清水正の『浮雲』放浪記(連載12)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載12)
平成△年5月6日
岡田茉莉子の眼は大きく、おせいの眼をみはる癖をよく表現しているとは言えるが、しかしおせいは美人ではないし、いつも眼をみはっているわけではない。おせいのような〈猿ッ子〉が眼を大きくみはるからこそ、その瞬間をとらえた富岡の心をつかむことができるのであって、岡田茉莉子のように常時、美人のままの女優ではおせいの魅力、その〈若く水々しい軀の線〉の魅力は強調されない。岡田茉莉子の場合は、軀の線の美しさ以前に、その顔の美しさに男の視線が向いてしまう。おせいのように美人でない若い女の軀の線が、「何かのはずみで、ぱあっと派出派出しく周囲に拡がってみえる」ことが重要なのである。
 もし、おせいが岡田茉莉子のような妖艶な美貌の女であれば、三十も歳の違う五十年配の亭主が、何の警戒心もなく、ダンディな富岡を招待することはなかったであろう。この亭主、元魚屋の向井清吉は富岡に最初に会った時に「たくさんの人を見る商売ですから、この眼に狂いはありません……。自分はあなたを絵描きじゃないかと見たンですが、お役人とは思わなかったな」と言っていた。向井は自分で思うほど人を見る眼を持っていない。向井は、安心しきって富岡とゆき子を二階の部屋にあげて酒をご馳走しているが、このこと自体、向井がおせいの気持ちを何一つ読みとっていなかったことを証している。
 向井は、南方での戦争体験、子供をなくしたこと、妻との離婚、そして若いおせいと出会ったことなどを通して、人生は何事もめぐりあわせだという、一種の覚りを開いている男である。にもかかわらず、向井はその覚醒した意識と眼差しで「富岡とおせい」の運命的なめぐりあわせを、自らが招き寄せてしまったことに無自覚であったし、おせいが富岡を追って家出してしまった後、みっともないほど動揺し、しまいには見つけだしたおせいに復縁を迫って拒絶されると殺してしまった。
 向井清吉に関しては、林芙美子の描き方に一貫性を感じない。これは向井に限らず、加野も同じで、向井とおせいの殺人に至る修羅場、加野と富岡とゆき子の三角関係の末の暴行事件に関しても、林芙美子は何ら具体的に描写することはなかった。その意味でも『浮雲』は、富岡兼吾とゆき子の関係、その腐れ縁に焦点を絞った小説と言える。もし、富岡とおせいと向井の三角関係、およびその他の三角関係を詳細に描いていれば、この小説は大長編とならざるをえなかったであろう。が、同じような男と女のドラマの繰り返しということで散漫になり、緊張感の欠けた作品になる危険性もあった。
 小説においても、映画においても省略(描かずに描くという手法)はきわめて重要である。映画『浮雲』においても、限られた時間のうちに、原作のすべてを表現することはどだい無理であり、成瀬巳喜男は原作を編集処理して独自に再構築した水木洋子のシナリオをさらに省略、構築し直している。
 話を富岡とおせいの場面に戻そう。静かで黙りこくっている女が、もともとそういう性格の持ち主であるとは限らない。静かに、眠たそうにしていること自体が、男を惹きつける戦略そのものであり、富岡はそんなことは百も承知でおせいをかいま見ている。男と女は最初の出会いで決定される。おせいにとって富岡は待ちに待った男である。おせいは富岡とゆき子の間に生じている途方もない隙間を直感している。この動物的な直感に富岡も敏感に反応している。富岡とおせいは言葉を介在させない領域で、内密な関係の糸を繋げた。
 この男と女の秘儀にゆき子が気がつかないわけはない。しかし、この時、知らんぷりをきめこんだのはゆき子というよりは、むしろ作者である。富岡とおせいの内密の関係にゆき子を割り込ませると、その時点で富岡とおせいの関係は破綻してしまう。小説の筋展開から言っても、実は富岡とゆき子の関係はとっくに幕を下ろしているが、林芙美子は強引に閉まりかかった幕を力わざで下から持ちあげ続けた。富岡とゆき子のマンネリの腐れ縁に、何か幕間の男と女の劇が挿入されなければならない。そのためには、ゆき子には舞台の背景に退いてもらわなければならない。
 ゆき子はそういった作者の意図によって、舞台の隅に置かれ、バーの亭主と酔っぱらってダラットでの熱烈な愛について延々と饒舌に語り続ける〈無声〉の脇役と化さなければならなかった。ゆき子の言葉も、向井清吉の言葉も、言わば、口ぱく状態として読者や観客に示されるだけで、その具体を報告されることはない。舞台の前面で脚光を浴びているのは、黙って酒を飲み続ける富岡と、眠たそうな顔をした受動的戦略家のおせいである。