荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載60)

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荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載60)

緊急執筆!日野日出志論Ⅳ
「恐怖!地獄少女」論
生まれて来ない方が良かったのに〜地獄少女は胎内に回帰する(前編)


●「地獄変」から「赤い蛇」へ〜「恐怖!地獄少女」論、初めに

「恐怖!地獄少女」は、1982年に、広済堂より発行された、約190ページの書き下ろし長編漫画作品である。

聡明な日野日出志ファンならお気付きだろうが、「恐怖!地獄少女」は、あの「地獄変」を描き終えた直後に、一度は絶筆まで考えたが、どうしても描ききれないものが残ってしまったという意識の中で描いた作品である。そして、この作品は、翌年の1983年に発表された「赤い蛇」の、前哨作となる。

日芸文芸学科研究室が発行した「日野日出志研究」に収録された拙作「ホラー漫画家は終末地獄変の夢を見るか?」にも認めたが、日野漫画の3部作と言うと、「地獄の子守唄」、「地獄変」、「赤い蛇」を指す風潮がある。3作品とも、家族関係、血縁関係に拘った自伝的作品であった為に、そう括られたのだろうが、私自身もそう認めたものを覆すようで申し訳ないが、家族関係、血縁関係3部作と言えば、「地獄の子守唄」よりむしろこの「恐怖!地獄少女」が相応しいと訂正せざるを得ない。

発行された出版社が広済堂と、「恐怖!地獄少女」だけ出版社が異なったことも、3部作として括られなかった理由の一つだと思うが、「地獄変」、「恐怖!地獄少女」、「赤い蛇」の冒頭にあるシンイェ・アンツーの詩が、明らかにこの3作品が同一のテーマを持って描かれたものであると自己主張しているではないか。

ここで、「恐怖!地獄少女」について書こうと思い立ったのは、単純に、「恐怖!地獄少女」を入手し、久しぶりに読み返し、再び感銘を受けたからに他ならない。この「恐怖!地獄少女」は、ただでさえ現在入手困難な日野漫画本の中でも難易度が高く、古書店はもちろん、各オークションでも滅多にお目にかかれない一冊なのだ。

余談であるが、私が、最も難易度が高いと評価する日野漫画本は、「恐怖列車」である。もちろん私の書斎の書棚に「恐怖列車」は並んではいる。ただし、1979年に再刊されたものだ。滅多にお目に掛かれない、否、実は私でさえ一度も拝見したことがないのは、1976年に発行された初版、この「恐怖列車」には、「竹薮地蔵怨絵草紙」と、「或る剣豪の最期」が収録されているのだ。1979年に再刊する際に、それが「地獄小僧」の第7話、第8話とすり替わってしまった。残念ながら、それ以降の単行本に、「竹薮地蔵怨草紙」、「或る剣豪の最期」が収録されることはなかった。

「恐怖!地獄少女」は、その特異なキャラクターからフィギュアも発売され、日野漫画のキャラクターとしてはそこそこ有名なのだが、実際に作品を読んだことがある方はあまりいないのではないかと考える。私自身も、随分前に読んだことがあった程度で、今回、入手したことにより久しぶりにしっかり読み返した、というレベルである。

「恐怖!地獄少女」であるが、今となって読み返すと、やはり印象は相当違う。「地獄変」、「赤い蛇」のような、自伝的作品ではなく、完全なフィクションとして描かれた作品ではあるのだが、家族関係、血縁関係についてはしっかりと押収されている。しかも、何とも切ないエンディングの待つこの「恐怖!地獄少女」は、テーマは全く違えども、ジョージ秋山の大問題作「アシュラ」の切なさを彷彿とさせる。生まれて来ない方が良かったのだ。


●誕生!地獄少女〜捨てられた悪魔の赤ん坊は胎内を目指す

双子の姉として生まれた赤ん坊は、可愛い妹とは圧倒的に違っていた。見開いたギョロ眼、削げ落ちたような鼻、醜く歪んだ口から生える牙、医師も、普通の赤ん坊ではない、悪魔の赤ん坊だと診断する。この赤ん坊は、夜な夜な病院内を這い、手術用の血液を舐めるのだ。

夫は、医師に、妻には内緒して欲しいと懇願し、その悪魔の赤ん坊を、夜になると鬼火が現れ、地の底から呻き声が聞こえるこの世の墓場に捨て去る。その激しい異臭の、誰も立ち寄ることのないこの世の墓場で、赤ん坊は暫く生きていたが、やがて死に、その死体も腐敗して行く。

そこで、この世の墓場に奇跡が起きる。奇跡、と言うよりは、地獄の悪魔の魔力とでも言うべきか。墓場に集まった鬼火が、腐り果てた赤ん坊に、新たに命を吹き込んだのだ。赤ん坊は、鬼火に包まれながら、まるで母の胎内にいるかのように安らかに眼むり、目覚めるのだ。

蘇った赤ん坊は、野犬の死肉を啜りながら、何とか生命を保つ。
ある日、墓場にあるゴミの山に、朽ち果てたマネキン人形を発見する赤ん坊は、不思議な感情に襲われる。マネキン人形に寄り添うと、その安堵感に、心地良い眠りに落ちるのだ。
再び赤ん坊が目覚めると、赤ん坊の、マネキン人形への感情は消えている。再び闇の中を彷徨う赤ん坊は、今度は土管に引き寄せられる。ところが、その土管の中には、生まれたばかりの野犬と、その母犬がおり、物凄い勢いで赤ん坊に向かって吠える。赤ん坊は、ここが自分を受け入れてくれる場所ではないと悟る。

そして赤ん坊は、ゴミの山の中に、丁度自分の身の丈程度の穴を見つける。そこには何もなかったが、その湿った空気と静かな闇に、不思議な安らぎを覚えるのだった。

赤ん坊は、泥水を啜り、野犬の死体を食らい、土を掘って小さな虫や蚯蚓を捕まえて生き延びる。そして、7年の歳月が流れ、赤ん坊の髪はまばらに伸び、世にも醜い少女となる。地獄少女の誕生である。

この、地獄少女の誕生まででも、かなり切ない。悪魔の赤ん坊かも知れないが、赤ん坊には母が必要なのだ。赤ん坊の本能である。朽ち果てたマネキン人形に、母を求めたこともあったが、すぐにそれが母ではないことに気づく。土管の中には、自分のものではない母がいる。漸く見つけた穴に、赤ん坊は安堵する。胎内にいた記憶が蘇る。この赤ん坊は、醜くも、普通の赤ん坊と何ら変わるところはないのだ。


地獄少女、街へ!〜人肉を食らう鬼となる

墓場のゴミの山に登り切ると、遠くに街の灯りが見える。地獄少女は、その煌く美しい街の灯りに魅かれ、ある日、引き寄せられるように街へ下りるのだ。

地獄少女がそこで見たものは、今までにない動物たち、綺麗に着飾り、親子で歩く少女の姿であった。その少女が父と母を呼ぶ、お父さん、お母さん、と言う言葉に、地獄少女は何だか遣る瀬無い気持ちになり、胸が締め付けられるのだ。

墓場に帰る地獄少女は、ゴミの山の中から、ボロボロになった衣類を拾う。櫛で、そのまばらな髪を梳き、服を着る。その姿を、壊れた鏡に映し、地獄少女は「キッキキキ・・・!!」と嬉しそうに笑うのだ。

これも切ない。街へ下りる。初めて人間たちに出会う。綺麗に着飾り、親子で楽しそうに笑う少女を見る。お父さん、お母さん、意味も分かるはずもないが、本能が訴える。胸が締め付けられる。着飾った少女に近づく為に、ゴミの山の中から衣類を探す。髪も梳く。着飾る。少女と同じように笑う。それでも、地獄少女の口から出るのは、「キキキ」という異様な笑い声である。

その夜、再び異変は起きる。再び集まった鬼火の中に、老婆の姿が浮かび上がる。老婆は、地獄少女に、街へ下りて人間に復讐しろと命ずる。地獄少女が双子として生まれながらも、この墓場に捨てられた理不尽、街へ下りれば全てが分かるとも言う。
この老婆こそ、墓場に君臨する地の底の悪魔であろう。

地獄少女は街へ下りる。その醜さ、強烈な悪臭、ボロボロの衣服、そして、全身にまとわる蛆、もちろん、地獄少女を見る者は、逃げるように道を開ける。その中で、地獄少女は、突然、犬に散歩をさせる老人を襲い、腕を食い千切る。
警官に追われる地獄少女は、動物的な身軽さで逃げ切り、身を隠して奪った腕にかぶりつく。

それは、地獄少女が今までに食べた肉よりも格段に美味であった。地獄少女は、夢中で腕を貪るのだ。

味をしめた地獄少女は、次々と人間を襲うようになる。昼は人気のない穴倉や物陰で眠り、夜になると街へ出て人を襲う。そうして、空腹を満たしては眠りにつく。しかし、この時、すでに、地獄少女は何かに誘導されるかのように、一つの方向に進んでいたのである。それが何かは分からなかったが、この先に、自分を待つ何かがあると、地獄少女は確信し始めていた。

墓場に生息する悪魔の仕業か。生まれながらにして悪魔だったからか。地獄少女は、怪物としての本領を発揮する、否、本領は、醜い悪魔ながらも、未だ会ったこともない家族を追い求める優しい少女なはずだ。地獄少女が飢えているのは食べ物ではないのだ。少女なら普通に存在する家族の愛なのだ。

この恐怖のストーリーには、何とも切ないエンディングが待っている。

(後編へ続く)