清水正の『浮雲』放浪記(連載17)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載17)
平成△年5月14日
 ゆき子はおせいを〈ばかな田舎女〉と見くびっているから、特別な警戒心を抱くことなく、酔いにまかせて〈富岡との、南方での激しい恋いの話〉をおもしろそうに亭主に告白し始める。この時、おせいの膝は富岡の足先に乗せたままであったことを忘れてはならない。向井清吉のような五十年配の〈貧弱な男〉と〈青春のない生活〉を送っているおせいに〈同情的な眼〉を注ぎながら、ゆき子は得意げにダラットでの〈激しい恋〉の話をしゃべり続ける。おせいはそれを黙って聞きながら、〈過去〉ではなく、〈今現在〉、ゆき子の男である富岡の足に触れている。
 すでに女のいる男と関係を結ぶことに疚しさなど感じないのは、おせいもゆき子も同じである。男と女の間に倫理や道徳はいっさい通じない。向井清吉は妻にした若いおせいに油断しきっているし、ゆき子もまた、この黙りこくっている〈田舎女〉を見くびっていた。富岡だけが、おせいを若い女として扱っている。油断も隙もないのが、男と女の関係であり、ゆき子もまた富岡や加野とそのようにして関わってきた。酒に酔った時の富岡が性欲を押さえることができない男であることなど知り尽くしていたはずのゆき子が、〈田舎女〉に根拠のない優越を覚えて、富岡を寝取られることになる。
 富岡のたくらみに気づかず、すすめられるままに、酒を飲みつづけてへべれけになってしまったことが、ゆき子の女の本能を鈍らせてしまった。そうでなければ、温泉に行くという富岡にどんなことがあってもついて行っただろう。富岡とおせいは、すでに左手と右手で〈交合〉をしてしまったような仲である。この炬燵の中で密かにいとなまれた〈交合〉に向井もゆき子も気づかなかったことに、彼らの不幸、特に向井の不幸があった。なんでも巡り会いだ、などという覚ったようなセリフを吐いて、富岡のような卑劣漢を酒で歓待してしまったところに向井の甘さがあった。〈加野的善良さ〉など富岡に言わせれば自己満足的な欺瞞にすぎない。
 向井清吉の二階の部屋から〈米屋の風呂〉までどの位の距離があるのか、具体的に作者は書いていない。ゆき子は金太夫の湯に二度も入ったという理由で、富岡と行くことをやめ、亭主はおせいに風呂までの案内を指示する。富岡とおせいが二人きりになるチャンスを、亭主の向井とゆき子がわざわざ作ってやったようなものである。富岡は〈貧弱な男〉向井清吉とゆき子が二人きりになることを微塵も心配していない。酒の肴のハムを頬ばりながらウイスキーを飲んでいるゆき子は、おせいが〈自分の桃色のタオル〉を壁からはずして、富岡の後へついて、梯子段を降りて行った時の、そのときのおせいの秘められた感情を看過してしまった。かつてダラットの森で、富岡の背中に〈卑しさ〉を感じながら執拗に彼の後ろをついて行った時の感情をゆき子は忘れてしまったのだろうか。おせいは、梯子段を降りながら、富岡の背中に滲みでている卑しさを全身で感じている。

  階下は昏く冷々としている。富岡は女の降りて来るのを待っていた。卓子に椅子の乗せてある店の床に、鼡がちらちらしていた。
  女が降りて来た。二人はお互いに、激しい眼光で正面から近々と向いあった。
 (279〈二十九〉)

 林芙美子は、こういう場面の描き方が実にうまい。富岡は女の降りて来るのを待っている。おせいは富岡が待っていることをわかっている。その二人が落ち合うことになる階下は昏く冷々としている。そこは二人の関係のまさに来る〈将来〉を予感させる場所であり、所詮、二人の関係は、猫を恐れてこそこそ駆け回る鼡のそれでしかなかった。彼らは自分たちの運命をどこまでわかっていたのか。二人はお互いに激しい眼光で正面から近々と向いあう。ゆき子と心中する気で伊香保に来た富岡は、死ぬ代わりにおせいと新たな関係をむすぶことになる。
 おせいはゆき子に代わる女になり得るのか。結果として、富岡はゆき子から離れることはできなかった。富岡とゆき子の〈腐れ縁〉を断ち切ることのできる人物は、ついに『浮雲』の世界に現れることはなかった。ゆき子にとって伊庭も、ジョオも、富岡との関係を切る男たり得なかった。富岡にとっておせいは単なる、旅先での火遊びの次元を越えることはなかった。おせいは過去のゆき子に似過ぎている。
 このことは小説家林芙美子にとっては、困難な課題を招き寄せたことになる。富岡とおせいの関係を詳細に、具体的に描かなければ、読者はゆき子と別れて新たな人生に踏み出すことになった富岡の人生を納得しないだろうし、もし詳細に具体的に描けば、富岡とゆき子の関係にあまりにも近づくことになってしまう。同じような男と女のドラマを繰り返し描かれても読者の興味をつなぐことはできない。小説家としては辛い選択を迫られることになる。
 もし、富岡がおせいとの人生に賭けるというのであれば、ゆき子との関係に決定的な終止符を打たなければならない。しかし、富岡がしているのは、こそ泥のようなことであって、それは単なるお遊びである。富岡は、おせいが望んでいたような、〈小さな狭いバー〉から〈東京〉へと、彼女を解放する者ではなかった。むしろ、おせいを唆し、狭く小さいが、安逸の場から、自由と解放へという餌に食いつかせ、破綻へと突き落とした男である。