清水正の『浮雲』放浪記(連載19)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載19)


平成△年5月17日
 狭い階段を降りて行き着いた湯殿は、亭主の向井の指示通りであれば〈米屋の風呂〉ということになる。〈金太夫〉からバス停近くの〈向井清吉の家〉、そして〈米屋の風呂〉へと舞台は移るが、はたしてそのモデルがあったのかどうか。今、わたしが知っているのは金太夫だけだが、〈米屋の風呂〉という混浴の湯殿もモデルがあった可能性が高い。
 さて、富岡は硝子戸を閉めて、〈おせいの後〉から〈冷い廊下〉を〈幾曲り〉もして〈低いほう〉へ降りて〈広い湯殿〉に突き当たった。このように単語をきちんと押さえて引用すると、富岡とおせいの関係は、実はおせいが主導権を握っていることが分かる。向井清吉の二階の炬燵の中で密かに展開された富岡とおせいの足先と膝、左手と右手のドラマだけを注視すれば、富岡が積極的にアプローチしているかに見えるが、二人の出会いを想起してみればいい、最初に「お兄さん寄っていらっしゃいよ」と声を掛けたのはおせいである。おせいはおせいなりの誘惑の罠を不断に仕掛けているのであって、富岡はまんまとその罠にかかった、否、掛かってみせたのである。
 林芙美子の描写からは冬の温泉街の冷気までが体感的に直に伝わってくるが、その描写が同時に人物の歴史や内的諸相をシンボリックに伝えていることで重層的な厚みを持っている。「富岡は硝子戸を閉めて」とは富岡が外界との接触を断ち切っておせいと二人だけの関係性へと踏み込んだことを意味している。「おせいの後から、冷い廊下を幾曲りもして低いほうへ降りて行く」とは、富岡の人生が〈おせい=母性〉の指示の前に従順につき従ってきた半生を如実に示している。富岡の人生は〈冷い廊下〉の〈幾曲り〉そのもので、友人の妻であった邦子との関係も、安南人の女中ニウとの関係においても、ゆき子とそれに続くおせいとの関係においても根本的にはまったく同じと言っていい。
 富岡の実存は、足の裏で直に〈廊下=人生〉の冷たさを感じ続けている。富岡の願いは狭く暗い石段を一歩一歩降りて行くことでしか獲得できない〈湯殿=実存の逸楽〉であったが、しかしその逸楽は本来的な実存から逸脱した形でしか実現しない。富岡は本来的な実存からの逃亡を繰り返しながら、そのたびに自分の空虚な実存(浮雲)に直面するしかなかった。が、とりあえず、富岡はおせいの後ろにつき従って「低いほうへ降りて行く」ことで〈広い湯殿〉に突きあたった。この湯殿が富岡の空虚な実存を本来的に快癒させる可能性をまったく持っていなかったとは言うまい。〈広い湯殿〉は大いなる母性、大いなる子宮であり、それは死と再生の秘儀を執り行う絶好の場所でもあるのだから。しかし、おせいは富岡を再生させる〈大いなる母性〉であるより前に、一人の、東京に強い憧れを抱いていた〈田舎女〉の域を一歩も抜け出ていなかったことも確かである。富岡は『悪霊』のニコライ・スタヴローギンに自分自身の姿を重ねてみたりもするニヒリストであり、空虚に支配された生温き人間である。死ぬ代わりに、しばし若いおせいと戯れてみようと思う、その思いに身を委ねただけというのが本当のところだろう。