清水正の『浮雲』放浪記(連載13)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載13)
平成△年5月8日
  ずんぐりした、もう五十年配の亭主は、炬燵の上に、ジャンパアのポケットから、いくつも林檎を出して、ゆき子に食べて下さいと言った。男達はウイスキーをかたむけて、南方の話に花を咲かせている。
  六畳ほどの部屋だったが、天井は紙の吊天井で、壁には世界地図が張りつけてあった。だるま火鉢の蓋に、女は手をかざして、ぼんやり何か考えごとをしている様子だった。富岡は、自分の横に坐っているその女の横顔を時々眺めていた。ゆき子は林檎をむいて、むしゃむしゃ食べながら、男たちの話のなかに割り込んで、賑やかに喋っている。
  窓にさらさらと雪の気配がした。山鳴りのような、ごおっと響くような風の音がした。女は火鉢に頬杖をつき、膝を崩して、炬燵に右手をさし込んでいた。富岡は、何気なく、女の膝に胡坐を組んだ自分の足の先をきつくあててみた。女は知らん顔をしている。

(277〜278〈二十九〉)

わたしがまず注目したいのは、〈ゆき子〉と〈女〉という表記である。富岡にとってゆき子はすでに女ではない。ゆき子を道連れにして心中までしようと思っていた富岡は金太夫旅館で正月を迎え、伊香保温泉でのんびり過ごすうちに死ぬ気持ちなどなくしてしまう。富岡にとって今、新たに〈女〉として現れたのはおせいである。この黙りこくって眠たそうにしているおせいに、富岡は惹かれている。困っている時に、一万円で時計を買ってくれた亭主向井清吉に対する遠慮などさらさらない。富岡は本能のままにおせいにアタックしていく。
 ここに引用した場面は、現実的には酔っぱらっている亭主とゆき子の話声が二階の六畳間に響きわたっていたはずだが、読者の耳には何も聞こえてこないような描かれ方がされている。林芙美子は小説において音響の効果を存分に発揮している。読者の耳に声が聞こえたり、まったく無音になったりする、そういう書き方をしている。当然、この場面を映画化する場合は無音である。ゆき子と亭主の饒舌は口ぱく、富岡とおせいは沈黙の表情でお互いの性欲の住処に密かな刺激を重ね合う。
 林芙美子は女おせいの心理を、言葉一つ発せさせることなく巧みに描き出す。おせいが横に坐っている富岡の、ときどき自分に向けられる視線に気づいていないわけはない。富岡の視線に込められた、秘められた欲情を躰全体で感受しながら、おせいは「ぼんやり何か考えごとをしている」ポーズをとっている。描かれた限りでみれば、このおせいのポーズの意味するところをゆき子は察していないかのようだが、これは先に指摘したように、作者の戦略のようなものである。ここで、ゆき子を本来の本能的に敏感な女として描いてしまうと、富岡とおせいの関係が富岡戯れることになってしまうのを林芙美子は巧妙に回避したかったと見たほうがいい。
 富岡はゆき子とおせいに気づかれないように、おせいの横顔に視線を送りながら、おせいの反応を見ている。富岡は足の先をおせいの崩した膝にきつくあてる。このとき、おせいが妙な声を発するような女であれば、富岡はそれ以上のアプローチを断念せざるを得ない。富岡が推測した通り、女は知らん顔をしている。このとき、富岡と女おせいの間に密約が結ばれた。
 林芙美子の描写の仕方は絶品である。「窓にさらさらと雪の気配がした。山鳴りのような、ごおっと響くような風の音がした」これは、これは富岡とおせいの荒涼とした内的光景と、これから開始される二人ののっぴきならない性的関係とその破綻をシンボリックに表現している。〈雪の気配〉と〈山鳴りのような風の音〉で、読者は伊香保の厳しい冬の寒さと、そこに生きる人たちの暮らしの厳しさをまざまざと感じる。しかもこの描写は、富岡と女おせいの間で今後展開されるであろう破綻的未来を端的に表している。今のところ二人は自分達の未来を正確に認識できないが、しかしこの象徴的な描写が彼らの潜在意識に不吉な予兆として聴かれていたことは確かである。亭主を裏ぎり、ゆき子と伊香保に来た男と性的関係を結んで一緒になった女が幸福を手にするとは思えない。おせいは、自らの破綻と引き替えてでも、亭主と別れ、富岡と一緒に東京へ出て〈ダンサア〉になることで解放されたかった女なのである。
 富岡は女が右手を炬燵の中に差し入れ、膝を崩して何か考えごとをしているかのような仕草で誘っていることに気づいている。膝を足指先できつく触れて知らんふりをしている女は、要するにつり針を加えてしまった魚と同じである。後はゆっくり時間をかけて、つり上げるだけである。

 富岡は、左の手で、蒲団の中の女の手にふれてみた。そして、静かに、女の横顔をみつめたまま強く手を握り締めた。富岡の胸の中には、急に無数の火の粉が弾ぜた。女は、静かにうなだれて、眼を閉ざしたが、女の手はねっとりとして、富岡の手に、幾度となく反応を示した。
  頬紅の赤い、田舎田舎した女に、このような獣のような、野性的な力があるのかと、富岡はとりのぼせて、片手でウイスキーのグラスをあおった。ゆき子は、二つ目の林檎をむいている。
(278〈二十九〉)

 富岡は左の手でおせいの右手に触れた。はたしておせいは富岡の右側に坐っていたのか、それとも左側だったのだろうか。どうでもいいようなことだが、おせいの座した位置によって、二人の距離が微妙に異なってくる。おせいは炬燵に右手をさし込んでいる。ということは、左手で火鉢に頬杖をついていたことになる。ふつうに考えれば、富岡は左隣りに膝を崩して坐っていたおせいの右手を左手で握ったということになる。おせいが富岡の右隣りに坐していると、二人はぴったり寄り添うことになり、これではゆき子ばかりか亭主にもおかしいと思われてしまうだろう。映画では、富岡とおせいの内密な関係場面そのものがカットされている。
 富岡は女の手を強く握り締めながら、その横顔をみつめる。女は富岡の眼を凝視するかわりに静かにうなだれて眼を閉ざす。が、女の手はねっとりとして、幾度も富岡の手に反応を示した、と林芙美子は書いている。この場面はきわめてエロティックである。二人はこのとき、誰にも内緒のセックスをシンボリックな次元で展開している。富岡の締める手は挿入するペニスであり、おせいのてねっとりした手は塗れた膣であり、うなだれて眼を閉ざす仕草はおせいのエクタシーの隠喩である。今、富岡とおせいは、向井清吉とゆき子が饒舌に過去の思い出に耽っている間に、男と女の〈今〉を生きている。
ゆき子は富岡とのダラットでの逸楽の日々を熱く向井に語ることはできても、富岡との今現在を熱く生きることはできない。向井もまた同じである。向井はおせいとの〈現在〉を生きていない。彼は先妻との間に生まれた子供の死にこだわり、魚屋のおやじとして生き生きとしていた過去の自分を取り戻したい気持ちに支配されており、おせいの内心の思いを配慮することができなかった。
おせいが、魚屋など厭と言うのは、向井が先妻や子供のことが忘れられないでいること、つまり過去を引きずっていることが厭なのであって、魚屋自体を厭がっていたわけではない。しかし、親子ほど歳の違う向井はおせいの女の気持ちなどさっぱりわかっていない。今、向井清吉と幸田ゆき子はお互いの〈過去〉を熱く、情熱的に披露しあって、〈現在〉から置き去りにされている。
この〈現在〉を富岡と女おせいは生々しく生きている。林芙美子は饒舌な向井とゆき子の言葉を完璧に〈無音〉として表現し、ひたすら沈黙を守りながら、現在を生きる富岡とおせいに視線を向け続けることで、異様な緊張感を場面に与えている。
 富岡が求めているのは〈獣のような、野生的な力〉である。ダラットの森で、どんな仕事をすればいいのかという、いわばどうでもいいような質問一つを用意して、富岡を執拗に追って来たゆき子にも、確かに野生的な逞しい力があった。女の本能のままに大胆な行動に出るゆき子に、富岡は屈した。誤解してはならない。富岡はゆき子の野生的な本能、その性的衝動に全面的に応えたことは一度もない。追って来たゆき子を、富岡は欲望に負けて抱きしめ、長い接吻をしたが、しかしこのとき、富岡はゆき子を押し倒し、決定的な肉の結合をはたすことはできなかった。ゆき子はこのとき、自分が富岡に求められた存在ではないことを体感的生理的に了承して、自らも明晰に意識することなく〈復讐〉の途を歩き始める。と、その瞬間、森の奥から一羽の野生の白い孔雀がバサバサと飛び去っていく。この余りにも鮮やかな象徴的場面の〈意味〉を、ゆき子も富岡も、そして作者の林芙美子すら本当には理解してはいなかっただろう。
ゆき子の富岡に対する〈愛〉は〈性愛〉であるが、この〈性愛〉の強さよりも〈復讐〉の念は強く、その〈復讐〉の念は強過ぎるがゆえに〈愛〉と見粉うばかりとなる。成瀬巳喜男の映画『浮雲』のラストシーンはゆき子の深すぎる〈復讐〉を〈愛〉と錯覚した者の作物である。森雅之・富岡は死んでしまった高峰秀子・ゆき子に覆いかぶさるようにして慟哭することで、あたかもの〈愛〉が成就したかのように描かれているが、これは原作のラストシーンと遠く隔たるものである。成瀬巳喜男の映画『浮雲』は初めから最後まできれいごとに終始した。原作の果てしれぬ泥沼に、どんな観客も無傷で渡り切れる桟橋を作ったようなものだが、泥沼の深さを知った者でなければ掛けられぬ桟橋であったことで、映画は映画としての、その魅力を存分に発揮しているとは言える。
 男と女の性愛的な関係は三年もたてば消失するとは、確か宇野千代の言葉であった。激しい性愛的欲求の時期が過ぎれば、穏やかな関係の時期が訪れる。男と女の関係といえども、性愛的な次元を超えて精神的なつながりが強化される場合もある。しかし、富岡とゆき子の場合は、見事に精神的な次元の繋がりが欠如している。富岡がインポテンツになれば、ゆき子の執拗な愛の劇場、深層舞台の領域で言えば、その復讐の劇場は幕を下ろし閉館となるだろう。富岡の場合、彼がインポになれば、死んだも同然であった。なにしろ、ゆき子は富岡をそれ以上のものとも、それ以下のものとも見てはいなかったのであるから。
 富岡はおせいに獣のような野性の力を感じて、とりのぼせて、片手でウイスキーのグラスをあおる。つまり、富岡の左手はおせいの右手を強く握り締めたままであったということである。富岡は女と内密な性の秘儀を執り行いながら、ゆき子が二つ目の林檎をむいているのをしっかりと見ている。この場面の畏るべき象徴性を感じながら読んだ読者はおそらく稀であろう。ゆき子が口にしている林檎はユダヤキリスト教の文脈で見れば、創世記の禁断の木の実そのものである。ゆき子は、十九歳で妻帯者の伊庭杉夫と不倫の関係を結んだ時から、禁断の木の実を口にしていた。ゆき子は下宿代と神田のタイピスト学校の月謝代を伊庭に払ってもらっていた可能性もあり、もしそうだとすれば、ゆき子と伊庭の不倫の関係は『罪と罰』のルージンやロシア最新思想の宣伝家レベジャートニコフが信奉していたイギリス流功利主義の前提に立った契約関係だったということになる。
 林芙美子の書き方は一筋縄ではゆかない、異様な奥の深さを湛えている。雪の気配と山鳴りのような風の音の描写の直前をもう一度引いてみよう。

 富岡は、自分の横に坐っているその女の横顔をときどき眺めていた。ゆき子は林檎をむいて、むしゃむしゃ食べながら、男たちの話のなかに割り込んで、賑やかに喋っている。 (278〈二十九〉)