清水正の『浮雲』放浪記(連載56)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載56)

平成△年8月13日
 加野は富岡に対して「いつも、するりと身を交わして、仲々溺れる方へは頭をつっこまない」と思う。富岡は日本に友人の小泉から奪って妻にした邦子がいたにもかかわらず、安南人の女中ニウとも肉体関係を持っていた。富岡はニウに子供まで身ごもらせるが、わずかばかりの手切れ金を渡して「するりと身を交わして」しまう。ニウの後にはゆき子と関係を持つが、日本が敗戦になるとゆき子をダラットに置いて自分ばかりがさっさと日本へ引き揚げてしまう。別れ際に富岡はゆき子に結婚の約束をするが、富岡は邦子と離婚もせず、農林省を辞めて一旗揚げようと金儲けに走り、五ヶ月遅れで日本へ引き揚げて来たゆき子の電報を無視し続けた。もし、ゆき子が執拗に富岡の行方を突き止め、家にまで押し掛けることがなかったなら、ここでも富岡は「するりと身を交わして」いたことだろう。加野は富岡を殺そうとしてその身を交わされ、ゆき子を傷つけてしまった。

 こうして改めて富岡の行為を振り返って見ると、確かに彼は加野の言うように「いつも、するりと身を交わして、仲々溺れる方へは頭をつっこまない」男ということになる。ゆき子は自分の体験を踏まえて、加野の言うことは尤もなことだと思ったに違いない。はたして富岡の身の交わしは、ゆき子に対しても成功するのだろうか。
 今、ゆき子が加野に会うことができたのも、富岡が加野の住所を教えてくれたからである。つまり加野とゆき子の再会の仕掛け人は富岡であり、富岡が慾情の対象として思っているのはゆき子ではなく、若い軀を持ったおせいである。富岡は女に関しても「するりと身を交わして」次から次へと新しい女に乗り換えていく男ということになる。
 今のところ富岡はゆき子の執拗な追っかけを振り切ることができずにいるが、しかしゆき子が現に加野を訪ねて来ていることは、このままゆき子からも身を交わすことができるかもしれない。作者には不断に、富岡とゆき子の腐れ縁に幕を降ろそうという思いが纏いついていたであろうが、さてどうするか。

 「富岡と言う人間は、いまにきっと、あいつの才能でまた息を吹き返します。それが出来る男なンだ。あいつは……。去年の五月に海防から船に乗ったと聞いて、その時の事を後で聞いて、つくづく運のいい奴だと思いましたよ。インテリをよそおっているとなかなか戻れないと思い、軍属で、仏印へ来て、林野局のお茶わかしとか、使い走りに来ていたのだと、あいつが言ったそうです。波止場の検問所の前で、たくさんの将校から調べられた時、富岡は最も愚直なスタイルをつくってね、英語やフランス語でべらべらと将校連が話しあっていても、そのほうをちらっとも見ないのだそうですよ。こいつ、言葉が判ると思われると、残されるのだそうです。その次に日本地図を見せられて、四国はどこかと聞かれた時、あいつは、九州をさっと指差したのだそうです。学力は小学校卒業程度に見せてね。どうです? うまく芝居を打つじゃありませんか、そして、まんまと関門をくぐり抜けて、自分は誰かの名前をつかって、まんまと早い船に乗って、日本へ戻って来た。まったく英雄的人物ですよ……」
  ゆき子にはそれは初耳だった。
  富岡ならば、あるいはやりかねないであろうと思えた。おせいとの問題も、本人は女の示す好意を、その女の好意として受け取ったにすぎないのであろう。おせいはあの時、富岡のなぐさみものになってしまったのかもしれない……。
 「僕は、富岡とゆき子さんは、そのために、早く戻ったのかと思いました。でも、船はいっしょじゃなかったそうですね?」
 「いいえ、別々ですわ……」
 加野の犯罪は戦争最中で、しかも役人として、最初の醜い事件として、サイゴン憲兵隊では、ひどく乱暴にあつかわれたそうである。(302〈三十五〉)