猫蔵の日野日出志論(連載16)

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猫蔵の日野日出志(連載16)

『ギニーピッグ2血肉の華』論⑧

以上、三つのキィ・ワードを挙げ、映像作品『血肉の華』の独自性を検証してきた。
十二歳のとき目にして以来、『ギニーピッグ2血肉の華』は、ずっと心の内に引っ掛かっていた。その頃は、『血肉の華』の監督を務めた日野日出志という人物が一体何者なのか、知る由もなかった。当時、近所にあった書店の「ひ」の著者棚を、無意識のうちに探している自分がいた。
 それから歳月は流れ、その日野日出志なる人物が、一部に熱狂的なファンをもつ漫画家であると判明した頃、思いがけず海の向こうで、あの「ギニーピッグ」シリーズが正式にDVD化されているという噂を耳にするようになった。「ギニーピッグ」シリーズ、および『血肉の華』というビデオ作品は、私の子供時代に巣食い続けた、現実にはとうの昔に忘れ去られ、歴史の表舞台からは抹消されてしまった作品のはずであった。改めて私は、いまや過ぎ去ってしまったみずからの少年時代、『血肉の華』を目にした際に感じた高揚が、必ずしも私個人の体験には納まりきらず、あるいは誰かと共有しうるものであったという予感を新たにした。
 奇縁はこれだけに終わらなかった。進学を決めた大学院・修士課程の特別講師のなかに、思いがけず「日野日出志」の名前を見たのである。恩師の力添えもあり、日野の講義のアシスタントを務めることのできた私は、彼が講義の場で教材として使用した『血肉の華』の映像を観ながら、改めて私なりに本作品を捉え直してみる必要を感じた。
『血肉の華』は執拗な映像作品である。漫画家・日野日出志の代表作として、自他共に認められている『蔵六の奇病』もまた、執拗な漫画である。主人公・蔵六は、みずからの全身に出来たできものを傷付け、そこから吹き出る七色の膿で絵を描くことに執念を燃やす。その奇病ゆえ、食事や介護をあたうることもままならず、常識的に考えればもはや死の淵にある状況においてもまだ、絵を描き続ける。
 死してなお、蔵六は絵を描くために生き続ける。ここには明らかに、物語の破綻がある。破綻という言葉は褒め言葉のつもりだ。物語の破綻で思い出すのは、『血肉の華』のあの剥き出しのベクトルである。女の血と肉を掻き分け、その奥の奥を映し出そうとする『血肉の華』の執拗さ。これを除いた何物をも、さしたる問題ではない。この執拗さと過剰さが、日野日出志という人間の原質の一端なのではないか。
 作品と作者を同一の次元において論じることは、必ずしも良いことではない。しかし同時に、必ずしも悪いことではない。少なくとも私は、映像作品『血肉の華』に突出したものを感じ得た人間である。作家と作品とが、すでに別の個性をもった別個の存在であったとしても、日野という作者が『血肉の華』という作品に残した臍の緒は、この破綻であるように感じる。
 映像作品『血肉の華』は、漫画家である日野日出志が、人生で初めて手がけた処女映像監督作品である。「怪奇と叙情」を漫画創作における命題に置き、物語の創造に腐心してきた日野が、いわば物語を語るプロであったにも関わらず、その処女映像監督作において、物語の破綻を選びとった矛盾に興味を惹かれる。「映像作家・日野日出志」は、『血肉の華』を含め、僅か二作品を撮った後、姿を消すこととなる。『血肉の華』という映像作品は、その一回性ゆえ、漫画においては抑え込まれていた日野日出志の原質が、予期せずもっとも色濃く顕われ出たものだったのではないか。往々にして、日本国内では漫画家・日野日出志の一エクストラとしてしか見なされてこなかった本作への、欧米の映画ファンたちからの再評価は、『血肉の華』という作品と、それを観て高揚を覚えた私自身を捕らえ直す、またとない契機となった。
 なお、実際に私が『血肉の華』を初めて目にしたのが1991年頃のこと。「ギニーピッグ」シリーズのDVDリリースが開始されるのが2002年。この間、実に十一年の隔たりがある。しかし、その間に「ギニーピッグ」シリーズが海外、特にアメリカに出回っていなかったかと言えば、そうではなかった。90年代初頭、アメリカ在住の俳優チャーリー・シーンが、『血肉の華』を家で友人と鑑賞した結果、本物のフナッフフィルムではないかと不安に陥り、FBIに通報したという、いまや「ギニーピッグ」シリーズに纏わる有名なゴシップが出回ったのも、この時期であった。当時は、ダビングを重ねた粗悪な海賊版テープが結構出回っていたようである。この経緯を鑑みれば、2002年におけるDVDとしての正式な発売は、少なくともアメリカ国内においては、※潜在的な「ギニーピッグ」ファン(?)を見込んだ、いわく付きの商品の再発掘という性質を帯びていた可能性が高い。以上の部分に関する考察と吟味は、後日、論を改めて行う。
 

 子供の頃、映画とまともに向き合うことのできなかった理由の一端は、映画というものが絡めとる光の射程内に、「裏」空間を見出せなかったことが起因しているのかもしれない。映画というものの射程圏が、あらかじめ“表”の範疇までしか届かなかったからではなく、映画というものが射程する眼差しの先がすべて、等しく“表”を装ってしまうように感じられたことも、私自身映画というものを敬遠する一因であった。
そんな中、いつもの様に父親と共に訪れたレンタルビデオ屋の片隅で思いがけず見つけた『血肉の華』は、それとまったく違った関心を私に起こさせてくれた。これは事件に他ならなかった。ただ、いつも寛容だった父が、記憶の限りただ一度だけ、私に見せることを拒んだのも、この『血肉の華』のビデオだった。当時、貸しビデオ屋の会員証が父の名義であったため、休日に父と一緒になって借りたいビデオを選ぶのが、私の一週間最大の楽しみであった。私が物心ついた頃には、父はすでに、週の日曜日にだけ、埼玉のわが家へとやって来るようになっていた。それは、東京育ちの婿養子だった父と、古い農家であった埼玉の家との軋轢に起因するものであることを、私は子供ながらに感じとっていた。
私は父と一緒に、休日を近所のビデオ屋で過した。借りたいビデオを選りすぐり、父に手渡すのが、私の役割であった。しかしどういうわけか、そのときに限り、父は私に気づかれぬよう『血肉の華』を元の棚へと戻してしまったのである。レジでの会計直前、ビデオが欠けていることに気づいた私が父を問いただすと、父は渋々、非を認め、私に苦言を呈した。「親として、そのビデオだけは見せたくなかった」と。
そもそも、私にビデオ鑑賞の楽しさを教えてくれたのは、父であった。普段は東京に暮らしていた父が、埼玉のわが家へとやって来るたびに、『ウルトラQ』や『ゴジラ』、『世にも奇妙な物語』といった、魅惑的なビデオを録画してもって来てくれるのを、私は一日千秋の思いで待ち望んでいた。また休日、久しぶりに会った父といっしょになって選ぶレンタルショップのビデオの数々は、まだ見ぬひとつの冒険、ひとつのお祭りにも等しかった。その楽しさを教えてくれた父が、私の目から遠ざけ、見てほしくないと望むビデオがあるということが、私にはよく理解できなかった。
父と、中学生だった私は、『血肉の華』という一本のレンタルビデオを前にして、そこに、それぞれ別の顔を見ていた。『血肉の華』は、私たちにふたつの異なる顔を見せたのである。私は『血肉の華』の表面的な残酷描写を、どうしても作品の本質とは思えなかった。父もまた、ホラー映画としての残酷さ以上のなにかを、本作の佇まいから嗅ぎとっていたに違いない。ビデオ『血肉の華』は、いうなれば私の内側にあった問いにはじめて形を与える契機となった。私は父に、こう問いたかったのだ。「もしも僕があなたの息子ではなかったとしても、それでもこうして会いに来てくれましたか?」。私が父の息子であるという血縁・家族という物語を抜きにしてなお、私というものの存在を、父には認めてほしかった。わが父と、旧家であった埼玉の家とを結び付けるものが、唯一の子供の私だということを、幼いながらも私は自覚していた。私は父の息子であるその一方で、埼玉の家の嫡男であった。私は、家の理屈に縛られることのない父の自由に憧れ、旧態然とした家の論理を引きずる埼玉の家を軽蔑さえした。だが、それも思い返せば、父のいないところで父の奔放を揶揄する、母方の祖母たちへの当て付けの意味があったように思う。私は祖母たちの口から、そんな言葉を聞くのが嫌だった。父が東京に帰った後、私には祖母や母たちと過す日常の生活が待っていた。私は父と借りた『血肉の華』のビデオを見ながら、女の肉体を解体し更にその内奥を剥き出そうとする本作の視点に、みずからの眼差しを重ね合わせた。あるいはそれは、自分そのものを剥き出そうとする、あくなき私自身に由来していた。時を経るごとに腐敗してゆく絶世の美女の姿を克明に綴った絵巻のなかで、美女がその身を腐らせながら生の本質を露呈していったように、私自身もみずからの肉体を解体し、その本質を暴き出したかったのだ。

□注釈
『血肉の華』および「ギニーピッグ」シリーズの北米におけるDVDリリースを手がけたUNEARTHED FILMS社のステファン・バイロ代表はいう。「ギニーピッグ・シリーズは、これまでにリリースされた映像作品のなかで、もっとも悪名高いものである。しかし、長い間、大部分の映画から失われていた悪夢と独創を内包した、稀有な作品である」。(http://www.unearthedfilms.com/

猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩