荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載51)

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偏愛的漫画家論(連載51)

日野日出志論Ⅱ
「『日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場』を観る」 (その②)

漫画評論家 荒岡保志

●「恐怖列車」を観る

「恐怖列車」は、1975年に少年画報社少年キング増刊」に連載された90ページ弱の中編怪奇漫画で、「元旦の朝」に代表される、当時の日野漫画としては異質な、エンターティメントに徹底した「少年漫画」である。

このストーリーは、秋の連休を利用して、田舎の祖父の家に遊びに行った主人公の中学生「秀一」、クラスメイトの「ユキちゃん」、「ブーちゃん」の三人の乗った列車が、トンネルの中で事故に会う場面から始まる。
列車は何とか東京に到着し、トンネルの中の恐怖体験を引きずりながらも、秀一はようやく自宅へ戻るのだが、その自宅、父も母も、今までの秀一の父と母とは、微妙だがどこかが違う。不信感を拭いきれない秀一が深夜に見たものは、自宅の庭に死体を埋める父と母の姿であった。

この発想も「元旦の朝」に近い。秀一は、トンネルの中の列車事故により、異次元に迷い込んだのだ。「元旦の朝」では、「元旦」という特別な空気を持つ日に、少年は死神が支配するパラレルワールド、異次元に迷い、「恐怖列車」の異次元は、生と死の狭間として描かれている。エンターティメント色が強く、映像化に適したストーリーである。

日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場」の第二夜、その第三話に当たる「恐怖列車」は、やはり新鋭の「坂本一雪」により監督される。
坂本監督は、大阪芸術大学芸術学部美術学科卒業で、「爛れた家」を監督した熊切和嘉とは同級、大学在学中は熊切監督の自主制作映画の製作に携わっていたという。
これまではオリジナルビデオの監督をこなし、代表作は、「ほんとにあった!呪いのビデオ」シリーズ、「怪奇!アンビリーバブル」シリーズ、「自殺霊」などで、劇場公開作品としては「恐怖列車」が初めての作品である。また、それ以降から今現在まで、坂本監督の劇場公開作品はなく、この「恐怖列車」が唯一の劇場公開作品となっている。

休日に遊園地へ向かう女子高生「雪乃」、「麻子」、「なつ」が乗った列車が事故に見舞われ、三人は重体となってしまう。
この映画のストーリーは、ここから始まるのだが、原作との大きな相違点として、まずは列車事故に会い、重体となり、そこから記憶を掘り起こすという倒叙形式を取っているところが挙げられる。
休みを利用して遊園地に行こうというプラン、学生生活、放課後、そんな何の変哲もない日常が描かれるが、その中に、少しずつ死の影が侵食する。
列車事故の車内の乗客、その行動、会話、それらが死の象徴として交錯していくのだ。

製作意図は理解できる。三人が駅で待ち合わせ、列車に乗る。駅ですれ違う乗客、列車に同乗する乗客、その乗客の行動、会話、日常にあり得そうなものばかりであるが、死の狭間の世界で、それらが大仰に表現されていく。

日野漫画の原作は、ふとした日常から異次元の世界へ足を踏み入れてしまった、それは、列車事故により重体になった秀一の、生死の狭間であったという、ホラーというよりはサスペンス、スリラー色の強い作品であった。忍び寄る死の象徴としてつきまとう黒い影の男の登場、悪鬼に豹変する父、母、そして学校の先生、逃げ惑う秀一と、展開もスピーディで、轟音を上げる列車が恐怖の化身として描かれている。

映画では、異次元、というよりは臨死体験である。列車事故により主人公を含む三人は重体になり、そこから始まるストーリーであるわけだから、初めから生死の狭間に彷徨っていることを種明かししているのだ。確かに、悪夢のようではあり、その中で起こる怪異な現象のすべてが列車の中の出来事と重複していく演出は悪くはない。

ただしだ。この映画も、無理やり原作を脚色しようという魂胆がまる見えで、やはり原作には及ばない。何故、ここまで無理して原作を脚色しなければならなかったのか。もちろん、監督の意思だけではあるまい。製作者側の意図でもあろう。

「蔵六の奇病」のように、映像化にある程度の技術を要する作品ではないのだ。この「恐怖列車」は、「日野日出志のザ・ホラー 怪奇劇場」の6話の中で、最も映像化がたやすい作品ではないか。もともとの原作が徹底したエンターティメントなのだから。

それは、タイトルにも現れるのだ。日野漫画の「恐怖列車」のタイトルロゴは、その文字が疾走するスピード感の溢れるものであるが、映画の「恐怖列車」では、文字から血が滴り落ちる怪奇映画にありがちなものとなっている。

日野漫画の原作と比較して映画版のホラー色が強くなる理由は、坂本監督の経歴通りなのだろう。坂本監督の代表作を再度列挙すると、「ほんとにあった!呪いのビデオ」シリーズ、「怪奇!アンビリーバブル」シリーズで、ホラー映画の中でも「B級」といわれるコアなホラー映画である。その為に、坂本監督の作品は、一つはスプラッター映画の様相を持ち、もう一つはゾンビ映画の様相を持つ。その二つを無理やり詰め込んだ事が、サスペンス、スリラー色の強かった原作を、B級ホラー映画に仕上げてしまったのだ。

純粋に映画作品としてどうかというと、これも辛辣な評価をせざるを得ない。

まずは、主要登場人物、そしてエキストラの動きの悪さ。中学校の学芸会でももう少しましなのではないか。主人公クラスがCMモデル上がりの16歳では、演技という部分で期待しろという方が無理だろう。唯一、「あじゃ」が辛うじてその存在感を放っている事がせめてもの救いである。ゾロゾロと登場する死者も、まったくといって凄みがない。夜店で販売しているお面でも被ってふざけている印象である。

もう一つは、撮影技術。これは、坂本監督の得意分野のはずである。もともとはスチールカメラマンであった坂本監督は、「黒沢清」監督、「役所広司」主演のメジャー映画「ドッペルゲンガー」でCG撮影を担当するほどの腕前なのだ。
それにしては、VFXがお粗末だ。よほど予算に制限があったのか。

ただ、脚本だけは良くできていたと評価したい。

駅で待ち合わせをする三人の女子高校生。肩がぶつかるも、何も言わずに少しだけ振り向いて通り過ぎる主婦。列車の中で、ひたすら鼻糞を穿る中年女性。若い父親に、ゴジラの大きさを質問する子供。車内で暇を持て余し、履いているサンダルを飛ばしては片足で拾いに行くなつ。
これらのエピソードは、これから訪れる悪夢の中で、すべてが意味を持つのだ。かなり細かいディティールにこだわりを持って描かれている。そこだけは、パズルが完成したような心地よさがあるのだ。

日野日出志ご本人の、「恐怖列車」へのコメントを見てみよう。

友達3人で電車に乗って遊園地に遊びにでかける。どこにでもある平凡な日常。
その日常が、突然の事故で崩される。日常からいきなり非日常の世界へ放り込まれた3人の、いわばこれは心象風景としての恐怖物語である。一つ一つのエピソードが、後半できちんと繋がって整合した時、主人公達3人の悲しい運命が判明する。エンディングの歌が、その悲しさを切々と歌う。

最後に、「恐怖列車」というタイトルであるのならば、その列車自体の持つ恐怖をもう少し掘り下げるべきであろう。日野漫画の原作は、しっかりとそこを踏襲しているではないか。トンネルの暗闇が持つ魔力、列車そのものが持つ魔力、そこをきちんと表現しないと「恐怖列車」ではないだろう。「恐怖」は、「列車」の姿を借りて疾走するのだ。

荒岡保志と猫蔵 「日野日出志研究」刊行パーティにて 撮影・清水正