清水正の『浮雲』放浪記(連載88)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。




 清水正の『浮雲』放浪記(連載88)

平成□年2月14日
 ゆき子は「くたびれてるンでしょう?」と富岡に声をかけ、富岡は「いや、水虫ができて、痛いンだよ」と答える。会話は退廃した実存、虚無に呑み込まれて疲労困憊した実存の深部に食い込んで行くことはない。ゆき子の妊娠、亭主を捨てて東京へ出てきたおせいとのこと、いずれも深刻なのっぴきならない問題であるにもかかわらず、それらは〈水虫〉の痛みの次元に置き換えられてしまう。富岡は確かに、二度と立ち直れないほどに〈くたびれて〉いるが、この実存の疲労困憊を水虫の痛みに水平移動させることで、作者は二人を乗せた船を沈没させずにすませている。「でも、やっぱり、二人で歩いていると、何だか、肉親みたいね。あなた、心のうちでは、私のことよりも、おせいさんでいっぱいなンでしょうけど、私ね、私が勝手に、あなたのことを肉親らしく考えるのは自由ね。笑う?」ゆき子は富岡との関係を〈肉親〉のそれに重ねることで、新参者のおせいとの差を強調している。ダラットでの三年間、日本へ引き揚げてきてからもすでに一年以上が過ぎている。ゆき子は富岡とおせいの関係を口では認めているが、内心では〈猿っこ〉おせいごときには負けたくないと思っている。
 富岡は「おせいのことよりも、おせいの亭主にすまない気がして、毎日が罪人みたいにきっぷせな生活なンだぜ」と言う。今更なにを言うのか、といったセリフである。清吉とゆき子が酔いつぶれた夜に、おせいと関係した富岡らしくもないセリフである。まったくこの男は、その場しのぎの言葉を臆面もなく口に出し、そのことが相手に誠実の表れのように思えてしまうから不思議である。しかし、富岡がここで清吉のことを言い出したのには作者の思惑も感じとれる。もはや、作者は富岡とおせいの関係を発展的に展開する気持ちが失せ始めている。伊香保温泉でおせいにちょっかいをかけたのは、単なる一時のおあそびでしかなく、おせいにつきまとわれるのは迷惑なのだぐらいの言い方である。こういった卑怯な言い方が、ゆき子にとっては心地よく響くのだから、男と女の関係を倫理や道徳の規準で裁断するわけにはいかない。富岡は「意気地がないくせに、おせいの強さに引っぱり込まれて行くンだ」と言っているが、このセリフには彼の本心がこめられている。意気地のない富岡と強いおせい、この組み合わせは富岡とゆき子にもそのまま当てはまる。皮肉な言い方をすれば、富岡は意気地のない強さを持っているし、おせいは強い弱さを持っている。富岡の意気地なさとおせいの強さがうまく合致しているときはいいが、一度歯車が狂い始めると富岡とゆき子に見られるような〈泥沼〉でのたうち回る羽目に陥る。作者にして見れば、〈腐れ縁〉のドラマは富岡とゆき子で十分であり、今再び富岡とおせいに演じさせることはない。演じさせたとしても、富岡とゆき子のそれを上回って魅力的な場面展開にはならない。であるなら、おせいを舞台から退場させ、ゆき子にこのまま富岡の相手役を演じさせた方がいいと考えたにしてもふしぎではない。
 ゆき子は「おせいさんと、いまに心中でもするようになるンじゃない? もしものことがあれば、あのひと、毒でものみかねないから……」と言っている。これもまた、何を今更と言ったセリフであるが、作者は「富岡もそう思った。ゆき子に言いあてられたような気がした」と同調している。富岡兼吾は太宰治ではない。富岡のシニシズムは自殺や心中を招き寄せないのである。伊香保温泉での出来事は、富岡がいかに自殺や心中に縁遠い男であったかを端的に示している。富岡の淫蕩は、ピストル自殺で果てるスヴィドリガイロフのそれとは性質を異にする。富岡にあるのはロマンチシズムを欠いた性欲であり、その対象はぴちぴちした肉体を備えた若い女である。ダラットでのニウやゆき子、伊香保温泉でのおせいは、そういった富岡の性欲の対象に叶っていただけで、彼女たちの精神性など何ら求められていない。女中やタイピストやダンサアに精神性が求められなかったように、富岡もまた女に肉体以上の何かを敢えて求めることはなかった。富岡は見事に、関わった女たちにドストエフスキー文学のことなど語りはしなかった。
 「おせいのために、自分の生活が、一日一日だめになってゆくのがよく判っているのだ」は富岡の内面に寄り添った作者の言葉だが、富岡の生活がだめになってゆくのは別におせいのせいばかりではない。富岡は妻がいても、妻だけでは生きていけない男で、ニウやゆき子、そして今はおせいを必要としている。富岡が妻以外の女を必要としたその理由は、単純に考えれば肉欲の処理ということになろう。ダラットでのニウやゆき子はそれ以外には考えられない。富岡のおせいに対する肉欲のうちには、彼の母胎回帰の願望も秘められている。富岡がゆき子から心離れて伊香保温泉で出会ったばかりのおせいに惹かれたのは、彼女の若い肉体ばかりではない。ゆき子は潜在意識の次元では富岡に不在の父の幻像を求めていたとも言えるが、描かれた限りでみれば、最後の最後まで性愛の対象として関わっている。ゆき子は〈富岡の子供〉を堕胎するしかないと思っているが、富岡に子供ができなければ、彼はどんなに多くの女と関係を積み重ねても、ついに〈父親〉とはなれない。富岡は成人した子供であって、相手の女に真の大人の男として対応することができない。富岡はおせいの借りた部屋を足溜りにして、要するにその間はおせいと生活を共にしていながら、「おせいのために、自分の生活が、一日一日だめになってゆく」などとも思っている。おせいを必要としながら、同時におせいをうざったくも感じているのである。

 「毎日、喧嘩してるンだ……」
 「どうしてなの?」
 「僕が、おせいにぴったりついて行かないとということになンだよ。無智な何も知らない女なンだが、直感のすばらしくきく女でね。一度、自分で思いこんだら、なかなか、もとへ戻してやるのが大変なンだ」
 「じゃア、今夜も大変ね」
 「まア、そんな話はやめよう。今度の日曜日にでも、尋ねて行く。子供のことは、それまで待っててほしいな。案外、君が、僕の気持ちを判ってくれたンで、何だか、気持ちがとても楽になったし、晴々した。おせいのことにこだわるようだが、きっと、近いうちに、これも、解決するつもりでいる」
 「そんな、急に、坊ちゃんみたいなこと言わなくてもいいわ。なりゆきに任せています。私、もう、本当を言えば、私のことだけで、やぶれかぶれなのよ。おどかして言ってるンじゃないの……。判るかしら?」(319〈三十九〉)

 富岡はおせいと毎日〈喧嘩〉してると言う。その理由をゆき子に問われて、富岡は「僕が、おせいにぴったりついて行かないということになンだよ」と答えている。この富岡の言葉は重要である。まず、指摘しておきたいのは、ここで言われている〈おせい〉を〈ゆき子〉に置き換えてもいいということである。日本に引き揚げて来てからの富岡とゆき子は、コオロギのようなセックスはしても、いつも〈喧嘩〉していたようなものである。否、厳密に言えば、富岡とゆき子の関係の本質(齟齬)はダラットの森の中で二人が初めて抱擁した時に端的に現れていた。すでにその場面に関しては詳細に検証し批評しておいたが、重要な場面なのでもう一度引用しておこう。

 南方へ来て、清潔に女を愛する感情が、呆けてしまったような気がした。森林のなかの獅子が、自由に相手を選んでいた境涯から、狭い囚われのおりの中で、あてがわれた牝をせっかちに追いまわすような、空虚な心が、ゆき子との接吻のなかに、どうしても邪魔っけで取りのぞきようがないのだ。富岡は、いつまでも長く、ゆき子を接吻していた。ゆき子は、すっかり上気して、富岡の肩に爪をたてて苛れている。少しずつ、心が冷えて来た富岡には、ゆき子の苛れた心に平行して、これ以上の行為に出る情熱はすでに薄れていた。野生の小柄な白孔雀が、ばたばたと森の中を飛んで消えた。(200〈十二〉)

 この場面で富岡がゆき子の欲情にぴったりついていかなかったことは明白である。ゆき子はすっかり上気して富岡の肩に爪をたてているのに、富岡は〈空虚な心〉のままに長い接吻を続け、やがて心が冷えてしまう。どんな鈍感な女でも、相手がそれ以上の行為に出る気持ちが失せてしまったことはわかる。林芙美子はその時のゆき子の心情を直接描かず、とつぜん〈野生の小柄な白孔雀〉が森の中に飛び去っていく隠喩的表現にとどめている。この隠喩が理解できなければ、富岡とゆき子の延々と続く腐れ縁の秘密を解くことはできない。富岡は長い接吻の後で心が冷えたが、ゆき子は〈白い孔雀〉となって暗い鬱蒼とした森の中に飛び去ったのだ。この鬱蒼とした森の中とは、富岡の〈空虚な心〉の世界にほかならない。女は復讐の念を秘中の秘として奥深くに潜めながら、男との関係を執拗に続けることができる。ゆき子は富岡と肉体を重ねることはできても、自分の心に、富岡の心をぴったりとつけさせることはできなかった。
 富岡は続ける「無智な何も知らない女なンだが、直感のすばらしくきく女でね。一度、自分で思いこんだら、なかなか、もとへ戻してやるのが大変なンだ」と。〈無智な何も知らない女〉だが〈直感のすばらしくきく女〉とはおせいであり、ゆき子であり、そしてもう一人の女がドストエフスキーの『悪霊』の舞台から登場してくる。ニコライ・スタヴローギンの戸籍上の妻、びっこで頭のおかしい女マリア・レビャートキナである。彼女はニコライ・スタヴローギンの内に卑劣な悪魔が潜んでいることを直感している。林芙美子は富岡に対するおせいを、ニコライ・スタヴローギンにおけるマリア・レビャートキナと同じような存在として描こうとしていたのかもしれない。知性や理性では掴めない本質をマリア・レビャートキナは直感によって透視する。おせいが富岡に直感しているのは〈ぴったり〉感の欠如であるが、おせいは富岡の〈空虚〉を充足させることができない。これはおせいばかりではない。富岡が関係したすべての女が富岡の〈空虚〉を埋めることができない。富岡は自分の荒漠とした空虚の世界で迷子になってしまった孤児とさえ言える。設定上、富岡には母がおり、父がいるが、彼らの存在は余りにも希薄である。妻の邦子もまた両親ほどではないが、ゆき子やおせいに比べれば存在感が希薄である。
 今、この場面を読む限り、富岡はおせいから離れ、再びゆき子になびいているような印象を受ける。が、おせいの性格はゆき子のそれを大きく逸脱してはいない。名前が違い、歳が違うだけで、その性格は瓜二つと言ってもいい。従って、富岡がおせいから離れてゆき子のもとへ戻ったと言っても、そこに特別な意味が生じるわけではない。富岡はおせいの名前を借りてゆき子と自分との関係を愚痴っていると言ってもいい。