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清水正の著作 D文学研究会発行本 グッドプロフェッサー
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荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載61)
日野日出志「地獄変」論
ホラー漫画家は終末地獄変の夢を見るか? (連載1)
青林堂版・日野日出志『地獄変』(1993年1月)より
地獄よ・・・・・・
地獄よ ぼくの傍に来い
地獄よ ぼくの傍に来て ぼくを包んでおくれ
おまえの匂いが ぼくは死ぬほど好きさ
ああ血の匂い ぼくはおまえに包まれていると
むせ返るような懐かしさと 安らぎを覚えるのさ
さあ今夜もいっしょに 安酒でも飲もうよ
夜が明けるまでの 束の間の暗黒の中でさ
地獄よ 早くぼくの傍に来い
ああ地獄よ ぼくの故郷
ああ地獄よ ぼくの父
ああ地獄よ ぼくの母
ああ地獄よ ぼくの命
ああ地獄よ ・・・・・・
シンイェ ・ アンツー作
「地獄詩集」より
1981年、星野安司は苦悩していた。それは大いなる苦悩であった。
漫画家日野日出志として、今までにも苦悩がなかった訳ではない。
まだ駆け出しの漫画家デビュー2年目、若干23歳で体験した苦悩は、アーティストが陥りがちな苦悩であり、ある意味では必然だったと言える。
そして、その苦悩は、若さと情熱、そして抜群のコンセントレーションで見事に解消している。
それから10年余りの歳月が過ぎ、今目の前にある苦悩は、それとはまったく異質のものであるのだ。
1967年、当時21歳、虫プロ商事発行の「COM」の第5回月例新人入選作に、「つめたい汗」が入選し、漫画家としてデビューする。その後、青林堂発行の「ガロ」を中心に作品を発表するようになり、ペンネームを日野日出志とする。
「COM」、「ガロ」と言えば、当時の2大アート漫画誌である。これは、日野日出志のアイディンティティがアンチ商業漫画家であったことの証明であろう。
1969年、当時23歳だった日野日出志を襲った苦悩はこうだ。
即ち、本当に自分が描きたいものは何だ、自分の目指すところは何処だ、という、極めてアーティスティックな苦悩で、前述した通り、アーティストが一度は陥るだろうと想像出来るものだ。
確かに、それまでの日野漫画は、ホラー漫画の手法を取りながらも、どちらかと言うと、当時の社会を背景にした風刺漫画が多かったように思う。1968年に「ガロ」の新人入選作に選出された「どろ人形」、同年同誌に発表された「ばか雪」などがその代表だろう。絵柄も、「つめたい汗」の流れのまま、永島慎二風と言うのか、岡田史子風と言うのか、「COM」の新鋭漫画家のタッチから抜け切れていない印象である。
ここで、まる1年掛けて完成された作品が、1970年、少年画報社発行の「少年画報」に発表された、あの「蔵六の奇病」である事は、今更言うまでもないだろう。
迸るオリジナリティを前面に、非の打ちどころがない完成度で発表されたこの作品は、読者の度肝を抜き、圧倒したのだ。
これこそ日野漫画である。これこそ、日本、否、世界漫画界に君臨する事になる巨匠、日野日出志誕生の瞬間であったと言っていい。
それから10年間、日野日出志はホラー漫画作品を発表し続ける。
「蔵六の奇病」を発表して間もなく、同年同誌に、自ら自分がホラー漫画家である事を公言する「地獄の子守唄」を発表する。
以来、1971年に「幻色の孤島」、1973年に「わたしの赤ちゃん」、1975年に「毒虫小僧」、「まだらの卵」、1977年に「サブの町」などのホラー漫画を続々と発表し続け、読者に、トラウマになるほどの恐怖を植え続けて来たのだ。真に、ホラー漫画界に、日野日出志の右に出る者は皆無だった。
そして迎えた1981年、星野安司は再び苦悩する。これは、繰り返すが、10年前に体験した苦悩とはまったく異質なものであった。
ここで、星野安司とご本名を使用させて頂いた事には意味がある。言ってしまえば、10年前の苦悩は、漫画家日野日出志の苦悩であったが、ここで星野安司を襲った苦悩は、もっと根の深い、ご本人の人生に携わる性質のものであったからだ。
その苦悩の一つは、星野安司が、日野日出志を演じ切れなくなっていたという事である。
日野漫画については、今までにも、批評家の清水正教授、日野日出志研究家の猫蔵以外にも、多くの漫画評論家が批評して来た。
ただ、日野漫画を一辺倒にしか理解していない評論家は、お粗末にも、日野漫画に登場する日野日出志が、多かれ少なかれ星野安司ご本人を投影したものだと勘違いしている節がある。その為に、「地獄の子守唄」、そしてこれから発表される「地獄変」、「赤い蛇」を私小説と評価する輩もいるぐらいなのだ。
もちろん、作品を読み込めば、その作品に、星野安司の家族感、アートへの拘りはリアルに伝達される事は間違いない。ただし、それらの作品が、私小説的かと問われれば、全く以って的を外れていると答えるしかない。
実は、漫画家日野日出志も、蔵六同様、星野安司が創造したキャラクターなのだ。
星野安司は、少年時代に動物の死骸など収集せずに、毎日泥まみれになって草野球に励んでいたのだ。快活で明るい、普通の少年だったのである。
そしてもう一つの苦悩は、ホラー漫画界に君臨したものの、漫画誌からの依頼が激減してしまった事である。
今まで描いて来た自分の作風はもう受け入れられないのではないか、星野安司はそう考えた。一種の脅迫観念か、完全な自信の喪失、その苦悩であった。
この事は、決して日野日出志の為ではない。
当たり前の事であるが、読者に受け入れられる漫画は年々変化し、繰り返す。ここで、ただでさえ強烈なオリジナリティを持つ日野漫画である。ぽっかりとその狭間に嵌まるのも必然だったのだろう。
あの手塚治虫でさえ、その時期があった。もう自分の漫画は受け入れられなのではないか、と本気で苦悩し、自分の漫画スタイルはもう古いのではないかと自信を喪失した。そこで手塚治虫は、当時の劇画のテイストを導入したのだ。こうして完成したのが、あの手塚漫画の最高傑作「ブラックジャック」である事は有名だ。
最後にもう一つの苦悩は、星野安司として最もリアルなものであっただろう。
漫画誌からの依頼が激減した日野日出志は、それでも精力的に描き下ろし作品を発表し続ける。しかしながら、1冊200ページの描き下ろし作品は、どうしても年間2冊ペースで発行するのが精一杯で、その収入では生活が出来ないという経済的な理由である。
独り身だった10年前とは違うのだ。愛妻と、9歳になる長女、5歳になる長男がいるのだ。守るべき家族があるのである。
星野安司は、ここで決意をする。重大な決意である。
ホラー漫画家、日野日出志を演じるには、日常の中にある自分自身のバランスを、一回崩さなければならない。そもそも、星野安司という男は孤独に耐えられる性格ではなく、机に向かい続ける事さえ苦手な男なのだ。
そんな男だからこそ、ホラー漫画を描く事によって、自分自身の中に、言いようのないどろどろしたものが溜まって行く。また、そのどろどろを吐き出す為にホラー漫画を描く。真に悪循環である。
星野安司の決意はこうだ。
漫画家日野日出志として、最後に、思い残す事がないような傑作を描こう。そして漫画家を辞めよう。
些か乱暴な決意ではあったが、苦悩に苦悩した末の決意である。それほどまで追い詰められていたのだ。
そして、この「地獄変」は、約1年掛けてじっくりと下書きを完成し、頭の中が真っ白になるまで夜中に酒を浴び、一気に描き上げられた。精神をすり減らせ、血肉を削り、漸く完成を見たのだ。
1982年、「地獄変」は、ひばり書房、日野日出志ショッキング劇場シリーズから描き下ろし作品として発行される。サブタイトルは「ある地獄絵師の告白」と銘打たれた。星野安司、当時36歳であった。
荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)のプロフィール
漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。 現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。