猫蔵の日野日出志論(連載11)

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猫蔵の日野日出志(連載11)

『ギニーピッグ2血肉の華』論③

猫蔵の著作『日野日出志体験』(D文学研究会)を手にする日野日出志先生
映像作品『血肉の華』は、稀に「嗜虐ビデオ」という呼称を用いて言い表されることがある。しかし、嗜虐趣味に主眼を置いた欧米のスリラー・スプラッター映画・人体破損映画と比較した場合、本作の場合は必ずしも、その呼称が妥当ではない事実に思い至るに違いない。欧米のそれは、残虐行為が加えられる対象からの“苦痛”や“恐怖”というリアクションに最大の価値を置いていることが明らかであり、その点で、被虐者がそれらのリアクションを返してこないのであっては用をなさないのだ。あるいは、映画『ネクロマンティック』(1987年/ドイツ)のように、はじめから死体への愛着に特化したものもあるが、それは往々にして、死体を性愛の対象としてみなす「ネクロフィリア」が主眼に置かれている。
しかし『血肉の華』の場合、このどちらもその本質ではない。さらわれてきた女は、鉄兜の男の手によって、早い段階でその意識を混濁させられてしまうし、ならば今度は、女の身体が切断され解剖されゆくその様に楽しみを見出すべきかといえば、これも“否”と答えざるを得ない(勿論、その過程を楽しむ人がいても大いに結構だが)。どうにも納まりが悪いが、先にも述べたとおり、この作品には、血や肉といったものの生々しさが、ぽっかりと欠如しているのである。万が一、この作品が称揚しているものが「ネクロフィリア」であれば、画面に映し出される死体は、少なくとも人目を惹き付けるなに(・・)か(・)をもっていなければいけない。そうでないと、鑑賞者を「ネクロフィリア」というものに感化させる説得力に欠けるからである。「ネクロフィリア」というものの実存と美学を伝えんとする製作者の意志は、『血肉の華』においてはまったく感じられない。それどころか、女の血と肉を掻き分けて進むこの作品のベクトルは、究極には、血と肉からの脱出を試みているようにさえ私には感じられた。
確認するが、『血肉の華』における“物語”とは、画面に映し出された血と肉とハラワタ、それ自体を指している。したがって“物語の破綻”とは、実際に映し出されたものと、作品の意思が映し出そうとしたものとの、隔たりを言い表すために用いられた言葉だと捉える。ただし、映されざる部分を見るためには、まず、映し出されている部分に目を凝らすことを忘れるべきではない。『血肉の華』という作品の独自性の一端は、オリジナルビデオ作品、それも一見風変わりなスプラッターとして把握されがちながら、既成のその言葉だけでは、消化しきれない部分にある。
確かに本作が、制作年度の1985年当時、その非常に卓越した特撮技術によるグロ・シーンや人体解剖のシーンを売りにしていたことは明らかだ。しかし、本作が私に印象付けた映像作品としての可能性は、そんなところに納まるべきものではなかった。
まず、いかに血や肉やハラワタが本物らしく描き出されていたとしても、それらは本物ではなく、あくまで再現映像であるという前提から映像作品『血肉の華』ははじまっていたし、なにより私の目には、それら特撮が、確かによく出来てはいたが(これは敢えて意図されたものであったのかもしれないが)、稚拙なものにさえ映った。
参考として、本編冒頭に流されるテロップ部分を引用する。

「怪奇漫画家日野日出志の元に、氏の熱狂的ファンと自称する正体不明の人物から、戦慄すべき小包が送られて来たのは、1985年4月、東京の桜も満開の頃であった。小包の中身は、1本の8ミリフィルムと54枚のスチール写真、及び19枚の便せんに書かれた手紙であった。手紙によると、何処か秘密の場所で、狂気に満ちた耽美趣味のパラノイアによる恐るべき猟奇犯罪が行われているらしい。8ミリと写真の内容は、正体不明の男が女の体をバラバラに切り刻んで、それをコレクションしている様子を、生々しく写したものであり、間違いなく実写と思われるものである。したがってそれを公開することは出来ないが、それら全ての資料をもとに、日野日出志自らが再構成して、セミドキュメントとして製作したのが、このビデオである」

 作品本編が再現物であるという、ある意味で開き直りのもと、本作はあらかじめ、視聴者に内在しているフィクショナルなものへの違和感(あるいは安堵感かもしれない)を、無化してしまう。いわば本作は、鑑賞者の視覚に直接訴えかける映像作品でありながら、映し出されたものはすべて贋作であるという前提で、本編を開示している。ここにあっては、映し出された血や肉に、色や臭いを感じないというは、至極当たり前のことではないだろうか。
 では、映し出されたものがすべて、イミテーション、レプリカであるならば、鑑賞者の目は、そこからなにを見てとるのか。それは、それら血や肉を画面に映し出している、ある眼差しそのものである。肉眼といってもよい。その肉眼が、一体何を見ようとしているのか、あるいはなにを見まいとしているのか、ということが次に問われてくる。その結果、その肉眼が見ようとしたものと、実際に映し出されたものとの隔たりが露わになる。見ようとしている以上、その対象がその肉眼にとって、欠落もしくは真に見たことのないものに相違ないであろうし、見たことがない以上、映し出されたものが、当の肉眼が見ようと目論んでいたものと一致するはずもない。
 例えば、先に述べた「九相詩絵巻」だが、これが鎌倉時代当時、仏教の立場の上からどのように利用されたかということはさて置き、実際にこれを描いた絵師はおそらく、極楽や悟りのもつ現実感を、地獄がもつ現実感ほどは、実感し得なかったに違いない。
一般に、文字の読めない庶民に仏の教えを絵解き、肉への執着を捨てさせるための教材であったといわれるが、悟りを促すために説得力をもっていたのが、描き出された骸(むくろ)の酸鼻極まる有様だったという事実が関心を惹く。「九相詩絵巻」に描かれた女の亡骸を目にした者は、それが実写でないにもかかわらず、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくるのを禁じ得まい。「九相詩絵巻」とは、無味無臭のはずの“悟り”と実際に描き出されたものとの狭間が、知らぬ間に見る者の目を惹き付けるのだ。
猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩