清水正の『浮雲』放浪記(連載11)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載11)
平成△年5月3日
 富岡兼吾役に森雅之は適切なキャスティングと思うが、ゆき子役に高峰秀子、おせい役に岡田茉莉子は、それだけで原作から離れることになる。
 原作でおせいは「頬紅を真紅につけた女」(富岡のまなざしに捕らえられた印象)「あのお猿さん、相当の浮気者だわ」(ゆき子の言葉)「猿ッ子にかい?」(富岡の言葉)とある。
 水木洋子のシナリオでも「あのお猿さん、相当の浮気者だわ」(ゆき子のセリフ。56裏口)、「別に、あのお猿さんを掴んじゃいないぜ。馬鹿な事は言わないでくれよ」(富岡のセリフ。56裏口)、「猿ッ子だ」(富岡のセリフ。62物置)にきちんと生かされている。
 しかし成瀬の映画では、おせいに岡田茉莉子をキャスティングしたことでこれらの言葉はすべてカットされた。美人女優岡田おせいを〈お猿さん〉〈猿ッ子〉と言っても何の効果もない。容貌とかけはなれたセリフなので皮肉にもならない。
 おせいはバス停留所近くの小さなバーの女給をしている。彼女は親子ほども年の違う亭主と一緒に暮らしているが、正式に結婚しているわけではない。おせいはもと魚屋の亭主と別れ、たとえ一人でも東京に出てダンサアになりたいと思っている女である。この女はバス停留所の近くで、客引きしながら、実は不断に自分を東京へ連れていってくれる男を探している。おせいの内面を重要視すれば、〈バス停留所〉を抜かすことはできない。
 富岡とゆき子は、宿屋の勘定をすませて夕方には東京へ帰るつもりで、おせいのいるバーへ立ち寄る。もし、ここで二人がバーに立ち寄らなければ、富岡とおせいの関係もなかったわけだが、すでに富岡はおせいに対して或るひとつの確固たる直観が働いていたし、ゆき子は「何事もめぐりあいだ」と言う亭主に会っていろいろと話をしたいという欲求を覚えていた。
 その場面を原作『浮雲』で見てみよう。

 客は運転手らしいのが二人ばかりで、酒を飲んでいた。亭主は、二人を狭い二階へ上げて、くつろいでくれと言った。昼間とは違う女が二階へ茶を運んで来た。小さい掘り炬燵がしてあった。女の外套や、着物が壁にぶらさがっていた。やがて、昼間の頬紅の赤い女が二階へ上って来た。まだ十八か十九くらいで軀は、ゆき子より大柄だったが、眠ったような静かな女だった。ときどき、眼をみはる癖があったが、その時の眼はばかに大きくて、光っていた。美人ではなかったが、若く水々しい軀の線が、何かのはずみで、ぱあっと派手派手しく周囲に拡がってみえる。 (277〈二十九〉)

原作のこの場面を読む限り、この小さなバーに勤めている女給は亭主の内縁の妻おせいと通いで来ている女だけである。ところが映画『浮雲』では、おせいの他に二人の女が働いている。こまかいことを言うようだが、やはり神は細部に宿るのであり、ディティールを疎かにすると原作のリアリティは著しくそこなわれることになる。伊香保で夫婦二人で細々と小さなバーを経営してるというのに、おせい以外に二人の女を雇うことなどできるはずもない。おせいだけでは務まらない時だけ、通いで一人の女を雇っているのである。
 この親子ほど年の違う亭主とおせいは、それぞれ違った夢を抱いて、たまたま一緒に暮らしているに過ぎない。亭主は東京へ戻って魚屋を再開したいと思っているし、おせいは一人だけでも東京へ出てダンサアになりたいと思っている。ゆき子もまた〈ダンサア〉になりたいと思ったことがあったが、それはゆき子にとって富岡からの解放と自らの自立を意味していた。おせいもまた、狭く小さなバーから一刻も早く脱出して自由の身になりたいと願っていたのである。
 おせいが、両眼を大きく見張って光を発していたのは、自分を亭主や狭く汚いバー勤めから解放してくれる男を誘惑するためである。たいていの男は、こういったおせいのようなさりげない仕草を装った誘惑と挑発をやわらかく受け止めて、それなりに応えてやってもいいように思うものだ。が、同性の女は男を挑発・誘惑するおせいのような女には本能的な次元で嫌悪感を抱く。この場でおせいに嫌悪を抱く女といえばゆき子のほかにはいない。特に、ゆき子の場合、おせいとその事情が似ていることもあって、その嫌悪はどうしても解消することはできない。
 『浮雲』の読者はこの作品を何回熟読してもゆき子の静岡にある実家をつきとめることはできない。ゆき子には伊庭杉夫の兄鏡太郎に嫁いだ姉があり、弟があり、継母のあることはわかっても、その名前も年齢もわからず、父親にいたってはいるのかいないのかさえわからない。
 そんなゆき子が東京にいる伊庭を頼って上京し、神田のタイピスト学校に通い、無事卒業して農林省に入ったわけだが、林芙美子は頑ななまでにゆき子の実家について触れることはなかった。
 ゆき子はおせいを〈お猿さん〉と呼ぶが、それは自分自身に向けて発せられた言葉とも言える。ゆき子にはおせいという女の深部が透けて見えてしまうのである。自分が最も認めたくない醜悪な側面を体現した相手に面接したときほど、嫌なことはない。まさに、ゆき子はこの小さなバーで、彼女が最も嫌悪を抱かざるを得ない、分身のような女おせいと出会ってしまった。
 林芙美子は小説家としてそんなことは百も承知の上で、おせいを見るゆき子の眼差しに無関心を装った。言い方を変えれば、ゆき子に知らんぷりをさせることで、富岡とおせいの微妙な心理や欲情の交わりを描いた。富岡とおせいの間に、それなりの〈関係〉が成立した時点で、作者はゆき子に発言の場を与えはじめる。
 原作でも映画でも富岡とおせいの関係は重要なのでじっくり検証してみることにしよう。
 おせいはまだ十八か十九くらいと書かれている。まさに田舎出の〈お猿さん〉で、両頬を真っ赤にした娘である。はじめ林芙美子は〈頬紅を真紅につけた女〉と書いていたが、実は富岡の眼にそう見えただけで、実際は天然自然の顔だったことがわかる。映画の岡田茉莉子はどう見ても田舎出の猿ッ子には見えない。スクリーン上に岡田茉莉子だけをとらえれば、彼女は洗練された銀座のママさんを演じていると言っても許されよう。
 林芙美子はおせいを「軀は、ゆき子よりも大柄だったが、眠ったような静かな女だった」と書いている。このような女に惹かれるのは、ひとり富岡だけではない。〈眠ったような静かな女〉に偉大な母性を感じ、こういった大柄な女が側にいるだけで安らぎを感じる男は多い。女はたとえ年若くても母性を発揮できる存在であり、男はたとえ年老いても幼児的存在を脱することは困難なのである。
 林芙美子は、おせいは「美人ではなかったが」と書いていたはずである。母性的な存在として女を見るときに、彼女が美人である必要はない。決して美人ではないおせいが、「若く水々しい軀の線が、何かのはずみで、ぱあっと派手派手しく周囲に拡がってみえる」そのことが重要なのである。美人でない女が、〈岡田茉莉子〉のような美しさを発揮する瞬間があることを映像で表現することはかなり難しいのであろうか。
 わたしのうちで想起されるのは大島渚監督の『愛のコリーダ』で阿部定を演じた女優である。彼女は映画が展開するにつれて、吉蔵へとどうしようもなくのめり込んでいく定へと妖しく変容していった。演じていたのか、自らの内なる〈阿部定〉に目覚めてしまったのか、それとも呑み込まれてしまったのか、この女優はこの作品一本で映画界から姿を消してしまった。