清水正の『浮雲』放浪記(連載21)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載21)
平成△年6月10日
〈三十一〉章を読む 
 三日ばかり、富岡たちは厄介になったが、ゆき子は東京へかえるのを急ぎ始めた。女の敏感さで、ゆき子は、おせいに何となく反感を持ち始めていた。いよいよ明日は伊香保を発つという日の夜、別れの宴を張って、その夜はまた亭主は、おせいにそそのかされて酒をはずんだが、ゆき子は、あまり酒を飲まなかった。最初の夜の深酒がたたって、いつまでも頭が痛く。胃も重かった。おせいが、さかんに酒をついでよこしたが、ゆき子は、ひそかに灰皿を引き寄せて、灰皿へ酒をあけた。そのくせ酔った真似をした。富岡は眼を閉じてときどき安南の唄をくちずさんでいる。ゆき子はうかがうように、ときどきおせいの表情を眺めた。最初の夜のもうろうとした女のお化けが、おせいのようにも思えて来た。なぜ、襖ぎわに立っていたかが謎でもあった。亭主はもういい気持ちになり、鼻水をすすりながら、東京へ出て一旗あげたい話をしている。 (284〜285〈三十一〉)

 この文章を書いているのは林芙美子である。なぜこんな当たり前のことを改めて言うかと言えば、女性である芙美子が、ゆき子に〈女の敏感さ〉が備わっているかのように書いているからである。今まで、描かれた限りでゆき子を見ても、彼女は実に本能に忠実な女で、ほかの女の本能に対しても極度に敏感な女である。このゆき子が、おせいを〈馬鹿な田舎女〉とだけ見なして、富岡との関係に警戒心を抱かなかったはずはないのである。ここには、富岡におせいという新しい女を出現させ、新たな小説展開を狙った作者の側の事情がのぞき見える。しかし、富岡がおせいを連れて、駆け落ちでもしない限りは、新たなドラマを展開させることはできない。おせいと関係しながら、ぐずぐず伊香保に三日もとどまっていたのでは、富岡はゆき子との泥沼から脱することはできない。
作者は、ここでおせいに警戒心を抱いたゆき子を描いている。もはや、この時点で、おせいはゆき子に勝利を治めることはできない。おせいは富岡と関係を結んだ時点で、酔いつぶれた亭主とゆき子を置いて駆け落ちすることを富岡に提案し、それを実行しなければならなかった。朝一番のバスで逃避行でもはからなければ、何のためにバス発着場近くのバーで働きながら、東京へ出るチャンスをうかがっていたのかわからない。いずれにしても、三日も向井清吉の厄介になっていれば、どんな鈍感な女でも富岡とおせいの関係を怪しむことになる。
 ところで、 林芙美子は女の敏感さを先鋭的に描くことはしなかった。たとえば、伊庭はゆき子と三年ものあいだ、妻に内緒で不倫の関係を続けているが、林芙美子はその関係にまるで妻の真佐子が気づいていなかったかのような描き方をしている。同じ家に住んでいて、夫の不実に気づかない妻がいたとすれば、こんな鈍感な女は存在しないことになる。ふつうに考えれば、そんなことは現実にはあり得ない。しかし、伊庭とゆき子と真佐子の三年間の関係を丁寧に描写すれば、富岡とゆき子を中心人物とした生々しいドラマを展開することはできない。できるとしても、読者の意識を集中させることは困難になる。富岡と邦子、富岡とニウ、伊庭と真佐子、伊庭とゆき子の関係をさらっと描くことで、富岡とゆき子は舞台で脚光を浴びる存在足り得る。
 作者としては、脇役には最低限の照明を与えることで、作品の凝集力を高めたいと思うのは当然である。真佐子、ニウ、邦子の内心に深く立ち入れば、それだけゆき子の存在は相対化されることになる。相対化の波に襲われる女はもはやヒロイン足り得ないのである。真佐子、ニウ、邦子がゆき子と同じ比重で描かれると、読者の思いはゆき子に集中できないことになる。複数の人物を等価と見なしてダイナミックに小説を展開していこうと思えば、思想や価値観のはっきり異なる人物たちを造形し、深い対立的構図の渦中に投げ出さなければならない。温泉宿の湯槽に老若男女が調和的に混浴しているような舞台では、対立葛藤は生まれず、ダイナミックな筋展開は生じようがない。
 神の存在を深く執拗に問うドストエフスキーの作品では、天地を貫く永遠の垂直軸に水平軸的な舞台が用意されるが、林芙美子の『浮雲』の人物たちは誰一人として神の存在をドストエフスキー的に問うことはない。沼に投げ入れられたフナ釣り用のウキぐらいの短い垂直軸が『浮雲』には浮かんでいるだけである。