがあったわけではない。東京へ出てダンサーになりたいと願っていたゆき子の前に、ちょうど都合のいい女好きな男が現れたにすぎない。
 富岡はゆき子との腐れ縁を続けるよりは、若いおせいと新規蒔き直しをはかりたいという、自分勝手な欲望に身をまかせたまでのことで、特になにが何でもおせいでなければならないという強い思いにかられていたわけではない。富岡には一貫した意志が働いていない。富岡はなるがまま、なすがままに、まさに浮雲のように流れながれていく男であり、自分の強靱な意志で人生を切り開いていくタイプではない。世の中には、こういった箸にも棒にもかからないような、優柔不断なろくでなしに牽かれる女がいる。〈腐れ〉から逃れられない〈縁〉があるのだとしか言いようがない、富岡とゆき子の関係である。
 ゆき子は卓上に置かれた〈二つの湯呑茶碗〉と、部屋の隅にある〈男ものの雨傘〉を見ながら、嫉妬の感情に支配されるというよりは、富岡の存在を体感的に浮上させる。ゆき子と富岡の〈腐れ縁〉の強靱な関係性の隙間に浸入したおせいではあるが、彼女はこの関係性を破綻させる力を備えていない。沈黙の緊張に耐えられず、ゆき子を部屋においたまま廊下へ出てしまった、その時点でおせいはゆき子に敗北してしまったとも言える。おせいが期待できるのは、富岡が彼女を選んでくれることだが、その場凌ぎの優柔不断な男にそんなことを期待すること自体が間違いである。「なかなか戻って来なかった」おせいの気持ちを考えると痛ましい思いを禁じ得ないが、男と女の関係に感傷を抱いても詮方ないことだ。現に、おせいは亭主の向井を裏切っているのだし、要するにどっちもどっちということだ。
 作者は廊下へ出て行ったおせいの姿を追わずに、ゆき子が七ツくらいの子供に話しかける場面を描いている。緊張と弛緩によって観客の笑いをとるのが落語家のやり口だが、多くの読者を獲得した林芙美子の小説にも、こういった手法を見て取ることができる。おせいとゆき子の会話を延々と続けるのではなく、その間にゆき子の眼差しがとらえた部屋の模様を描き出したり、緊張の会話と沈黙の直後に、子供との会話を挿入することで、読者に緊張と弛緩をバランスよく体感させる。

 もう一度部屋へ戻り、執達吏のような冷たい眼で、一つ一つのものを見てまわった。ベッドの下にトランクや行李が押し込んである。部屋の隅のシックイ塗りの天井に、針金を渡して、手拭が二本かかっていた。ベッドの裏側には、林業に関する本が二十冊ばかり積んであった。その本の上に、ランビァン農林総監部の、原始林地帯のことを仏蘭西語で書いた、見覚えのあるパンフレットがのっていた。これはたしか、森林官のダビヤウ氏が書いたものである。ゆき子は急に切ないほどのなつかしさで、そのパンフレットを手にとり、美しい仏印の森林の写真を眺めていた。自然に涙が頬につたわった。どの写真も思い出ならざるはない。いかだかずらや、ミモザの花に囲まれた、ランビァン高原の別荘のある写真は、ことのほか、ゆき子の眼をとめた。ランビァンの山に囲まれ、湖を前にした雄大な景色は、いまのゆき子にとって、何ともいえない心の慰めであった。ここで息をしている時には、現在のみじめさを一度も考えたことはなかった…。
(313〜314〈三十八〉)


 アパートの子供と息抜きのような話をして、そのままおせいの部屋を後にするゆき子でないところが、彼女の真骨頂である。ゆき子はもう一度部屋に戻って〈執達吏のような冷たい眼〉で一つ一つのものを見てまわる。誰一人存在しない部屋のものを見るという行為に潜んでいるのは、主観を限りなく排して、客観的事実を冷徹に見極めようとする欲求であり、その欲求が断念と表裏一体であるところに見る主体の絶望がある。針金にかかっている〈二本の手拭〉とか、ベッドの裏側に積まれた林業に関する専門書二十冊が、もうそれだけでおせいと富岡の関係の深さを訴えてくる。おせいは部屋から姿を消しているというのに、部屋にある〈もの〉たちが二人の濃密な関係性を無言のうちに発している。おせいと富岡の〈二人の部屋〉から、ゆき子だけが疎外されている。〈執達吏のような冷たい眼〉とは、愛する者から疎外された者が、愛の関係性を断ち切れず、未練を残したまま獲得した絶望の眼差しである。
 ゆき子の絶望の眼差しがフランス語で書かれたパンフレットをとらえる。森林官のダビヤウ氏が書いたパンフレットを手にしたゆき子は「切ないほどのなつかしさ」を感じながら、美しい仏印の森林写真を眺める。ゆき子にとって富岡との黄金時代はすべて仏印での三年間にある。ゆき子は疎外された現在にあって、過去の幸福な日々を思い出して胸をひとり熱くする。ゆき子は〈いかだかずらや、ミモザの花に囲まれた、ランビァン高原の別荘のある写真〉に〈何ともいえない心の慰め〉を感じる。が同時に、この一枚の写真が富岡との三年間の蜜月を思い起こさせて、現在の惨めさを際だたせることにもなる。ゆき子は、過ぎ去っていく過去を忘却の彼方に押しやって、未来へと向かう現在に身を置くことができない。自分を生み育てた故郷や家族を打ち捨て、伊庭との関係を冷酷に打算的に処理できるゆき子が、富岡との関係だけは精算しきれずに悶え苦しんでいる。

 四囲が昏くなってきた。おせいは戻っては来なかった。富岡に電話をかけに行ったのかもしれない。ゆき子は開いた窓から、赤っぽく暮れてゆく、むし暑い空に眼をやって、流れる涙を拭いた。ダビヤウ氏のパンフレットを記念に貰って行くつもりでハンドバッグにしまって、ゆき子は廊下へ出た。もう富岡やおせいに逢う気もしなかった。
  心が決ったような気がした。(314〈三十八〉)


 読者は疎外されたゆき子に限りなく寄り添って、流れる涙の眼で〈赤っぽく暮れてゆく、むし暑い空〉をしばし眺めるほかはない。林芙美子自身が、裏切られ、打ち捨てられた身で、開かれた窓から、こういった夕景色を眺めたことがあったのだろう。
 問題は「もう富岡やおせいに逢う気もしなかった」という文章である。読者は何度、こういったゆき子の断念や決意につきあわされたことであろうか。『浮雲』はこれまでにも、幕を下ろしてもいい場面が何度かあった。が、その度に、幕は再び上がった。林芙美子は、富岡とゆき子の〈腐れ縁〉に徹底して寄り添うことを、その度に決意し直したようにペンを運んでいる。

  伊香保で、二人は死んでしまっているはずである。そう考えてしまえば、何も人を恨むことはない。ゆき子が靴をはいて玄関の前庭へ出て行くと、門のところで、こっちへ来る男に出逢った。
  富岡だった。富岡は、一瞬、吃驚した様子だったが、何も言わないで、眼を赤く泣き腫して、自分の前に立ったゆき子を見ると、すべてを観念した様子で、「いつ来たの?」と、静かに聞いた。(314〈三十八〉)


 富岡やおせいと二度と逢う気もしなかったゆき子は、門のところで富岡と会ってしまう。余りにもよくできた設定で、へたをすれば大衆小説がよく使うメロドラマ的手法に堕したと批判されかねない。が、作者の側に富岡とゆき子の泥沼関係に幕を下ろす気がない以上は、こういった再会の場面を用意するしかない。ゆき子は富岡やおせいに「逢う気もしなかった」とは思っても、富岡に対する未練を断ち切ったわけではない。ましてやゆき子は富岡の子供を宿している身であれば、偶然顔を合わした富岡を断固として振り切る覚悟はできていない。

 「おせいさんに逢いましたわ…」
  そう言って、ゆき子はぼんやりと、富岡の前を離れ、門の外へ出て行った。富岡もゆき子の後ろからついて行った。
 「おい!」
  ゆき子はふり返らなかった。
 「おい、話があるンだ」
  ゆき子は、どうでもよかった。いまさら、富岡の口から、おせいとの事情を聴いたところで始まらないのである。加野の罰があたったような気がした。加野も、男ではあったけれども、あの時、こんな気持ちをなめたのに違いないと思った。加野から激しい愛情を打ちあけられてふらふらと接吻をゆるしておきながら、富岡と逢引していた、自分のずるさを、加野が、かっとして刃物をふりあげたのも、今日の自分のような理由があったからだと、今になって判った。
 「君のことは、毎日、忘れたことはないンだ。なんとかしてやりたいと考えていたンだよ。おせいの奴に、強引に誘われてしまったかたちなンだ…」
 「そんな話、いいことよ…」
 「よくはない。僕が悪いンだ。責任は持つ覚悟だ」
 「そうですか…」
  ゆき子は、目黒の駅には反対の方向へ歩いた。焼跡の昏い雑草の原にこまかい雨虫が、群れて飛んでいた。夜明けのような、夕焼けた黄昏だった。焼跡のまんなかに、広い道が続いて、ところどころに新しい家が立っている。
 「十月だね?」
 「ええ、なにが?」
 「子供の生まれるのさ…」
 「そうね、ちゃんと産めばね。私、明日にでも婦人科へ行っておろして貰うつもりよ」
  富岡は何も言わなかった。ゆき子は生きているかぎり、煩悩は人の心に嵐を呼ぶものだと悟った。大日向教がどんな金もうけに利用した神といっても、それはそれとして、そうした神を祭った道場にこもって、じいっと屈伏して祈ってみたい気もして来る。富岡は、おせいが、どんなふうなことをゆき子に言ったのかは判らなかったが、おせいの強情な性格は、ゆき子に、のしかかって、ひどく反抗したに違いないと思えた。
 「君は、俺を厭な奴と思っただろう?」 
 「ええ」
  はっきり、ゆき子は「ええ」と言った。
 「子供だけは産んでくれよ。その日からでも僕が引き取る…。おせいとの問題も、正直に君に告白するつもりだ」
 「おせいさん、ご主人と別れたって言ってたわ」
 「本当を言えば、あの部屋は、おせいの部屋なンだよ。ずるずるべったりに、僕が一時の宿に入り込んだみたいになったが、本当はおせいの借りた部屋なンだ。この五月、新宿の駅でぱったり逢って、むりやり連れて行かれて、自然に、僕が入り込んだかたちになったンだ。ーー君が静岡からたよりをよこした時も、帰って新しい部屋を見つけたのも、みんな手紙で承知していたンだが、逢うとまた、二人とも、どうにもならなくなると思って、金だけを送ったンだがね。家を売って、家族を田舎へやったり、女房を入院させたり、勤め口もどうやらきまって、ひどく気持ちが荒さんでいる時だったので、おせいの誘惑に打ち勝てなかったのだ…」
  いまさら、そんな理由を聞いたところで、どうにかなるものでもないのである。二人が逢ったところで、どうにかなる理由はどこにも
  バラックの喫茶店をみつけたので、富岡はゆき子をその店へ連れて這入ったが、店先には大きい青ペンキを塗ったアイスキャンデーの箱があり、子供連れの女が、二人をじろじろ見ていた。ぎくしゃくした椅子に腰をおろしたが、ゆき子はすっかり疲れていた。くたくたに、心身ともまいってしまって、足が棒のようにしびれていた。(314〜316〈三十八〉)
 


今更ながら思うことは、ゆき子は富岡を裁断できないということである。ゆき子自身も加野を弄んだ過去があり、富岡がおせいとできてしまったからといって、一方的に富岡だけを責めることはできない。問題は相手や自分自身を厳しく裁断することで、新たな出発点に立つことができないばかりでなく、彼らが二人ともにお互いの関係性をきっぱりと切断できないことにある。作者が二人の腐れ縁のドラマに幕を下ろせないように、彼ら二人もまた関係の糸を切ることができない。富岡のこれまでの優柔不断を見れば、たいていの女は愛想を尽かすと思うのだが、ゆき子はそういった〈たいていの女〉の部類には入らなかった。富岡もまたふんぎりのつかない男で、不断に〈別れのカード〉を胸懐にしまい込んでいるくせに、そのカードを切ることができない。否、切っても、再び三度、そのカードを胸懐に入れ戻している。富岡は弱い、情けない男であるが、それだけに女心に巧みに付け入る術を自然に身につけている。「おい、話があるンだ」「君のことは、毎日、忘れたことはないンだ」「何とかしてやりたいと考えていたンだよ」こういった言葉は、相手を軽蔑し、すでに別れを決意した女にさえ、それなりの効果を与えるものなのだ。富岡は続けて言う「おせいの奴に、強引に誘われてしまったかたちなンだ」と。こういった言葉は、責任を相手に押しつける卑怯な心の内から発せられているが、それを耳にするゆき子には心地よく響くのである。もしここで富岡がおせいの若い肉体を賛美して褒めあげでもしたら、ゆき子をいたく傷つけることになったろうが、女はライバルの女の悪口を耳にすると何ともいえない心地よさを覚えるものなのだ。
 ゆき子はすでにおせいの部屋の壁に掛かっていたシュミーズや富岡の寝巻を見ている。富岡とおせいの関係は誤魔化しようがないにもかかわらず、富岡から君のことは忘れたことがないとか、おせいに強引に誘われたんだとか言われると、そういった言葉自体がひとつの力を獲得してゆき子の頑なになった心に効果的な作用をもたらすのである。決定的なことは、富岡がゆき子の妊娠を忘れていなかったことである。そんなことはごく当たり前のことであるが、富岡と別れを決意したゆき子にはひときわありがたい言葉として受け止められたのであろうか。