荒岡保志の志賀公江論(連載1)

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荒岡保志の志賀公江論(連載1)

70年代少女漫画に於ける志賀公江の役割(その①)


志賀公江論を執筆中の荒岡保志さんと。柏「水郷」にて。2010/10/30

志賀公江論、初めに

「志賀公江」という女流漫画家について、少女漫画ファン、レディースコミックファン、そして志賀漫画の愛読者はどんな印象をお持ちだろうか。

浦野千賀子」、「西谷祥子」、「池田理代子」、「有吉京子」、「山本鈴美香」らと共に、集英社「マーガレット」を、否、戦後の少女漫画を牽引した大御所少女漫画家の一人であることは間違いない。
そして、1980年代から舞台をレディースコミックに移し、なお精力的な執筆活動は続き、現在はレディースコミックまでも牽引している女流漫画家の巨匠である。

あえて代表作を挙げれば、1969年に「週刊マーガレット」に発表、連載が開始された「スマッシュをきめろ!」だろう。1968年に、同じく「週刊マーガレット」に連載された「浦野千賀子」の代表作「アタックNO・1」の流れを汲み、同年講談社少女フレンド」に連載された「望月あきら」の「サインはV!」などに代表されるスポーツ根性少女漫画ブームの波に乗った作品であり、テニスを題材にした漫画としては、1969年に「少女フレンド」に連載された「青池保子」の「ラケットに約束!」と共に草分け的存在である。
「コートにかける青春」というタイトルでテレビドラマ化もされ、1971年9月から約1年間に渡りフジテレビ系で放映された人気作品である。

テニス漫画と言えば、その後1973年に、同じく「週刊マーガレット」に連載される「山本鈴美香」の「エースをねらえ!」が有名であるが、タイトルを見ても分かる通り、これは「山本鈴美香」の、志賀公江に対するオマージュであったろう。

公表するのは初めてなのだが、実は、私、漫画評論家荒岡保志は少女漫画育ちである。
前々回で批評した神田森莉も少女漫画育ちということであるが、私と神田森莉は年齢的に同世代なので、同じ少女漫画誌を読み、育った偶然が存在した可能性もある。

その当時の少年漫画誌は、本当に汗臭いスポーツ根性漫画か下ネタ満開のお下劣ギャグ漫画に支配されており、絵柄も雑なものが多いという印象で、どうしても馴染めなかったのだ。ストーリーも、コマ割りも、絵柄も、圧倒的に少女漫画の方が勝っていると思っていた。

しかも、私が読み始めた少女漫画誌は、「週刊マーガレット」、そして「別マ」という愛称で親しまれた同じく集英社の「別冊マーガレット」である。

少年時代の私は、真剣に少女漫画家を目指し、学校から自宅に戻ると部屋に引き篭もり、熱心に漫画を描いては「別マ」の「マンガスクール」に投稿し続けた。結局、漫画家の才能はなく、入賞どころか佳作にさえ掠りもしなかったが、選外の中に自分の名前が載っているのを見て感動したことは覚えている。今から思えば顔から火が出るほど恥ずかしいのだが、当時の私のペンネームは「荒岡レナ」、少女漫画誌だったので一応女性名にして応募したのだ。何分少年期のことである。

横道に逸れたが、少女漫画育ちの私は、実はリアルタイムで志賀漫画にも触れている。冒頭で羅列した「西谷祥子」、「有吉京子」、「池田理代子」も良く読んだ記憶はあるが、正直、その記憶は朦朧とし、今となってはあまり思い出せない部分が多かった。その理由としては、1972年に「別冊少女コミック」に発表された、「萩尾望都」という天才の描いた「ポーの一族」のシリーズが全てを吹き飛ばしてしまったからである。

そして、ここで、再度志賀公江と向き合う機会が生まれ、約30年振りに彼女の作品を手にして、私の印象が随分間違っていたことに気づいた。代表作が「スマッシュをきめろ!」だなんて、とんでもない事だ。志賀公江という漫画家の本質を見ていなかった。もちろん、「スマッシュをきめろ!」は純粋に大変面白く読めるし、単なるスポーツ根性少女漫画とは一線を引く濃い内容の作品に仕上がっている。ただ、デビュー間もないこの作品では、まだ志賀公江の本当の肝は描き切れていなかったのだ。

私は、勝手ではあるが、志賀公江をこう評価したい、「志賀公江こそ、炎と情熱、灼熱の漫画家である」と。

志賀公江、1948年3月4日、神奈川県生まれ、魚座、血液型A型。1967年、集英社「マーガレット 増刊号」に掲載された「走れ!かもしか」で漫画家デビュー。本名、出身地詳細、出身校、その他の情報であるが、どういう理由か、出版された単行本にも、また、ウィキペディア等のインターネット上の情報にも一切公開されていない。
執筆活動の他に、東京都手話通訳等派遣センター、全国盲ろう者協会の登録通訳介助者としても活躍している。
直近の情報であるが、京都造形芸術大学で、来期より開設される漫画学科の学科長に就任が決定しているという。

少女漫画史、志賀公江デビューまで。

ここで、志賀公江の作品解説に入る前に、少女漫画というカテゴリーの誕生から、志賀公江が登場するまでの歴史について少しだけ検証したい。タイトルに示した通り、この「志賀公江論」は、志賀公江という漫画家論であると同時に、1970年代に訪れる一大少女漫画ブームを築いた立役者の一人としての彼女の役割、影響、位置づけを明確に掘り下げることを試みた研究論文でもあるからだ。
ただし、少女漫画というカテゴリーの誕生について、本気で掘り下げようとすれば、戦後どころか、明治時代の少女雑誌の挿絵まで遡らなければならない。少女雑誌の挿絵が少女漫画のルーツであることは、その絵柄の進化という部分でも大変重要なことであるが、あくまでこの評論は少女漫画家志賀公江と、その作品を中心としたものであり、「少女漫画史」に偏るものではないので、そこから掘り下げることがあるとすれば別の機会を設けたいと思う。

少女漫画誌の登場と言えば、1946年、講談社から発行された「少女クラブ」、現在の「少女フレンド」であるが、これは、もともと大正時代に創刊された少女誌「少女倶楽部」を改題したものである。少女漫画誌と言っても、実際に掲載された漫画は全体の20パーセント程度で、そのほとんどが記事と小説で構成されていた。その漫画も、ストーリー性が乏しい4コマ漫画が中心であった。少年漫画では、この同時期に「手塚治虫」の「新宝島」が発行され、50万部とも言われる異例の一大ベストセラーとなっていることを考えれば、やはり少女漫画は少年漫画に比べて一歩遅れていたと言えるだろう。

そして、少女漫画に、ストーリー性を持った現代漫画が登場し、少女たちのハートを鷲掴みにしたのは、やはり「手塚治虫」、1953年に「少女クラブ」に発表された「リボンの騎士」であった。このことより、少女漫画にもストーリー漫画が横行し、「石ノ森章太郎」、「赤塚不二夫」、「松本零士」、「横山光輝」、「ちばてつや」などの、今で言えば錚々たる漫画家陣が作品を発表し始めるのだ。
少女漫画の黎明は、男性漫画家陣を中心としたものであった。そして、現代少女漫画の礎を築いたのは誰かと言うと、やはり男性漫画家の「高橋真琴」で間違いないだろう。

大きな輝く瞳、びっしりと生えた睫毛、この典型的な少女漫画の特徴的な絵柄は、1970年代に入るまで続く。まるで西洋人形のような女の子の絵柄である。そして、もう一つ、「高橋真琴」は、少女の美しいスタイルを全身見せるために、平気で4段抜きのコマ割りをやってのけたのだ。4段抜き、見開きなんてコマ割りは、当時の少年漫画、否、現代の少年漫画でもそんなには多くない手法である。これは衝撃だったと言っていい。
まだある。それは背景だ。大胆に花を咲かせたり、流れるイラスト的な線の描写を表現したり、現代少女漫画でも通用する背景は、「高橋真琴」がこの時期に創作したものなのである。この「高橋真琴」の登場により、少女漫画は確実に変化、向上し、少年漫画と一線を引くようになるのだ。

余談ではあるが、「高橋真琴」の少女漫画家デビューは1957年、光文社「少女」夏の増刊号に発表した「悲しみの海辺」であるが、この後、たった5年間で少女漫画の執筆活動を絶ってしまっている。「高橋真琴」に、少女漫画に何が起こったのかは不明だが、「高橋真琴」については、前述した少女漫画の歴史と共に、別の機会にもう一度掘り下げて見たいと思う。

もちろん、気を吐いた女流漫画家陣もいた。「わたなべまさこ」、「牧美也子」、「水野英子」など、貸本少女漫画でも活躍した、それこそ女流漫画家の草分け、今となっては大御所中の大御所である。
1960年代に入ると、彼女たちに追従して次々と女流少女漫画家が登場し、少女漫画誌も創刊、また休刊を繰り返し、現代の少女漫画誌の基盤がほぼ完成を迎えるのだ。

1961年10月から、「石ノ森章太郎」と「水野英子」の師弟コンビが中心となり、「少女クラブ」誌上で、「少女クラブマンガスクール」が開校される。この少女漫画誌で初めての試みは、現代少女漫画に多大な影響を与えている、何しろ、その少女漫画家予備軍、投稿者には、志賀公江を筆頭に、「西谷祥子」、「池田理代子」、「青池保子」という現代少女漫画家のビック・ネームがズラリと並ぶのだ。そして、1961年、「少女クラブ」同誌にて「西谷祥子」が「ふたごの天使」で、1963年、集英社「りぼん」増刊号にて「青池保子」が「さよならナネット」で、1966年、「週刊マーガレット」増刊号にて「池田理代子」が「バラ屋敷の少女」で、更に志賀公江が前述した「走れ!かもしか」で次々とデビューを飾るのである。

荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)のプロフィール
漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。 現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。