ZED論を再録(連載3)

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「ZED」を観る(連載⑪)「Souvenir Program」を読む(その⑨)
(初出「D文学通信」1208号・2009年08月15日)

 ガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテの言葉に迫る。
 ギー・ラリベルテは語る。

 目の前には、天と地、叡智と狂気、現実と詩の合間の世界が見えています。魅惑と旅の前ぶれが、ゆっくりと近づいているのです。
 
その道程で探し求めるのは、世界の均衡に欠かせない調和、ハーモニーです。シルク・ドゥ・ソレイユのアーティスト、クリエイター、アルティザン(職人)たちは、人間の生の本質に迫るこの素晴らしい旅に皆さまをご案内できることを心から光栄に思います。
 〈現実と詩の合間の世界〉とギーは語る。つまり〈現実〉でもなく、〈詩〉でもなく、その〈合間の世界〉こそが強調されている。わたしはこの〈合間の世界〉に魅力を感じる。〈現実〉は退屈の連続であり、そこで起きる様々な事件も紛争も戦争も、もはや本当にはひとの興味をそそることはない。無数の人間の誕生と死、その間に無数の人間の無数のドラマが展開された。しかし、誰一人として、誕生と死の秘密に肉薄した者はいない。宗教上の教えでさえ、何か人間に都合のいいおとぎ話のように聞こえる。
 ドストエフスキーは神の存在をめぐって終生苦しみ抜いた小説家だが、チェーホフは神のあるなしに関してさえ、小さな声で「どうでもいいさ」(フショー ラヴノー)と呟くだろう。中世のペルシアの詩人オマル・ハイヤームは「いつまで一生をうぬぼれておれよう。有る無しの論議になどふけっておれよう。酒を飲め、こう悲しみの多い人生は、眠るか酔うかして過ごしたがよかろう」と歌う。
 現実を忘れて〈詩〉(幻想)の世界に逃避しきることはできない。狂気に墜ちる覚悟の〈詩〉世界への飛翔すら、何ら救いにはならない。ギーは〈現実と詩の合間の世界〉の旅立ちを呼びかけている。おそらくこの〈旅〉は、現実への帰還を前提にしている。一観客であったわたしは、確かに現実へと戻ってきた。
 相も変わらぬ退屈な日常の世界では、未だに、現実を変革することが自由と幸福を約束するといった安っぽい政治的宣伝文句が飛び交っている。テレビも新聞も、何か人間の本質的な次元での言葉を失って厚顔無恥な相貌を晒し続けている。〈詩〉はその本来的な魂の叫びを喪失してはてしなくデザイン化してしまった。
 現実を熱く狂おしく蹴って〈詩〉の世界へと参入することもできず、現実の世界に希望を託すこともできずに、日々のちっぽけな快楽に酔いしれ、頽落して生きる現代人に、ギーは誘惑的な言葉を投げかけてくる。天と地の〈狭間〉、叡智と狂気の〈狭間〉、現実と詩の〈合間〉の世界、その魅惑的な世界へと旅立ってはみませんか、と。
 わたしはこのギーの言葉に、〈ショー〉マンの真骨頂を見る。〈好奇心〉と〈冒険心〉を、或る一定の限定された〈席〉に観客を据え置いたまま、存分に満足させるショー・マンとしてのヴィジョンと技をこの言葉に感じる。現実と詩の〈狭間〉の、すばらしい新たな世界へと誘った者は、再びその〈狭間〉から現実の世界へと送り出してやらなければならない。ギーは二十一世紀における〈死と再生〉の司祭者の如き存在として、ショー「ZED」のガイド&ファウンダーを務めたようにさえ見える。
 ギーの「人間の生の本質に迫るこの素晴らしい旅」という言葉には、彼の人間を信ずる力が漲っている。シルク・ドゥ・ソレイユのアーティスト、クリエイター、アルティザン(職人)たちが信じている〈人間の生の本質〉には、人間の夢見る力、想像する力ばかりではなく、その肉体を通した創造力が含まれている。
ギーの言葉に重ねて言えば、想像と創造のバランス、精神と肉体の均衡があって、はじめて人間は生の本質に迫ることができるということである。観念肥大も、肉体重視も、決して生の本質に迫ることができない。高度な技術、演技力を駆使して観客を魅了するアーティストたちが、ギーの言うハーモニーを理解しているからこその、魅惑的で華麗な舞台が構築されたのであろう。
 ショー「ZED」は、深刻、深遠な現実の諸問題を忘れさせるための一過性の娯楽ではない。現実と詩の合間の世界から帰ってきた者は、現実を新たな気持ちで生きなおす力を与えられると言っても過言ではない。「ZED」に何度も足を運ぶ観客は、現実と詩の狭間に展開される〈新たな世界〉を眼前に見て、忘れかけていた〈生の本質〉に対面するのかもしれない。魂が躍動し、生きている感覚をまざまざと味わうことのできる時空、それが「ZED」なのである。


「ZED」を観る(連載⑫) 「Souvenir Program」を読む(その⑩)
(初出「D文学通信」1209号・2009年08月16日)


 今回は「作・演出」(WRITER AND DIRECTOR )のフランソワ・ジラールの言葉を検証したい。 
ジラールは次のようなコメントを寄せている。

 私が何よりも実現させたいと願っていることは、アーティストと観客の皆さまとの出会いを可能にし、その出会いが忘れがたく印象的なものとなるようにすること、そして二者の間に対話を生み出すことです。その意味でも、この日本でのシルク・ドゥ・ソレイユのショーの演出を担当することになったのは、願ってもない機会でした。

 ショー「ZED」を観た者でハラハラドキドキ、魂の躍動を感じなかった者は一人としていなかっただろう。次々に登場するアーティストたちのアクロバチィクで高度な演技に魅了され、観客は時を忘れて発見と冒険の旅を続ける。ジラールが願ったアーティストと観客の〈出会い〉は見事に成功したと言えよう。

 敬愛する「ゼッド」のアーティストたちなしでは、このショーをつくることはできなかったでしょう。彼らがいたからこそ、毎朝目覚めると劇場に戻って彼らとの素晴らしい旅を続けたいと思いました。

 私は、アーティストたちの演技を、観客である皆さまの瞳のなかで輝かせ、耳のなかで響き渡らせるようにしたいと願い、その実現に情熱を傾けてきました。この劇場の暗い座席で何カ月も過ごし、自らを観客の立場に置き、あたかもたった今劇場に入ってきて、自分の席に向かって歩いている一人の観客になったつもりで考えました。期待で胸をふくらませ、魔法が起こるのを心待ちに席をつく観客として、彼らの演技を一秒一秒、見つめようとしたのです。

この素晴らしい世界に私を招き入れてくれたシルク・ドゥ・ソレイユに心から感謝いたします。
 ジラールはショー「ZED」の演出意図を具体的に語らない。ジラールがどのような人生観、世界観を持って、何を目的に「ZED」を演出したのか。アーティストと観客の出会いと対話、これは「ZED」でなくても、すべての舞台に当てはまる。ジラールのコメントは〈挨拶〉の次元を超えていない。
 尤も、この〈挨拶〉の中にジラールのアーティストたちに対する尊敬と感謝の気持ちは存分に表明されている。ショーの演出家は、演技者やスタッフたちとの心の繋がりがあって、はじめてその任務を果たせる。
 さらにジラールは、観客の立場に立ってアーティストたちの演技を見ている。観客の目線と期待に限りなく身を寄せて、舞台を演出構成することはショービジネスの基本である。演出家の思想やヴィジョンが大多数の観客のそれと余りにもかけ離れていた場合、ビジネスとしては成功しない。莫大な資金を投入して専用の劇場を建設し、世界各国から有能なアーティストたちとスタッフを集めた「シルク・ドゥ・ソレイユ」の演出家としては、一人勝手な独創性を発揮することは前提としてはじめから許されていない。
 ジラールが語る〈観客〉は不特定多数の観客を指している。この〈観客〉は〈期待で胸をふくらませ、魔法が起こるのを心待ちに席につく観客〉である。わたしの中にも間違いなくこの〈観客〉は存在している。しかし、観客の中にはショー「ZED」の演技者や演出家に嫉妬を覚えたり、劇場全体を爆破してやろうというテロリストが潜んでいないとは限らない。だからこそ、多くの観客が集まる劇場においてはセキュリティ・チェックを厳しく行わざるを得ない。
 「ZED」の観客は、老いも若きも、男も女も、そのすべてがアーティストたちの演技に瞳を輝かせ、舞台に釘付けになる。ジラールが願ったことは、嫉妬と憎悪の暗い情念を抱え持った者や、破壊衝動に駆られた者にさえも、ショー「ZED」の魔法をかけることだったと言えるかもしれない。観客の嫉妬や憎悪や破壊衝動を昇華する、さらに激しいものが舞台上で表現されなければならない。きれいごとだけの舞台が観客を深い感動に誘うことはない。
 ギー・ラリベルテの言う「世界の均衡に欠かせない調和」に達するためには、〈天〉は〈天〉、〈地〉は〈地〉、〈叡智〉は〈叡智〉、〈狂気〉は〈狂気〉のその姿を明確にさらけ出さなければならない。現実のテロリスト以上のテロリズムが舞台上で炸裂しなければ、テロリストを魔法にかけることはできない。
 ジラールが〈劇場の暗い座席〉で何ヵ月も過ごし、自らを観客の立場に置いて考えたということは、彼が善良な市民だけの立場に立って考えていたことを意味しない。観客は奈落の底にまで降りていくことはできないし、〈地球儀〉の中心を通って天へと昇ることもできない。
 演出家は、観客に見せてはいけないものは決して見せないものだ。観客が眼前に観るものは、地上の舞台と、〈地球儀〉の球体下部と、その間の空中舞台で演じられるショーである。この限定された時空でのショーを通して、見えざる世界への飛翔を可能にするのは、それはひとえに観客のひとり一人の独自の想像力にかかっている。
 演出家ジラールが、はたして批評家としてのわたしの〈立場〉にも立っていたかどうかは、「ZED」批評の完結を待つほかはない。


「ZED」を観る(連載13)「Souvenir Program」を読む(その11)
(初出「D文学通信」1210号・2009年08月17日)

今回はディレクター・オブ・クリエイション(DIRECTOR OF CREATION)のリン・トランブレーの言葉を検証したい。

 リンは次のようにコメントを寄せている。

 私にとって、このショーの創作に参加することは、それぞれの独自の宇宙と世界観を持った人々との出会いそのものでした。新しいショーの創作には、各人の文化、価値観、想像力の解放、交流、発見が必要です。新作をつくる過程では、様々な想像力やビジョンを集め、そこからユニークでリアルな新しい世界をつくり出すことがいつも課題になります。
 「躍動する詩の中へ・・」の中の末尾に

変化を引き起こす西風が、二つの世界の間を吹き抜けた時、私たちの心の奥深くで声がいざなう・・「友よ、生きることを恐れるな」と。

とあった。今、リンの言葉を引用してこの言葉がすぐに立ち上がった。

 生きることに絶望し、何の希望を持てない人々がいる。何の罪もないのに病に倒れる者があり、銃弾に傷つき、命を落とす者がある。何の罪もない者に病を与える〈或る何ものか〉がある。何の罪もない者に銃弾を発する者がある。世界は不条理と悲惨に満ちている。イヴァン・カラマーゾフは、数々の悲惨な事例を列挙し、神のつくりあげた世界ヘの入場を拒んで狂気へと突き進んだ。
 「ZED」を作り上げた人々は言う「友よ、生きることを恐れるな」と。
 ジラールの肖像写真は腕組みをしていたが、リンは我が身を抱くように軽く両腕を重ねている。リンはいったい何を抱きしめているのか、何を抱きしめようとしているのか。リンは言う、ショー「ZED」に参加するということは「それぞれ独自の宇宙と世界観を持った人々との出会いそのもの」であった、と。
 まさにこれはドストエフスキーの文学の特徴をポリフォニィと指摘したミハイル・バフチンの言葉と重なる。

 それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の体位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキイの小説の基本的性格である。多くの性格や運命がひとりの作家の意識の光に照らされて展開するが、そこでは それらの世界と等価値の多くの意識たち が、その個性を保持しつつ、連続する事件を貫いて結び合わされる。実際ドストエフスキイの主人公たちは、作者の発想のそもそもから、 ただ単に作者の言葉の対象たるにとどまらず、個々それぞれに意味を持った言葉の主体なのだ。 主人公の言葉はしたがって、そこでは性格描写とか筋の運びの機能として使われているのでもなく、作者自身の思想的立場の表現(例えば、バイロンの如く)に使われているのでもない。主人公の意識は全く作者とは別な作者の意識だが、同時にそれは対象化されてもいず、閉されてもおらず、作者の意識の単なる客体ともなっていない。その意味においてドストエフスキイの主人公は伝統的な小説の主人公のいわゆる客観的な形象とは違う。ミハイル・バフチン著『ドストエフスキイ論・創作方法の諸問題』新谷敬三郎訳)

 独自の自分自身の言葉を発する〈主体〉が、もう一つ別の〈主体〉と対話的に関わりながら、全体としては調和の世界を実現する。『カラマーゾフの兄弟』の最後の「カラマーゾフ万歳!」は、まさに二(複数)が大いなる一という調和(ハーモニー)に達した時に発せられた言葉であった。
 が、〈出会い〉は二が一になるとは限らない。〈出会い〉がさらなる対立を深める場合も稀ではないし、結合した一がさらなる分裂を予告する場合もある。アリョーシャを囲んだ少年たちが「カラマーゾフ万歳!」と大合唱をしても、イヴァン・カラマーゾフの神に対する反逆の牙が溶けてなくなったわけではない。淫蕩三昧な生活を貫徹して最後には私生児スメルジャコフに殺害されたフョードル・カラマーゾフの魂が、「カラマーゾフ万歳!」の合唱で癒されるわけでもない。
 猫と鼠が一つの狭い檻のなかで、独自の〈声〉を発するということは、結局は猫が鼠を食い殺すという決定的な事実で幕を下ろす。肉食獣のライオンは、その獲物でしかないシマウマと仲良く暮らすわけにはいかない。この事実を現実の次元で解決することはできない。人間が生きているということは、他の多くの生き物を殺して食しているということを意味する。
 ヒューマニズムは、取り敢えず人間はすべて民族、宗教、肌の色、能力などにかかわらず自由と平等を享受することができるという愛の思想であるが、この思想に他の生物を適用すれば、この愛がいかに人間中心的なものであるかはすぐに了解できる。
 リンの言う「価値観、想像力の解放、交流、発見が必要」なのは、〈新しいショーの創作〉を作るための過程においてであって、現実において創造的な効果を期待することはできない。猫と鼠がどんなに心を開いて対話を繰り返しても、結論は腹をすかした猫が鼠を食い殺してしまうという、この〈事実〉をどうすることもできない。
 宗教上の、それぞれの絶対的な〈神〉を、対話的関係の磁場において〈相対化〉することはできない。〈相対化〉に甘んじた〈神〉を〈絶対〉とすることはできない。
 リンの言う〈ユニークでリアルな新しい世界〉は〈ショーの創作〉の世界であって、現実の世界においてそのまま適用することはできない。わたしはリンの肖像写真を見ながら、彼女が抱え込んでいる虚無を感じる。言い方を換えるなら、底知れない虚無を抱えているからこその、リンの〈新しいショーの創作〉にかける情熱を感じるということである。

 「ゼッド」の冒険も、天と地というまったく異なる、一見正反対の二つの世界が出会うことが特徴です。この二つの世界は、初めは対立しますが、やがて互いを発見し、最後には、心を開いていきます。
 
〈正反対の世界〉が存在して、対立、抗争を繰り広げているのが現実の世界である。この〈二つの世界〉を一つに統合し、お互いの立場を理解し、大合唱を可能としたのは『カラマーゾフの兄弟』の第一部であり、そしてショー「ZED」のエンディングである。
 一つの仕事を成し終えたアーティストたちが中央舞台に駆け集まり、手を繋ぎ、両手を高く天空に挙げ、観客の万雷の拍手に応えている。ここでは背後に潜んでいるクリエイター、スタッフ、そして観客全員が、各々の〈一〉を尊重しながら、大いなる一へと統合された歓喜の瞬間を味わっている。
 いったいショー「ZED」の何が、こんなにもひとを感動させるのであろうか。現実においては、対立する二が、さらなる対立を生み、憎悪と敵意をあらわにしているというのに……。「ZED」にはそれを創造する側にも、観る側にも、最後には等しく〈大合唱〉をしたくなるように、予め〈魔法〉が仕掛けられているのであろうか。
 わたしの想像裡にゼッドが、二十一世紀日本の首都東京に現出した大魔術師の相貌を持って浮上して来た。彼はわたしの瞳を覗き込み、ニッと微笑して闇の中へと消えていった。

「ZED」を観る(連載14) 「Souvenir Program」を読む(その12)
(初出「D文学通信」1211号・2009年08月18日) 

 〈独自の声〉が舞台を混乱に招くことなく、さらなる統合へと昇華され、最後には観客を巻き込んでの大合唱へと至る、その道程そのものがショー「ZED」の醍醐味である。

 クリエイター、アーティスト、彼ら一人ひとりが、〈創造主〉のインスピレーションを全身全霊で受け止め、ショー「ZED」をすばらしいものに作り上げようとする意思がヴィヴィッドにつたわって来る。
今までガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテ、ライター・&ディレクターのフランソワ・ジラール、そしてディレクター・オブ・クリエイションのリン・トランブレー、「ZED」の主要な三人のクリエイターの言葉を検証してきた。
 今回はその他のクリエイターたちの言葉を見ていきたい。「ZED」のクリエイターたちは一人一人が自分自身の言葉を持っている。「Souvenir Program」にはセット・デザイナーのフランソワ・セガン、衣装デザイナーのルネ・アプリル、アクロバティック・パフォーマンス・デザイナーのフロランス・ポ、アクロバティック装置デザイナーのスコット・オズグッド、振付のジャン=ジャック・ピエ、デボラ・ブラウン、作曲・編曲のレネ・デュペレ、証明デザイナーのデーヴィット・フィン、サウンド・デザイナーのフランソワ・ベルジュロン、メイクアップ・デザイナーのエレニ・ウラニス、プロダクション・マネジャーのマイケル・アンダーソン等、十一名のコメントを載せている。
 セット・デザイナーのフランソワ・セガンは次のように語る。

  セットデザインのコンセプトに大きなインスピレーションを与えてくれたのは、アストロラーベと呼ばれる古代の天文観測儀。また私は、舞台をあたかも映画の一画面のように埋め尽くしたいと考えました。美的表現という点では、デザインは、盛期ルネッサンスの絶頂と機会時代の夜明けを想起させるものとなっています。

 まず目したいのは〈インスピレーション〉という言葉である。初めて「Souvenir Program」を一通り読んだ時に、わたしは「ZED」のクリエイターたちのうち、このセガンと衣装デザイナーのルネ・アプリル、作曲・編曲担当のレネ・デュペレ、それにリン・トランブレーが佐藤友紀のインタビューに応えて〈インスピレーション〉という言葉を発していることを興味深く思った。
 インスピレーションや直観はクリエイターにとって最も重要なことである。インスピレーションによってクリエイターは壮大なヴィジョンを得ることができる。極端なことを言えば、インスピレーションなきクリエイターは存在しない。自分の力と経験だけに頼ったクリエイターは、ひとの魂を揺り動かすことはできない。天と地を貫く一瞬の閃き、人知を超えた何ものかからの啓示、そういったものがなければ経験や技術はその力を存分に発揮することはできない。
 「ZED」が観客の魂を魅了するショー足りえているのは、ライター・&ディレクターのフランソワ・ジラールやディレクター・オブ・クリエイションのリン・トランブレーのみならず、各担当のクリエイターたちがインスピレーションを重視する者たちであったことが大きい。
 舞台芸術に限らず、多くのクリエイターやスタッフを必要とする芸術においては、脚本家、監督、ディレクター、プロデューサー、アーティストたちの、作品に対する基本的なヴィジョンが一致していなければならない。そこが文学(小説、詩歌、批評)のように一人の執筆者によって成立する芸術とは決定的に異なっている。映画のような総合芸術において、カリスマ的な監督が、自分自身の独創的なヴィジョンを強引に作品化するような場合にあっても、彼は撮影、音響、照明、衣装、美術、その他映画作りに係わるすべての者たちに自分のヴィジョンを明確に伝える努力を怠ることはできない。自分のヴィジョンを他のクリエイターやスタッフに正確に、情熱的に伝える能力も監督には必要である。
 「Souvenir Program」に掲載されたクリエイターたちの言葉を読んでいると、彼らがライター・&ディレクターのフランソワ・ジラールのヴィジョンをよく理解した上で自分自身の独自の能力を最大限に発揮しようとしているかがひしひしと伝わってくる。まさに彼らはバフチンの言う「それぞれに独立して溶け合うことのない意識たち、そのそれぞれに重みのある声の体位法を駆使したポリフォニイ」としてのショー「ZED」の作り手たちなのである。
 バフチンドストエフスキーの主人公たちを「創造主と同格にあって、彼に動ずることなく、むしろ彼と戦う能力のある自由な人間」とも書いている。この〈創造主〉をガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテやライター・&ディレクターのフランソワ・ジラールに置き換えれば、その他のすべてのクリエイターたちを〈主人公〉に置き換えることができよう。否、クリエイターたちばかりではない、ゼッドをはじめとするすべてのアーティストたちが、〈創造主〉と戦う能力のある〈自由な人間〉として、独自の演技力を発揮している。
 クリエイターやアーティストたちが独自の〈声〉を発しながら、舞台が大いなる一に統合されているのは、彼らがギー・ラリベルテの言う「世界の均衡に欠かせない調和、ハーモニー」を何よりも大切にしながら〈人間の生の本質〉に迫ろうとしているからであろう。彼らクリエイターたちのコメントを聞き、彼らアーティストたちの演技を観れば、そこに微塵の手抜きもないことが分かる。
「ZED」を観る(連載15) (初出「D文学通信」1212号・2009年08月19日)「Souvenir Program」を読む(その13)  清水正
前回、「インスピレーションなきクリエイターは存在しない」と書いたが、インスピレーションなき批評家もまたその資格を失う。

観客(批評家)の眼差しは何を見るか。

前回、「インスピレーションなきクリエイターは存在しない」と書いたが、インスピレーションなき批評家もまたその資格を失う。はじめに直観ありきで、この直観のない読者や観客の言葉ほどつまらないものはない。わたしが「ZED」に直観したのは、主人公ゼッドの、その〈ゼロ〉にあった。本来、姿のない〈ゼロ〉がゼッドとして舞台上に現出してきたことの、その挑発的、道化的な意味を探ること、そのプロセスそのものがわたしの「ZED」批評となることを、わたしは予感(直観)していた。
批評はテキストを解体し、限りなく想像・創造力を発揮して再構築しなければならないという考えのもとで、ドストエフスキー宮沢賢治の作品を〈ウルトラ読み〉してきたわたしにとって、ショー「ZED」は文学作品とは違った魅惑的なテキストとして現れたのである。わたしは今、毎日のように「ZED」論を書き継いでいる。たった一度観ただけのショーを、わたしは一日に何度も思い起こしながら、徹底的に味わい尽くそうとしている。
「ZED」を初めて観た時から、わたしは〈観客席〉のことを考えていた。「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」は二千人以上を収容できる大劇場であるから、当然のこととしてどこに座るかによって〈見えるもの〉は変わってくる。わたしが座った席からは舞台全体が俯瞰できたが、二回目はぜひ舞台近くの席に坐りたいと思った。アーティストたちの息吹をなるべく近い場所から感じたかったし、わたしに最も不気味で異様なオーラを感じさせた〈地球儀〉を下(底)から覗き見たいとも思ったからである。
ショーの舞台作りにおいて、いかに観客の眼差しを釘付けにし、感動的な場面を提供できるか。クリエイターやアーティストたちにとって、それはいつの時代においても最も重要な課題であったからこそ、さまざまな舞台装置上の工夫が施されてきた。舞台を前面に置くか、観客たちの中央に置くか、中空に置くか、その舞台を固定するか、場合によっては廻すか、吊り上げるか、落下させるか、舞台の形を円形にするか、半円形にするか、四角にするか、照明装置をどうするか、蝋燭の火で照らすか、高度の科学技術の最先端機器を取り付けるか、音響装置、美術をどうするか……。クリエイターたちはいつも作品をベストに持っていくための工夫をおこたることはなかった。
ところで、観客の側に立って言えば、〈観客席〉の工夫は、創り演じる側の舞台上の工夫に較べればはるかに遅れている。大勢の観客が集まれば、当然、平面的な観客席にあっては、後ろに位置する者は不利である。そこで、階段式の座席が作られ、前後の不平等はそれなりに解決されることになった。
さらに観劇用の望遠鏡が開発されることによって、アーティストたちの演技を観客の思い一つで適宜アップで見ることもできるようになった。この観劇用テレスコープを観客が手にすることができたことは、一つの革命的な出来事であったと言える。つまり、テレスコープを手にした観客は舞台観劇上の〈編集権〉の一つを手に入れたということである。
舞台全体において全アーティストが集合する場面において、主要な人物の二人が会話する場面、その他においてテレスコープを持った観客は、誰を、どこを、いつ、どのようにアップして見るかの選択権を手に入れたのである。この意識を明晰に認識した者は、受け身の観客から、編集権(或る限定的なものではあるが)を持った創造的な観客へと変わる。
わたしは「ZED」を固定化された観客席に座っておとなしく観ながら、想像上の〈カメラ〉を何台も飛ばしていた。わたしは長年、文学作品や映像作品を批評する過程で、一義的に固定化された自分の〈眼差し〉以外にも、複数の〈眼差し〉を飛ばす習慣が身についている。「ZED」のような極めてスケールの大きいショーを、一つの固定化された視点で観ること自体が理不尽であろう。わたしが、今、たった一度しか観ていない「ZED」について批評し続けているのも、それが余りにも豊穣な幾層にも重なる〈場面〉を作り出していたからである。
わたしの想像上の〈眼差し〉は何度、鋼鉄製の〈地球儀〉の真下へと降りて行ったことだろう。とつぜん舞い降りた女神の、その瞳をどれくらいの近さで覗き見たことであろうか。奈落へと落下したクラウンの姿を闇の中で追い、空中を舞う天女たちと共に何度スリリングなスピード感溢れる飛翔を繰り返したであろうか。多くの独創的なキャラクターの演技に立会い、追い、逃れ、行動を共にしたゼッドの傍らに何度寄り添ったことであろう。
ジャグリングの火が、いつ観客の胸に突き刺さるかを心配して、〈眼差し〉は舞台近くの一観客の瞳に張りつき、〈地の誕生〉を意味するラッソの輪のなかを何度くぐり抜けたであろうか。しなやかで力強い筋肉の躍動と熱い火の呼吸音を聞かんとばかりに、わたしの想像上の、聴覚・臭覚機能を備えた〈眼差し〉はラッソの、バンキン(バヘルの塔)の、ポール&トランポリン(天に向かって)の、ジャグリング(ケルヌーンの火)のアーティストたちに接近してはすばやく離れた。
「ZED」という多義的な、多くのアーティストたちが独自の〈声〉を発する舞台においては、観客の観る〈視点〉もまた不可避的にアクロバチックにならざるを得ない。わたしは思う存分〈観劇の多義性〉〈観劇のアクロバット〉を楽しませてもらった。一度の観劇が〈百〉にも〈千〉にもなるというのが、わたしにとっての「ZED」の最大の魅力ともなっているのだろうか。
2009年8月18日