猫蔵の日野日出志論(連載15)

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猫蔵の日野日出志(連載15)

『ギニーピッグ2血肉の華』論⑦

ここ第三章においては、映像作品『血肉の華』のもつ独自性に、「擬似ドキュメント」という観点から迫る。
 ドキュメント(ドキュメンタリー)という言葉の定義は困難である。一般には、映し出された映像それ自体への、撮影者(製作者)の手や意図の介入が、極力押さえられている作品を指す傾向にある。これはひとつの指針として参考にしながらも、ここではもっと別のやり方で定義したい。
 なぜなら私自身、この定義の仕方に違和感を覚えるからである。例えば、素材である映像に製作者の手が極力加えられていないものをドキュメントと呼ぶのであれば、映像作品の場合、おのずとその表現方法は限られてしまう。実写映像を用いたものをこう呼ぶのなら、それ以外の方法、例えば漫画やアニメーションといった手法は抜け落ちてしまう。しかしながら、実際には「ドキュメンタリー漫画」なるものも認知されており、多くの受け手はその言葉に抵抗を抱くことはない。「ドキュメント」という言葉が、単にその表現形式に名付けられたものではないことが伺える。「素材である映像に極力手を加えない」という前提は、製作者が自戒の意味を込めて従うモラリズムとしては機能するだろうが、「素材である映像を人為的に一から作り出す」という部分にまで押し進めたアニメや漫画表現の前においては意味を成さなくなる。
 それでは、「極力介入しない」という定義が、表現素材ではなくその事実に対して向けられたものであるという反駁があるとする。ありのままの事実に、製作者は、可能な限りみずからの解釈や意図を介入させないという定義である。仮にその条件を満たした作品があったとして、少なくともそれだけでは、本稿で論じようとする対象としては不十分である。『血肉の華』を例にとり上げてみれば分かるが、本作は「セミ・ドキュメント」を標榜しながら、本編のカメラの眼差しが執拗に映し出していたもののほとんどは、切り開かれた女の、血と肉とハラワタであった。本作が、前述した「ドキュメンタリー」の定義に則るのであれば、明らかに本作は、血と肉に傾き過ぎている。誘拐、殺人の経緯、そして事件の全体像という俯瞰よりも、血と肉の占める割合は抜きん出ている。同時にこのことが、『血肉の華』という作品を、殺人事件を扱った単なるドキュメントではなく、存在自体をもっと別のものへと押し上げている一因となっている。
『血肉の華』の原型となった事件の全容は知る由もないが、本作品自体は徹底してアンバランスであり、「事実に極力介入せず、事実を可能な限り公平に扱う」という定義に押し込められたドキュメンタリーの姿は、監督である「日野日出志」なる人物によって、すでに破壊されている。本作をはじめて鑑賞したとき、私はまだ十二歳であったが、本作が、監督「日野日出志」なる人物の、「事実を可能な限り公平に扱った」客観の提示だとは到底思えなかったし、むしろ、冷たいカメラの視点に憑依し、熱っぽい視線を注ぎ込む製作者(監督)の存在に、確かに気づいていた。
『血肉の華』本編において、女の血と肉を切り刻む鉄兜の男は、単に血と肉の解体に没頭するのみならず、その行為に従うみずからの姿を映し出すカメラの眼差しを、常に念頭に置いていた。カメラはもはや、傍観者の立場からは、遠く隔たりがあった。
 ここにおいて、カメラ、すなわち製作者は、すでに傍観者の座を追われている。ならば私は、本論におけるドキュメントの定義として、「事実を極力公平に見る」客観を優先した資料としてのモラルよりも、絶えずその存在自体が“事件”であることを観る者に喚起させてやまない、歪さと過剰さを重んじたい。
 前章でも抜粋した『血肉の華』冒頭のテロップ部分には、「セミ・ドキュメント」という言葉が登場する。この“セミ”という部分であるが、仮に正当な「ドキュメント」というものがあるとして、それに対する反発の意味もまた込められていると捉えている。本来、テロップ部分に用いられた「セミ・ドキュメント」という言葉は、事件の概要を客観で再現すべき「ドキュメント」というものに対し、“監督・日野日出志”なる人物がその主観と個性でもって、事件を作品化した経緯に対しての呼称であったと推察される。ここではその事実を一歩進めて、製作者が作品へのみずからの関与に自覚的になり、作品そのものを、公平な事実の記録ではなく、もっと暴力的な、一事実・一事件として提示するケースに目を向ける。これらが、こと生々しさという点において、“客観”なるものよりも勝っているとは、私にはどうしても思えない。ここで私は、改めて「擬似ドキュメント」という言葉を用いたい。これは、本作品を形容する際、いつしか映画・ビデオファンの口頭に上るようになった言葉である。
客観なるものが主張する正当性の、なんと歪なことか。そこにおいては、あるひとつの出来事において、すべての要素が均等な密度で存在していることになる。そんなことがありえるだろうか。客観であろうとすることもまた、偏狭な価値基準のひとつに過ぎず、作り手の作為の呪縛から100パーセント逃れ得る作品など、存在しない。むしろ、まず先に作り手の自意識があり、その作為を徹底的に推し進めた先に、はじめて作為を超えたものの存在が見えてくる。完全に無自覚になることができないのと同様に、完全に自覚的になることもまた、なにかを作る上では不可能なのだ。
 これは、映画や写真の場合はもとより、漫画の場合においても例外ではない。
映像作品『血肉の華』そのものの話題からは少し遠ざかるが、例えば漫画家・日野日出志の作品『赤い花』に注目したい。まず、この作品で目を見張るのは、スクリーントーンを一切使わず、すべて日野自身の手によって綿密に描き込まれた、草と花の模様、木目、そして畳の筋である。それとは反対に、びっしりと描き込まれた畳の筋の上に横たえられた女の裸体は、あくまで白く簡略に描かれている。この対比は、畳の筋を、今まさに女の白い肌を汚そうと女を見下ろしている醜い男の、体毛や睾丸の皺、あるいは陰茎に絡みついた陰毛として、読者の脳裏に喚起させるに違いない。徹底して畳の細部を描き込む日野のこの仕事は、間違いなく、作家の手により作られた虚構を超えて、もはや紙そのものに触れることをも躊躇させる、実体をもたらしている。この畳が描かれた紙に触れること自体が、すなわち不気味な男の体毛や肉体の一部に触れることと、等しくなる。
 では改めて、ここ第三章において、映像作品『血肉の華』と対になる作品をとり上げよう。それは、映画『フリークス』(1932年/アメリカ)である。この作品は、元来劇場公開型の映画であったが、本論ではむしろ、ビデオ作品としての特徴に目が向けられることになる。『フリークス』であるが、このモノクロ映画には、実際のサイドショウ(見世物小屋、サーカス)の芸人たちが、文字通りサイドショウの芸人役で、数多く出てくる。この芸人たちはそれぞれ、生まれつき大多数の人間とは異なった容貌をしており、その姿を客に見せることを、彼ら自身の生業として生活している。
 なかでも、もっとも記憶に焼き付いている場面がある。本編終盤、騙され、命を狙われていた事実を知ったフリークスたちが、一斉蜂起する描写である。暗闇と雷雨の中、地べたを這いずりながら、小人や手足のないフリークスたちが、カメラのレンズ越しに押し寄せてくる。彼らは一様に、刃物や銃といった武器を携え、手足のない者でさえ、その口にナイフを咥え、爛々とした目つきで観客の方へとにじり寄ってくる。
 本作品は、いわゆる劇映画と呼ばれるものに分類されながらも、当時の実際のサイドショウ芸人たちを起用し、記録映画としての側面ももっている。初めて本作を目にしたとき、画面から迫り来るフリークスの群れに、気持ちの昂ぶりを味わったことを覚えている。このシーンに至るまで、物語は勧善懲悪の寓話の体裁をとっている。フリークスたちを嘲笑し、その財産を乗っ取ろうと企てる男女は、非の打ち所のない肉体をもってはいるが、徹底して俗悪な性格として描き出されている。フリークスたちの報復も、邪な略奪者たち自身の招いた自業自得の災いとして位置付けられており、自然に観た限り、ここでは実にフリークスたちが社会正義を体現する側となっている。
 しかし、果たしてそれだけであろうか。映画『フリークス』の例の場面から感じられた高揚は、なされるべき社会正義がなされたという、ただそれだけの理由から生じた感覚であったのか。いつの間にか映画『フリークス』を、そのシナリオに則り、多少キッチュな寓話として眺めていた私は、ここで逡巡してしまう。
 復讐者と化したフリークスたちの姿からは、もはやつゆほども正義という言葉を読みとることはできない。ここにおいて、これまでフリークスたちをただの寓話の小人として眺めていた鑑賞者は、思わぬ不意打ちを喰らうことになる。
 この事実におそらく、監督のトッド・ブラウニングは自覚的だったと思われる。思いがけない偶然の結果、勧善懲悪の寓話が崩されてしまったのではなく、むしろ当初より、ブラウニングはこの崩壊を予見し、その崩壊へと導くために、勧善懲悪の寓話を作り出したようにさえ見える。すると、映画『フリークス』が、敢えて劇映画の体裁を借りた作品、あるいは、劇映画の体裁を借りることによってもっと別の意味をもち得た、奇妙な作品としての姿を現わしてくる。
 監督や出演者の作為が加えられている以上、本作品は狭義の意味での「ドキュメンタリー」には当てはまらないだろう。しかし、この作品がレンタルビデオ店において、数多の善良なホラー映画と共に、「ホラー」という棚に納められることに、私は違和を禁じ得ない。
 子供の頃、レンタルビデオ屋に並んだビデオの数々は、その一本一本が、未知なる世界への扉であったことを思い出す。そのなかでも、とくに私の関心を惹いたのは、今思えば、その佇まいの怪しい、“裏ビデオ”とでも呼びたくなるようなものたちであった。ただし、それらは必ずしも違法のビデオという意味ではなく、例えば『血肉の華』のように、合法であったとしても、どこかしら“合法”の範疇には納まりきらない部分を有したものだった。
 別に、外れたものばかりに人一倍憧れる子供だった訳ではない。あくまで、「なかには外れたものがあってもいい」というスタンスだったことを断っておく。そして、いつも傍らにいた父親と共に、狭い店内をくまなく見て歩いた。やがて、珍しいビデオを探し当てると、それだけでご満悦だった。いうなれば、「世界の原像」が開示することを躊躇い、場末のレンタルビデオ屋の隅へと追いやった神秘を発見した喜びと少々の後ろめたさにも似て、そんなビデオが、「オバQ」や「パーマン」などといった、あまりに無害なものたちと共に並べられている空間の混沌と許容に、心惹かれた。
 映画『フリークス』と映像作品『血肉の華』。実際に鑑賞した時期にだいぶ違いこそあるものの、これらは私に、よく似た高揚を味わわせてくれた。
 この感覚を例えるならば、動物の御霊の供養を大義とするある縁日の裏手で、蛇を生きたままバリバリと貪り食う、見世物小屋の蛇女の姿を見てしまった興奮とよく似ている。縁日の賑わいが、お祭りにおける“合法”の部分であるとすれば、蛇女の存在は、“非合法”などではなく、“合法”の周りを緩やかに取り囲んでいる、言うなれば薄い膜の中にある。私はこれを、「裏」の膜と呼びたい。
「裏」は、けっして“非合法”ではない。“非合法”とは、「裏」の膜が及ばない範囲からを指す。「裏」という空間においては、“合法”との矛盾は許容され、蛇女の殺生は、お祭り全体に深みを添える、欠くべからざる薬味となる。
 この「裏」空間の存在を思いがけず発見し、それを意識したとき、私は興奮する傾向にあるようだ。『血肉の華』や『フリークス』のビデオを最初に発見したときも、まずこれに近い高揚と安堵感があった。このようなビデオが、許容されざるものとして世の中から抹消されることなく、緩やかながらも存在を認められ、棚に収められている。レンタルビデオ店は、雑多であるがゆえに豊穣な、心安らぐ「裏」空間であった。
「擬似ドキュメンタリー」と呼ばれるものもまた、この「裏」空間に立脚することでのみ、存在し得る。映画『フリークス』が、登場するフリークスたちをステレオタイプの寓話の小人として描き出した点は、それが終盤崩壊するという結末において、結果として功を奏している。「寓話」という晴れやかな“合法”が、フリークスたち自身の肉体によって、内側から突き破られる瞬間である。果たして、客観主義に則って作られたドキュメンタリーに、これだけのリアリティが出せたであろうか。
 映像作品『血肉の華』の場合も同様である。言い換えれば、本作品が非合法の「実録殺人ビデオ」それ自体として存在したのではなく、あくまで「裏」空間をたゆとう“合法”のビデオであったからこそ、言いようのない不気味さは募ったのだ。なぜなら、映し出されている映像が、本物であろうがフェイクであろうが、需要と収益という点において、「スナッフフィルム」が商品として成立しうる事実を、この作品は身をもって実証してしまっているからである。『血肉の華』が、数多のホラー映画と一緒くたにされ、平然と並べられている事実に、当時の私は子供ながらに戦慄を覚えた。戦慄と興奮とが内混ぜになった、血の昂ぶりがあった。
『血肉の華』と映画『フリークス』は、「擬似ドキュメント」というキィ・ワードにおいて、非常に似通っていた。では、ここから更に、『血肉の華』独自の特異性を抽出してみることにする。
 映画『フリークス』において、本物のフリークスたちの姿が与えてくれる衝撃は、確かに超弩級である。しかし、惜しむらくは、登場する“フリークス”がすべて、紛うことない本物であるという点である。なるほど、確かに彼らのもつ異形は多種多様で克つ具体性に富んでおり、あたかも彫刻作品に触れるときにも似た驚きと愉しみを味わわせてくれる。だが、それらが本物であるがゆえに、“裏”空間に留まり続けることを困難にもせしめている。
「裏」空間においては、正真正銘の本物であるか否かという問題は、さして重要ではない。真偽よりもまず先に、凄味が優先する。非合法であるはずの“裏ビデオ”を謳い文句にしたビデオテープが、メーカーの印字付きで堂々と売られている状況などは、その好例といっていい。ここにあっては、真贋と虚実とが互いに互いを補いその実存を裏付ける、もうひとつの“ものの在り方”が仄めかされている。異常なるものの出自の裏付けが、しかと成されているがゆえに異常なのではなく、正常と異常とが互いを補完し合い、正常が異常なるものすら呑み込んで、平然と君臨している真新しい現実感。これは、一歩間違えればその本物ゆえ、非合法の闇の中、あるいは合法の白々しい光の中へとみずから転落しかねない、映画『フリークス』の切迫感に比べ、映像作品『血肉の華』のもつ豊かさのひとつとして、好感のもてる部分であろう。
「擬似ドキュメント」という言葉は、「裏」世界にたゆとうものたちを、まさにみずからも「裏」空間に踏み留まり、位置付けている。異形なるものを、その異形ゆえ、表の側から一足飛びで非合法の世界へと追放するわけでもなく、逆に表の世界の詭弁や刺激の中へと懐柔するのでもない。そのいずれもが重なり合った部分において描き出そうとすることこそ、本論が述べようとしている「擬似ドキュメント」の立脚点である。
 ここ第三章においては、確信犯的にニセモノの描写を徹底的に積み重ねた結果、そこからニセモノ以外のものを突き当てようと試みた方法について特筆する。改めて言うが、ニセモノのなかに、それを超えた“空白”の存在を確信していたからこそ、この作業は成し得た。映画『フリークス』という作品がもっとも鑑賞者に訴えかけ、見せようとしているものは、紛れもなく「フリークス」の異形なる肉体そのものである。しかし、それを見るためには、積み重ねられた作為の寓話が打ち破られるのを、暫し待たなければならない。 
社会倫理を定義付ける基準は、時代や帰属する社会によって容易に揺れ動きもするが、映画『フリークス』に見出されるスリークスの肉体の凄味は、間違いなく普遍のものである。本映画は、今なおレンタルビデオ店で借りることのできる正規の作品でありながら、“表”の部分だけには納まりきらない、歪な存在である。表向きは、勧善懲悪の寓話として生真面目なほど社会倫理に則ってはいるが、その狭間から見え隠れする、そこには収まりきらない部分の底知れない力に、本作品が「擬似ドキュメント」の名前に値する根拠がある。ことフリークスの肉体の凄味を映し出すという一点において、夥しく積み重ねられた寓話の集積は、すべて必要欠くべからざる、作為の部分となっている。合法の論理、つまりは社会倫理を厳守しているがゆえの野放図が、ここには見てとれる。
 この凄味は、単に非合法に属する存在には、ちょっと出せないであろう。映像作品『血肉の華』の存在感も、他ならぬここにある。合法の範疇にありながら、同時に裏の部分にも身を浸している、この不可視性。この矛盾こそ、『血肉の華』が体現している独自性の一端ではないか。
 映画『フリークス』が、作為である寓話の積み重ねの結果、文字通りフリークスの本物の肉体を探り当てたのだとすれば、『血肉の華』は、作り物である血と肉の描写の結果、なにか本物を探し当てたわけではなかった。本編のスタッフロールと共に映し出される、ぶれた8ミリフィルムの映像も、これが監督の許に送り届けられたオリジナルの殺人映像であることを視聴者に暗示するに留まり、これもまた本編と同様に、監督自身が撮影した映像作品ではないという確証はどこにもない。
 本当には存在しないもの、あるいは存在が実証されていないものを、あたかも実在しているかのように見せている点で、『血肉の華』は魔術的である。映画『フリークス』においては、具体的なイメージとして、我々はフリークスの肉体を確かめることができた。しかし、『血肉の華』の凄味は、この肉体の凄味とは異質である。前者が、空っぽの檻の中からライオンが姿を表すマジックの驚きだとすれば、後者は、檻の中にいたライオンが、影も形もいなくなってしまう奇術を見る驚きにも似ている。映像作品『血肉の華』は、それが本物ではないという点において、絶えず言外に、見えざるモンスターの姿を描き出している。みずからが正真正銘本物であると喧伝する作品の多くが、ともすれば、作為のあざとい「商品」として透けて見えてしまうなか、『血肉の華』の存在は、今なお抜きん出ていると言える。
いかに、映し出された被写体それ自体に意味があり、それが客観なるカメラによって映し出されていたとしても、それだけでは足りない。その“客観の絵”を、みずからグイグイと引っ張ってゆく、力強きベクトルの必要性については、案外見過ごされがちである。

猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩