清水正の『浮雲』放浪記(連載85)

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清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。
 清水正の『浮雲』放浪記(連載85)


平成□年1月12日
 先に引用した場面の最後で、ゆき子は「奥さま、どこがお悪いの?」と訊いていた。その続きの場面を見ることにしよう。
 
 「胸なンだ……」
 「もう、よほど、いけない?」
 「長く静養すれば助かるだろう……」
 「これから、あなたも大変ね。お勤め、きまったンですって?」
 「ああ、友人のやっている石けん会社で、たいしたこともないがね。それでも、よく面倒をみてくれるンで、まア、いまのところは甘えているンだ」
  紅いソーダ水の麦藁をぐっとすすりながら、富岡は、ゆき子の美しい手を見ていた。柔らかそうな美しい手をしていた。富岡はゆき子が不憫であったが、おせいのこともどうにも仕方のない不憫さである。(317〈三十九〉)

 富岡は、胸を悪くして長いこと静養しなければいけない妻を抱えながら、おせいの借りた部屋を足溜りにして半同棲の暮らしをしている。そこへいきなり訪ねて来たゆき子は、〈子供の始末〉をするしかないと言う。なんとも厄介な状況に追い込まれているにもかかわらず、富岡は意外にもタフなしぶとさを備えている。富岡は、こと女に関してはかなり打たれ強いタイプの男である。見方を変えれば、富岡は直面した問題をきちんと処理できずに、そこから逃げ続ける男ということになる。妻の邦子から逃げ、自分の子供を宿したニウから逃げ、ダラットで結婚の約束までしたゆき子から逃げ、伊香保で関係を結んだおせいからも逃げようとしている。この、格好だけつけて逃げまくる富岡をどこまでも執拗に追い続けたのがゆき子であった。
 ここでゆき子は邦子やおせいに対しても心配りをみせて、富岡に冷静に対応しているが、この冷静や寛容が本心から出ていないのは明白で、やがてまた一人の女、富岡を忘れることのできない女に戻ってしまうのは見ての通りである。『浮雲』を読むとは、作者と共にゆき子と富岡の〈腐れ縁〉に最後の最後までつきあいきるということである。
 作者は「紅いソーダ水の麦藁をぐっとすすりながら、富岡は、ゆき子の美しい手を見ていた」と書く。厳密に言えば、〈紅い〉がソーダ水を形容しているのか麦藁を形容しているのか曖昧だが、ここでは〈紅い麦藁〉と見ておこう。この〈紅い麦藁〉は、女という〈ソーダ水〉を、まるで生血を啜るように生きてきた富岡の空虚な実存の本随を鮮烈に示している。この時、富岡のまなざしはゆき子の柔らかい美しい手に注がれている。深刻な話の最中にあってさえ、富岡の欲情が萎えることはない。ゆき子やおせいを不憫に思う、その心持ちの中に欲情の業火もくすぶっている。
 
「僕は、いままでに、一人も子供がないンで、どうしても産んでほしいと思うンだ。おせいの問題も、長続きはしないし、家さえみつかれば、いまにも引越したいくらいだ。おせいも、亭主ときれいに別れたわけじゃないし、あの部屋は、おせいのかくれ家みたいなものなンだよ。ーー亭主は、いまだに、おせいの消息は判ってはいないンだ。僕だって厭なンだし、あの家でも、僕はあいまいな眼で、見られているンだ」(317〈三十九〉)

平成□年1月31日
「僕は、いままでに、一人も子供がないンで、どうしても産んでほしいと思うンだ」どうしてこういうセリフが口からだせるのだろう。妻の邦子、おせい、ゆき子……どの女に対してもなんら責任ある態度をとることのできない男が、臆面もなく「どうしても産んでほしいと思うンだ」と言う。どんな耳で、どんな風にこの言葉を聞いたらいいのだろうか。富岡は天性的なペテン師なのであろうか。よく言えば、自分の吐いているペテンに無自覚という点において富岡は幼児的な無邪気さを持っている。しかし富岡は農林省に勤めていた元山林事務官であり、今は材木を扱う実業家である。ゆき子ひとりの経済的な保証も与えられない富岡が、ゆき子にこのようなセリフを平然と口にすることの罪深さは計り知れない。富岡は卑怯で臆病な男であるから、子供を堕胎せよなどという言葉は絶対に口にしない。富岡は、ゆき子が〈堕胎〉せざるを得ないことをよく知っているが故に「どうしても産んでほしい」などと、思ってもいないことをいけしゃあしゃあと口にするのである。富岡が、できないことを口にする男であることはすでに証明されている。
 富岡は邦子と離婚せず、ゆき子と結婚せず、自殺も心中もできなかった。しかも材木で一儲けをはかって失敗し、家族を親戚に預けなければならなくなっている。おせいを誘惑し、夫を捨てて東京に出てきたおせいの借りた家に厄介になっているにもかかわらず、おせいとはいつ別れてもいいようなことを平気で口にしている。箸にも棒にもかからないような卑劣な富岡だが、ゆき子はそんな富岡を憎みきることもできないし愛想を尽かすこともできないでいる。できないことは口にださない、口にしたことは実行することを男の美学と心得る者から見れば、富岡の言葉は軽薄そのもので、醜悪な臭いを放っているのだが、その言葉を聞いている当のゆき子の耳には心地よく聞こえてしまう魔力を備えている。ここで、同棲しているおせいの魅力などを語られれば腹をたてるだろうが、「おせいの問題も、長続きはしないし、家さえみつかれば、いまにも引越したいくらいだ」と言われれば、内心嬉しく思ってしまうのがゆき子なのである。
 富岡は「僕だって厭なンだし」と言っているが、いったい何を厭だと言っているのだろうか。清吉がおせいの居所を未だに知らずにいることが厭なのか、それともおせいと同棲していることを清吉に知られることが厭なのか。いずれにしても、おせいの部屋は清吉から身を隠すための〈かくれ家〉であると同時に、おせいと富岡ふたりきりの〈かくれ家〉でもあったことに間違いはない。それをあやふやなままにしておいて、いつでも自分だけ都合よく逃げられればいいと思っているところに富岡の根深い卑怯が潜んでいる。富岡は「あの家でも、僕はあいまいな眼で、見られているンだ」と言っているが、これはへたな漫才師のギャグよりははるかに面白い。富岡という存在の〈あいまいさ〉が、彼を見る他者の眼差しに正確に反射しているまでのことで、それが厭なら自らの態度を一義的に単純に決めればいいまでのことである。尤も、それができないのが富岡であり、そういうあいまいな富岡であるからこそゆき子は引かれ続けるのである。

 「おせいさんは、何かしてるンですか?」
 「新宿のバーの女給をしていたンだが、二三日前から歯が痛くて休んでいたンだ」
 「でも、おせいさんは、とても、あなたに惚れていますよ。案外、一生あのひととあなたは暮すようになるンじゃない? いっしよにいるものが勝ね。去るもの日々にうとしのたとえもあるンですもの……。ねえ、仏印の思い出だって、もう、ひところのように、めったに思い出さなくなったし、夢も見なくなったじゃない? そんなものね」
「僕はときどき見るよ。君のことを考えると、ダラットの生活を思い出してやりきれなくなるンだ……」
 「私、この間、一月に、加野さんをお見舞いに行ったの、手紙に書いたかしら?」
 「ああ、知ってる。加野も大変だな、気の毒な奴だ……」
 「悟ってはいらっしたようだけど、痩せて、元気がなかったわ……」
 「大変な愛国者で、正直一途な男だったね」
 「そうね。私たちのように、ずるい人じゃなかったわね……」
  喫茶店を出て、また、目的もなく歩きだしたが、四囲はすっかり暗くなり、涼しい夜風が吹いていた。富岡は帰る様子もなくゆき子について来た。(318〈三十九〉)


 富岡は子供をどうしても産んでほしいと言った直後に、おせいとも長続きはしないと言っている。富岡は一つ一つをきちんと解決しながら生きていく男ではなく、あれもこれもそれもごっちゃにしながら、行き当たりばったり、思いついたままのことを口に出している。前にも書いたように、富岡は伊香保でおせいと関係を結んだ時点で、ゆき子との関係には幕を下ろしたはずなのである。しかし、作者は富岡の性愛の遍歴を描くことよりは、ゆき子との腐れ縁に執着した。富岡とおせいの関係を熟成させる途を採らずに、ここでもまた富岡とゆき子の腐れ縁を続ける途を採っている。二人の関係に邪魔者となったおせいの姿を消し、ゆき子の怒りを納めて、ここでは富岡とゆき子の会話を丁寧に描いている。
 おせいは、何を言うか何をしでかすか分からない危険な生な存在としての登場は許されず、すでに富岡によって客体化されている。おせいは富岡にとって〈新宿のバーの女給〉以外の何者でもない扱いをされている。亭主を捨てて東京へ出てきたおせいが、すでに富岡にとっては厄介な荷物のごとき存在としてゆき子の前に提示されている。富岡は卑劣な男だが、眼前にいる女の心をくすぐる術を天性的に身につけている。ゆき子にとっておせいが富岡に惚れていることなどたいして重要なことではない。問題は、富岡がおせいをどう思っているかなのである。否、富岡がおせいに関してなんの愛情も感じていないということを言ってもらいたいだけなのである。
 読者にはすでに富岡のおせいに対する思いは十分に伝わっている。富岡はおせいの若い肉体にひかれた。小説においておせいの精神性など少しも重要視されていない。伊香保温泉でのおせいは、東京のダンサーに憧れている〈猿っこ〉でしかなかった。おせいは自分の願望を達成するために清吉を利用し、富岡を利用する打算的な娘である。しかし作者はおせいを、中年男を翻弄するファナティックな女性としては描かず、富岡に惚れて、貢ぐような〈猿っこ〉の次元に据え置いた。事業に失敗した富岡は、客観的に見れば、おせいのヒモであったにすぎない。金を満足に稼ぐこともできない富岡が、自分の置かれた状況を省みることなく、ゆき子に子供をどうしても産んでくれなどと口にするのであるから、もはや十分に度し難い。
 ゆき子と富岡の共通の思い出はダラットでの性愛の日々である。ゆき子は過去を冷酷に切り捨てて現在を激しく生きる女ではない。否、ゆき子にとって静岡での生活、伊庭との不倫の性生活などは、ほとんど失念状態にあった。その意味でゆき子は過去を冷徹に切り捨て、新たな生活に賭けることのできる女でもあった。