清水正の『浮雲』放浪記(連載84)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載84)

平成□年1月10日

 ゆき子は富岡を一方的に責めるだけの女ではなくなっている。振り返れば、ゆき子もまた「淋しくて淋しくてやりきれなくて」ジョオと関係を結んだ。その時、富岡は別にとがめだてはしなかった。もちろんゆき子をほったらかしにしていた富岡に、ゆき子をとがめだてすることはできない。富岡は、狡くて弱い男だから、へたにとがめだてして自分の立場をはっきりさせられることをおそれている。富岡は、ゆき子がジョオと関係を結んだ女だと知っても、酒に酔えばゆき子に欲情し、その肉体をむさぼろうとする。が、拒まれればすぐに引き下がる手練手管も天性的に身に備えている。
 ゆき子は富岡ときっぱりとケリをつけ、新たな人生の第一歩を踏み出したはずなのに、自らその新しい扉を閉じて、冷たいすきま風の吹く、おんぼろ小舎に身を横たえてしまう。富岡は一人の女に充足できない男であることを身をもって知ったゆき子であるのに、ゆき子はからだに染み込んだ富岡の味を忘れることができない。新しい男ができて、その男との関係でエクスタシーを感じれば、昔の男のことなどすっかり忘れてしまうのが女の性だとすれば、伊庭もジョオも、富岡以上の性的悦楽をゆき子に与えることができなかったということになる。
 男と女の関係を法律や倫理で裁くことはできない。当事者で、法律や倫理に訴えた者は、その関係性自体に敗北したことを意味する。その意味でゆき子は、富岡との関係に最後まで白旗をあげることはなかった。富岡もまた、決してゆき子に白旗をあげなかった。この二人は、まるで意地づくになって〈腐れ縁〉から離脱することを回避しているかのようにさえ見える。
 ゆき子の内心の言葉に即して言えば、〈心の空虚〉が、誰かに手を差しのべていくより仕方がないということで、その差し述べていく手の先に、ゆき子にとっては富岡が、富岡にとってはゆき子がいつも存在し続けていたということになる。そんな二人であるなら、しっかりと手を握り合って共に一つの道を歩いていけばいいと思うが、そうは問屋がおろさないというのが男と女のドラマである。
 男と女はしっかりと手を握り合っていてさえ、別の男や女に魅惑されたりするのである。富岡がダラットで妻の邦子に内緒で安南人の女中ニウといい関係になっていても、そこに新たな女ゆき子が現れたようにである。おそらく富岡にとって、ニウやゆき子は〈外地の女〉であって、日本に戻ってくるまでの〈臨時の女〉に過ぎなかったであろう。が、この富岡の自分勝手な思いは、ゆき子の執拗な追っかけによってもろくも崩れさった。熱狂的な、妥協を知らない性愛の前では法律も倫理も何の役にもたたない。
 富岡はある意味、ゆき子の性愛衝動の津波の犠牲者と言えなくもないが、しかしこの津波は富岡を死に至らしめる性質のものではなく、生殺し状態にしておくようなものであった。ゆき子も富岡も性愛衝動に忠実だが、しかし彼らは決して熱くもなければ冷たくもない、いわばユダヤキリスト教の神からは、予めその口から吐き出されてしまっているような〈生温き〉人間である。この〈生温き〉男と女の果てしなく続く性愛の泥沼関係を執拗に描くことで、林芙美子は人間の実相を浮き彫りにしようとした。わたしは林芙美子の作家としての執念をここに強く感じる。この執念は決して生温いものではない。
 生温い人間たちの悲しみがあり、苦しみがあり、怒りがあり、慟哭がある。神によって吐き出されてしまった多くの〈生温き〉者たちの人生悲喜劇を描くこと、日本の小説家林芙美子の文学にわたしが共感し、批評衝動に駆られるのはこの一点に凝縮される。ゆき子の内心の思いに重なって、作者は「自分だって、富岡と同じようなことをやっていたのだ。ただ、それを、気がつかないままでやりすごしてしまっただけである」と書いている。この表現には、生温き人間の寛容さとあきらめの感情が端的に表れている。

 ゆき子は富岡を裁かないことで、自分自身を裁きの場から巧みに解放する。改めて感じるのは、ゆき子も富岡も、決して自分自身を裁きの場に置かないということである。生温き人間には厳しい裁きも赦しもない。もともと〈罪〉の意識がないのであるから、裁きも赦しも、その正当な場を与えられることがないのである。

 「別に、判らないわけじゃないけど、やっぱり、吃驚しちゃったのね。……伊香保で、おせいさんが、あのバスのところで泣いたのは、私、忘れなかったけど、でも信じてはいたのよ。あなたの気持ちを……。私も、うぬぼれていたのね。ーーでも、仕方がないわ。仕方がないことなのよ。私、それで怒って、子供をおろしてしまう気になったわけじゃないの……。もう、前から、いつか、いつかとは考えていたンです。今日で、ふんぎりがついたのよ。強くなろうと思って……。いろんなことを、毎日毎日我慢して暮していることを思えば、子供をおろすくらい何でもないわ。身軽るになって働きたいのよ。……私たちの子供を産んじゃア、不幸だと、思わない? たとえ、あなたが引き取るにしても、何もしてやれないし、私だって困って身動きもできないと思うのよ。それを、一度相談して、二人でなっとくのゆくまで話しあって、子供の始末をしたいと、私思っていたンです。ーーおせいさんといっしょにいらっしたって、かまわないでしょう……。あなたに都合のいい生活ならね。あのひとも、あなたを心から好きな様子だし……。奥さま、どこがお悪いの?」(317〈三十九〉)

 ゆき子の声のトーンは低く静かである。ゆき子はこの日、初めて富岡とおせいの実質的な関係を知ってショックを受け、富岡と偶然に出会うまでの適度な間もあって爆発的な感情を富岡に向けることはない。もしこの場におせいがいれば、修羅場が展開された可能性もなきにしもあらずだが、おせいはすでに姿を消している。今日のように携帯で連絡が取り合える時代ではない。富岡はおせいと何の連絡もとれないまま、今、〈自分の子〉を孕んでいるというゆき子と二人だけの時間を共有している。
 ゆき子は妊娠しているにもかかわらず、富岡とおせいの関係を冷静に見ているような口のききかたをしている。伊香保で、富岡とおせいの関係に疑念を抱きながらも、その決定的な証拠を握っていたわけではない。少なくともゆき子は、うぬぼれも手伝って富岡とおせいの関係をみくびっていた嫌いもないではない。否、ゆき子は女の勘で富岡とおせいの関係に気づいていたし、東京に戻ったらきっぱりと富岡と別れるつもりでもいた。もはや、富岡と新生活を共にすることは不可能だとも思っていた。二人の関係を切らないのは、ゆき子と富岡の問題ではなく、作者林芙美子の側にあるとは何度も指摘したことである。
 伊香保での富岡とおせいの秘められた情事を生々しく見せられている読者にしてみれば、今、再び、三度、富岡とゆき子の関係が続行されていくその筋展開に驚きを隠せない。が、林芙美子がそのように展開している以上、わたしの批評はそれに沿うしかない。テキストオを追い越す批評を何回しても、何度でもテキストの現場に戻ってくるのが、わたしの批評手法の一つでもある。
 ゆき子は、ここでおせいのことのみならず、富岡の妻の邦子のことまで気遣った言葉を発している。ゆき子は、ダラットで安南人の女中ニウと肉体関係を持った富岡を、彼女自身と関係を持った富岡を、邦子と別れなかった富岡を、死ぬ気で行った伊香保でおせいと関係した富岡を、そのつど出まかせの嘘をつきまくる富岡を、寛容と諦めのないまぜになった心で受け入れようとしている。少なくとも、ここには嫉妬と憎悪はない。なぜこんな心境になれたのか。先に指摘した通り、富岡を厳しく叱責すればするほど、自分自身の犯した罪も露呈されてくる危険性があるからである。
 ゆき子はジョオと肉体関係を結んでいたし、もしゆき子がオンリーとして、外人兵士相手のパンパンであったとするなら、相手はジョオに限られていないことになる。作者はこういった点に関しては何ら具体的に触れていないが、もしゆき子が黒人兵士とも関係していれば、生まれてくる子供の可能性としては白人とのハーフ、黒人とのハーフもあり得る。ゆき子が、どこかで富岡との〈腐れ縁〉の関係においていつでも優位性を保っておきたいと思うなら、子供を産むという危険な賭をすることはできないだろう。ゆき子が思いこんでいる〈富岡の子供〉には、作者林芙美子ですら無意識のうちに共犯関係を取り結んでしまうような〈女の狡さ〉がある。
 二人が出会った当初、毒舌でゆき子の心を騒がせた富岡であるが、どういうわけかゆき子の言う妊娠に関してはいっさい疑念を口にすることはない。ここに富岡の男らしい優しさを見るか、ゆき子の〈秘中の秘〉をも上回る巧妙な狡さを見るかで、富岡の肖像もずいぶん違ったものになろう。いずれにしても明らかなことは、富岡は最後まで責任を負えないことに関して、余りにも安易に、その場凌ぎのきれいごとを口にしてしまう男だということである。
 ゆき子は富岡の子供を産んで育てようという気はない。ゆき子が欲しいのは富岡との激しい性愛の絡みであり、富岡との悦楽である。作者はゆき子の家族関係に関してはほとんど何も報告しない。読者はゆき子の両親の名前も職業も知らない。ゆき子は日本へ引き揚げて来てからも、故郷に帰ろうという気持ちさえ起こさない。ゆき子は一度、故郷に帰っているが、よほど注意深く読みすすめていなければ見落としてしまうような書き方である。作者には家族の中のゆき子を具象的に描く気持ちはさらさらなかったのであろう。『浮雲』全編を読み通して浮かんでくるのは、いわば、ゆき子は家族の中の孤児のような存在であり、ゆき子自身にも結婚して幸福な家庭を築こうなどという願望を見いだすことはできない。
 ゆき子が最後の最後まで手放さなかったのは自らの〈空虚〉であり、この〈空虚〉が富岡の抱えている〈空虚〉にどこまでも寄り添っていったと言えようか。作者が富岡とおせいの新生活を描くためには、おせいを、富岡が自らの〈空虚〉を脱することができるような女として描かなければならない。それができなければ、富岡とおせいの関係は、富岡とゆき子の関係をなぞるだけのものに終わってしまう。一つの可能性としては、おせいに富岡の子供を産ませるという設定があっただろうが、子供が誕生することで、富岡が自らの〈空虚〉を超える存在になったとするなら、今度は富岡の抱えていた〈空虚〉そのものが痛烈に問われることにもなろう。
 おせいがゆき子を自分の部屋に置いて姿を消した時点で、富岡とおせいの関係は、作者の中でも消えてしまったと見ることができる。『浮雲』のゆき子は作者林芙美子の血肉の通った分身であり、おせいをゆき子以上の分身として描ききる情熱はもはや持てなかったとも言えようか。ゆき子を単に、富岡の傍らを通り過ぎていく女たちの一人としては処理したくなかった、自らの体験に裏打ちされた思いがあったに違いない。
 ゆき子は〈子供の始末〉をすることが、富岡にとって最も都合がいいことを知っている。富岡のような男が、子供を引き取って育てられるわけもない。第一、だれが面倒を見るのだ。まさか妻の邦子にゆだねるわけにはいかないし、おせいが引き受けるはずもない。ゆき子もまた子供を産めば身動きできなくなる。要するに〈子供の始末〉は富岡のみならず、ゆき子にとっても都合のいいことだった。ここには、胎内に宿った新しい命よりも、自分たちの生活を優先させるゆき子の身勝手さが余すところなく出ている。
 〈始末〉という言葉に、新しい命を授かったという敬虔な気持ちや、新しい命を自らの意志で抹殺する疚しさを感じ取ることはできない。ゆき子が一番尊重しているのは生まれくる〈命〉ではなく、〈都合〉である。ここには、生きるということは〈都合〉でしかないという深い諦めの感情が秘められている。ゆき子は今、妻の邦子やおせいから富岡を無理矢理に奪って自分だけの男にするなどという気持ちはない。そんな気持ちを抱いても、どうしようもないことを身に染みて感じている。別れるしかない二人、〈富岡の子供〉を始末しても、産んだとしても、二人の関係は何ら修復されることはない。発展することもなければ、修復されることもないが、同時に決定的な破綻の淵に落ちきることもできない。ふたりして、そういった事情をよく分かっていて、今、二人は向き合って言葉を交わしているのである。