清水正・ドストエフスキーゼミの第一回課題「ロジオンと私」

清水正ドストエフスキーゼミの第一回課題「ロジオンと私」
五月十六日は三回目の一年生のゼミ。『罪と罰』を最後まで読み終わった学生のいないなか、課題を授業時間内に書いてもらうことにした。時間内に終わらない者は家で続きを書いてメールで送ってもらうことに。


ロジオンと私

村田 和也
ドストエフスキー著「罪と罰」の主人公 ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフと、現代の自分たちの生活、それに伴う思考などを比べてみた。

まず、ロジオンの生活環境は極めて悪く、それが健康状態の悪化につながり、それによって冷静な判断力や思考力が低下していたと考えられる。

現代の自分達は私も含めそうだが、家自体がそんなに汚いところで生活している人はほとんどいない。
私の部屋も決して整っているわけではないが、ロジオンの部屋ほど壁や床自体が汚くはない。

ロジオンの部屋は物があまりないのに汚いが、私の部屋は全く逆で物がいっぱいあって汚い。
汚いというのは決してよくはないが、その差は大きいと思う。
物がいっぱいあれば、自分の行動の可能性も広がるが、何もないとそこで過ごす時間は虚無や内向的な考えしか生み出さない。また、汚れと乱雑は違う。


さらに、周囲の環境もよくない。
ロジオンは決して、特別人付き合いが苦手な人ではないが、彼の周りには常に話し相手になってくれるような人がいなく、彼に関心を持ってくれる人もあまりいない。
彼自身が人を遠ざけているのもあるが、彼だって誰とも関わらないわけではないし、何よりそうした時に相手から来てくれるような人がいない。
ようはおせっかいをやいてくれる人がいないのだ。

唯一母親だけが手紙とお金を送ってくれたが、それでも相互コミュニケーションというわけにはいかない。
話の中で彼の母親の手紙は彼を苦しめているが、それは理想と現実に挟まれ、その差に埋もれながら生きている彼にとって、理想をそのまま見続けているかのような彼女の言葉が神々しく、理解し受け止めることが難しかったのだろう。
また、それによって彼自身もその差を実感し、申し訳なく思っているが、そうした苦悩は生きる上で必要だと思う。

物事を自分で考えるのと人によって考えさせられるのはかなり違う。 
彼がもう少し人に与えられた何かによって悩まされ考えさせられたのなら、彼自身の行動も変わってきたのではないか。


ロジオンの最大の罪は言うまでもなく2度もの殺人を犯したことであるが、それはこうした所から来ているのではないかと私は思う。

では、もし自分がロジオンと同じ全く同じ境遇で、全く同じ部屋で生活をしたらどうなるのだろうか。

結果は全く同じ生活をしないかぎり、同じような道をたどることは無いと思う。
全く同じ生活とは、全く同じ性格でない限り無理なので、結局は自分次第だということ。

これまで環境の良し悪しを言ってきたのに、実はロジオン自身が全て行けなかったというのではなく、最終的な決断を下すのは自分自身なので、彼にも大きな原因があるということ。

ただ、周囲の環境がその人の性格に与える影響もまた大きいため、どちらが主だというのは一概には言えず、両方ともが大きな原因ということになる。

しかし、ここで重要なのは 人がどんなに環境によって左右され、歪まされたとしても、先に説明したように、行動の判断は自分でするため、根本の性格と合わない場合はどこかで気付くはずであることだ。

それに関して、ロジオン自身は カチェリーナの家にお金を置いてきたことなどから、そんなに不親切で危ない人間ではないようだった。
少なくとも最初の方ではそう描かれている。

意外に人間らしさのあるところもあるし、むしろ彼自身が、その心情の揺れ幅から人間らしさの象徴として描かれているのかもしれない。

ドストエフスキーの意図はわからないが、そうだとすると彼は計算高い殺人鬼ではなく、汚い部屋に住み、人とあまり関わらず苦しい生活を送ることで良心を削ぎ落とされてしまった、もしくは良心をわからなくなってしまった、ある意味では可哀想な人間である。

だから、最終的に自白をしているのかもしれないが、だとしたら何故殺人の前に気付けなかったのか。
やはりその面で 注意をしてくれるような知り合いが必要だったのかもしれないが、そういう友人をつくらなかったのも彼自身の判断だ。

例え知り合った中に釣り合うような人がいなかったとしても、関わり合いの全てを他人のせいにしていたら、人間としてしっかりとした人生を送ることはできないだろう。

話を読んでいく程、ロジオンは自分では何もしない。
悩み、考え、母の手紙には泣くのに、自分から何かをほとんどしない。
自分の今の状況を変えようともあまりしていない。

自分が動こうとしないのに他人から来てくれるわけはないのだから、そうすると周囲の環境も自分自身がつくったということになるのかもしれない。

私がロジオンと同じような境遇になったら、まず色々なことに挑戦して苦しい生活から脱しようとし、またその生活の中で楽しいことを見つけそれにも時間を費やす。
何もしないと何も生まれないし、何より生きがいがないからだ。

あんなような生活で、恐らくロジオンに生きがいはあまりなかっただろうが、本人もそれを探してはいなかった。

ようは、自分の閉鎖的な態度が周囲の環境を生み出し、それがまた自分を蝕むという悪循環に彼は嵌ったのかもしれない。

そうして積み重なっていった何かがいつしか殺人を招いたのなら、現代の人間にもあり得そうなことだと思った。

現代で起こる無差別殺人犯なども、普段からコミュニケーションをあまりとらないでいるものが多い。

何よりロジオンのたまにでる人間らしさが、誰にでも起こることを表している気がしてならない。

そのことから私はこの「罪と罰」を読んで少し恐いと感じた。
誰にでも潜んでいる悪を描いているような気がしたからだ。


余談だが、以前何かの番組で 人は理想と現実との間に折り合いをつけて初めて大人になれると言っていた。だとすると、ロジオンは子どものまま彷徨っていたのかもしれない。  私はそうならないように気を付けたいと思った。



櫻井 遥日

 私は今、まさに悪夢におぼれるロジオンのように追いつめられ憔悴しきっています。というのも昨日6時間近く夜まで本屋のアルバイトした後、本日月曜日の7時〆切の部活の課題を徹夜でやり、そのために今日は2時間半しか眠れていないからです。ぬかるむ意識にカフェインとミントを投入し、昼食もまともに摂らずに手を痛めながら終わらなかった課題を消化し、そして70%ほど終わったところでこのレポート。
 物理的にも頭が痛くて仕方がありません(清水先生ごめんなさい)。とはいえ漫画原稿も本課題も数週間前から知らされていたことであり、今回の惨状も全て自分の時間管理能力の至らなさから起きてしまったことですから文句は言えません。
 しかし、再度お詫びさせていただきますがキンキン痛む今の私の頭ではよほど立派なレポートを大成させることは難しそうです。そこで甚だ稚拙ではありましょうが、私は「ロジオンと私」というテーマの元、現代の少年櫻井遥日が近代の青年ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフについて抱いた率直な感想をここに書き表していこうと思います。

 「罪と罰」。世界的名作には教科書以外でお世話になったことが少ない私でもタイトルとあらすじくらいは知っている、(世界でどうなのかよく知らないので)日本で著名な海外文学作品の一つです。実は私、清水ゼミに入り文庫の購入を指示される前から新潮文庫版の罪と罰を持っていました。棚に積んだまま放ってはいましたが一応興味はあったわけです。様々な現代文学作品で度々引用されるこの小説を想うたび、私は自分勝手に妄想を繰り広げていました。
 「秀才の青年が、自分のような人間は多くの善行を成すために悪事をはたらくことが許されるという思想の元、高利貸しの老婆とその妹を殺す。しかしその直後から彼は、人を殺めたことに対する自己嫌悪と犯罪発覚への恐怖から精神を病んでいき・・・・・・」私が知っていたのは概ねこのようなさわりの部分だけでしたが、しかし僕の中では、
『明晰な頭脳を持つ主人公が人並みはずれた価値観のもと高利貸しの老婆を殺すが、徐々に罪悪感に苛まれ自分も凡人なのではないかと苦悩する』
という勝手に歪曲させたな骨組みが出来上がっていたのです。
 正直、始めてまともに本書を読んだ時愕然としました。私の中で冷徹にして天才、人間離れした人格を持った狂気の青年ラスコーリニコフが、あまりにもかけ離れた姿で描写されていたからです。そのイメージの崩れようたるや愕然を通り越し苛立ちすら覚えました。まずこの主人公、行動に一貫性がない上に精神年齢が思いの外低く見とれたのです。覚悟の固まらないまま人を殺し善行に使うはずだった金品を半ば捨てるように隠し、友人宅へ急に訪れて突然かっとなって帰ろうとしたり、また腹の内を探られたことに激昂しいやらしくザミョートフの揚げ足を取りにかかるなど、清水先生が言っていましたがこれはとんでもなく迷惑でいやな奴だと思います。そして混乱したまま盗品を壁紙の穴に詰め込み満足し、直後我に返って自責したり(このシーンはなんとはなしに私の気に入っているのですが)と、私の先入観とは裏腹に全く情けなく人間くさい。感情と無意識のままに動き回って何がしたいのかどうなりたいのか、全く感情移入出来ないばかりか好きにもなれない主人公でした。
しかし妹と母の登場により彼の内面や行動にも変化が現れ始め――常人らしい部分ゆえに悩み、以前よりよりしおらしく狂っていく様子、という感じでしょうか――個人的には中盤辺りからはどんどん彼の視点に引き込まれていけました。そもそも私は秀才でありませんし美男子だでもありませんので彼に完全にシンクロしようとするのが無理な話でしょうが、それでも私はこのラスコーリニコフとの間に一つの共通項を見つけました。それは彼も僕も人を殺すべき人間ではないということです。じゃあ人を殺していい人種があるのかと言われればその辺りは考えていないので答えられませんが、少なくとも人を殺すべきじゃない人間というのはいると思います。本物の殺人犯というのは殺人が発覚するのを覚悟――というよりは承知した上で、理屈抜きの殺意のみを腹に据えて宿命的な感覚を以って命を奪える、そういった人外の存在こそが成り得るのではないでしょうか。つまり本音はどうあれ、世の害悪となる高利貸しのいやらしい老婆を殺そうとした彼のように、あるいは日々の様々な行動の理由を他人に起きたがる私のように、本気で自分の意思で人様の命を奪えないのならば、そもそもその人は殺人者にはなれない――殺人のつもりが本当は過失致死程度のことしかできないような犯罪者になるのが関の山ではないかと思うのです。

しかし、主張を以って殺人を犯した彼の生き方と、意味なく小突かれても愛想笑いをする私の生き方。過去と現代でけっして交錯することのない二つの両極端な若者の生き方は、一体どちらの方が幸せなのでしょうか――とも私は考えてしまうのです。


斉藤ありさ

狭く汚いものの少ない部屋。寝床はソファのみ。何枚もに重ねられたシャツやタオルを枕にしているロジオンは、自分の住処にあるもので自分の居所を最小限に作っている。今の私たちでは考えられない居場所だと、読者は思うだろうか。私は思わない。小説の中で表現される大富豪の家やダンスパーティの会場より、いとも簡単に想像がつく。それはなぜか。私の居場所も、彼の居場所と変わらない環境から成り立っているからである。
部屋には衣服が散らばり、ベッドやタンスが部屋の大半を占めていて、7畳ある部屋が3畳ほどしか機能していない。ここで勘違いしていただかないで欲しいのは、ロジオンの住処のようにいつも散乱としている訳ではないということだ。そして私の部屋は、考え事をするための部屋ではない。あくまで最近は「寝る為」の部屋である。
ロジオンはあの狭い部屋で何を考え、どう行動しているか?「あれ」を実行するために頭をフル回転させているのだ。一物の雑念も無く、ただ「あれ」のことだけを考え、手に汗を握っている。私ならいても立ってもいられなくなるだろう。一方私は、「明日の朝ご飯はなんだろう」とか、「一限目からだからもうあと5時間しか寝れない」だとか、考えても何の足しにもならないことばかりに思考を巡らせている。そこが彼と私の違いである。狭く汚い部屋の使い方。それが私と彼の頭脳の中身を変える大きな決定打である。
ロジオンは頭がよい。そして昔(元)は人柄の良い善人だったと私は思う。しかし、頭がいいのに比例して、考え方が偏り、変な風に偏見を持ってしまったのである。「金持ちの強欲なババア」は、好き好んで悪い性格になった訳でも無いし、借金の件は彼の自業自得なのである。返さなければいけないのを、返せない、金持ちだからおかみは困らない、アリョーナ・イウ゛ァーノウ゛ナは金を強欲に使う、他の貧しいものにまわした方が良い、彼女は悪い奴だ、そんな悪い奴は殺してしまおう…と、ひとつの考えが大きく変化し、悪い方へ転がった。自分への良い訳が大きく変化してしまったのである。
彼には心を許せる身寄りが近くに居ただろうか?家族とは離れて暮らしているし、何かを相談できる相手が居たのだろうか。私は家族と一緒に暮らしているし、何かあれば相談に乗ってくれる友達が居る。こんなに幸福なことはないだろう。ロジオンはひとりで、狭く暗い部屋でくらしている。借金もある。そんな毎日では気が狂ってしまうのも仕方がないと私は思う。法律の関係のない悪を正義と書き違え、それを実行してしまうまでにはいたらないが、無気力のうちの実行とは実におそろしいものだと思う。自分の胸の内だけで何かを悩み、考えしまうと、どれが正しく、どれが間違いだか分からなくなってしまう。ソーフィア・セミョーノウ゛ナの登場により、ロジャーは人間味を取り戻す。人には人が必要だということが明らかに分かる。ソーニャの優しく寛大な心には、彼も助けられただろう。人は、自分の犯してしまった過ちを、誰かに慰めてもらいたいものである。私だって、何か間違いを犯した時、誰かを不意に傷つけてしまったとき、友や親に叱ってもらい、慰めてもらうと、気が楽になる。ロジャーにはそれが必要だったのである。
結局、私と彼との環境の決定的な違いは、頭脳でもあるし、貧困さでもあるが、一番は、人のぬくもりの有無、そしてそれをどう扱うか、そこだと思う。彼にはぬくもりが足りなかった。人が足りなかったのである。天才は、その頭脳を使い果たした先に出てくる悪い残り糟を、どこかに吐き出さなければ壊れてしまう。私はそう考える。

城花香

ロジオンと昨年の私は似ている。私は浪人生だった。実質の伴わない自尊心からの選択だった。どこにも行けなかったけど、自分はやれば出来る。やり方がいけなかったのだ、もう間違えたりなんてしない。今度こそ第一志望校に合格出来なければ私には価値が無い、私は私で居られなくなると思っていた。夏までは。通っていた予備校では、多くの人がいつも一人で過ごしていた。私もその一人だった。そんな中で少なからず出会えた人々が居て、私はそこに居場所を見つけてしまった。どこにも行けなくても、私はここに居たい。私はずっと私のままで居たい。一般で受験しようと決めたのは、高校三年の夏に部活の後輩と受験について話していた時に彼女が言った「私は推薦で受かりたくないです。努力しないなんて意味がないから。」というような言葉に心を動かされてのことだった。推薦での受験は努力が必要無い訳ではないと思うが、指定校推薦で行ける所に行くか、多少の辛酸は舐めて自分の居場所を見つけようかと迷っていた私には親や教師のどんな言葉よりも背中を押してくれるものだった。何よりも学校での成績は悪くなかったので、自分は大丈夫、努力すれば必ず大丈夫だと思い込んだ。平和ボケだったのだ。夏休み中盤から佳境である十一月頃までは自分で参考書や教材を買い、学校の授業に沿って一人で勉強していたが、日本史が授業の中で近現代めで終わらず、現代文も上達出来ている実感が得られず急遽個別指導の予備校の冬期講習に通うことにした。正確には覚えていないが、授業料は決して安いものではなかったと思う。受験校は四つ、全てセンターと一般の両方受けた。そして受験を失敗してから通った予備校への授業料を考えると、今でも下を向きたくなる。自習室で夏期講習の料金表を見ながら死にたくなったことをよく覚えている。それでも高校受験の時に第一志望に合格出来た喜びを知っているから、自分は出来ると思っていた。これはロジオンが高利貸しの老婆の財産を利用しようと殺害しても、しばらくは罪の意識を感じていなかったことと同質のものであると私は考える。ロジオンの「非凡人は、もともと非凡な人間であるから、あらゆる犯罪を行い、かってに法律をふみこえる権利を持っている。」という思想の同質なものの、ごく微量を私も腹に抱えていた。ロジオンは後に良心の呵責に苛まれることになるから、彼に取り憑いた病魔がこう言わせたのかもしれない。私は今の生活が気に入っているからこそ浪人した経験は記憶の中で美化出来ているが、昨年の私は本当に傲慢だったように思える。その傲慢を押し通してさえ、まだこれからの四年間の学費がかかるのだ。逆境の中でも自尊心を捨てきれないというのは、動物には無い人間の業ではないだろうか。ロジオンは老婆を憎んでいなかったわけではないだろうが、彼が真に心から嫌悪していたのはそういった人間の汚らしさではないか。彼の中でその二つのどちらもが譲らず入り混じって、彼の脳を飲み込んでしまった。結果として彼は精神病患者のようになり周りからもそのような扱いを受けるが、そのお得意の自尊心で誰にも心を開かない。私の場合は前者の方が勝っており、周りの人々もそれを(表面的にでも)受け入れてくれたので彼のようにはならなかった。浪人生活の時間軸における私と彼の類似点はこの辺までだ。これらの点から更にロジオンと私の類似点を起こしていく。と言っても私がこのことに気付いたのは、初回の授業で清水先生が「ロジオンは何をしようとした?」と生徒へ投げかけた時だった。その時の私は「一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという思想から・・・」と、罪と罰のカバーの裏側に書かれている概要をそのまま読むことしか出来なかった。間違いでは無かったと思う。その時清水先生が示した答えは、「『あれ』をしようとした」というものだった。それももちろんその通りだ。しかし前の時限で受けた清水先生のマンガ論の授業で、一見味気の無いものでも実は作者の意図が前面に滲み出ているのだと知った私は別の角度からもう少し考えてみた。割とすぐに見つかった私なりの答えは、「ロジオンはただ、幸せになろうとした」ということだ。彼は学費滞納のために大学を除籍されているが、精神病患者のようになってしまったのはそれが原因だとしておこう。彼は、妹がピョートル・ペトローヴィチと結婚するのは貧しい家庭を助けるために自らを犠牲にするのだと考え、その事実やそれを美化して考える母親を、物腰は落ち着かせてはいるが断固受け入れようとしない。家族を愛しているからだ。彼が心に翳りを持つ前は、いくらかは楽天的で他人にも自分にも愛情を持って接する青年だったというのが私のロジオン像だ。彼自身の心の芯はそういう人間だったので、病魔に飲まれながらもどこかで皮一枚で平静を保って居られたのだろう。彼が心の芯で嫌う世の中の汚いもの、つまり高利貸しの老婆や善人ぶった高い地位に居る人間、他人を思いやることで自分を慈悲深い人間に仕立て上げ自己陶酔する人間。それらが彼の身近に集中した時、病魔が彼を突き動かし、彼ごと破滅させようとした。私もそうだった。私もただ幸せになりたかったのだ。彼は自分の愛するものに失望したくなくて「あれ」をやったのだろうが、私の場合は誰にも失望されたくない、呆れられたくないという思いだったので感情の対象は真逆になるが、これも同質なものだ。私は浪人したから今、それなりの幸せを見つけられたが彼は「あれ」をやったことから直結して幸せにはなれていない。これがロジオンと私の類似点が二つに分岐する所だ。確かに彼は「あれ」を軸に行動しているので彼の全ての行動は「あれ」無しには起こり得ないが、高利貸しの老婆やその妹を殺害してしまう必然性は全く無かった。浪人と殺人。そのレベルは違えど他人を巻き込むという点では同じだ。罪と罰が書かれたのは十九世紀でニコライ一世による恐怖政治が行われていた時代。この頃既に人間というものがなんたるかを、ドストエフスキーは根幹から知っていたのだ。私は二十一世紀になり科学技術や人間の知能が大いに発展した現代で、ロジオンのように人間らしく悩み、苦しみ、それでも自分を押し通そうとしていく人間はもうこの先現れないのではないかと考える。ロシアで恐怖政治が行われ開放政策が執られ、様々なことを通して現代に至ったように、日本でも文明が開化し第二次世界大戦で大敗を喫し現在に至り、生まれた時から全てが何不自由無くお膳立てされた中で生きる現代人は、全てを自分の頭で考えなくて良い。何事にも前例の無い物事は存在しないのだ。社会は大いに進歩しても、その基盤を築いた先人は偉大だ。それぞれの見ているものは違えど、自我を押し通し、自分と相容れないものを嫌悪し、幸せを求める私達は皆、ロジオンのようである。


斉藤 有美  

初めて『罪と罰』を読んだとき、ロジオンの第一印象は「どこか病んでいる」だった。元々気弱でいじけているわけではなかったのだから、いったい何が彼をそこまで変えてしまったのかとも思うが、今この作品の上巻までしか読み終えていない私にはまだ謎である。しかし誰とも顔を合わせたくない位なのだから、相当な物なのだろう。
 そんな彼は戸棚という感じの部屋に住んでいるらしい。私の部屋自体はある程度の広さがあるらしいが小学校の頃のプリントを始め、ありとあらゆる物が保存してあるためとても狭い。そして3月11日に起きた大地震によって私の部屋は大きな被害を受けた。ただでさえ狭かった部屋を埋め尽くすようにプリントの山が崩れ、そのダメージからは未だ回復していない。だがロジオンはそのようなこともなく、本当に基本的な家具しか置かれていない。元から物が無いのだ。そこに人が住んでいる事にまず驚いた。「部屋を片付けろ」等と母からよく言われるが、ここまで片付けたくないし、残念なことにまず片付けられない。そもそもここまで片付けられる技術があるならば、私の部屋はとっくに片付いているだろう。どんなに注意されようと、本だけは捨てられない。文芸学科の生徒としては今まで読んできた量が少なすぎるとやっと自覚したため、むしろこれから本の量は増えていくだろうと考えられるからだ。
頭が良いのに学費が払えないから大学にも行けず、家賃を払う事において重要なはずの仕事すらだいぶ前に辞めてしまったらしい。下宿している所の主婦には顔を見るたびに引き留められて支払いの催促をされるのだから未納期間は相当なのだろうと想像できる。私だったらそのような生活は嫌だ。まるでニートのような生活はしたくない。そもそもテレビや携帯を始めとする、今や私たちの生活にとって必需品の物が存在しないという時点でとてもつらい。だからこそ、当時の人々は人とのつながりを重視していたはずだ。メールのように思ったことをすぐに伝える方法が無いのだから、その場の時間を大切にするのだろう。だが彼は前にも述べたようにそのつながりさえ断ち切ろうとしている。それは文明が進化して便利になったにもかかわらず、「友達」という関係に縋り付きたいがために常に行動を共にしている傾向がある私たちにしてみれば信じられないことかもしれない。(これはあくまで私個人の考え方である)私は一人でいることが嫌いではないが、彼のように極端に関係を絶ちたいと思ったこともない。誰かと一緒にいて、話を聞いたりする事でそこから学べる事もたくさんあるからだ。だからこのときの彼の心境を理解する事は今の私には難しかった。
 話は飛んでしまうが、彼はアリョーナ・イワーノヴナと、その妹リザヴェーダを殺してしまう。確かにアリョーナは見ず知らずの人にまで生きるに値しないと言われてしまうくらい嫌な人なのかもしれない。だからと言ってそれが殺していい理由にはならないと思う。リザヴェーダに至っては皆にかわいがられているらしいにもかかわらず、事件を目撃してしまったために殺されたのだ。そもそも私はなぜロジオンは殺人をしようと思ったのかがいまいちピンとこない。私ですら殺人は犯罪であることを知っている。東大よりもレベルの高い大学に通っていた位頭の良い人なのだから、相手がどんなに嫌な人でも殺人がやってはいけない事くらい分かっていたはずだ。そんな彼を殺人へと駆り立てたのは一体何なのか、私は最初学生と将校が言った「正義」のためだと考えた。アリョーナは「悪」だから、「正義」のために殺さないといけない。だけど殺人は犯罪だと分かっている彼の「理性」によって葛藤したり不安が生まれ、優柔不断になってしまったのではないか。だから殺人を決意し、下ざらえまでして臨んだ彼の心は殺人の瞬間に彼自身が言った判断力の曇りと意志阻喪に襲われたのではないかと思う。彼は無意識に、機械的にアリョーナを殺し、リザヴェーダを予期せず殺した事により恐怖は強くなったのだ。彼の目論見が「犯罪でない」のなら、この病的な変化は起こらないという。殺人を犯すまではとても慎重だったと思うが、殺人の瞬間は判断力と慎重さが十分であったと私は思えない。やはり正義では無く、彼は犯罪を起こしたのだと私は思う。
 ラスコーリニコフはゾシーモフが言うように気違いか、それに近いものなのかもしれない。それが彼自身なのか、彼を襲った判断力の曇りと意志阻喪によるものなのかはまだ分からない。残念ながら私は彼ほど頭がいいわけでもないし、「正義」のために何か行動を起こそうとは今のところ思わない。嫌いな人とは長く関わらないから殺したくなることもないはずだ。ここではあくまで私の考えを述べたのであって、正直なところ彼の真意は全くと言っていいほど理解できなかった。正反対とまではいかないにしろ、自分と似ているところが今のところあまり見つからないからだ。この1年間を通して少しでも理解できるように努力したい。


松野允彦

 熊本から上京してもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。初めての一人暮らしでいろいろと大変だったり、親に甘えていた為か、知らなかったことだらけだったりして、戸惑う事もしばしばあったが、ようやく落ち着きを持ち始めている。
 小説『罪と罰』に登場するロジオン・ロマーヌヴィチ・ラスコーリニコフは、何処かしら、私に似た境遇であるように思える。まあ、“あれ”を実行するかどうかなどは考えたこともないが……。
 ロジオンは実家を出て、ペテルブルグへ上京して、一人暮らしをしている。母親からの仕送りがあるが、高利貸しの老婆に質入れしてようやく貧乏な生活が出来ている状態だ。ちなみに私の仕送りは一二万円ほどで、アルバイトを始めたら半分にされるそうだ。なにしろ、私立大学に通う妹と、医学部を目指している弟がいるのだから。ロジオンにも一人の妹がいる。彼女は兄の為なら自分を犠牲にする、兄想いの女性だ。私は彼女にも共通点を見出したが、今は置いておこう。
 話は変わるが、一人でぶらぶらするのが好きだ。町を散策しながら、周りに聞こえるか聞こえないぐらいの大きさで独り言を呟いて歩くのが好きだ。独り言の内容はまちまちだが、興味があること(自分が書いている小説だったり、その場で見たモノだったり)について周りが見えなくなって、つい口からポロポロと零れてくる。はっと我に返って、誰にも聴かれていなかったか不安になる。ロジオンも独り言を呟く……と、いうよりは叫んでいたが、似ている癖があるのを本で読んで気付いて、少々ヒヤリとしたのを覚えている。
 ロジオンと私の相違点は、類似点と同じくらいある。
 似て非なるモノであるロジオンと私は、正反対という訳でもなく、背中合わせの立ち位置にある。ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの頭文字はPPPで、ひっくり返すと、666、つまり、悪魔の数字になる。けれども、作者ドストエフスキーは彼をキリストの化身として捉えているという説もある。
神の子と悪魔。私達の立場もそうではなかろうか。勿論、抽象的に考えての話だが。
 ロジオンは、私の考えないこと(哲学がどうやら、思想がなんだなど理論的考察)についてまっすぐ突き詰めていこうとしている。
 それに対し、私は、その場で感じたモノ、
ふと頭に降ってきた閃きのようなモノを、その時の感情、心の状態に応じて、声に出したり、文字にしてメモしたり、絵に描いて想像力を押し広げたりしている。芸術学部にいるのも、おそらくそういったものが関係しているのだろう。
 もしも、この場にロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフという男がいたならは、私は彼とは一切の関係を持たず、離れたところで興味も示さずに執筆に専念していることだろう。そして、おそらく彼も同じような態度を私に向けるだろう。
 何故そうなると言い切れるか。住む世界が違いすぎるからだ。そして、存在する世界が近すぎるからだ。
 遠すぎるから、興味を持たない。
 近すぎるから、互いの意志が分かる。
 私が思う神の子と悪魔の関係はここにある。
 『罪と罰』というタイトルもそうだ。『ロジオンと私』も同じだ。
 こういった矛盾があると、心地よかったりする。私は、ロジオンのように答えを追求することは、しない。
 矛盾が矛盾のまま存在することに意味があると思う。答えが見つからないから矛盾というのだから。
 話が飛躍してしまった。まあ、それが私とロジオンの相違点だと伝えたかったから問題はないのだが……。私は私のまま生きて、ロジオンはロジオンで生きている。
 ここまで考えが至るには『罪と罰』がなくてはならなかった。
 ここまで自分に似すぎて、ここまで自分と異なる人間と巡り会ったことはなかった。
 『ロジオンと私』を初めて考えて、ここに来られた。他の作品にも、あるいは、『罪と罰』の他の登場人物についてもそういった目線で見ていきたいと思う。


中島大輔

私は「罪と罰」を最後まで読んでいない。最後まで読んでいないと書くとそれなりに読んでいると誤解されそうなのであえて書くが、ほんの一部しか読んでいない。
そんな輩が「ロジオンと私」を書くとは実に滑稽であると我ながら思う。
しかし書かなければいけない。そうなると書くことは殆ど私のことについてだろう。とどのつまりただの自己紹介になる。
もし他の人がちゃんと「罪と罰」を読んでおり、自己とロジオンの対比を書いているなら、私の文章はとても浮くことになるだろう。そのような不安を持ちつつ、筆を取ろうと思う。

ロジオンは美青年らしい。それは生まれついてのステータスだろう。実に羨ましい。だが、そんな彼が悩む。なぜ?なにを?
彼は悩む。「おれにあれができるだろうか?」と。
あれとは多分、老婆を殺すことだろう。そのようなことを独り言で言っている。なぜわざわざそのようなことを独り言で言っているのか。私は彼、ロジオンが常日頃から独り言を言う癖があるように思える。もしこのことが作中で言われているのなら、私のこの考察は実に馬鹿げたものだろう。
かく言う私も独り言をよく言う。これは私とロジオンの共通点1だ。
しかし私の独り言は殺人なんて大それたものではなく、今日の晩ご飯は何だろうか等の取り留めのないことばかりだ。これが私とロジオンの相違点1だ。
独り言ひとつで共通点と相違点を一つずつ見つけてしまった。この調子でどんどん行こうと思う。

ロジオンは借金をしている。私はしていない。相違点2。しかし私はまだ借金をしていないだけで、これからローンやらで確実に借金をするだろう。できるならしたくないが。
ロジオンは借金をしているが、仕送りをもらっている。私はまず親元を離れていないし仕送りなんて経験したこともない。相違点3、4にもカウントしていいだろう。そしてロジオンには実母がいる。相違点5。
こうやって書いてみると、相違点の方が圧倒的に多い。それはそうだ。生きている時代、国が違うのだから。これでは共通点を探す方が難しい。

それでは共通点を探していこう。ロジオンは男、私も男である。共通点2。カウントしていいものかと思うが、それ以外思いつかないのだから仕方ない。
他に、お金が必要という点は共通している。お金の必要性がまったく違うがお金が欲しいのには変わりはない。まず世の中を生きていくためにはお金、もしくはそれに代わる物が必要だ。それはどの時代も共通していると思う。共通点3。

共通点を改めて探してみると、他のどの人にも当てはまることしか思いつかない。私の浅学さが如実に出ていることだろう。
ここまで書いて共通点3、相違点5。もっと共通点を探してみようと思う。私はすでに肩もこり目も疲れ始めているが。

ロジオンは自分のやっていることは正しいと思っている。言うなれば、自分こそ神。そう思っている節が感じ取れる。私は自分の行動が絶対に正しいとは簡単には思わない。自分に自信がないからだ。心の何処かで間違いを憂う自分がいる。
共通点を探していたのに結局相違点になってしまった。相違点6。

ロジオンは酒場で酔っぱらいに絡まれる。ロジオンがそれを喜んだかどうかは私には分からないが。私もよく酔っぱらいに絡まれる。と言っても父にだが。酔っぱらった父は質の悪い絡み方をする。なにより困るのはそのことを忘れてしまうことだ。お酒はほどほどにしてもらいたいものだ。共通点4。

ロジオンはとても質素な部屋で生活している。質素と言うよりも生活感が無いと言った方がいいだろう。私の部屋は質素ではない。物がとても多い。
しかし私はロジオンに親近感が湧く。私は部屋に利便性などは求めない。寝られればいいのだ。さらに私は比較的どこでも寝られる。物が乱雑していようが寝られる人間だ。本当に生活感がある部屋は物が乱雑しておらず、きちんと整頓されているだろう。すなわち、私の部屋は生活感が無いとも言える。実にこじつけだが、これで共通点5。

ここまでロジオンと私の対比を行ってきたが、一つ言えることは「私はロジオンとは違う」ただそれだけだろう。実に当たり前のことだ。私はロジオンだなんて言う人がいたら、あまりお友達になりたくない。生暖かい目をするだろう。
じゃあ、そんな当たり前のことを書くためにここまでの文章を書いたのだろうか。その通りである。
最初に言ったが、私は罪と罰を殆ど読んでいない。だからロジオンと私の対立なんて出来るはずもないのだ。

だが待って欲しい。今の私とロジオンの共通点は5、相違点は6。
ならば罪と罰を読み終わった私とロジオンの共通点と相違点の数は?
10?100?
誰にも分からない。私が罪と罰を読み終わるまで。それはいつになるか分からない。できるだけ早くしたいが。
私とロジオンの対比はまだまだ続く。


渡部 菜津美

始めに私の生活の話をしたいとおもいます。
私は裕福でも貧乏でもありません。 
飢え死にするほどお金がないわけではないけど、好きなことをするお金は
バイトをしなければありません。
どこからが貧乏でどこからが裕福なのか。
その境界線はいったいどこなのでしょうか。
 私の家はマンションです。
そこそこきれいなマンションで、防音にもなっています。
でも、エレベーターがないのでそこそこ普通(と親は言ってる)の値段です。
部屋は、前住んでいた人がかなり裕福だったのか、
広いリビング、ブラインド、エアコン、トイレ
と かなりいろいろ改造されています。
その中で私の部屋は6畳ほどのエアコンのない部屋。
ベッド、机、タンス
必要なものしかそろっていないシンプルな部屋です。
今はそこにパソコンとテレビを置くことがわたしの夢です。
何不自由ないとは言いませんが、不自由のない暮らしはしています。
なんせ、働かなくてもご飯は食べられて、ふかふかのベットで眠れるのですから。
しかし、バイトをしなければ欲しいものは手に入りません。
なので、なんでも買って貰える人をうらやましく思い、できるならバイトなんてしたくはありません。
だって、遊んでるだけで欲しいものもお金も手に入ればそれ以上の幸せなんてないではないですか!!
 しかし、ロジオンにとってはそれは違うのでしょう。
屋根裏に住んでいて、まかないをもらい、おかみのビクビクしながらすごしている。しかも、まともな枕も布団もないロジアンにとっては、私のような生活ができたらこのうえない幸せなのでしょう。
私がロジアンの生活をしていてもそう思います。
今の私の生活ができたらそのときはそれが私のこのうえない幸せです。
人間というのは不思議なもので、今よりもさらにうえをめざし、望みます。
それがいいことでもわるいことでも人間の「欲」はとどまることを知りません。
それに私は「欲」がない人間はこの世にはいないと考えています。
みんな誰しも、できるならもっといいところに住みたい、もっとお金が欲しい、
もっとうえに行きたい。そう思っているでしょう。
だから憎しみや妬みがうまれる。だから犯罪がおきる。
もしかしたらロジアンが人を殺めてしまった理由もそこにあるのかもしれません。
 次に、私にとっての幸せの話をしたいと思います。
さきほどの「欲」の話とつながりますが、私は、私の両親のような生活をするのが夢です。
同じ仕事につきたいとか、同じような家に住みたいとかそういうことではありません。
 私の父はイラストレーターです。好きな仕事をしてお金をもらっている父をみているとなんだか羨ましくなります。
そんなふうになりたいのです。
好きな仕事をして(ちなみに私は自分が仕事をしないのは嫌です)、結婚して、子供ができて、子供を育てる。
できればそこそこいいマンションにくらして、毎年旅行に行って、ケンカはたまにしても基本的には仲良しでいつも笑っている家族。
将来そんな生活ができたらとても幸せです。
しかし、そんな生活ができるようになるまでには、たくさんたくさん苦労するのでしょう。たくさんたくさん苦しんで、泣いて、挫折して。
それでもがんばれた者だけが自分の望んでいたものをつかみとることができるのでしょう。
きっと父もそうだったと思います。
 私の推測ですが、ロジアンは頑張れなかったのではないでしょうか。
どん底にいて這い上がれなかった。
だから殺人にはしってしまったのではないでしょうか。
さっきとは違い、私が逆の立場でも私は同じ事はしなかったでしょう。
「そんな酷いことなんてしない!」という正義感ではありません。
わたしは臆病者だからです。
人を殺すなんてそんな恐ろしいことわたしにできるはずありません。
考えが頭をよぎっても、行動に移そうとした途端、足がすくんでしまうでしょう。
でもロジアンは殺した。
なぜそんな勇気があったのにそれを他にまわすことができなかったのでしょう。
周りの環境のせいなのか、ロジアン自身が自分を見失っていたのか。

 私とロジアンとの共通点は5分5分くらいでしょうか。
でもそれはわたしだけじゃない、ほかの人間が全員そうなのだということができるでしょう。
だって私達は人間というおなじ種族なのですから。
ロジアンの今後が楽しみです。
人を殺めてしまったロジアンがこれからどうなるのか。
 でも、ひとつ言えることがあります。
ロジアンがこれからどんなに反省して、どんなにこころをいれかえても、心の底から幸せになることはできないでしょう。
だって人の人生を奪ってしまったのですから。人の幸せを奪ってしまったのですから。
それらを背負ってロジアンは生きていくことになる、いや、生きていかなければならないと私は思っています。



福田 好

罪と罰」上巻だけを読んでみて、私がまずロジオンに対して思ったことは、彼もまた
変わり者だということだ。
この春、何の因果か変わり者の多い日芸に入学を果たした私はこの何週間の日芸生活で色んな変わり者を見てきたわけだが、今までこんなにも理解不能な奴は初めてだ。
いや、私がまだ日芸のすべてを知らないだけで、本当はもっと変わり者もいるかもしれないが・・・。
でもまだ来て何週間なのだ。矛盾しているが、これが事実である。
私が彼に対して理解不能な点に関しては次のような点があげられる。
まず、彼はいい人なのかという点である。キャラ設定の上でこのキャラはどの位置にいるのかというのは大事である。ヒーロー?悪役?
自分を犠牲にして人に奉仕することはいいことであると私はこの18年間でそう認識している。しかし、人のことを悪く言うのは悪いことであるとも認識している。
ロジオンははっきりしない男なのだ。自分で自ら奉仕しておきながら、ああ、やっぱりしないほうが良かったなんて、ぐちる。
なんで、彼はこんなにもひねくれているのかな?
彼の環境からだろうか?
彼は美男子。成績優秀。お父さんは死んでいないけど、貧しいけど、自分を溺愛してくれるお母さんと妹がいる。自分のことを思ってくれる友達もしっかりいて・・・十分すぎる。
彼の生活はどうだろう?
狭いアパートの屋根裏に追いやられ、何にもない。ぼろ切れを身につけて、毎日の食事に困っている。
ここまで書いてわかった。
ロジオンと私は正反対なのだ。だから、彼のことがわかるはずもないんだ。
私は美女ではない、むしろその逆。悲しかな美女をうらやむ役まわりである。
成績だってどうだ。決して良くはない。なんだか考えるほどネガティブになるばかりである。こんなこと私だって考えたくはない。しかし、課題だ。さらけ出してやろうではないか。家族はまあ全員しっかり生きている。これは幸運なことと言えよう。
ただ、自信に繋がるものをロジオンはしっかりと持っている。
しかし、私は持っていない。宙ぶらりんになにが得意なのかもわからぬまま生きている。
だから、困るのだ。得意なことはなんですか?なんて聞かれると。
生活はロジオンと比べると豊かなものだ。ふかふかのベットがあり、夜は熟睡である。
食生活だって、困ってない。お菓子を買う余裕すらある。明日のご飯がないなんて考えられない。ただ、面倒で明日のご飯買ってないやとかならある。暇だって持てあますことはない。今の世の中退屈しないように世の中はできてる。パソコン、ipod、テレビ、ゲーム、携帯などなど暇なんて埋めようと思えば直ぐにでも埋められる。
現代人は思想にふけるひまなんてあるのだろうか?
そう思うと、ロジオンはなにも暇潰すものなかっただろうから、すごく思想にふけってただろうな。しかも頭良いし、私が考えもつかないことを色々色々もの凄く考えて、そんでもって頭がおかしくなっちゃったんだろうか?
なんだかロジオンが気の毒になってきたな。ロジオンは暇が産み出した残骸なのだ。
暇ってのは時として恐ろしいもの産み出してしまうんだろう。
私なんてのも現に暇で人としておかしいこと考えちゃうときもあったななんて思い出した。
思想はいいことを思い描くときもあるけど、悪いことを思い描くときもある。
私も経験をしたことある。
あれ?感情の面では私、ロジオンと似たものを持っているのかもしれないな。
時々暇だと無意識に人の不幸を願っちゃう自分がいるんだよ。自分でも怖いくらいに。
悪いことだと後で分かっていてもね。
これって・・・似てるのかな?だとしたら、もし、私が、この時代にいて、ロジオンと同じ境遇だったら・・・。
なんて考えるとぞっとしてきた。
ロジオンは異常や変わり者ではなくって、人間がこんな境遇になったらこうなっちゃいますよっていう反面教師なのかも。
他のキャラもそうなのかもね。
ああ、そういえば読んでいて全然共感しないこともあるけど、ところどころ凄く共感するところもあるんだよね。
なんでなのかな?
罪と罰」は奥が深いね。まだ上巻しか読んでないけどここまで考えさせられるなんて思ってもみなかった。
これから読むのが楽しみになってきた。
あと、ロジオンは自分のこと大好きなのかな?大好きっぽいけど、時々自分のこと嫌いそうだし。ここまで読んだだけじゃわからなかった。やっぱり理解不能?な面が多いけど、
これから分かっていけるといいな。
だって共感するところもあるから。
やっぱり、人間の奥深く心のずっとずっと深いところにきっとロジオンと同じようなものが私たち人間にはある・・・と読んでいて無意識のうちに感じていたんだと思う。だから、こうやって書きながら、ロジオンて何なんだろう?と考えてしまうんだろうね。
ロジオンてなんなんだろう?私って何なんだろう?人間って何なんだろう?自分のこともわからないのに人のことなんてわかるはずない。



篠原 萌 

ロジオンの生活はとても貧乏で、私の生活とはかけ離れていると思う。自室は屋根裏部屋でなく二階で日当たりの良い南東の部屋だし、食料に関してひもじい思いをしたこともない。本当に大事に育ててもらったと思う。その事に関して私は親にとても感謝しているし、子供一人育てるのにどれ程苦労するのかはわからないが、想像することは出来る。ロジオンと私の最大の違いはそこだと思う。私だったら、わざわざお金のかかる服を新調したりしない。親が苦労してお金の工面をしていることが分かっているのなら尚更だ。私がもしロジオンならば大学をやめたりしないだろう。周りの期待に応えたいと思うからだ。途中で投げ出すことになったとしたら、なるべく早く実家に帰る。大学に通っていないなら首都に居続ける意味は無い。周りから中傷を受けるかもしれないが、何を言われようと家で親の仕事でも手伝って暮らしていきたいと思う。こう思うのは、私がロジオンと違ってあまり現在の地位が気にならないからだと思う。ロジオンは自己紹介する時に「元学生です」と名乗る。それはかつて学生であった自分の地位にすがりついていたい表れなのではないか。彼は自分を良く見せたがる人だと思う。それは人間になら誰でも持っている部分だけれど、彼に関してはその部分が目立っている。帽子に関してもそうだ。なぜ世間一般の学生が被る帽子ではだめなのか。思うに、ロジオンは小さい頃から褒められ続けて生きてきたのではないだろうか。見た目はとても良いようだし、勉強も恐らく子供の頃から出来たのだろう。劣等感を持ったことはあまり無いように思われる。自分のミスは認めない性格のではないか。認めれば自分が優位に立つことは出来ないからだ。だから後から修正する。それは下宿先のおかみの娘との婚約について話している時にその部分は出てきていると思う。彼は娘のことを好きではなかったのである。後から変えてしまうのは、私も一緒だ。「あの時はああ言ったけれど、本当はそうじゃなかったのだ」とは便利な言葉である。私も何度も使った。中学生女子にありがちな台詞として「今まで一緒に居たけど本当は最初から好きではなかった」というのもある。このことを考えると、ロジオンは人にとてもありがちな部分を持っていて、私もまた同じ部分を持っている。ロジオンと私は似ていると考えることも出来る。だが私は彼のことをなかなか性格の悪い人だなぁと思っているので、似ているとは認めたくない。彼は自分のことを特別で、その辺にいる人間より優れた人間であると思って生きてきたのだろう。「俺にあれができるだろうか」という言葉は、「俺にあれはできない」とはならない。どこかで自分には可能性があるということだろう。それは今までに失敗というものを経験した回数が少ないのだと思う。元々の性格の問題もあるけれど、私は今まで失敗が多くて大それたことを行う気力が無い。また失敗するのではないかという考えが浮かんでしまう。そして自分の短所ばかり思い出して、「ああ、次もきっとだめだ」となる。ロジオンは自分に対する自信があるのだ。それは周囲の期待に応えてきたこともあるだろうし、自分がやると決めたことを遂行して成功させてきた今までの人生を想像すればわかる。そこはすごいと思うが、やはり私は彼の性格が良いとは言い切れない。彼は簡単に言えば、かっこつけたい人だ。自分すごいだろ、頭良いだろ、難しいこと考えて鬱思考になっている俺かっこいい、という考えが見え透いているのだ。彼は自分がとても不幸な人間であると、まるで背中に重い物を背負っているように生きている。自分のずる賢さは置いておいて。自分の現状が気に入らないのだ。自業自得の部分もあるというのに。この部分は私と似ているとも言えるし、似てないとも言える。私は現状にとても満足しているし、幸せだと思っている。周りの人間にとても支えられて今これだけ恵まれた環境にいるのだということも分かっている。だが、逆に自分が満足できない環境に置かれた時、私は自業自得であっても周りのせいにせずにはいられない。私は悪くても、恵まれてはいても、自分が満足していなければ私は不幸だと思うだろう。重い物を背負って町中を歩き出してしまうかもしれない。だけどそこで大それたことをしようとは思わない。きっと鬱々とした気分で部屋に閉じこもっているかもしれない。行動力があるという点は、私とロジオンの最大の違いであると思う。他人に影響を与えることが出来る。私も無意識に他人に影響を与えているだろう。意識的に影響を与えようとは思わない。ロジオンは意識して他人の人生すら変えること出来る。私がロジオンを嫌いな理由は同族嫌悪という理由もあるだろう。かっこつけたがりである部分がどこかで似ていると思う。だがロジオンを嫌いだと言っても、こう言った行動力がある点は私と大きく違うし尊敬したいと思う。


小山咲来 

私の部屋には本がある。小説、漫画、エッセイ・・・本が好きな私はそれらがないと退屈で仕方がない。テレビもラジオも部屋にないのだから、暇をつぶすには本しかないのだ。ロジオンの生きている時代はテレビもラジオもなく、暇をつぶせるものは本しかないというのに、その本すらない。私がロジオンと同じ立場なら、まず本を手に入れたい。しかし彼には借金がある。本を手に入れる余裕もない。私はその事実を知ったとき、絶句した。無理だな。・・・何が無理なのか。無論、彼と同じ環境で暮らすことである。もし本当に私がそんな環境で暮らしていたとすれば・・・恐らく、気が狂って引きこもり状態だろう。私は現実を受け止められるほど強くない。はてさて、ロジオンはどうだろう。引きこもりではないけれど、ほとんど現実逃避に近い気がする。でも私は人殺しは無理だ。どんなに正気を失っても、人を殺すことはできないだろう。答えはいうまでもなく、強くないから。お金に関していえば、私は幸せ者だ。金の高い私立の大学に行かせてもらえるのは両親のおかげである。そして今は奨学金制度、というのがある。借りる訳なので借金を背負っている訳なのだが、ロジオンがいけ好かないばあさんからお金を借りているのとは違い、正式なものであるから心配はいらない。そう思うとロジオンは今でいうどろどろな世界を歩いているわけである。さすが昔のロシアと現代の日本。状況の違い。今の日本に生まれ育って本当にありがたい。そしてロジオンは幾年か浪人しているらしい。頭のいい、なにせ東京大学よりもいい大学に通っているのだ。私は何も言えない。自分が好きなことや教科が試験である大学に入った私が、ロジオンに文句を言えるはずがない。頭はいい、でもだからっていい生活が送れるわけでもない。より高いレベルの大学へと高校で背中を押されていたわたしにとって、なんとも苦い現状である。時代が違うというのもあるが、いい大学へいけばいいのか?と少し疑問も覚える。ちょっと脱線したので話をロジオンと私の生活比較に戻すと、一番最初に書くべきことだが、屋根裏部屋で暮らすなんて。汚いところが嫌いな私は、屋根裏部屋=汚い埃だらけという方程式が成り立っている。どういう経緯でロジオンが屋根裏部屋に住むことになったのかは、わからないあるいは、私が作品を最後まで読んでいないから知らない。でもさすがに屋根裏部屋は無理だ。しかもなにもないときた。いや、ほんとにそういう意味ではロジオンを尊敬する。そういう意味では。まあ好きこのんでこんな環境を選んでいる訳ではないが、考え事ができる余裕があるだけでも私は拍手したい。ここまではロジオンすごい、尊敬すると彼を上に見てきたけれど、次からは辛口評価でいく。まず今の日本の若者には少ない(と私は信じたい)が、いくら顔がいいからって着飾るなと思う。なんで目立つシルクハット被るんだ。私は即座に彼をナルシストと認識した。男でも女でも、顔が良かろうが悪かろうが私はナルシストにいい印象をもたない。そしてなにより考え難いのは、殺人を企てそしてそれを実行したことだ。もう一度書こう。私には絶対できない。ひとの命を奪うという未知の恐ろしい体験を、したいとも思わない。確かにあのおばあさんは現代から見てもむかつく。しかし、現代にはこんな言葉がある。「手を出したら負け」大学生の私は、できるだけその言葉に従っている。殺人なんてろくなことがない。しかもこのロジオン、優しい罪もない、ばあさんの妹も殺してしまった。私なら震え、自分のした罪に発狂したい気持ちだろう。ロジオンのように必死に罪を隠せない。この今の日本から見たら確実に、彼の行為は汚れているとか人として許せないとか、そんな言葉が出てくるのであろうか。いやいや、負けていないぞ日本。今は大震災の影響だからこそ殺人のニュースは少ないが、ちょっと前までは普通に校門の前に小学生の生首が置いてあったり川辺に撲殺死体が置いてあるじゃないか。そう考えると、ロジオンと今まで日本で殺人を犯した人々は心境や気持ちをお互いわかるのだろうか。私はわかりたくないが。ここまで比較、というか私の気持ちを書いてみたけど、一つロジオンについて思うことがある。それは母親への愛情だ。私よりもきっと、母親のことを愛しているだろう。私が下宿したとして母からの手紙を読んだら、それはうれしい。でもロジオンほどではないだろう。ロジオンの家族愛も尊敬はするが、だったら借金するなよ、とも思う。母親を愛しているなら心配かけるなよ、と。私も両親に心配かけっぱなしの身だから偉そうにはいえないが。なんだかんだでロジオンは矛盾だらけだ。でも私も結構矛盾だらけの性格をしているので、嫌だとは思わない。むしろああ、矛盾している人がここにもいるんだ。良かったと安心してしまっている。ロジオンはハンサムだけど、借金をして尚かつ殺人を犯した。私は彼を尊敬し、同情し、批判することにする。


大崎帆南 

始めに述べておこう。私がロジオンの生活環境に
放り込まれたら、確実に生きてゆけない。
 まず私は軽度の潔癖性と言っていい程の綺麗好きなのだ。毎日同じ服を着て外出など考えられない。考えたくもない。1、2日程度なら入浴しなくても耐えられるが、それ以上は無理だ。しかしロジオンには入浴している気配さえない。周りの目は気にしながらも、毎日同じ衣服を着て生活する事にも嫌悪感を抱いていないように思える。臭わないのか?私が入浴しているという描写を見逃したのだろうか。『ある事』を実行することに対しての行動には細心の注意を払っているにも関わらず、そういったことには無関心というのは私にはなんだか可笑しく感じる。
 また私は倹約家(悪く言えばケチ)で、親にお金を強請ることも気が引けてできない。それに比べてロジオンは貧乏な生活をしていて、親からお金をもらっているのにそのお金で高いドイツ製の帽子を購入している。上で述べたが、見た目は気にしない男ではなかったのか。その帽子が自分の中のこだわりなのか。まったく理解できない。
 私がロジオンのような生活は絶対にごめんだという理由はまだまだある。部屋もそうだ。目立ったものがソファーしかない部屋なんて。楽しみが一つもない。私は自分の部屋が一番落ち着くし、人目を気にせず思う存分趣味に浸れる唯一の場所だ。1人でゲームをしたり(RPGは特に1人で楽しみたい。)、漫画を読んだり(5つ上の兄の影響で少年漫画を読むことが多い。)、パソコンで好きなアーティストのプロモーションビデオを見たり。最近は、私の中でAKB48熱が再熱しほぼ毎日彼女達の動画を見ている。可愛い女の子を見るのは私の癒しの1つなのだ。それに彼女達を見ると、「同年代の女の子がこんなに頑張ってるのだから私も頑張らなくちゃ。」という意欲が沸いてくるのだ。少し話が逸れてしまった気もするが、自分の部屋というのは1日の疲れを癒したり、明日への意欲を高めたりするところではないのだろうか。しかしロジオンは部屋に戻るといつも悩んでいるように思える。薄暗く、空気も悪く、居るだけで気分が悪くなりそうなあの部屋では思考も曇りがちになってしまうのではないか。
 それからロジオンの家族。母、妹ともにロジオンへの期待があまりにも大きい。自分の身を削るような真似をしてまでロジオンの出世、幸福を案じるなんて。自身より我が子の幸せを願う家族はもちろん現代にもいるだろう。ただロジオンの家族にはなんだか胡散臭さが漂っている。完全なる私の偏見なのだが。母からロジオンに向けて書かれたあの手紙に私は少しイライラした。恩着せがましいように感じたのである。私がもしあの手紙を受け取っていたら、「このチャンスを絶対に不意にしてはならない。家族のためにもより一層精進せねば。」と感謝の気持ちよりもプレッシャーに苛まれるだろう。それに自分のために身内が身を削るなんて、重ねて申し訳なく思い、追い詰められるだろう。私の母ならあのような手紙は絶対に送ってこない。私と母はそれなりに仲が良く、2人でお洋服を買いに出掛けたり、映画を見に行ったりする。もし私が一人立ちし、お金に困って助けを求めたとしたら、きっとすぐにお金を工面してくれるだろう。しかしそれだけではなく、私自身でどうにかできなかったのかと共に考え、今後についても相談に乗ってくれるはずだ。
 ここまで書いてみて、ロジオンは私にとってはとても過酷な環境で生きていたのだなと思う。あのような状況だったら貧困に陥り、悩んだ挙句、殺人という手段が脳裏をよぎるのもわかるような気がする。私が今生活している環境でもし全ての財産が無くなったとしたら、私はどうやって生き延びるのだろうか。恐らく殺人という手段には出ない。いや絶対。きっとキャバクラなどで働くのだろう。決して大人っぽく綺麗な顔立ちではないが、際立ってブサイクというわけでもない私だったら生活費くらいは稼げるはずだ。そしてそこで出会う金持ちの男性とできちゃった結婚でもするのだろう。もちろんそんな人生は断固として回避する。納得できる職業に就いて、気の許せる素敵な相手と結婚し、両親に孫の顔を見せてあげたい。
 『ロジオンと私』というテーマに沿って、ロジオンと私を比較しながら、ロジオンの人物像を考えてみたのだが、私の人物像も露吐してしまって少し恥ずかしい。しかし多様な視点からロジオンや、ロジオンが過ごしていた環境を考察できたことで、『罪と罰』の世界にまた少し近づけたような気がする。 
 最後に。私は現代に生まれることができて本当によかった。毎日入浴し、好きな衣服を身につけ、心安らぐ自分の部屋で過ごし、温かい家族に囲まれて生きていける。殺人という最悪の結論に至ってしまったロジオンの思考はこういった荒んだ生活環境も一因だったのかもしれない。・・・ロジオンのような生活は絶対にごめんだ。