猫蔵の日野日出志論(連載18)

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猫蔵の日野日出志論(連載18)
日野日出志の『七色の毒蜘蛛』論(連載1)
猫蔵


池袋の居酒屋で。撮影・清水正 2011-7-18
 映像作品『ギニーピッグ2血肉の華』について、論じ尽くしたと思った。だが、解消されることのないもやもやが、図らずも僕の中に残ってしまった。
 その意識は、新宿の小奇麗な喫茶店にて、年長の友人と差し向かいで「ギニーピッグ」について話し合っているときに、次第に明確になっていった。
「君の説に従えば、この『血肉の華』という作品の性格は、つまるところ、女の“眼球”というものへの慕情・執着という、非常に人間臭いものへと還元されてしまうように読める」
 僕の書き上げた『血肉の華』論を読んだ彼のこの言葉に、本質に肉薄することができたと思っていた『血肉の華』の根底に、まだ自分自身明かしきれていない事実があることを僕は改めて自覚した。
 確かに僕は先の論において、『血肉の華』という作品のもつ有機性の欠如を指摘した。いわば、本作がいわゆる“内臓フェチ”と呼ばれる人々の嗜好を満たすことをその本質とはしていないことを早い段階で指摘した。
 切り開かれた女の腹部のなかにみずからの指先を突っ込み、ぐちゃぐちゃと掻き回して、その質感の手触りを愉しむというのであれば、百歩譲って共感できないこともない。これはある意味、非常に動物的・人間的欲求に根差した悦びともいえる。ここには少なくとも、不自然さの異議を挟みこむ余地はない。(弄ぶ対象が“眼球”になったとしても大差はない)
 だが、『ギニーピッグ2血肉の華』というビデオ作品がもつ歪さの本質はここにはない。ビデオ初見当時、僕がこの作品から感じとった底知れない不気味さと可能性の本質は、女の肉体に対する憧憬やフェチズムへの共感などといった範疇に納まりきるものではなかったように思う。まるでエリザベート・バートリーのように血と臓物の風呂に浸かる行為は、この上なく退廃ではあるが、逆説的に生を賛歌し、それを渇望しているという点においてまだどこか健全であり、『血肉の華』のもつ不気味さとは異なる。『血肉の華』の場合、生も死も肯定されることはない。それ以前に、このどちらも本質的には描かれてはいないといえる。一見すると、おびただしい血と肉が描写されていることから、本作を“生々しい”という形容詞にて評価してしまいがちだ。しかし、本編にて描かれる血と肉に、自然を伴った生々しさはない。死を実感させる痛みが意図的に伴われていないことが要因として挙げられる。
 具体的に見てみよう。まず本編スタート直前の冒頭のテロップにおいて、本作品はあくまで再現映像である旨が告知される。原版の実録映像があるにはあるが、事情があってそれは公開できないゆえ、苦肉の策としてそれを忠実に再現したものが本作品であるという断りである。本編がいかにリアルであろうとも、それはあくまでイミテーション、フェイクであるという前提を冒頭にて自覚させられた以上、鑑賞者は、例えば映画『13日の金曜日』において殺人鬼が犠牲者の脳天に斧を振り下ろしたときに感じるような“痛み”の臨場感をはじめから奪われている。
 次に、犠牲者となる女である。『血肉の華』では、犠牲者の女は腕に麻酔を注射され、正常な肉体感覚を奪われている。女は殺人者の男によって皮膚と肉とを切り裂かれるが、男自身の弁によれば、麻酔薬の効能によって、痛みどころか快感すら感じているのだという。当然、“死”という劇的なものを鑑賞者へと実感させるバロメーターともいえる“痛み”は始終、この女自身の身によって感じられることはない。殺人者の男の執拗なオペによるいったいどの局面においてこの女が決定的な死へと至ったのか、明確に判断することはできない。節目節目で口から大量に吐き出される血、内臓を引き抜かれ、首を切断され、あげく目の玉をくりぬかれ、この女は象徴の上では、死を幾度も執拗に反復しているようにさえ見える。ここにおいては、当然ながら本来は一回限りのものである“死”の希少価値は反故にされている。
 友人との会話を通じ、改めて浮き彫りにされたのは、『血肉の華』という作品のもつ不自然さである。この不自然さが、『血肉の華』という作品に至っては、欠点とはならずに、かえって印象に残るリアリティとして機能しているのは驚くべきことである。
『血肉の華』をはじめて観た子供時代、極論すればこの作品は、ひとりの男がマグロの切り身をひたすら淡々と切り分けているに過ぎない映像にも等しいとイメージしたことを思い出す。これはいったい何を意味するのか?劇中における怪人物の所作については、その狂気を黙示し際立たせるために敢えて冷淡な振舞いが演じられているのではないことに注目したい。解体を演じる男自身、過剰なジェスチャーを装い、これがパラノイア特有の“熱狂”による所作であることをアピールしているのであるが、それが目につけばつくほど、反対に男自身の冷めた理性と計算高さが露わになってくる。この乾いた眼差しが、子供時代の僕には気になって仕方がなかったのだ。ここにおいては、「アンチヒューマニズム」という認識はあまりにも無邪気に思える。ヒューマニズムへのささやかな反抗という意味においては、世のあらゆるホラー映画、悪趣味映画と呼ばれるものの多くはここに収斂されることになろう。しかし、『血肉の華』の内奥には、否定するべきヒューマニズムがはじめから存在していなかった。

 今回、論じるべきものは、日野日出志の漫画『七色の毒蜘蛛』(1971<昭和46>年「少年サンデー」11号初出)、日野二十五歳のときの作品である。底本として、ひばり書房刊・1988年10月初版の『地獄の子守唄』に収録されたものを使用した。冒頭で述べた映像作品『血肉の華』との関連は、論を進めていくうちにおのずと明らかになってくる予感がしている。いま、うっすらと僕の念頭にあるのは、“大義”という言葉である。小説家の三島由紀夫はかつてTVのインタビューにおいて、「武士に限らず、現代の人間もまた、心のなかにみずからを超える価値を認められなければ、生きていることすら無意味である、というような心理状態がない訳ではない」と述べている。これから見ていく『七色の毒蜘蛛』の主人公もまた、奇遇なことに日本刀をその傍らに置き、みずからの生業に勤しんでいる。いうまでもなく日本刀とは、「何のために生き、何のために死ぬか」という武士の大義が具象化したものである。この男はいったい、いかなるものに対して大義(みずからを超えたもの)を見出していたのか、われわれは着目しながら本編を読み解いてゆく必要がある。
猫蔵・プロフィール
1979年埼玉県生まれ。我孫子市並木に二歳まで住み、その後埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩