清水正の『浮雲』放浪記(連載16)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載16)

平成△年5月12日
『悪霊』の作中作者アントン・ゲーはニコライ・スタヴローギンの死に関して「すべてが覚悟の自殺」と断定した。そのことで『悪霊』の読者はニコライの他殺の可能性を考えてみることさえしなかった。日本の文芸評論家やドストエフスキーに影響を受けた小説家も同様で、林芙美子もまたその一人である。わたしは、ニコライの死は、ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーによる、自殺に見せかけた殺害の可能性が大きいと思っている。アントンは国家から派遣されたスパイであり、ピョートルは二重スパイである。このスパイ同士が情報を交換しあって書き上げたのが、この小説仕立てに構築された「スクヴァレーシニキに於ける革命運動顛末記」である。ピョートルは情報工作員として利用していたキリーロフの遺書に関してもいたずら書きを加えている。表層的には革命運動の主魁であり、ニコライの猿と見なされていたピョートルを見くびってはならい。
 和製ニコライ・スタヴローギンの富岡兼吾は、自ら死ぬこともできなければ殺されることもなかった。彼は本来的に生温き人間で、最初から最後まで熱くもなければ冷たくもなかった。女に対する冷酷な眼差しと言ったところで、少女マトリョーシカを自殺に追い込むような冷酷さは持ち合わせていない。富岡は実業家としての能力もなく、自殺も心中もできないが、女に関する関心だけは失せずにいる。ただし、富岡は女に精神性を求めることはまったくない。富岡にとって女はまずその肉体性や若さによって価値づけられる。躯つきがいいか悪いか、若いかどうかがまず問題になる。
 富岡は亭主とゆき子に隠れておせいをものにしようと考える。彼はこの日を〈記念すべき正月〉にしようと謀る。富岡がおせいの膝に足先をきつくあてた時に、彼は亭主の向井とゆき子を裏切っているわけだが、彼はその裏切りを裏切りとして特に意識しているわけではない。いたずら坊主が親の眼を盗んで悪さを働く意識と大差はない。富岡は「人間の気は変り易い」ということを自らの行為で実証してみせているだけである。
 ゆき子はおせいに油断していた。〈自分の前に眠ったように、頬杖をついて、さしうつむいている女〉を〈ばかな田舎女〉と思って、同情の眼差しさえ向けていた。林芙美子はここでも実によく女の心理を描いている。ゆき子は富岡がまさかこんな〈ばかな田舎娘〉に手を出すとは思っていない。ここがゆき子の女の浅はかであるが、林芙美子は容赦なく描いている。富岡はゆき子をおせいより魅力のある女だとは思っていない。むしろ、若いだけおせいの方が魅力的だと思っている。ゆき子は自分をおせいなどよりはるかにあか抜けした女と見なしていただろうが、林芙美子の作家の眼差しは冷酷にゆき子をとらえている。
「毒々しい紅を塗った唇を持ちあげるようにして、林檎を食っているゆき子の顔」を見ているのは富岡であり、このゆき子の顔は「頬紅を真紅につけた女」おせいよりも下品である。さらにゆき子が静岡の田舎から東京へ出てきたばかりのことを想起すればいい。伊庭杉夫の妻真佐子は〈美人で、機智のある妻〉と書かれていた。この真佐子の眼に、上京したばかりの十九歳のゆき子は〈ばかな田舎女〉に映っていたにちがいない。だからこそ、真佐子は三年もの間、夫とゆき子の関係に気づくことができなかったということになる。
 おせいは、いわばゆき子の過去の姿を色濃く反映した女であるが、ゆき子はこの〈過去の分身〉とも言うべきおせいにしてやられている。向井清吉の経営する小さなバーの二階の部屋で展開される富岡とおせいの内密な関係は、水木洋子のシナリオでは、さしたる変更もなく踏襲されている。が、成瀬巳喜男の映画ではすべてカットされている。富岡がおせいの崩した膝に足先を強くあてることもなければ、炬燵の中で手を握りあうこともない。おせいは火鉢に頬杖をついていないし、ゆき子は毒々しく紅を塗った唇を持ち上げて林檎を食ってもいない。つまり原作において描かれた富岡とおせいの息詰まるようなエロティックな場面も、ゆき子の食欲丸だしの下品な場面も、おせいのふてぶてしいまでの知らんぷりも、ゆき子の相手をみくびった優越感も、すべて省略されている。カメラが炬燵の中に忍び込み、ゆき子の林檎を食べるシーンをアップで映せば、この富岡、ゆき子、向井、おせいの、四人が集まった酒宴の場面は人間の深淵を浮上させるグロテスクな様相を呈したであろうが、成瀬巳喜男は〈きれいごと〉に終始してしまった。

  富岡は酔わなかった。ほとんど、壜を空にするまで三人は飲みつづけた。ーー富岡は、温泉へ行って来ると言って急に立ちあがった。亭主はもうろうとした眼で、
 「おい、おせい、お前、旦那を案内して、米屋の風呂へ案内して上げなよ。奥さん、あなたもおいでになりませんか?」と言った。
 「私、もういいのよ。今朝から、二度も金太夫の湯にはいったンですもの……。それに、すっかり酔って、ふらふらなの……」
  ゆき子は、酒の肴に出ているハムを頬ばりながら、また、ウイスキーのコップを唇へ持って行った。富岡が手拭を借りたいと言うと、女は、自分の桃色のタオルを壁からはずして、富岡の後へついて、梯子団を降りて行った。
 (279〈二十九〉)