意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載9)

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意識空間内分裂者が読むドストエフスキー(連載9)
山城むつみの『ドストエフスキー』から思いつくままに
清水 正


 わたしは『罪と罰』を読むたびに、ドストエフスキーは実によく人間の現実を暴いていると感じるが、同時にこの作品には恐るべき〈虚構〉の麻薬も注入されていると思う。『罪と罰』を読み続けて四十余年、ソーニャだけは未だに現実の世界を生きる一女性とは思えない。ロジオンの妹ドゥーニャ、母親プリヘーリヤ、下宿の女将プラスコーヴィヤ、下宿の女中ナスターシャ、マルメラードフの後妻カチェリーナ、家主のアマリヤ、高利貸しアリョーナ婆さん、アリョーナの腹違いの妹リザヴェータ、酒場の女ドォクリーダ、ロジオンに銀貨二十カペイカを恵んでくれた商家の女主人・・・『罪と罰』に登場する様々な女たち、ここに列挙した女たちはそのまま現実のペテルブルクに移行させても何ら違和感を覚えないのに、ソーニャだけは異質な感じを受けるのである。そんな感じがいつもつきまとっていたので、ソーニャは一娼婦に化身してペテルブルクの街に現出した〈キリスト〉、実体感のある〈幻〉(видение)といった解釈がわたしの中に生まれてきたのであろう。こういった見方はソーニャの苦悩と悲嘆を人間の領域から外してしまう危険性があることは否めないが、しかし、もしソーニャを現実の女と言うのであれば、やはりソーニャは自分の内心の言葉をもっと直に語るべきではなかったろうか。作者はソーニャの娼婦稼業の現場にいっさい触れず、この破綻が明白な十八歳の少女の前に、スヴィドリガイロフという〈怪物〉(чудо)を登場させ、淫売稼業の泥沼から救出するという〈奇蹟〉(чудо)を起こしている。まさに、こういった設定をわたしは〈虚構の麻薬〉と言っているのである。現実は、ソーニャを押しつぶして無関心を装い続けるだろう。ソーニャの義理の妹ポーレンカ、その気高い名前をつけられたポーレンカにもまたソーニャ以上の苦難が待ちかまえていただろう。しかし、ドストエフスキーはスヴィドリガイロフを実際に奇蹟を起こす人(чудотворец)として登場させることで、現実に〈麻薬〉の注射をして読者をいい気持ちにさせてしまう。ソーニャ一人が、否、ソーニャの幼い妹弟が救われたところで、ロシアの現実は何一つ変わりはしなかったというのに。
 
 尤も、ドストエフスキーの残酷な才能は、スヴィドリガイロフにソーニャを泥沼から救い出す〈気まぐれ〉を起こさせるだけではなく、彼の夢の中に淫蕩な赤ら顔をさらす五歳のカメリヤを登場させる。スヴィドリガイロフの気まぐれなな善行をほめたたえることもできないし、少女陵辱を裁くこともできない。ドストエフスキーを読むということはそういうことだ。ドストエフスキーという巨大な大鍋の中には〈善〉も〈悪〉も、その他もろもろの食材とともに煮込まれていて、この大鍋の中の〈善〉は、お椀に掬われた時点で十分に〈悪〉の養分を吸い込んでいる。大鍋から好きなものだけ取り分けようとする分別自体がすでに意味をなさない。ドストエフスキーを読むとは、大鍋の中身すべてを呑み込むことにほかならない。

 ところでロジオンが、ソーニャと出会うためには、彼もまた第一のハードルを〈踏み越え〉ておかなければならなかった。一家のために自己を犠牲にしたソーニャと真に出会うためには、ロジオンは是非とも〈踏み越え〉ておかなければならなかったのだ。ロジオンが犠牲として狙いをつけたのは高利貸しの老婆アリョーナであった。社会のシラミ、生きていても何の役にもたたない、否、社会の害にしかならないアリョーナなど殺しても、何ら良心が咎められることはないとロジオンは考えた。この〈思想〉が百年の間、そのまま素直に読者の耳に響いた。恐るべきは『罪と罰』の〈読み〉の歴史だ。作者は読者(最大の注意人物は検閲官)の注意を、ロジオンが執筆した「犯罪に関する論文」に向けさせる。この、ロジオン自身、雑誌に投稿したまま失念していた論文を読んで注目していたのが予審判事のポルフィーリイであった。彼が注目したのは「非凡人にはすべてが許されている」というロジオンの考えであった。しかしポルフィーリイからそのことを聞いたときに、ロジオンはすぐにそのことを訂正する。彼が非凡人の権利として認めていたのは、あくまでも「良心に照らして血を流す」ことであって、それ以上のことでも以下のことでもない。ロジオンは、非凡人にはすべてが許されている、などという考えは発表することさえ禁じられただろうと口にしている。ロジオンとポルフィーリイの対話は、二重、三重の意味を潜ませて軽やかに急テンポで展開していく。まず、ロジオンの言葉に注意すれば、ドストエフスキーがいかに検閲を意識し恐れていたかがうかがえる。ロジオンが犠牲として狙いをつける相手は絶対に〈皇帝〉であってはならなかったし、〈神〉であってはならなかった。「俺にアレができるだろうか」の〈アレ〉が〈皇帝殺し〉であったり〈神殺し〉であったということが、もし検閲官に看破されれば、当然、ロシア国内での出版は許可されなかっただろうし、それどころかテロリズムを扇動する危険人物として身を拘束される危険性もあっただろう。元政治犯で、アレクサンドル二世におべっかたらたらの帰国願いを出し続けて、ようやく念願かなってシベリヤからペテルブルクへと帰還できたドストエフスキーにしてみれば、ロジオンの〈踏み越え〉の犠牲者は、誰が読んでも〈がめつい高利貸しの老婆アリョーナ〉でなければならなかったのである。ニコライ一世の暗黒の時代の犠牲者でもあったドストエフスキーの、小説家としてのしたたかさは並大抵のことではない。次にポルフィーリイの言葉についてほんの少しばかり見ておこう。彼はロジオンに向かって、非凡人には誰が見てもわかるような印がついているのか、と訊いている。この〈印〉こそ、犯罪に関する論文の筆者のイニシャルとして記されていたРРРであった。このロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのイニシャルが悪魔の数字と解読したのが江川卓であったが、まさにポルフィーリイはこのイニシャルを〈印〉として受け止めていたのである。

 ところで、昨年上梓した『『清水正ドストエフスキー論全集』第五巻に、わたしは、ポルフィーリイはおかまでないのかと指摘しておいた。ロジオンとポルフィーリイの対決場面は、まさに手に汗握る緊張場面の連続で、その言葉のやりとり、特に鋭利な分析力と直観によってロジオンを追いつめるポルフィーリイの言葉は一時も注意をそらすことができない。ところが、ある時、読んでいてポルフィーリイの仕草が気になった。注意して読み進めていくと、ポルフィーリイは必要以上にロジオンのからだに触れている。その言葉使いも新宿二丁目の口八丁手八丁の〈お姉さん〉風に聞こえてきた。この、〈ポルフィーリイ=おかま〉説で、ポルフィーリイの「私は完全におしまいにとなってしまった人間で、すでに干からびた種みたいなものなんです」という言葉を解釈すると、すでに男としての〈もの〉をなくしてしまった人間の相貌が浮かび上がってくる。ポルフィーリイは分離派に多大の関心を寄せているが、まさか彼自身が実は去勢派に属していたなんてこともあるのかもしれない。いずれにせよ、ドストエフスキーの作品は読むたびに新たな発見があり、気味が悪くなるほどの多様な〈顔〉を潜ませている。