清水正の『浮雲』放浪記(連載14)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載14)
平成△年5月9日
黙って、ぼんやり何か考えごとをしているおせいは女として見られ、賑やかに喋っているゆき子はもはやここでは女として見られていない。富岡の眼差しはおせいの横顔をとらえながら、実はおせいの女としての内心に向けられている。ゆき子は単なるおしゃべりなマシーンのような存在と化している。が、このときゆき子は林檎をむしゃむしゃ食べていることに注意しておこう。ゆき子はすでに禁断の木の実を、人の目もはばからずに食している。ゆき子には〈林檎〉を食することの畏れの感情は微塵もない。緊張も不安もない。が、おせいにとっては、ゆき子が〈林檎〉をむしゃむしゃ食べる光景はそれ自体が挑発的な意味を持っている。否、おせいもまたゆき子と同様、不倫はすでに〈禁断の木の実〉ですらなかったかもしれない。にもかかわらず、おせいには〈禁断の木の実〉としての男富岡が傍らに存在しているが、ゆき子には賑やかにおしゃべりするだけの向井清吉が存在するだけである。読者が興味を持って見つめるのは、富岡とおせいであって、ゆき子と向井清吉ではない。
 窓に〈雪の気配〉を感じ、耳に山鳴りのような〈風の音〉を聞いているのは富岡とおせいの二人で、お喋りに夢中なゆき子と向井清吉はその〈気配〉を感じることができず、山鳴りのような〈風の音〉すら耳には届いていない。

  富岡は、毒々しい紅を塗った唇を持ちあげるようにして、林檎を食っているゆき子の顔をときどき警戒した。だが、ゆき子は、加野的善人さといった、バーの亭主と、とりとめもなく話をしている。亭主は、腕時計をしていた。いかにも自慢そうに、短い腕首に、金側の時計はにぶく光っていた。 (278〈二十九〉)

 富岡は女おせいの右手を強く握りしめて、内密な関係に耽りながら、〈毒々しい紅を塗った唇〉をあげるようにして〈林檎〉を食っているゆき子の顔をかいま見て警戒している。ゆき子は警戒しなければならない存在に化している。富岡の中で、ゆき子は性愛的な次元での〈女〉ではすでになくなっている。ゆき子にとってもはや食してはならない〈禁断の木の実〉はないかのようではないか。この食欲旺盛な女は、禁断の木の葉陰に隠れていたサタンごと飲み込んでしまう魔女の様相を見せている。
 富岡になけなしの金一万円を支払って、ようやく念願の高級腕時計を入手した亭主の向井清吉は、酒以上に自分の見栄に酔って、若い妻おせいと富岡の内密な関係のドラマにまったく気づくことができないでいる。富岡は最初から向井など相手にしていない。富岡は向井を〈加野的善人〉と見なしている。加野的善人とは、女の魔性の領域に参入できないトウヘンボクを意味している。女はこういった〈善人〉に本来、興味を抱くことがない。女は女の魔性を刺激する男にしか牽かれない。ゆき子は富岡を自分に引きつけるための、一つの好都合な素材として利用したに過ぎない。ゆき子の加野の利用の仕方と、おせいの向井の利用の仕方は基本的に同じである。
おせいにとって、向井はゆき子における伊庭のような存在であって、彼は自分が東京へ出ていくための、当座の経済と性的欲求を満たすための存在でしかなかった。富岡は女の打算に強い。富岡は女よりも打算的で狡い男であるから、女の打算にだまされて、打算を自分に向けられた愛などと錯覚することはない。しかも富岡はドストエフスキーの『悪霊』の愛読者で主人公ニコライ・スタヴローギンの虚無に精通しているニヒリストであるから、はじめから空っぽな女たちにとってきわめて危険な魅力的な男になり得る。精神的に空っぽな女にとって最も手強いのが、さらなる空っぽな男なのである。
 富岡のような空っぽな男は、おせいがいくら黙りこくって、何か考えているような顔を作っても、実はなにも考えていないことを知っている。おせいが、求めているのは空っぽな頭にどうでもいいような、もっともらしい理屈を吹きこまれることではなく、空っぽな膣に実体感のあるものを挿入されることなのである。富岡はそれを百も承知で、おせいの炬燵に入れられた右手を強く握り締めたのである。
 現実的な文脈に乗せて考えれば、ゆき子が富岡とおせいの炬燵の中で密かに展開されている内密な睦事に気づかないはずはない。ゆき子は女の本能に従って生きてきた女であり、自分と同じような性格の女であるおせいの男に対する戦略を見逃すはずはない。林芙美子が、ここでゆき子を鈍感な女として描いていることのしっぺ返しは後に明確に現れることになる。
 富岡がおせいと真に新たな生活を踏み出すためには、ゆき子との関係を精算しなければならない。しかし、富岡は自らの意志で過去をきちんと精算したことは一度もない。富岡は妻の邦子と別れる事ができないまま、女中ニウと関わり、ゆき子と関わってきた。ニウは富岡の子供を身ごもっていたが、富岡と別れて田舎へ帰って行った。ゆき子は執拗に富岡を追い続けているが、富岡の抱えている虚無に追いついたことはない。ゆき子の放つ復讐の毒矢は、富岡の虚無の無限世界で射抜くべき的を失っている。
 おせいは、若い頃のゆき子を反映しているが、ゆき子を超える存在ではない。富岡がゆき子を捨てておせいと新生活を始めるためには、おせいがゆき子を超えた魅力的存在とならなければならない。林芙美子はおせいをそのように描くことができなかった。結果として、おせいは向井清吉に殺害されることで小説舞台から退場することになった。
 富岡がゆき子を警戒していること自体に、富岡とおせいの新生活の非発展性が暴露されている。富岡はおっ母さんの眼を盗んでいたずらをしでかすガキとなんら変わらない次元でおせいの手を握っていたに過ぎない。

 炬燵の中の、二人の手はなかなか離れなかった。女も大胆になり、膝を富岡の足の先に乗せるようにしていた。富岡は思い切って、女の手を離して、とりのぼせたような上ずった声で、
 「ああ、これもめぐりあいだね。こんな記念すべき正月はない。美しい晩だ。おじさん、一つ、このウイスキーを空にするまで飲みませんか、僕が今夜の宴会は持ちますよ……」
 と言って、盛んに、亭主のグラスにウイスキーをつぎ、ゆき子にも飲めと言って、わざと手をさしのべて、グラスを唇へあてがってやった。人間の気は変り易いものだと、富岡はもう一つの冷い感情で、ゆき子に、何度もグラスを持たせた。ゆき子は、だいぶ酔ってきた。夕飯をたべなかったせいか、早く酔いがまわってきた。ゆき子は、自分の前に眠ったように、頬杖をついて、さしうつむいている女を、ばかな田舎女だと思っていた。柄ばかり大きくて、こんな貧弱な男と、青春のない生活をしている田舎暮しを、同情的な眼でも見るのだ。ずっと黙ったきりでいるだけに、女の存在もこの場所でははっきりしない。ゆき子は酔いがまわるにつれ、富岡との、南方での激しい恋の話を、おもしろそうに亭主に告白しはじめた。
 (278〜279〈二十九〉)