偏愛的漫画家論(連載55)

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偏愛的漫画家論(連載55)

日野日出志論Ⅱ
「『日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場』を観る」 (その⑥)

漫画評論家 荒岡保志

●「地獄小僧」を読む


「地獄小僧」は、1976年に、少年画報社少年キング増刊」に、8回に渡って連載された250ページ強の長編漫画作品である。前回、この「日野日出志論Ⅱ」で、妻の妊娠にインスパイアされて「わたしの赤ちゃん」を描いたと言ったが、今回の「地獄小僧」は、同年の長男の誕生にインスパイアされたものであろう。
そして、日野日出志が愛して止まないシェリー夫人の名作「フランケンシュタイン」へのオマージュでもある。

同年、同タイトルでひばり書房から単行本化されるも、ページ数の都合で収録されたのは6話までに留まり、1979年になって、再刊された短編漫画作品集「恐怖列車」に、残りの2話が収録される。
1987年に、「地獄の絵草紙」シリーズの「地獄小僧の巻」としてひばり書房から発行された際に、新たなラストシーンを加筆し、漸く全8話を収録した完全版となるのだ。2005年になって、筑摩書房ちくま文庫から発行された「日野日出志の怪奇劇場 地獄小僧」も、それと同内容となっている。

不慮の事故で愛する息子を失った天才医師が、不気味なジプシーの老婆の魔術にすがり、入院患者の命と引き換えに、息子を生き返らせるストーリー。
ところが、生き返って来た少年は、人間を襲っては血肉を食らう世にもおぞましい怪物だったのだ。そして、血肉を食らった後には、以前の可愛い少年に戻る。

ストーリーは「わたしの赤ちゃん」とやや重複する。「わたしの赤ちゃん」ではトカゲ、「地獄小僧」では怪物で、共に人間を襲うのだが、母の、また父の子を思う強い愛情は、殺人という犯罪までも黙認し、隠蔽してしまう。親の、子への愛は盲目である。

ジプシーの老婆を殺害し、夜な夜な人間を襲う地獄小僧を付け狙う花水刑事、何とか元通りの息子に戻ってもらおうと、人体実験を繰り返す父。
地獄小僧の存在は町中でも噂になり、その城のような館は町人にも追われ、火を放たれる。燃え上がる城の上で最期を遂げる父、そして息子であった地獄小僧を襲う壮絶なクライマックス。ただし、それは、この怪奇なストーリーの序章に過ぎなかった。

このストーリーは、日野日出志の中では4話で終了していたのではないかと想像する。元々8回の連載が決定していたのか、読者人気に応えて継続したのか、もしくはこの地獄小僧というキャラクターに、作者自身が何かインスパイアされるものがあったのか。
第5話以降は、焼け残った目玉の中から復活した地獄小僧が、放浪の旅に出るという、言わばホラー・ロードムービーになるのだ。しかも、地獄小僧は落武者の亡霊を退治し、悪魔のような少年を罰し、雪少女を救おうとする。身体は怪物のままだが、あの凶暴さは影を潜め、日野漫画版「ゲゲゲの鬼太郎」めいて来る。
更に、最期には閻魔大王の僕として、無間地獄から逃げ出した亡者たちを全員退治する使命を担う、というエンディングで幕を閉じる。その頭には角が生え、閻魔大王から三ツ目を持つ地獄犬を付けられ、言わば、亡者ハンターとして再び地上に降りるのである。

それこそ「ゲゲゲの鬼太郎」になってしまうが、地獄小僧というキャラクターを生かし、この怪奇なストーリーの続編を仕上げたら結構面白いのではないか。水木しげるの鬼太郎でさえ、登場当初は人間を追い詰めるグロテスクな妖怪の少年で、正義の味方なんぞではなかったわけだから。


●「地獄小僧」を観る


この「地獄小僧」を、「日野日出志論Ⅱ」の最終回に選んだのにはある意味があった。「日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場」で、第一夜の第一話として劇場公開した事と、まったく同じ意味である。
それは、この「地獄小僧」こそ、「日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場」の看板映画であったからだ。監修が、あの高橋洋、日本を代表する、否、この映画公開当時も、今現在も、間違えなく日本ホラー映画で最高の脚本家であったからだである。
経歴を書くまでもないと思うが、彼のワークは世界的にも高評価で、ハリウッドでも映画化された「リング」は記憶に新しいだろう。監督はゴア・ビーンスキィ、ジョニー・デップ主演のメガヒット映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」でも有名な、世界のトップ監督の一人の手によって映画化されたのだ。
「地獄小僧」の安里麻里監督は、ホラーオムニバス形式のテレビドラマ「怪談新耳袋」の一編などを監督し、この「地獄小僧」が劇場公開映画としては第一作目となる。

日野日出志ザ・ホラー 怪奇劇場」の劇場用ポスター、また、販売されたDVDボックスの表紙にもなる「地獄小僧」は、その造形、特殊メイクも上々の仕上がりが見て取れ、否応無しに期待が膨らむのだ。おまけに監修は高橋洋である、詰まらないわけがない。

しかしながら、この映画を観始めてすぐに、その期待を改める事になる。
これは複雑だ。多分、百凡の映画ファンであったら、その演出の馬鹿馬鹿しさに立腹する事請け合いである。実際に、私と一緒にこのDVDを鑑賞した、ノーマルにスプラッターを愛し、ノーマルな映画ファンの女性には、この世界観は受け入れられず、馬鹿馬鹿しさに閉口していた。

主人公の医師を女性に置き換えた以外は、すべてが原作通りで制作されている。それこそ、絵コンテまですべてである。私は、そこを大きく評価する。医師を女性に置き換えた事によって、息子に対する異常な愛情も、母の愛として説得力がある。また、山本未来の演技も、それに充分応えている。

原作をそのまま映像化してしまったわけだから、地獄小僧の住家は、原作通り山の上にそびえる城である。少年は、地獄小僧に変身し、人間たちを襲っている間は、必ず地獄の夢を見ると言う。地獄で、巨大化した地獄小僧が、今まで殺害して来た人間たちをいたぶり、血をすすり、肉を食らう夢である。
それらも、原作のコマに忠実に映像化しているのだ。それも、リアルに、ではない。表現は難しいが、1960年代の、特撮ヒーロー映画のような稚拙な映像で、なのだ。

これは、漫画なのだ。
高橋洋は、実写で、漫画を撮ったのである。漫画を映画化するという発想ではないのだ。

これも原作通りなのだが、少年と変身した地獄小僧は圧倒的に体格が違う為、映画では違う俳優を使っている。その造形、腫れ上がったまぶた、うつろな目、だらしない口元に覗く牙、これも原作通りで嬉しくなる。
そして、花水刑事。アレルギー性鼻炎を患う大きな鼻の刑事だが、映画に登場する花水刑事は、何と付け鼻で、わざわざ鼻を大きくしているのだ。これこそ漫画である。

一歩間違えばホラーどころかギャグ漫画になりそうな演出であったが、何とかぎりぎりでホラー漫画である事を保ったか。全体を通しては、良い言い方をすれば、オリバー・ストーン監督の「ナチュラル・ボーン・キラーズ」、クェンティン・タランティーノ監督の「グラインド・ハウス」、もっと言えば、ティム・バートン監督の「マーズ・アタック」の部類、というのは褒め過ぎか。

安里麻里監督は、同年、ミニシアターで公開された劇場映画「独立少女紅蓮隊」を監督、その後はオムニバス映画の一編を監督したり、ジャンルを問わず脚本を書いたりしている。中々花は開かないが、高橋洋の下で制作したこの「地獄小僧」は、何気に楽しく撮れたのではないかと想像する。

日野日出志ご本人の、「地獄小僧」へのコメントを見てみよう。

本作品は、原作のマンガのプロローグの部分を、ほぼ原作に近い形で作ってある。映像表現の持っている技を集結して、力のあるストレートで真っ向している勝負をしている感じがして、原作者としてはその心意気がうれしい。めりはりのある色彩で映像が美しく印象的である。物語のテンポもいい。また俳優人の熱演も光る。正当ホラーのリズムとテンポに、ホラー映画ファンはきっと心地よく酔えることだろう。


●「『日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場』を観る」最期に


漫画同様、私は大変な映画フリークである。劇場、またDVD鑑賞を含めると、私の年間映画鑑賞作品数は300本を超えるだろう。その内約7割はホラー、スプラッター、サスペンスなので、近作のそのジャンルは大抵観ているだろうと自負している。ちなみに、余談であるが、最近のお気に入り監督は、「ハイテンション」で観客の度肝を抜いたアレクサンドル・アジャと、タランティーノも唸った「キャビンフィーバー」のイーライ・ロス

日本映画はあまり観る機会がなく、この「日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場」は、久しぶりに観る日本映画であった。日野日出志の原作という事で全作品を通して観たが、やはり日本映画の稚拙さは払拭できない。
ただ、今回の映画化で選択された作品は、日野漫画の本質からはややずれたものが多かった印象である。そこも残念なところであった。


最期になるが、折角日野先生が傍にいらっしゃるのだから、日大芸術学部の映画学科と漫画学科で協力し合って、日野漫画の映像化を進めれば一興だと思うのだが。日野先生も快く承諾くださり、資料等、あらゆる部分でご協力頂けるのではないか。ずばり、日野漫画の本質からぶれない傑作を、ストレートに映像化して頂きたいものだ。