猫蔵の日野日出志論(連載10)

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猫蔵の日野日出志(連載10)

『ギニーピッグ2血肉の華』論②

猫蔵と日野日出志先生 清水正研究室にて(2010/10/22)。撮影・清水正


剥き出しの思向

 まず、「剥き出しの思向」である。『血肉の華』という作品について、しばしば「物語性を廃した作品である」との評価を耳にすることがある。本作品では確かに、いわゆる“物語”と呼ばれるものの定型が崩されている。ただ、ここで改めて、“物語”という言葉の定義を明らかにしておく必要がある。
 本稿において、私は定義する。映像作品のなかにおける“物語”とは、「映し出されたモノ」それ自体によって意味される、ドラマのことである。こと映像作品において、モノそれ自体が映し出されないことはありえない。しかし、例えば映像作品『血肉の華』において、あれだけの夥しい血と肉が描かれながら、私の記憶に印象付いたのは、それらの色や臭いなどではなかった。むしろ、それらを画面の上に映し出している、カメラのもつ眼差しそのものであった。 
写真を含めた映像作品のなかには、映し出されたモノそれ自体の意味によって見る者を圧倒する場合に加え、映し出されたものそれ自体はなんの変哲もないもの、あるいは映し出されたもの自体のなかには、必ずしも圧力の中心がないにも関わらず、見る者の目を惹き付けてやまないものが存在する。
 両者の違いは、前者が、先に私が“物語”として定義した力に寄っているのに対し、後者はその力に、必ずしも寄りかかっていないところにある。“物語”が、映し出されたモノそれ自体の結果に求められるとすれば、それとは別に、我々はそれを映し出す眼差しそのものについて目を向けてみる必要がある。この眼差し、殊に映像作品『血肉の華』中に存在する眼差しについて、「剥き出しの思向」と命名する。『血肉の華』において廃されていた“物語”とは、映し出された血や肉、それ自体が帯びたドラマのことである。ここにあっては、血や肉それ自体がもつ、臭い、温度、湿度といったものも例外ではないことを注意しておく。
 この章では、『血肉の華』に類似する作品として、映画『死の王』(1989年/ドイツ)をとり上げる。『死の王』は、自殺や死に至る直前の、登場人物たちの様子を描写したオムニバス・フィクションである。彼らが何者で、なぜ死ななければならないのかについて、語られることはない。『血肉の華』との類似は、この作品がいわゆる“ホラー”に類するものでありながら、私の心に訴えかけてきた部分が、表面的なグロテスクや残酷には限定されなかったことである。
 なかでも忘れ難いシーンがある。本編中盤、カメラはおもむろに、ある陸橋の袂を映しはじめる。間もなく、画面上に白抜きのテロップが映し出される。「ハイケ・フリードマン 23歳 教師」。どうやら、この鉄橋において自ら命を絶った(あるいは命を落とした)者の名前・年齢・職業と解釈するより他になさそうだ。カメラは、長回しでゆっくりと移動しながら、陸橋の全貌を映し出す。バックにBGMはない。時折、どこからか自動車のエンジン音が微かに聞こえてくるのみである。白抜きのテロップは、カメラのスクロールに合わせて、突発的に映し出される。
 故人らしき名前・年齢・職業はまちまちで、実業家であったり、11歳の小学生であったり、83歳の農夫であったりする。ここまで映画を観てきて、比較的ショッキングな自死のシーンに目の慣らされてきた視聴者は、驚きを新たにすることだろう。描かれるのは、具体的な死の場面ではない。ただの名前の羅列である。しかし、それゆえに衝撃は大きい。このカメラの眼差しは、年齢や職業、性別によって扱いを変えることはない。
 このシーンを眺めているときの心境は、『血肉の華』を観たときの高揚と、相通じるところがあった。『血肉の華』の一場面で、とくに印象に残っているものがある。
 麻薬入りの注射を打たれて正気を失い、ベッドの上に横たわっている女の手首を、黒い鉄兜を被った男が、ナイフで切断しにかかる。しかし、ナイフで骨を断ち切ることは容易ではなく、男の呼吸は乱れている。ときおり薄目を開けて身悶えする女とは裏腹に、無骨な態でナイフを動かしている。ひとしきりナイフで骨を削った後、男は両手を用い、女の手首を引きちぎりにかかる。そして、女の手首は彼女の身体から切り離されてしまう。息を吐いた後、男は口の端を歪める。すると、切り離された掌が、男の右手を握り返してくる。まるで蟹の足のように、それぞれの女の指は異なった動きで蠢き、男の手に絡みついてくる。男は、握り締めてきた女の指を、丹念に一本ずつ引き剥がす。そして男の手から引き剥がされた手首は、おのずから握りこぶしをつくり、丸くなってしまう。
 初見当初、このシーンに目を惹かれたことを覚えている。『血肉の華』のなかには、これ以上にスプラッターで嗜虐的なシーンもあったはずである。なにせほぼ全編を費やして、鉄兜を被った男による、さらってきた女性の解体シーンが展開されるのである。血の滴るような赤や、切り開かれた肉の鮮烈な臭いがイメージされても良いようなものの、私の記憶に印象付けられたのは、この女の手首であった。
 これは、一体なにを意味するのか。切り離された女の手首というものは、確かにショッキングな具象である。手は人間活動にもっとも密着した部位であり、首や足といった他の部位と比べて印象に残り易いという推察もあるだろう。しかし、ここに映し出された手首の驚きを、切断された首、切断された太モモといったものたちと同列に置き、そのグロテスクさの度合いでのみ、推し量ることには違和が残る。
 ここでの女の手首への驚きは、もっと異質なものである。その根は、女の手首へと視線を向けた、カメラそのものの眼差しに根差している。状況を映し出すカメラは、女の“血と肉”のみには飽き足らない。『血肉の華』というタイトルでありながら、カメラの眼差しは、必ずしも血と肉には充足し得ないことを予感させるのである。
 ひとつ言えるのは、中学生だった私は『血肉の華』という作品に対し、本質的には、血や肉のもつ残虐性に酔いしれていたわけではなかったということである。
 映画『死の王』において、私の心を高揚せしめた部分が、前述の陸橋のシーンであったように、『血肉の華』においてもまた、私は“血と肉”の只中にあって、それら具象のもつ有機性に心奪われていたわけではなかった。むしろ私はそれら具象から、あらかじめ意図された無機質さすら感じとっていた。画面には滴るような血と肉の姿が映し出されていながらも、そこから不思議と生々しさを感じることはなかった。『血肉の華』という作品はむしろ、コンクリートやプラスチックのように、不気味なほど人工物めいた作品として私には感じられた。少なくとも私は『血肉の華』を、生々しい血や肉を鑑賞するための作品としては捉えていなかったことになる。
 映像作品『血肉の華』が、他の作品と比べ、(良い意味にしろ悪い意味にしろ)どこか過剰な部分を有した歪な作品であったことは、私のなかに、芸術に対する観方のひとつの規範を形作る端緒となった。『血肉の華』の過剰さとは、描かれたものの過剰さではなく、描こうとする意思(・・)の過剰さである。
 ここで、意志ではなく“意思”という言葉を使ったのは、そもそも本編が、ある映像を再現したものであるという前提をとっていながら、本編を映し出す映し手自身の存在が、劇中において映像を映し出している者との、一体化を感じさせるからである。そもそも一体誰が映し手なのかという、自明なはずの焦点が不明瞭であり、あえて言うならば、カメラの視点とでも言うべき主体不明の映像によって、そもそも本作は成り立っているからである。このことについては、後ほど詳しく論じる。
 いずれにせよ、私のなかに形作られた芸術観は、いつしか『血肉の華』とその印象を共有するイメージとして、「九相詩絵巻」と呼ばれる一巻きの古い絵巻物を想起させるようになっていた。
九相詩絵巻」とは、鎌倉時代に描かれたとされる絵巻物である。そこには、時を経るごとに朽ち果ててゆくひとりの美女の姿(小野小町との説がある)が、克明に綴られている。しかしながら、これを単なるグロテスクと言ってしまっては、本質を見誤ることになる。グロテスクとは、一過程である。美しかった女の面影が失われ、醜く爛れていく様は確かにグロテスクだが、その過程を経て後は白骨が残されるのみである。「九相詩絵巻」は、女の白骨が風に曝され、野に散逸するまでを描き出している。そこにおいては、グロテスクという言葉は空しく響く。
 ここにおいて過剰であり、異様なのは、写し出された死体そのものではなく、それに執拗な視線を注いでいる、観察者の視点であろう。そこにあっては、いかな美女といえど、徐々に虚飾を剥ぎ取られ、肉や骨と共に、その本質を露わに剥き出されていく。
 事実、私は『血肉の華』を観てから数年後、生まれてはじめて、原稿用紙数十枚の長さに及ぶ散文を書き上げた。『血肉の華』という作品を消化しきることのできなかった私は、この作品を念頭に文章を書き綴ることによって、再度自分なりの咀嚼を試みたのかもしれない。文章を書き上げる過程、私の内部で、『血肉の華』はその商業的側面と思われた部分を可能な限り削ぎ落とされ、より純化した形として再構成された。
 結局私は、なんのものとも知れない一匹の動物の死骸が、野ざらしにされ、朽ち果てていくさまを描写した。もっと言えば、朽ち果てていくものは、早い話が、肉でも魚でも何でもよかった。それよりも私は、『血肉の華』で、ある男の行為を執拗に映しだすビデオカメラのレンズの眼差しに、興奮を覚えた。このとき感じたカメラの眼差しは、まるで蟷螂の複眼のように、原始的で力強いものであった。私はまず、このことを自覚しようとしたのである。
 特撮技術や映像美の観点から、本作の本質に迫るには限界がある。本作では、血や肉そのものよりも、血や肉を思向する苗床の部分、作品の意思が思向する方向性にこそ、着目すべきであろう。更にいえば、本作を過剰至らしめているものは、血や肉を掻き分けてなお進む、飽くなき剥き出しの思向に他ならない。映像作品『ギニーピッグ2血肉の華』に正当な評価を下すとすれば、まずここに立つべきである。
 この眼差しは、映画『死の王』でもまた、見受けられた。この映画が、(勿論演技としての)自殺者たちの死の場面を映し出すのみならず、長回しの陸橋の映像と一行のテロップのみを用い、そこに、“死”を不断に撮り続けるカメラの眼差しを鑑賞者に意識せしめた意味は大きい。この効果によって、『死の王』の映像を映し出す眼差しに、鑑賞者みずからの眼差しを重ね合わせて鑑賞することが可能となる。
 この眼差しに、力強さと共に、言い知れない不気味さをも感じるのは私だけだろうか。映し出されているものは、なんの変哲もない風景に過ぎない。『血肉の華』の血と肉そのものに対し、私がさほどシンパシーと戦慄を覚えられなかったのと同様に、それ(・・)自体が不気味さの本質ではない。しかし、それを見る(・・)こと(・・)を(・)免れ得ない(・・・・・)視線には、ぞっとするものを感じてしまう。
 それはなにより、“死”というテーマに対する恐怖である以上に、目を逸らすことができないことに対する恐怖であるように感じる。映画・映像作品という性質上、映像を映し出している主体は、もちろん撮影者自身であるが、カメラという道具を抜きには成り立たない。カメラの眼差しは、撮影者の意図や目算を超えて、過剰に理性的に存在するであろう。この理性の過剰が、言い知れない不気味さの源なのだ。血や肉のリアルスティックの優劣が問われているのではない。ましてやそれらを、ホラーや嗜虐映画のアイコンとして受容することは、鑑賞者の完全な敗北を意味する。女の血と肉を掻き分けて進む、過剰に理性的な視線のベクトルに、鑑賞者は恐ろしさを感じるのだ。
 子供のころ、不意に後ろを振り返ると、そこではまだ世界が出来上がっておらず、自分を取り巻く他人の顔すべてが異常をきたしているような気がして、幾度となく振り返らずにはいられなかった記憶がある。私は私自身の目の万能さでもって、世界の安定を確かめたかったのである。ただ、内心恐れながら後ろを振り返ったところで、訝しげに私の顔を覗き込んでくるだけだった他者の眼差しに、軽い失望を覚えたものだ。私は確かに、世界の表層が追いつくよりも先に、私の目が世界の原像を捉えてしまうことを、期待していた。期待と懸念とは、本質的には同じである。確認とは、その期待と懸念とを一時的に解消するための、露光行為といえる。
 改めて、「意志」ではなく“意思”という言葉を使い、『血肉の華』を論じてみたい衝動に駆られる。詰まるところ、「意志」という言葉は誰かその所有者に帰属するが、一方“意思”という言葉は、むしろどこまでも拡散する性質をもっている。例えば「意志」というものが、断続的な点を形作るとすれば、“意思”は、絶えず途切れることのない直線を形作るであろう。

猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩