猫蔵の日野日出志論(連載19)

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猫蔵の日野日出志論(連載19)
日野日出志の『七色の毒蜘蛛』論(連載2)
猫蔵


池袋の居酒屋で。撮影・清水正 2011-7-18
 見開き1ページ、左1コマ目。
 四畳半ほどの畳張りの一室。その中央で、こたつに両足を突っ込み、座って漫画を描いている男がいる。男の傍らには、散乱した煙草の吸殻やどぶろくのビンが据え置かれ、長丁場の仕事である様子が伺える。ただ、頬杖をつき、疲労の色濃い思案顔をした男のこたつ机の脇で、鞘立てと共に立てかけられた一振りの長刀が、異彩を放っている。波打った前髪を額に貼り付け、落ち窪んだ目に細い血管を浮かび上がらせた男の姿は、その内面世界の濃密さとは相反し、肉体的充実からは遠く隔たった印象を受ける。しかし、この一振りの刀の存在が、この男が絶えず、肉体的・男性的充足を渇望する者であることを暗に物語っている。
 武士の心得について著した山本常朝『葉隠』の一節、「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」はあまりにも有名である。この一節にまつわる解釈や曲解も多岐にわたり、そのことについての細かな言及はここでは割愛する。ただ、この男が刀の向こうに“死”を見ていることは明らかだ。前述した三島の言を借りれば、みずからをも超えうる価値=大義のためであるならば、自身の肉体を投げ打つことも厭わないとする美意識の薫香のようなものが、この一見惨めな四畳半の絵から嗅ぎとることができる。

 男は独白する。
「わたしは、最近、まんがをかきながら 背中がチクチクと いたい時がある…」
 時どき、針を刺すような激痛が背中に走ることもあるという。四畳半といえども、ここは男ひとりには充分な広さの部屋である。部屋の中央で背中の痛みに神経を尖らせ、時折、「あつつ…!!」と声にならないうめき声をあげる男。その姿は、幸福な熱中のなかにおいて没頭している漫画の執筆というよりも、身を削りながら白いマス目を一つずつ黒く塗り潰してゆくような、どこか苦行の生業を思わせるものである。
 事実、我々はこの男の座る四畳半の畳の目に着目すべきだ。ここでは一切のスクリーントーンは使用されることなく、すべて作者・日野日出志自身の描き込みによって手描きされた畳の目の筋が刻み込まれている。また、書き物机を兼ねたこたつのこたつ布団の模様は、一面、中心を黒く塗り潰された二重丸となっている。いうまでもなく、目玉を想起させる模様である。これらから、この主人公の意識は不断に外部のある何者かによって注視されており、覚醒状態にあると言ってもいい。熱中の忘我に身を沈めそうになると、絶えずその手前で彼を理性の水面へと引き戻すものこそ、背中のチクチクとした痛みの体感である。ゆえに、創作のエクスタシーや没我よりも、脂汗を垂らしながら筆を走らせている印象をこの絵から受けるのであろう。
 この男はみずからの描くものに限りなく意識的なのだといえる。ただ、前出の『葉隠』の「死狂い」という言葉を挙げるまでもなく、侍が刀に賭すべきは、一切の計算や自意識をも超えた、純粋行動の発露である。ここにおいて、男のジレンマが少しずつではあるが、見えてくる予感がする。
 4コマ目。「そんな時、私は 私の恐るべき記憶の糸をたぐらざるを得なくなるのだ」。畳の上に寝転び、男は咥え煙草の煙をくゆらす。そして、上着の上から背中をさすっている。針を刺すような背中の痛みが、男にいかなる記憶を呼び覚ますというのか。

見開き2ページ。
 寝そべったまま、咥えていた煙草を灰皿に押し付けている。やがて男は、ボサボサの髪を紐で後ろに束ね、手鏡でその表を確かめる。改めて、左右の瞳の大きさの不揃いな、青ざめた形相である。ただ、このときはじめて、男の口角が上にもち上がっているのが確認できる。彼の内奥にある喜びの感情にスイッチが入ったのであろうか。
“笑う”ということについては、もちろん理性によって統制された笑い(愛想笑いなど)もあるが、ここから読みとれるのは、男自身の、“理性”から“感情”への心地よい傾斜である。刀を手にしたことにより、男は先ほどまでの慢性的な背中の痛みからいっとき解放され、喜びとも忘我ともつかない微笑を口許に浮かべている。神経質で怪訝そうな面持ちで書き物机に向かっていた先刻までとは一変し、後ろ髪を束ね畳の上に起立した男の形相は、漫画家というより、『血肉の華』でいうところの熱狂にとり憑かれたパラノイヤを思わせる。
 見開き2ページ目。墨の滴る筆で日の丸を描いた半紙を、部屋の天井から吊り下げる。日の丸からは墨汁が滴り落ちている。
 先刻の「背中の刺すような痛み」が襲った後、怪奇漫画家を名乗るこの男が条件反射的に視覚化したものこそ、日の丸(日本国旗)であったというのは注目すべき点だ。本作『七色の毒蜘蛛』においても顕著であるが、凄味と共にある種の戯画的な滑稽さとが同居した日野漫画の絵のタッチに、安堵とともに、漫画、ひいては創作行為というものに対する拭い難いかすかな憐憫の情を覚えている自分がいる。この男はどこまでも理性の人であり、いかなる深刻な出来事もこの男の筆の前ではシニカルな戯画となり茶化しの対象となってしまうであろう。では、この男にとって、けっして戯画にすることのできないものは果たして存在するのだろうかという考えが僕の脳裏を横切る。ただ、時たま襲ってくる鋭い背中の痛みを経て後、みずからの過去の記憶と向き合う男の姿は、ひとときその理性の呪縛から解き放たれている印象を受ける。男の理性をも呑み込み、熱狂の没我へといざなうものの象徴こそ、日の丸に他ならない。
 以下、見開き2ページ目における、男の独白を引用する。理性の方向へと傾いていた男自身のモチベーションを、日の丸同様、彼にとって本来あるべき方向へと導くモチーフの登場に注目したい。
「深い深い 無限の記憶の闇の底から、記憶の糸を たぐりよせてみると、その糸に、原色の ドロ絵の具をまぶした 記憶の断片がズルズルとくっついて出てくる…」。ここまでにおいては“原色のドロ絵の具”という言葉が一際鮮やかだ。
「それを どこまでもどこまでも たぐりよせて、もうこれ以上はひきだせない所まで たぐりよせてみる… そうすると、ある一点を境にして、その先が スーッと無限の闇の底にとけこんでしまう」。ここでは、“ある一点”という部分に特権的な意味合いが付されている。“ある一点”という男の独白に合わせ、薄暗い部屋のなか、男自身の手によって鞘からずらされた刀身の一部が鈍く輝いている。「その一点こそ…!!私の記憶の…恐るべき 幕開けの 瞬間であり… その一点から、私の記憶はとつぜん…まさにとつぜん!! 打ち上げ花火のごとく…!! けんらんたる色彩に 色どられて、あざやかに現れるのである」。独白の最後においては、“恐るべき”という感情の盛り上がりと共に、“打ち上げ花火”という、激しい色や音を伴う言葉によって締めくくられている。
 鞘から刀を抜いた男は身構え、「ちぇ〜すとっ!!」の奇声と共に、日の丸めがけ横なぎに刃を走らせる。
 
猫蔵・プロフィール
1979年埼玉県生まれ。我孫子市並木に二歳まで住み、その後埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩