高峰秀子さんのご冥福を祈る

昨年の十二月二十八日に高峰秀子さんがなくなった。林芙美子の『浮雲』について批評するひとつのきっかけになったのが、成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』で、ゆき子役を演じた高峰秀子はすばらしかった。わたしは高峰秀子の書く文章も好きで、『わたしの渡世日記』を愛読している。共同研究の忘年会で、大学院や学部学生の入試でどのような学生をどのようにとるかという話になった時、すぐに思い浮かんだのが、高峰秀子が『わたしの渡世日記』で紹介していた次のようなエピソードであった。

 昭和二十一年。私が二十二歳のときだった。その日は、「東宝ニューフェイス」の審査の日で、たまたま私は山本嘉次郎から、「今後、恋人役としてコンビを組めるような人を、自分で探してごらん」と言われ、審査員席のはじっこに座っていた。一人・・・また一人・・・簡単な面接試験で、審査は進められていった。その中に、若き日の三船敏郎がいたのである。服装こそ、粗末なズボンとスポーツシャツだったが、濃い眉毛の下の鋭い眼光、ソギ落としたような頬の線、日本人ばなれのした精悍な肢体には審査員一同を圧倒するような迫力があった。しかし、三船敏郎は、彼一流のテレかくしからか、その振る舞いはほとんど無礼に近く、審査員の質問にはロクに返事もせず、唇を真一文字にひきしめて、時々、ギロッ、ギロッと審査員をねめまわすばかり。とりつくしまもあらばこそ、である。
 審査員の意見は真っ二つに割れ、紛糾した。結果、「性格に穏便さを欠く」という理由で、三船敏郎は「不採用」という結論が出た。そのときだった。さっきから腕組みをしたまま黙りこくっていた山本嘉次郎が静かに口を開いた。
 「はじめからダメと断定せず、使ってみたらいいでしょう。どんな才能がかくされているかは試してみなければ・・・。落とすのはいつでも出来る。僕が責任を持とう」
 この一言が、今日の名優、三船敏郎を世に送り出したのだった。

 芸術学部で研究・教育の現場にあって毎年何回かの入試にかかわるものとして、このエピソードは胸にずしんと響いた。高峰秀子のものを見る目、表現する力に学ぶところは多い。彼女の文章には妥協を知らない、毅然とした精神の美しさが反映されている。