平成23年度「雑誌研究」夏期課題

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平成23年度「雑誌研究」夏期課題
①『蔵六の奇病』と『愛の嵐』の共通点
演劇学科3年 久保田早紀

二作品とも、読んだ時の第一印象は良くなく、あまり気持ちのいいものではありませんでした。そして、今まで自分の思う「漫画」というものの概念が覆されました。私の知っている「漫画」は、多少作者によって絵のタッチが違うけれど、写実的で人物以外の周りの風景まで丁寧に描かれています。しかし、『蔵六の奇病』と『愛の嵐』の絵は、これも漫画なのか?と、思った程でした。『愛の嵐』にいたっては、コマ割りの仕方も単純で、特に工夫もなく単調でした。ある意味衝撃的な絵だったけれど、私は、登場人物の人間の内面の方に惹かれました。
この二つの作品は、様々な人間の欲や願望、エゴなどをデフォルメしている、人間くさい作品だと思いました。『蔵六の奇病』の蔵六は、どうしても絵が描きたいという願望を強く持った人物です。どんなにできものができても、体調が悪くなっても、自分を傷つけてまでして絵を描き続けました。しかし、蔵六の兄は異常な弟を持った事で、村というコミュニティーからのけ物にされることを恐れています。兄は、家族である蔵六よりも自分のほうがずっと大事で、自分を守るために弟を化け物扱いし、追いやってしました。村の人々も、蔵六をかばうことはありませんでした。このような人達は、現代にも大勢います。こんなに極端な人はいないかもしれませんが、村人の要素は人間なら誰でも持っていると思います。言ってしまえば、「長いものに巻かれる」です。本当の気持ちや意志を隠して、大勢の意見に同意するふりをする。自分を蔵六の様に貫いて、意見することを恐れてしまう。それを人間の弱い部分だとしたら、蔵六は強い意志と勇気のある人間です。蔵六と村人達との対局した間でもがいていた母親も、人間の葛藤という部分の象徴でした。
『愛の嵐』も同様です。主人公の男は、好きな女性を殴ってまでして、同じそろばん教室に通う仲間達に嫌われないようにと、自分を守りました。この主人公の男は女性に対して何度も「好きだ」と言っていましたが、うわべだけで女性の前では嘘をついていたのではないかと思います。教室のみんなには嫌われたくない。女性にも嫌われたくもない。けど、そろばん教室の手品や賞品も気になる・・・。と、自己中心的で、欲望だけで行動しているような人間です。それに比べて、最後に手品のネタをあかした男は、蔵六と通ずる部分があるように思います。教室にいる他の生徒の目も気にせずに、先生に殴られることに快感を覚え、一般的には異常だと思われる形の、ある種の愛を貫いているからです。
この男と蔵六は、芯が通っていて、男は愛、蔵六は絵と違うけれど、貫いています。そして、二人とも自分の欲望、願望のために自分自信を傷つけています。この二つの漫画は、誰かを傷つけてまでしても自分を守ることしか考えない人と、自分を犠牲にしてでも一つのことを貫く。という大きく分けて二種類の人間を描いています。そして、人間の弱く、他人には隠したい部分を、堂々と表現しています。道徳的に、蔵六がかわいそう。とか、もし自分があの女性の立場だったら・・・と考えるけれど、村人であったり『愛の嵐』の主人公の男性の気持ちの方がよくわかります。村に蔵六の様な変わった人がいたら、他の人たちに逆らってまでして蔵六を助けてあげようとは思いません。それに、愛していない、しかも生理の女の人を抱こうとも思いません。この二人にとても共感できます。
この二つの漫画は、ぱっと一見しただけでは、気持ちの悪い作品です。現代の少年漫画や少女漫画と比べたら、絵もそれほどきれいではないし、笑えたり、感動したり、心があつくなったりもしません。『蔵六の奇病』は、読むのを途中でやめてしまいたくなるような作品です。『愛の嵐』は、『蔵六の奇病』程の絵の迫力も感じないし、設定も「なんで?」と疑問に思う点ばかりです。気に入らない点を上げたらきりがないくらいです。課題でこの二つを取り上げなかったら、二つの作品についてここまで深く考え、共通点を探そうとも思いませんでした。じっくり『蔵六の奇病』と『愛の嵐』を読んでみて、気づきました。絵の質や、そろばん教室で先生が手品をしようが、そんなことよりも、もっと深いテーマがありました。人間には、こんな弱い部分がある。欲だとか、周りの目を気にして自分の事しか考えていない。傷つきたくない。自分がのけ物にされるくらいなら誰かがのけ物になっていればいい。と、誰もが少なからず持っているこの“人間らしさ”というものを感じました。しかし、そんな人間の汚い内面だけではなく、人というのは時には、自分を犠牲にしてでも何かを貫くこともできる。ある意味、願望があれば何だってしてしまう、やれてしまうのも人間なのではないかと、人の力強い面も表現しています。この二つの作品は、人間とはどんな生き物なのか、人とはなんなのかを具体的に説明しているのではないかと思いました。