「日野日出志研究」二号

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日野日出志研究」二号は今月中旬に刊行の予定だが、刊行に先だって何本かのエッセイ・論文を紹介している。今回は音楽学者の小澤由佳さんの力作論文を紹介する。ただし表は省略する。
『蔵六の奇病』に流れる音楽的要素
〜コマ割によってうみだされるテンポ〜

小澤 由佳音楽学者/芸術学博士)


1 はじめに  〜 漫画は音楽!? 〜
 
 日野日出志先生とお会いしたのは去年のことになる。日本大学芸術学部文芸学科の清水正教授から「日野先生の『蔵六の奇病』についての音楽論を書いてみないか」とお誘いを頂いて、私は初めて日野先生の作品と出会った。「漫画に関しての音楽論など果たして書けるのだろうか」という不安の中で、私が着目したのは作品に登場する音楽の「オノマトペ」であった(これを私は「音楽オノマトペ」と呼称している)。作曲家が音を選ぶのと同じように、漫画家もおそらく何らかの意味をもって「オノマトペ」を選ぶに違いないという仮説のもと、私は昨年、「『蔵六の奇病』における音楽表現効果について 〜オノマトペに秘められたメッセージ〜」という小さな論文を執筆した(『日野日出志研究』日本大学芸術学部 文芸学科研究室 2010年)。この論文は、日野先生から大変なお褒めの言葉を頂き、このことをきっかけに何度か先生とお会いする機会を得た。
 あるとき日野先生が「僕は、漫画は音楽だと思っている。」とさらりと語られたことがあった。それはどういう意味なのか。音楽屋のはしくれである私には大きな課題となった。確かに漫画は、「絵」という視覚表現、「セリフ」で展開する文字表現、構成、展開などに見られる文学の表現要素など様々なジャンルの総合芸術であろう。では、「音楽」という点について考えると、映画やテレビドラマのように実音では音を流せないとしても、(私が「オノマトペ」の論文で主張したように)文字による音楽表現を用いることで作品の中にはしっかりと「音楽」が鳴っている。だが私は「オノマトペ」以上に、漫画と音楽に共通する「何か」があるのではないだろうかと考えた。おそらく日野先生のおっしゃる「漫画は音楽」の意味もそこにあるのではないかと思ったのである。
 そこで本稿では、再度『蔵六の奇病』をとりあげ、漫画の大事な表現要素のひとつである「コマ」に焦点をあてた新しい「漫画音楽論」を展開しようと思う。


2 読むテンポの変化による効果の可能性 〜「コマ数」による分析〜
① 分析表の説明
 漫画を読むという行為において重要な要素のひとつとなるのが「読むテンポ」ではないだろうか。漫画は1ページに占めるコマの数と、そこにセリフあるいは状況を説明する文があるかないかによって読むテンポが変わってくる。文字がほとんどなく、絵だけのコマが続くと、視覚から入るイメージのみでさくさくと読み進めることができるだろう。逆に、文字が入っていれば、必然的に目がそのコマに留まり、視覚のイメージと文字によって伝えられる情報を咀嚼しながら、じっくり読むことになるとはいえないだろうか。そこで『蔵六の奇病』全38ページに、いくつのコマ数があるのかを調べ、そのうち文字がないコマはどのくらいあるのか、1ページに対する文字のないコマ(便宜上、ここでは「文字なしコマ」と命名する)の割合をみてみることを思いついた。【表1】は、それらをまとめたものである(音楽の作品分析ではなく漫画の作品分析は初の試みであるため、方法論としての未熟さは重々承知の上である)。
 各ページの内容がわかるように、簡単な要約を「内容」という項目として設けた。なお「文字なしコマ」を数えるにあたり、蔵六はしゃべれないという設定であることから蔵六の「うう」「ああ」などのうめき声や「はあはあ」という息づかいのみのコマは「文字なし」としてカウントしている。獣たちの鳴き声のみのコマも同様である。また、枠外にある説明書きは「1コマ」と数え、吹き出しの中が「…」となっているコマは、文字ありとしてカウントしている。

② 全体構造 〜四季とともに歩む蔵六〜
 調査結果に触れる前に全体構造について述べてこう。
 全体を概観すると、話の展開は季節に沿っており4つにわけることができる。冒頭から10ページまでは、蔵六がまだ村で人間的な生活を送ることができており、季節は明記されていないものの、その後の展開を考えると「春」を想起させられる。11ページからは蔵六の森の小屋生活が始まり、出来物が悪化していくのだが、季節が夏へとうつっていく。19ページからは、唯一味方だった母親までもが蔵六を見捨てるというエピソードが登場するのだが、ここは季節が秋である。そして29ページからは冬である。蔵六殺しの段落である。まだ人間として扱われていた春、病気が悪化して苦しむ夏、母親に捨てられる淋しい秋、そして「蔵六の死」のイメージがつきまとう冬、という蔵六の一生が、実際の季節の変化とともに描かれているのだ。この4つの段落構成は「文字なしコマ」の割合ともリンクしていた。よって以後、段落ごとに調査結果を述べる。

③ 春の段落
 まず冒頭の2ページ。この作品の中で、唯一、見開き2ページを使用して1コマを書いている場面である。まるでベートーヴェン交響曲第5番「運命」の第1楽章の冒頭で「ダダダダーン」と強烈な音が鳴り響くように重厚感をもって物語は始まる。真っ黒なカラスがひしめき、中には死んだ動物の肉を食っているカラスもいる。死骸の目はこぼれ落ち、あちこちに骨が散乱し、一番手前のカラスは体液か、血液か、口からたらしている。この不気味な2ページで物語は始まり「ナレーション」が語られる。「むかし さる国のあるところに 死期のせまった動物があつまるふしぎな沼があった」「人々は その沼をねむり沼とよんで だれ1人 近づく者はなかった」。この作品は、この「沼」から始まるのだ。
 続く3ページから10ページまでは、いわば、蔵六がどういう人物なのかという説明があり、同時に「色々な色を使って絵を描きたい」というたった一つの蔵六の願いが書かれている。この願望は作品の伏線となっている大事な要素である。その後、村人や子供たちからいじめられ、さらに兄が家から追い出そうしているという蔵六の現実が描かれる。そして「ねむり沼」がある森へ、蔵六を追いやることが決定するという話が登場し、春の段落は閉じるのである。
 コマ数は、基本的には1ページあたり7コマで構成されており「文字なしコマ」の割合も半分が0%、半分は2割から3割ほどとなっている。つまり春の段落は、文字、説明が多いということになる。物語の「序」「提示」として扱ってよいだろう。

③ 夏の段落
 11ページは1〜2ページと同じ「ねむり沼」の場面で、ここで初めて100%、絵のみのページが入る。この段落から、蔵六の森小屋での孤独な、そして悲惨な暮らしが始まる。そしてこの生活は、蔵六の幸せの終焉と悲しい末路への始まりでもある。物語のひとつの転機であるこの場面に、作者は「文字なしコマ」を使っているのだ。その後、蔵六の出来物は悪化し、七色のウミが出るようになる。下腹部はふくれ、見た目も人間離れしていく。そして蔵六は、自分でウミを切り取り、血まみれになりながら七色のウミを使って絵を描くことを唯一の楽しみ、いや、むしろ生きる支えとして日々を送るのである。夏へと季節がかわったため、蔵六の血液やウミにウジがわき、悪臭が漂い、村では次第に森においやった蔵六をさらに迷惑がるようになる。
 この段落は冒頭の11ページを含め「文字なしコマ」の割合が春の段落よりも高い。11ページの100%に続き、13ページと15ページは、どちらも88%である。13ページは再び不気味な森の小屋の様子が伝えられている。15ページは蔵六がウミを出す場面だ。それ以外にも「文字なしコマ」が3割強しめるページが3ページあることが【表1】からわかるだろう。
 「文字なしコマ」の数が増加は何をもたらすのか。それはストーリ—展開にあわせたテンポの速さではないだろうか。蔵六が病に苦しみだしたこの夏の段落は、春よりもスピードをあげる仕組みになっているのである。ただし一方で、各ページのコマ数にはばらつきがみられ安定していない。つまり、テンポは春よりは速いが安定はしておらず、むしろ不安定ということになる。夏の段落は秋の前の足踏みの段落であろう。

④ 秋の段落
 この段落は一言で言えば「蔵六の悲しみの段落」である。蔵六の唯一の味方であり、唯一の訪問者であった母親が家族に反対され小屋にいくことを禁止される。母親もしぶしぶそれを承諾せざるを得ず、母親の拒絶を知った蔵六は狂人となり虫を食う。さらに「ねむり沼」に走り動物の死骸を食ってしまう。そして悲しい夢を見る。村人たちに殺される夢だ。そして話せない蔵六がはじめて声をあげる…「おっかあ」と。
 秋という淋しい季節が、いっそう蔵六の寂寥感を誘う。秋祭りの音は、幼い頃の母親との思い出、人間的な生活を送っていた幸せだった頃を呼び覚まし、それが蔵六の胸をしめつける。そして目がくさり闇となり、耳が塞がり無音となり、蔵六の前には「精神世界」のみとなるのだ。この悲しみは言葉にできない。
 【表1】をみれば一目瞭然で、この段落は「文字なしコマ」がかなり高い割合をしめている。平均して8割以上、文字がない。特に「文字なしコマ」の割合が高くなるページは21ページから26ページにかけてで、ここは蔵六が母親の裏切りに悲しむ場面である。そして興味深いのは、この段落は1ページに割られるコマの数も、春、夏の段落と比べると多い。1ページに対して8コマ以上のページが半分以上である。つまり、多くのコマを文字なしで読み進めているということになる。多くのコマを目で追っていくというのはスピード感がかなり増す。音楽でいえば、1小節にたくさんの細かい音、例えば八分音符(♪)のような音符が入るようなもので、「ドーンドーン」ではなく「トントントントントントントン…」ということだ。この段落は、どのような状況に置かれても、たったひとつの願望であった絵を描くということでなんとか保たれていた夏までの状態からの蔵六の身体および精神の破滅が描かれた段落でもある。破滅に伴う蔵六の絶望感をコマによるスピード感が強めるとは言えないだろうか。

⑤ 冬の段落
 蔵六はとうとう闇と無音の中で冬を迎える。雪が舞う極寒の冬である。冬である事を知らせるこの段落の冒頭2ページは文字が少ない。秋の段落のスピードがここまで続く。文字のなさは、冬の厳しい寒さをよりいっそう想像させる効果があるといえないだろうか。その後、庄屋の家で話し合いがもたれ、蔵六に怯えた村人たちは蔵六殺しを決意する。この話し合いの場面は文字が多い。そして33ページからはじまる、この物語のクライマックス、蔵六殺しの場面は、「文字なしコマ」の割合が再び高くなる。またカメの姿をあらわす直前の36ページも「文字なしコマ」の割合が高くなる。特に34ページは秋の段落と同様で、1ページあたりのコマ数も多くスピード感がある。これは蔵六を殺しに行く人々の勢い、怒り、憎しみ、そして恐怖心を強調する効果があるだろう。また36ページは、姿を消した蔵六が何かになってしまったという読者の懐疑心をかき立てる効果があるように思う。
 ただしここで重要なのは、ページに対するコマ数が35ページから次第に減って行くということである。コマ数が減るというのは、そのページ内に大きなコマが増えるということであり、コマが大きくなるというのは、それだけ筆者が主張したいコマであるということになる。では35ページから最終ページまでを細かく見てみよう。
 まず35ページは蔵六がいないと騒ぐ村人と騒ぐカラスたちの様子が描かれている。ここはカラスのほうにスポットがあたっており、蔵六の居場所を知っているのはカラスだけ…という不気味なメッセージを感じる。36ページは、上述したように「文字なしコマ」の割合が高いページでもあり、「何か」が雪山のなかでモコモコ動いている様子が描かれ、恐怖心と猜疑心が強まる。そして37ページは、「蔵六に一体何が??」という読者の問いの答えがでる。美しい七色の甲羅をもち、目からは深紅の涙を流す巨大なカメが出て来るのだ。そのカメは沼に入っていく。もっとも大きなコマには「ゆうゆうとねむり沼へはいっていった」姿が描かれており、そこで読者はスピードをゆるめ、緊張感をもってじっとそのコマを見ることになる。最終ページは、カメと沼だ。「沼の中央で一度 顔を出し」「村人たちをジッと見すえ」沼に入って行くカメの様子が、大きなコマで描かれている。このコマの使い方は、まるで悲しみの鐘が「ゴーンゴーン」とゆっくり鳴り響くかのようである。秋から冬にかけてスピードをあげて駆け抜けてきた物語は、ここでテンポをゆっくりとし、蔵六の一生とともに物語は幕を閉じるのだ。
 この最終ページはすべてのコマに文字があり、説明が入っている。この説明には大事な伏線となっていた「大量の絵が残った」という説明があり、絵を描きたいという願望だけは遂げられたことがここで告げられる。これは、春の段落で示された「絵を描きたい」に対する「答え」と言ってよいだろう。そして場面は「ねむり沼」。この作品は、重厚感のある大音量の沼の不気味なファンファーレではじまり、そして淋しい悲しい沼の鐘で終わっているのだ。

3 まとめ 〜分析を通して思う『蔵六の奇病』に見える交響曲の構成〜

 ところで、テンポは音楽の三大要素のひとつとされている(ほかはメロディーとリズム)。18世紀後半にヨーロッパで確立した「交響曲(シンフォニー)」というジャンルは、基本的には4楽章構成で作られる。第1楽章は早いテンポの楽章(急楽章という)、第2楽章は多くはテンポのゆっくりとした楽章が入り(緩徐楽章という)、第3楽章には再びテンポの早い急楽章で、ハイドンモーツァルトは「メヌエット」という舞曲のリズムの要素を多用したがベートーヴェンは「スケルツォ」という劇的な性質の音楽を第3楽章にいれることを好んだ。第4楽章(最終楽章)は文字通り終幕の楽章で、テンポの早い(急楽章)がくるという構成からなっている。第2楽章と第3楽章のテンポは逆になる作品も多く、第3楽章に緩やかなテンポの楽章がくることもあるが、このテンポが異なる複数の楽章での構成というのは、作品全体の運びに大きな影響を及ぼす。
 たとえば、ベートーヴェンの有名な「交響曲第5番 作品67〈運命〉」も4楽章構成である。「ダダダダーン」という驚きの旋律(運命の扉を叩く音とよく言われる部分である。「運命の動機」とも言われる。)で始まる激情的でテンポのよい第1楽章ばかりが有名であるが、この楽章の次には、1楽章の激しさを沈静化させるかのように、大変に美しい旋律が流れるテンポのゆったりとした第2楽章が続き、そして第3楽章は、第1楽章で提示された「ダダダダーン」というリズムの短縮するかたちで用いた「タタタタン」という要素を用いて、駆け抜けるようなテンポの楽章となっている。この第3楽章は最終楽章へのパワーの源になっており、ここでためたエネルギーが第4楽章で爆発する。「運命」の場合は、ベートーヴェンの指示で3楽章から第4楽章は続けて演奏され(このような奏法をアタッカ奏法という)、エネルギーの爆発は第4楽章の冒頭にさっそくあらわれる。大変に華やかなファンファーレで始まり、英雄的な威厳ある雰囲気を保ちつつ、ところどころに悲劇的な不安げな響きを漂わせながら音楽は展開していく。ここでも第1楽章の冒頭の短縮形の「ダダダダン」という要素が使われており、この「運命の動機」は実は全楽章を通してかたちを変えて登場する(ここでは第2楽章の説明は割愛する)。つまり、第1楽章で「運命の動機」によって聴衆に一つの「問題提起」が投げかけられ、第2、第3楽章を通して考え抜かれ、その答えが4楽章なのである。実際、4楽章は、終結部に向かって、問いの答えを宣告するような、堂々とした音楽へと導かれている。この第4楽章に辿り着くまでの過程が実は重要で、4楽章までやってきた聴衆は安堵と達成感で感無量となる。もちろん、音楽作品の重要な構成要素はテンポだけではない。だが、安定したテンポから、ゆったりとテンポが落とされ、その後、せきたてられ、最後、急速なテンポになるという「塊」ごとのテンポの変化は、聴衆の感情を揺らす効果があり、メッセージ性を強めるのである。特に「交響曲」のこのテンポ構成は、18世紀に確立されたあと、19世紀、20世紀まで受け継がれる一つの「伝統的スタイル」となる。つまり、この構成は、何百年の時を経て、国や文化が違っても受け入れられる様式なのだ。
 私は『蔵六の奇病』のテンポ感は、どこか「交響曲」の展開に近いと感じた。テンポが速くなることでのうまれる切迫感は、読み手の気持ちを煽る。特に、この作品において、「文字なしコマ」の割合が高くなるのは、秋の段落、「交響曲」でいえば第3楽章にあたり、ちょうど「運命」の第3楽章と同様、駆け抜ける雰囲気がある。そして冬の段落、つまり第4楽章に続くエネルギーのため場となっている。母親の裏切りから蔵六が狂う場面、「おっかあ」と声をあげる悲しみの場面、そして、目、耳を失い、蔵六が本当に孤独なるこの「秋」の段落の急速なテンポは、まさに最終段落への布石であろう。
 最後の冬の段落は、第4楽章に相当する。蔵六の人生の終焉を象徴することとなる冬を表現するための冒頭、そして、圧倒的な迫力の蔵六殺しの場面は、やはり「文字なしコマ」によって切迫感が増している。また、カメになる直前の蔵六を表現する場面でもテンポがあげられ、読み手の気持ちを掴む。そして最後は、まさに「運命」の最終楽章と同様、ひとつの「答え」が与えられる。コマ数を減らし、ひとコマひとコマを大きくなる中で、蔵六はカメとなりねむり沼へ消えて行くのだ。読み手はここにきて、「答え」を見つけるのである。
 また、夏の段落などに見られる、ところどころで入る「文字なしコマ」の効果も重要であろう。音楽で休符、間が重要であるように、あるいは、指揮者が沈黙をとるのと同じように、「無音」となるところには意味がある。音楽では休符は聴衆の緊張を誘い、そしてそれも「音楽」となる。『蔵六の奇病』の場合はというと、例えば、蔵六の死に場所となる森の場面のみとなる11ページ、ウミで苦しみながら絵を描くという残酷すぎる13ページ、どちらも「負」のイメージが強い場面である。ここで敢えて「文字なし」のコマが使用されているのは、何も語らないことで伝える悲劇性ではないだろうか。言葉にすることで、残虐性、悲惨さは軽くなってしまうことがある。そこを絵のみで表現しているのは、絵だけの方が強く伝えられるという作者の選択ではないかと思うのだ。この効果があらわれているのは実は秋から冬の段落全体にいえることで、蔵六が狂い、悲しみ、目も耳も失って完全な内的世界に閉じ込められたとき、彼も「無音」の中にいた。その彼に追い討ちをかけるかのような村人たちの蔵六殺しのエピソードの惨さは、言葉よりも絵で表現したほうが強烈であろう。これは、文学にはない漫画特有のひとつ表現ではないだろうか。
 このように『蔵六の奇病』は、コマ数、文字の使用によって、テンポが生まれており、それによって「蔵六」の悲劇的な生涯の悲惨さが強められていると私は考える。このわかりやすい展開が、本作品を日野先生の代表作であり、名作としている所以なのではないだろうかと私は考える。
 このテンポにまつわる結論が、果たして先生のおっしゃる「漫画は音楽」の正しい解釈なのかどうかはわからない。だが私は、今回の分析を通して、確かに先生の漫画と音楽には共通している要素があると確信している。先生のお答えはいかに…。いつか、『蔵六の奇病』を1ページずつスライド化し、そこに、何か既存の交響曲を短く編曲したものを合わせてかけるということをやってみたいというのが、小さくも厚かましい私の野心であることを最後に書き添えて、今回は脱稿とさせて頂く。