猫蔵の日野日出志論(連載17)

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猫蔵の日野日出志(連載17)


志賀公江先生と日野日出志先生。日芸文芸学科にて。撮影・清水正
日野日出志水色の部屋』(ヤングコミック/1972年初出)論
「遥か…遥か彼方の この世の果てに 胎児の集まる海があるという 闇から闇に葬られた 胎児の墓があるという 無数の胎児達が漂う 海の墓場があるという そしてこの死の海に 今日もまた 名もない一人の 胎児が流れついた」

 雨が降りしきるなか、古びた産婦人科病院から出てきた、一組の若い男女がいる。夫は妻・千代子の腰に手を添え、雨傘を差している。彼は妻を気遣う声をかけるが、その青ざめた顔が、堕胎という行為に対する後ろめたさを語っている。寄り添う妻の表情も冴えない。
「あたしたち、まだ若いんだし」
 妻は、泣き笑いの表情を浮かべて言う。
 だが、夫婦の行く道先には、単調に打ち据えられた木塀がずっと続き、周囲の景色は見えない。かろうじて見えるものといえば、遥か遠方に聳え立っている、溶鉱炉や煙突といった建築物のオブジェだけだ。それらに、先ほど妻が口にしたような「若々しさ」や、それに伴う開放感を読み取ることは不可能だ。黒塗りにされた夫婦の後ろ姿のシルエットが、子殺しという自責の牢獄に囚われている彼らの現状を暗示させる。
 この『水色の部屋』には、経済的な理由で子供を堕胎せざるを得なかったある夫婦の、異様な体験が描かれている。本作の題名になっている「水色」とは、若い夫婦が暮らす畳張りの部屋において、妻が感じる肌寒さを表している。開け放たれた窓の向こうには“しとしと”と雨が降り注ぎ、てるてる坊主を濡らしている。
「この部屋ときたら 天井も壁もみんな水色…冷たくてなんだか水の底に いるみたいで…あたし 好きになれないわ…ねえ窓閉めて…寒いわ…」
やがて妻は、畳の上をずるずると這い回る、不気味な胎児の姿を幻視するようになる。胎児は呟く。
「く…苦しいよう 寒いよう… どうして 俺を こんな冷たい 闇の中に放り 出したんだよう あの絶え間なく 養分の流れ込んで来る 温かくて心地よい 小さな俺の部屋へ帰りたい…帰りたいよう…」
妻の体に執拗に纏わりついてくる胎児。「ぎゃあ」と、恐れおののく妻。愛しいわが子であったはずなのに、妻はなぜ、これほどまでに恐れおののき、拒絶するのだろう。みずからの身に宿していた子供との再開を喜ぶ感情は、ここにはない。ここに描かれ、妻の目に映し出された胎児の姿は、人間の赤ん坊というより、まるで異星のエイリアンである。堕胎してしまった妻の罪悪感がこのように見せているという理由以上に、そもそも女性にとって赤ん坊とは、血と肉とを分けた慕わしいものであると同時に、異物でもあるという事実が関係しているように思う。「ずるる ずるる」と畳を這う胎児の音に、堕胎という現実的な行為をもってしてもなお断ち切ることのできない、濃密な繋がりに対する恐怖を感じとっている。
この「水色の部屋」のなかにおいて妻・千代子は、赤ん坊に対する愛着と嫌悪の感情の狭間で板挟みになっている。完全なる愛情でもなく完全なる嫌悪でもない悩ましい感情の狭間で揺れ動く妻は(事実、完全なる愛情を注ぐ途は、堕胎という行為の実行によってすでに彼女たち自身の手によって閉ざされている)、ここ「水色の部屋」以外、どこにも逃げ場がない。事実彼女は、みずからの夢の中では、共に寄り添う夫を、みずからに堕胎を迫り自分と赤ん坊との仲を引き裂いた圧制者として見、潜在的に不信と阻害の感情を抱いている。
「水色」という言葉からは、底冷えする寒さと、相反する温もりへの飢えとが感じとれる。ここに描かれた者たちのうち、寒さを感じているのは、まずは妻である。そしてもうひとり、彼女によって打ち捨てられた胎児もまた、これを感じている。胎児の言う「小さな俺の部屋」とは、母の胎内のことであろうか。妻は、胎児の感じるべき寒気をも、その身で感じとっている。千代子は二倍の寒気を感じている。
最終ページには、「妻は気が狂った」との注釈がつく。では、千代子はもう、思い悩むことから開放されたのであろうか。
狂った状態になるには、当人の理性によっては叶わない。「狂う」とは、実は「忘却する」ことに等しいのではないか。本人に意識される理性によってではなく、意識されることのない生理機能によって司られ、人間の意志に反し、肉体が現在を忘却すること。これこそが、「狂う」の本質であると私は思う。
 いかなる悲しみや怒りも、時とともにその感情は和らいでゆく場合が多い。そして「狂う」とは、本来時間の経過がもたらしてくれる「忘却」という効果を、人間みずからが自己の内部の時間を短縮して獲得した代理行為だと考えられる。「忘却」は、天から人間へと手向けられた、せめてもの温情だともいえる。自我を喪失することがなければ、過去の呪縛から一歩も動けなくなるからだ。
 私は読者の特権として、本作終了後の千代子の姿を想像した。漫画『水色の部屋』は、妻・千代子が「狂う」ことによって、ひとまずその幕を下ろす。しかし、酷なことに、千代子は永遠に狂った状態のままでいることを許されない。千代子の精神が、「死んだ」のではなく「狂った」のであるならば、やがて千代子は、時の経過とともに、否応なくこの現実の世界へと引き戻されるだろう。妻・千代子にとって、わが子を堕胎した喪失感と罪悪感を完全に塞ぎきってしまうことは不可能に思える。だが、毎夜幻視する耐え難い胎児のビジョンは、時の経過とともに、彼女が最低限度の社会生活を営める程度には減っていくだろう。
「狂気」から生還してもなお、今度は、拭いきれない過去が微熱のように苛む現実が千代子を待っている。わが子に対する愛情と罪悪感、そして嫌悪。ごちゃ混ぜになったこの感情が尽きない限り、千代子の苦しみに終わりは来ない。本作冒頭、胎児達が浮かんだ海を見下ろす空には、海面を注視する巨大な一つ目が描かれていた。この目のなかには、妻・千代子の視線も含まれているように感じる。私は、日野日出志の『水色の部屋』を読んで、過ちと忘却とを繰り返さざるを得ない、人間に課せられた十字架に思いを巡らせた。

猫蔵・プロフィール
1979年我孫子市生まれ。埼玉県大利根にて育つ。日大芸術学部文芸学科卒。清水正教授に師事。日大大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。日野日出志研究家。見世物学会会員。著書に『日野日出志体験――朱色の記憶・家族の肖像』(D文学研究会)がある。本名・栗原隆浩