清水正の『浮雲』放浪記(連載52)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載52)

平成△年8月9日
傷害事件まで引き起こした富岡と加野とゆき子の三角関係であったわけだから、ゆき子は加野にハガキなど出すことがおかしいし、加野もそれに応える必要などなかった。ダラットでの事はもはや過ぎ去った事である。肺病で床に伏している加野の傍らで過去の思い出話などしても何のたしにもならない。
加野もゆき子も過去にとらわれ過ぎである。彼らの顔は過去に向いている。特にゆき子の場合は、もっぱら顔を〈富岡との過去〉に向けて現在を生きている。幸せだったダラットでの三年間が全人生であったかのように、ゆき子の現在は空虚である。愛されてもいない富岡にしがみついているゆき子に、もはや魅力はない。
富岡が女に求めているものは若くて弾力性のある躯である。二十歳にもならない若いおせいの肉体を味わった富岡は、なおさらゆき子に魅力を感じない。にもかかわらず、富岡は自分の方からゆき子との関係を断ち切ることがない。ゆき子もまた、どんなひどい仕打ちを受けても富岡に愛想を尽かすことがない。ゆき子が男に求めているのは、誠実とか高尚な愛ではない。もっと生々しい、原初的な、本能的な性愛であって、そこに倫理や道徳が入り込む余地はない。
そんな本能で生きるゆき子が、今更加野を訪れたところで、過去の傷口をむやみに広げるだけである。現に、ゆき子が加野の名前を出しただけで二人の間に気まずさが走る。富岡を切り捨て、加野と一緒になる覚悟があって、ゆき子は加野と会うことができる。ゆき子は富岡に妻も愛人もあることを知っていて、富岡に接近して行った女である。加野に対して、罪滅ぼしの気持ちがあったとしても、そんな感情に真実味のあるはずはない。所詮、男と女の関係は、それ以上でも以下でもない。
作者に要請されたのは、ゆき子と加野を対面させることで、富岡とゆき子の関係のマンネリズムを打破すること、小説世界に膨らみを与えることであった。正直言って、わたしは加野とゆき子が再会しなければならない、その内的必然性を感じない。作者は二人の再会場面を今後どのように展開していくのか。その点に関する興味は残る。

〈三十五〉章を読む

 「おふくろも働きに出てるンで、お茶もあげられませんが……。かえって、病気がうつらないからいいかもしれませんよ」
  皮肉な言いかたで、加野はふっと冷く笑った。
  ゆき子は、その言葉に、千万の刺を感じたが、さからわないようにして黙っていた。加野はときどき激しく咳をしながら、癖のように、頭を振った。
 「冷やさなくてもいいのですか?」
 「胸を冷やすといいンですがね、いまは何の根気もありません。おふくろと弟の邪魔をしないように生きているのが、せめてもの私の感謝ですからね。……人の邪魔をしないというのが、このごろの僕の悟りです。いつでも、僕は死ぬことには自信がつきましたよ。でも、何ですな、まア、せっかく、神よりちょうだいした生命なンだから、一日でも生きのびたほうが、死んで灰になるよりは、いくらかましですから……」(299〈三十五〉)