『浮雲』論を書き続ける

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本
近況報告 近頃、ブログには載せていないが、毎日『浮雲』論を執筆している。『浮雲』は全六十七章より構成されているが、ようやく三十三章にまでたどりついた。『浮雲』は林芙美子の代表作として位置づけられるばかりではなく、世界文学の地平においても高く評価されなければならない作品である。

成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』の宣伝パンフレットより。幸田ゆき子役の高峰秀子と富岡兼吾役の森雅之
浮雲』の主人公富岡兼吾は、愛人のゆき子に「みえぼうで、うつり気で、その癖、気が小さくて、酒の力で大胆になって...気取り屋で」「人間のずるさを一ぱい持ってて隠してるひとなのよ」と言われている。このどうしようもない富岡が、敗戦後の日本人男子の赤裸々な姿であるときちんと認識しさえすれば、林芙美子が六十年前にどれほど凄い小説を書いていたかを痛切にかんじるであろう。今の日本のどうしようもない数々の総理大臣をみればことは明瞭であろう。義理もなければ人情もなく、平気で嘘をつき、恥じることもない。狡くて図々しくて権力欲だけが旺盛な卑劣漢たちが、安手の正義の仮面をかぶって大きな口を叩いている。日本は太平洋戦争において無条件降伏したのだという、この事実を認めたうえで、日本人の今後のありかたを真剣に模索しなければならない。
浮雲』の富岡でさえ、ドストエフスキーの『悪霊』や『罪と罰』を読んでいる。日本の政治家やジャーナリストに何よりも欠けているのは文学的センスであり、人間探求の姿勢である。人間は闇を抱え込んで生きている、すべてを白日のもとにさらせば正義が実現できるなどという考え自体の幼稚さに気づいてもいないのだとすれば、もはや処置なし。