荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載50)

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偏愛的漫画家論(連載50)

日野日出志論Ⅱ
「『日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場』を観る」 (その①)

漫画評論家 荒岡保志

●「『日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場』を観る」、はじめに


2010年の9月18日に、「日野日出志日野日出志へのファンレター」で連載が開始した拙作「偏愛的漫画家論」も、今回で50回を迎える。その間に、この「偏愛的漫画家論」の番外編として、「日野日出志試論 日野日出志先生について考える2・3の出来事」を前編・後編の2回に分けて掲載、「志賀公江論」を9回に渡って連載している事を考えると、これまで約4ヶ月間で、書いた原稿は何と800枚を数える。コンスタントに月間200枚をコツコツと書いていたわけだ。我ながら良く書いたものだ。

当たり前の事だが、評論を書くと言う行為は、パソコンの前に座ってキーボードを叩くだけの行為ではない。特に私の場合、「漫画家論」と言うタイトルを掲げ、作品はもちろん、漫画家個人に着眼したものである為、執筆を開始する前に資料、情報の収集から手始めに、入手出来ていない漫画作品を、古書店巡り、またはネット・オークションで買い漁り、更に全作品を読み返し、やっとの事でその骨格を作るのだ。この作業に一週間から10日ほど費やすのが常である。すなわち、一旦執筆に入ると、一日10枚は書き上げている計算になるのだ。

今回から、「偏愛的漫画家論」連載50回の区切りとして、記念すべき連載第一回の原点に戻り、「日野日出志論Ⅱ」として、2004年に映画化された日野漫画6作品について、その映画評論も合わせて批評したい。


●映画「爛れた家〜『蔵六の奇病』より〜」を観る


2004年に、新鋭の映画作家が集合し、日野日出志の代表的な漫画作品を6作品選び取り、連作短編映画として劇場公開した事をご存知だろうか。そのタイトルは「日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場」と命名され、第一夜で3作品、第二夜で同じく3作品の計6作品の短編映画から構成された。劇場公開はミニ・シアターだったと記憶する。

もちろん、すべてが独立したストーリーで、メガホンを取るのもまだまだ荒削りな新鋭監督である為演出も不揃い、連作性と言うと首を捻るが、全作品のイントロダクションで、「私の名前は日野日出志。怪奇と恐怖に取り憑かれた漫画家だ」と言う日野日出志の登場により、何とか一応は連作映画である事を保っている。

その第二夜、第五話に当たる「爛れた家〜『蔵六の奇病』より〜」は、「熊切和嘉」により監督された。熊切監督は、大阪芸術大学芸術学部映像学科で卒業制作した「鬼畜大宴会」が「第20回ぴあフィルムフェスティバル」で準グランプリを受賞し、「ベルリン国際映画祭」の招待作品となり、更に「タオルミナ国際映画祭」ではグランプリを受賞と言う花々しいデビューを飾った監督である。アカデミー助演女優賞にノミネートされ世界的にブレイクした「菊地凛子」の、「ロッテルダム映画祭」で好評価を受けた初主演映画作品「空の穴」も熊切の監督作品であり、また、北野武監督作品「アウトレイジ」で主演した「加瀬亮」の初主演作品「アンテナ」も熊切の監督作品である。熊切和嘉と言う監督が、何かを持っている監督である事が感じられる。

しかしだ。この「爛れた家」を評価せよと言われると、これは困惑すると言わざるを得ない。その理由の第一は、この映画は「蔵六の奇病」を映画化した作品ではない、という原初的な理由である。
日野日出志ザ・ホラー 怪奇劇場」の他5作品は、全作品が日野漫画のタイトル通りになっているのに、この「爛れた家」だけは、あえてタイトルを「蔵六の奇病」としていないところに、監督した熊切の苦悩が伺える。

何故そうなったのか、と解説すると、一つは、熊切監督の若さであり、もう一つは、熊切監督に日野日出志の漫画がきちんと評価出来ていなかった事にある。

「爛れた家」の舞台は昭和初期か、それ以前か、美しい風景を持つ寒村で、そこに住む、気の優しい青年「蔵六」と、兄を慕う妹「春子」の兄妹の絆のストーリーである。日野日出志ファンであれば、すでにこの段階で違和を感じるだろう。
悲劇は、兄妹を突然に襲う。蔵六の身体が膿み出し、変形し、蔵六は、あっと言う間にグロテスクな怪物になってしまう。蔵六を案ずる両親、そして妹春子。狭い寒村である、この蔵六の奇病は、やがて村人にも知れる事になる。
異臭を放つ蔵六の奇病の感染を恐れ、村人は蔵六を始末しようと徒労を組む。両親は、半ば蔵六を諦めるが、兄思いの春子は、奇病に冒された蔵六を担ぎ、村から逃走するのだ。

私の言う意味がお分かり頂けたであろうか。この「爛れた家」は、言わば切ない兄妹愛を謳った、ある種の近親相姦のストーリーである。村長が世話をするやや頭の弱い青年白橋が、春子に、自分にも優しくして欲しいと懇願する場面が何度か登場する。兄蔵六のように、自分の事も愛して欲しいと言う事である。この映画のテーマは、むしろ春子と蔵六、春子と白橋の憎愛のストーリーなのだ。

これは、この「日野日出志ザ・ホラー 怪奇劇場」の企画の中で、「蔵六の奇病」を選択してしまった熊切監督の重大な過ちと言っていい。日野日出志という漫画家を少しでも知る者なら、「蔵六の奇病」が他5作品と比べて圧倒的に完成度が高い事はお分かりなはずだ。完成度が高すぎる故、これ以上脚色のしようがない。無理矢理脚色しようとするから、この「爛れた家」のように、まったくの別物になってしまうのだ。

これが老練な監督であれば、また、もし私がメガホンを取ったとしても、導入部は、古びた映像の中で、夥しい数の烏に見守られたねむり沼から始めているだろう。とかく若い監督は、何とか原作を我が物にしようと躍起になるものだ。それは、プライド、と言うよりは、一種の意地みたいな物だろう。それが功を成す場合もあるが、しくじる場合もある、否、しくじる場合がほとんどだろう。それが、この映画を失敗させた一つ目の理由、再び書くが、熊切監督の若さである。

もう一つの理由は、「蔵六の奇病」と言う作品の完成度の高さにある。
デビュー作が「鬼畜大宴会」と言う熊切監督であるから、ホラー映画はもちろん、ホラー漫画にも触れていたと想像でき、その中で日野漫画を読んだ事ぐらいはあるのではないかとも思う。もし、それがなかったとしても、映画化が決定したわけだから、そこで原作である「蔵六の奇病」に関しては繰り返し読み込んだはずである。

熊切監督は、そこで「蔵六の奇病」を読み解いてはいないのだ。奇病に掛かった蔵六が、村人に追われるストーリーぐらいの印象でしか捉えていなかったのだ。その為に、だったら原作にない妹を登場させて、愛憎を掘り下げようと試みたわけだ。日野日出志がこだわりにこだわった、蔵六の流れ出る膿さえ美しく表現する美学などは、まったく持って無関係、否、気がつきもしていないのだろう。それが証拠に、「爛れた家」に登場する奇病にかかった蔵六の造形はどうだ。まるで、場末のもつ焼き屋で提供されるレバ焼きのようではないか。

「蔵六の奇病」は、生、そして死を、雄大な自然、美しい色彩で描いた日野漫画の最高傑作である。熊切監督が、その漫画の哲学が理解できなかった事が、この映画を失敗させたもう一つの理由である。

辛辣な内容となってしまった。ここでフォローする訳ではないが、映像自体は良く撮れている、とだけ言っておこう。比較的固定されたカメラも、この寒村の緩やかな時間の流れを確実に表現している。兄妹のセクシュアリティも、上手く表現できていると評価したい。

日野日出志ご本人の、「爛れた家」へのコメントを見てみよう。

この作品は、私の原作とはずいぶん違うものになっているが、一篇の秀れた映像詩として仕上がっていると思う。
外連味のない演出、あくまでも美しい風景、蔵六の家族の絆と葛藤、そして村人達との関係。それらがまるで自然の川の水のように流れて行く。これはホラーではない。堂々たる骨太のドラマである。

日野日出志の人柄の良さが全面に露出したコメントであるが・・・ひょっとしたら、ご本人も、自分の作品の凄さに気がついていなかったのかも知れない。