清水正の『浮雲』放浪記(連載110)

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清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー
清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載110)

平成□年7月19日
 小説上の必然性に背いてまで、なぜ林芙美子は富岡とゆき子の関係にこだわったのかということ、この一点にわたしの興味はある。
 ゆき子と富岡はダラットの山の中で死ぬことはできない。富岡という男にそんなロマンチシズムは微塵もない。富岡は日本に友人から奪った邦子がおり、愛人のニウとも関係を続けて妊娠までさせている。新たにゆき子が現れれば、その女を自分のものにせずにはおれない。富岡は、ゆき子には彼女に惚れた加野がふさわしいと思って後輩の加野にゆき子を譲る気など毛頭ない。富岡は女に対して男の本能に忠実であり、友人だろうが後輩だろうが何の容赦もない。これはゆき子も同じである。まず動物的な感覚が働く、理性や知性がこの感覚を押さえ込むようなことはない。飢えたライオンは草食動物を見れば、自然に捕獲体勢をとる。彼の本能を押さえ込む力があるとすれば、それは彼の命を奪うことのできる圧倒的な他者の存在、たとえば銃を持った人間が介入した場合だけである。ダラットにおける富岡とゆき子の〈不倫〉を押さえ込む圧倒的な他者はどこにも存在しなかった。敵を殺すことが正当化される戦争の最中にあって、男と女の性的関係だけを厳格に裁くことなどとうていできるものではない。現に山林事務所の男連中はサイゴンに出張すれば慰安所に通って商売女と関係していたのであるから、たとえ富岡とゆき子の〈不倫〉を所長が知っても、厳しく罰することなどできるものではない。戦時中の男も女も、みんな〈本能〉の発揮を共犯的に遂行していたのであるから、きれいごとなどまったく通用しないのである。
 ゆき子はダラットでの富岡との関係をまるで天国でのそれであったかのように回顧しがちであるが、何を今更小娘のような幻想を抱いているのかとも思う。この小説をリアルな眼差しで読んできた者にとって、ゆき子と富岡の関係は決して心地よいことばかりで埋め尽くされていたわけではない。加野との三角関係のもつれによってゆき子は腕に刀傷を負わされたし、ゆき子が山林事務所に派遣される前から愛人関係を結んでいたニウは富岡の子供を妊娠していた。もし林芙美子がニウとゆき子と富岡の三角関係を丁寧に描いていれば、ニウははるかにその存在感を増していたはずである。
 林芙美子は〈十〉〈十一〉でニウの内面を外部描写によって端的に見事に描いている。突然、日本から派遣されてきた若い女ゆき子に心動かされている富岡を、ニウは敏感に察して苦しんでいる。遅くまで富岡の部屋で洗濯物をゆっくりと整理しているニウの姿は恐ろしいまでに孤独である。富岡は、にぶい動作で洗濯物を片づけているニウの様子に〈やりきれない淋しさ〉を感じる。ニウの存在感はもっぱら富岡の眼差しを通して、あるいは富岡の眼差しに限りなく寄り添った作者によって表現される。それで十分にニウの内面が伝わってくるところに林芙美子の描写力の凄さがある。ニウは自分の言葉で自分の内面を表現することが許されていない。富岡や作者にニウの心は代弁されてしまう。ゆき子が自分の内面を言葉で吐露することができることを考えれば、ニウは圧倒的に不利な状態に置かれている。
 前にも指摘したが、林芙美子は面倒な三角関係の修羅場を現在進行形で描くことがない。ゆき子をめぐる富岡と加野の修羅場は描かれず、ニウとゆき子に至っては会話する場面一つすらない。『浮雲』においてゆき子は人間扱いされているが、ニウはまるで動く人形のようにしか描かれていない。作者林芙美子はニウという存在を客体化することで、三角関係の修羅場を軽く乗り切ってしまう。しかし、その分、小説のリアリティは減ずることになる。ニウという存在に丁寧に照明を当て続けることは、ニウの所属する家族、親族、村、民族、そして植民地問題へと深く踏み込んで行くことになる。思想や宗教の違いへまで突き進めば、富岡とゆき子とニウの三角関係は単なる男と女の性愛的次元では片づけられないことになる。
 問題をニウの妊娠だけに絞ってみても、ここでゆき子は自らの堕胎を通してニウの出産に関して思いを馳せるべきだったろう。富岡と邦子の間に子供はいない。ゆき子は富岡の種である可能性もあった子供を堕胎した。要するに、小説の中において、富岡の子供はニウが生んだ子供しかいないのである。ゆき子が富岡とニウの関係について知らなかった可能性もないとは言えないが、もしそうだとすれば、それは作者林芙美子の怠惰としか言いようがない。ゆき子がダラットでの富岡との生活を回顧するのであれば、当然のこととして、加野やニウとのことも思い出さなければならないし、何よりもニウの妊娠と出産のことを考えなければならないのである。
 ゆき子は堕胎に関して「私、子供は思い切って、おろしてしまいました」と書いている。〈子供〉であって〈あなたの子供〉ではない。従って、この言葉はまったくの嘘ではない。子供をおろしたという事実を事実として報告している。次にゆき子は「あなたを憎いひとだと思い、あなたを頼っていては、私は、追いつめられて、いまごろは、一人で自殺していたかも判りません」と書く。この弁明に大人の都合で闇に葬られた子供についての思いは完璧にない。ここにあるのは富岡を責める言葉と脅迫じみた自己弁明だけである。堕胎の責任は富岡が負うべきであるという恨みがましい言葉には脅しと甘えが奇妙に混じり合っている。今までのゆき子を見てくると、たとえ彼女はどんなに追いつめられても一人で自殺するような女には見えない。ゆき子は、どんな苦境に置かれてもそれを乗り切っていく女、たとえパンパンに身を堕としても生き抜く生命力に溢れた女である。ゆき子はしたたかに生きる女であり、脅しも甘えも、無意識のうちに駆使する女なのである。