偏愛的漫画家論(連載56)

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偏愛的漫画家論(連載56)

日野日出志論Ⅲ


柏「水郷」にて。荒岡保志と清水正。撮影は常連の藤井さん。
日野漫画最大の問題作「女の箱」論
女の情念は箱の中に封じ込められるか?〜つげ漫画へのオマージュ
漫画評論家 荒岡保志

●幻の漫画専門誌「まんがNO.1」が届く〜「女の箱」論、初めに


「偏愛的漫画家論 日野日出志論Ⅱ」の連載も予定通り6回で終了し、次回の連載に向けて、四方、天井までぎっしり漫画本が並べられた書斎を物色し、何人かの漫画家の作品を手に取って読み返していると、ちょうどその時に、オークションで落としたばかりの漫画専門誌「まんがNO.1」が届く。2006年に、中古レコード販売店の草分けであるディスクユニオンと、フジオ・プロダクションの協力により、赤塚不二夫画業50周年記念企画として発行された「赤塚不二夫のまんがNO.1シングルズスペシャルエディション」である。

「まんがNO.1」は、1972年に日本社から創刊された、赤塚不二夫が私財を投じ、自らが編集した漫画専門誌である。執筆陣に、赤塚不二夫を始め、杉浦茂森田拳次、藤子不二男、楳図かずお永井豪谷岡ヤスジ山上たつひこ松本零士日野日出志などの漫画家たち、平井和正平岡正明滝沢解などの作家たち、横尾忠則湯村輝彦及川正通佐伯俊男などのイラストレーターら錚々たる面々が参加し、言わば青林堂「月刊ガロ」のパロディ版といった印象の密度の高い漫画専門誌であったが、残念なことに、わずか半年で休刊になってしまった。毎号付録として付いていた、三上寛、井上揚水、中山千夏山下洋輔ら、これも錚々たるミュージシャンが参加したソノシート・レコードにより、第三種郵便物の許可が取れなかった事、また、販売元の日本社の持つ雑誌コードがエロ本のもので、書店の漫画売り場に並ぶ事がなかった事がその原因である。

赤塚不二夫のまんがNO.1シングルズスペシャルエディション」がディスクユニオンから発行されたのも、その事情に他ならない。付録のソノシート・レコードの存在が、「まんがNO.1」を、雑誌ではなく、音楽ソフトとして認識させてしまったのだ。同時に、全6号の「まんがNO.1」の中から抜粋した「ベスト・オブ・まんがNO.1」が、今度は付録として同梱されるが、私の購入目的は、リマスタリングされCD化したソノシート・レコードではない事は言うまでもないだろう。

「ベスト・オブ・まんがNO.1」は、1972年11月に発行された創刊号から、1973年4月に発行された最終号までの全6号の中から、フジオ・プロダクションの重鎮、長谷邦夫が抜粋、再編集した約250ページの雑誌である。漫画だけではなく、グラビア、イラストなどのフルカラーのページもふんだんで、1970年代のアート、ファッションをも回顧させ、上々の出来栄えの雑誌に仕上がっている。

日野日出志は、1973年2月に発行された「まんがNO.1」2月号に、24ページの読み切り短編漫画「女の箱」を発表している。センターカラーのページに掛かったのか、16ページはモノクロで、ラストの8ページのみがフルカラーとなる風変わりな構成であるが、その為にこのラストシーンがより美しく、哀しく、また深く演出されるのだ。

日野日出志ご本人は、「女の箱」をどう自己評価しているのだろうか。今まで、日野日出志の数多い単行本の後書き、特集号の記事、インタビューなどでも、この「女の箱」のタイトルが出たのを見た事がない。そして、今まで、どの単行本にも収録されておらず、かくいう私でさえ全くのノーチェック、否、チェックしようとさえ思わなかった。

しかしだ。これは迂闊であった。これは大変な傑作なのだ。「蔵六の奇病」、「赤い花」に堂々と並ぶ、一大傑作ではないか。この作品について書かない手はない、そう思い、「偏愛的漫画家論 日野日出志論Ⅱ」を書き終えたばかりであったが、引き続き「日野日出志論Ⅲ」を書く事にした。この傑作を、このまま埋もれさせるわけには行かないと思い立ったのだ。


●女は思い出を箱に詰める


この美しくも哀しいストーリーは、六畳一間のアパートから始まる。日野漫画特有の、やや憂いのある切れ長の目の美しい女、そして、窓際でギターを爪弾く男。ベランダの鳥篭には二匹にインコ。二人は同棲して一年目を迎える。
女は、箱を集めるのが趣味であった。女の部屋は、色取り取りのたくさんの箱によって占領されていた。それは、女が美しい色紙で作ったり、お店で気に入った箱を買って来たりしたもので、思い出を詰めているのだと言う。

女は、中でも古い箱を取り出し、まだ幼い頃の、田舎の風景を思い出す。羽子板、鞠つき、雪だるま、綾取り、鳥追い、優しいお婆ちゃん、その箱を開けると、女の目の前に、その頃の思い出が拡がるのだ。

女はバーのホステスで、男はそのバーで知り合った学生である。男は、そろそろ女とは別れ時だと思っていた。男にとって、女は肉体の結合以外は何もない関係であったが、女は真剣だった。女は、過去に何人もの男に騙され、捨てられていた。そんな女にとって、この男が最後の拠り所だと思っていた。ただ、女も、この男も自分を捨てるのではないかと薄々気が付いてはいたが、男に抱かれる事によって、その事は押し殺すのだ。
その情事を、鳥篭の中のインコが見下ろす。

この年度、1972年に発表された作品を見てみると、あの「赤い花」を始め、「かわいい少女」、「お〜いナマズくん」、「ぼくらの先生」、「水色の部屋」など、なるほど、力作揃いの年度である。ただし、残念なのは、この年度に発表された作品のほとんどが、この「女の箱」を含め、単行本未収録となっている事だ。虫プロ商事など、出版社自体が倒産してしまった止むを得ないケースもあり、仕方のない事ではあるが、何とも惜しいと言わざるを得ない。

「女の箱」は、明らかにつげ義春を意識して描かれている。このストーリーを見てお分かりの通り、そのつげ漫画とは、同棲する若い男女の、揺れ動く思いを描いた「チーコ」である。この作品は、日野日出志ご本人も、影響を受けた漫画家の一人に挙げているつげ義春の初期代表作である「チーコ」へのオマージュであるのだ。
もう冒頭から熱が入っているのが伝わって来る。細かく描き込まれた畳の目、家具の木目、襖、土壁の染み、そして、日野漫画では最初で最後であろう濃厚な情事シーン、女の表情、男の筋肉、絡み付く腕、脚、男の背中に立てる爪などが実に細部に渡って描かれているのだ。
また、箪笥の上に並べられる箱の隣にあるケースに入った人形も、つげ漫画「チーコ」へのオマージュである。


●インコは飛び立つのだ


そんなある日、可愛がっていたインコのうち一匹が、開け放しの窓から飛び去ってしまう。男と暮らし始めた一年前に飼い始めたインコである。女は、あんなに慣れていたのに、と悲しむが、空かさず窓を閉め、逃げようとする残されたインコを捕まえ、強く握り締めるのだ。こんなに可愛がっていた自分の下から逃げようとするインコが許せなかったのである。男が、慌てて女の手からインコを逃がすと、女は、男の胸にすがりつき、あなただけは私を捨てないでと泣く。
それから二、三日すると、残った一匹のインコの姿も見えなくなる。

女が仕事から酔って帰って来ると、妙にご機嫌である。酒の為でもあるが、お店で気に入った箱を見つけたらしく、買って来たのだ。女は、男に、愛していると言ってとせがみ、男の乳首を噛む。そして、血が流れるまで強く噛むと、その胸の血を買って来たばかりの箱へ入れるのだ。男は、言い知れぬ不安を感じ始める。

男は、友人に女の事を相談する。もう決めていた事だ。男は、女に置手紙を残し、女の貯金を持って消える算段をしているのだ。男は、友人に、荷物を運ぶ為の車の手配をお願いするのである。

そして、その日はやって来る。いつも通り、バーに出勤する女の後姿を窓から確認し、男は荷物をまとめ始める。そして、女の貯金を持ち去ろうと物色する男は、女の箱を一つ落としてしまう。
その箱の中は、血に塗れ、腐敗したインコだったのだ。逃げたと思われた、残った方のインコで、この血は間違いなく男の胸の血である。男は怯える、やはり女は狂っていると。

尽くしても尽くしても自分の下から飛び去るインコ、そして男。不安なのは男だけではない、否、女の不安の方が遥かに強い。愛していると言ってとせがむ女は、男が女を愛していない事を充分過ぎるぐらい分かっているのだ。せめて言葉だけでも、せめて情事だけでも、その瞬間だけ、女は安心するのである。

そして、残りラスト8ページからフルカラーになると前述したが、それは、この血に塗れた、腐敗したインコのクローズアップからなのである。何と効果的なフルカラーページであろう。

●女は情念を箱に詰める、永遠に


そこへ、突然女が戻って来る。お店でボヤがあって、今日は休みになったという。焦りを隠せない男。片付けられた男の荷物を見て、全てを察する女。ちょっと整理をしていただけ、と男は誤魔化すが、悪い事に、今度は、男の友人がトラックを横付けにし、男を迎えに来てしまう。
女の目は、ある決意に燃えるのだ。

その場を何とか上手く逃れた男は、女と交わる。いつもより、激しく、熱く、そして、それが最後の情事であると、女には分かっているのだ。

女は、夜食に、男の好物のホットドックを作る。激しい情事の後で、空腹も一入だろう、男はホットドックを貪るのだが、すぐに異変は起きる。男は急に苦しみ始め、嘔吐し、最後には多量の血を吐き、果てる。女が薬を入れたのだ。もう悲しい思いは二度といやだと、女は言う。そして、男の亡骸に、あなたは永久に私のものと微笑むのであった。

やがて、女の箱のコレクションに、大きな木箱が加わる。その木箱の上には、血で認められた女の遺書が置かれていた。
「この手紙を最初に見つけてくれた人にお願いします。どうかこの箱のままで埋めるか焼くかして下さい。これは私の遺言としてぜひぜひお願いします。そのためにこの字を私の血で書きました。私はこの人と共にあの世で幸せになります。さようなら」

女は、大きな箱の中に、男の死体と、様々な思い出を封じ込めた色取り取りの箱を収め、自らもその中に入り命を絶ったのだ。女の箱は完結したのである。

このラストシーンの美しさを文章で表現する事は困難である。色取り取りの箱に囲まれて眠る美しい女、そして男。血色を失い、青みがかった二人の肌。それを囲む原色の箱、箱、箱。最後に愛した男、そして思い出に包まれ、安らかに眠る女を、更に包み込む大きな木箱。一読した際に、鳥肌が立った。この女の情念に、このラストシーンの美しさにだ。これを傑作と言わずして、何を傑作と言うのだ。


●日野漫画の凄さを再認識する〜「女の箱」論、最後に


「女の箱」は、ホラー漫画とは言えないだろう。カテゴリー的には、「赤い花」と同じベクトル上にある、江戸川乱歩的耽美主義の世界である。しかし、私は、この誰も知らないだろう初期日野漫画を見て、この時期に描かれた日野漫画を、再度探してみようと思い立った。単行本化されていないが為、当時の出版物、漫画専門誌を探すしかなく、かなり困難なのは承知の上である。入手次第、このブログの中で順次ご紹介したい。






この日、「水郷」で荒岡保志の「女の箱」論について話す。なんで〈文鳥〉が〈インコ〉になっているのか。単純な思い違いで、鳥のことをよく知らないとは荒岡保志の弁解だが、日野日出志のマンガにおいては〈文鳥〉よりは〈インコ〉の方がよりふさわしい感じがするので、敢えて訂正せずにそのままにしておいた。この作品に関しては私も批評してみたい気持ちになった。(清水正