ZED論を再録(連載2)

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「ZED」を観る(連載⑥) 「Souvenir Program」を読む(その④)
(初出「D文学通信」1203号・2009年08月10日)

 次に注目すべきは、ゼッドが〈孤独な主人公〉であるということであろう。ゼッドに限らず、人間はすべて孤独で不安な存在である。なぜなら、この地上世界に誕生した人間のだれ一人として、自分がこの世に誕生したことの本来的な意味を知らず、そしてなぜ必ず死へと呑みこまれいくのか、その本来的な理由を知らないからである。

 宗教的次元での〈解答〉は、いつの時代でも用意されている。イエス・キリストは自分が命であり、復活であることを自らの口を通して語っている。彼を信ずる者は、死んでも死なない永遠の命を約束されることになる。にもかかわらず、近代・現代の人間は、宗教上の〈神〉を信じてさえ不安なのである。
 ドストエフスキーはデカブリストの妻フォン・ヴィージナ宛の手紙の中で「たとえ真理はキリストの側にないとしても、私は真理よりはキリストを選ぶ」と書いたが、同時に同じ手紙の中で「私は不信と懐疑の時代の子供です」とも書いた。絶対的な神と全一的に結びつくことのできない知性と理性を身につけた自意識過剰の近代人は、自覚するとしないに係わらずすべて〈孤独〉である。
 「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」で展開されたすばらしいショーを観た観客の誰ひとりとして、劇場から退出しなかった者はいない。帰ることを前提にして、一時の〈ユートピア〉時空を楽しむ術を知っているのが現代人である。老いも若きも、男も女も、ショー「ZED」の〈ユートピア〉を満喫して家路につくのである。
 現実の公園には、働こうにも職のないホームレスが青テントのなかで最低限の生活を営んでいる。狭い、袋のような青テントの中で寝起きするホームレスの見上げる瞳に、文字通り〈ユートピア〉の幻像はない。現実の世界を生きるすべての人間は、三人よれば二対一の派閥を作って、ああだこうだと嫉妬と憎悪の炎を燃やして束の間の時を費やしている。ひとを愛し赦せるときなど稀の稀、敵対する二つの世界が一つに結合されたことなど人類史上ただの一度もない。だからこそ、ひとはファンタジーの世界へと束の間飛翔する喜びを味わうために劇場へと足を運ぶ。が、・・・
 「ZED」を観るために集まった二千人の観客の一人ひとりが不安と孤独を自らの懐に抱きしめて、心ときめかし、涙を流し、笑い、拍手し、そしてまた誰にも救うことのできない不安と孤独を抱えて帰路につく。体感した〈ユートピア〉を背にして帰っていく観客の後ろ姿は、さらに孤独を増していると言ってもいい。が、そんな野暮なことを敢えて指摘する者など〈批評家〉以外にはいない。
 〈想像上の宇宙〉は〈さまざまな声と影とが棲むその世界〉とも言われる。〈想像上の宇宙〉は「ZED」を上演する、現実の「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」と名付けられた現実の劇場内部世界そのものをも指示している。この劇場に出演するすべてのアナリスト、楽屋裏に潜むすべてのスタッフ、関係者、そして公演のたびに集まる二千人の観客のひとり一人が棲む〈宇宙〉である。
 わたしは、たった一度のショー「ZED」を観て批評を展開しはじめた、その観客の一人である。わたしの〈孤独〉とゼッドの〈孤独〉が交流しなければ、もちろんこの批評は開始されなかった。わたしはわたしの〈孤独な声〉を発することで、ショー「ZED」の舞台へと参入するしかない。
 孤独な人間の声が、さまざまな場所からたちあがることだろう。ひとつひとつの声が壮大な大合唱になったとしても、いつでもその〈ユートピア〉が幻想であることを知っている者は、孤独を誰にも売り渡したりはしない。
 「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」に〈入口〉があり、〈出口〉があることの、健全なすばらしさを感じなければ、束の間の〈ユートピア〉を楽しむ資格はないだろう。ゼッドと握手し、抱擁をする者は、また再び孤独な旅へと出立しなければならない。なぜならそのことこそが、人間の尊厳を保証する孤独と自由の証だからである。
 わたしはこれから、或る限定された観客席からショー「ZED」を観た一つの〈影〉として、〈さまざまな声〉を発する観客の一人として、自分自身の独自の〈声〉を発することになるだろう。ショー「ZED」は、一観客のわたしの想像・創造力をいたく刺激し挑発するものだったのだから。


「ZED」を観る(連載⑦) 「Souvenir Program」を読む(その⑤)
(初出「D文学通信」1204号・2009年08月11日)

 解説者によれば、ゼッドは〈成長と発見の旅〉に出る。「シアター東京」に構築された〈天と地の狭間で宙吊りになっているこの謎に満ちた世界〉を彷徨いながら、ゼッドは〈奇想天外で躍動感に満ちたさまざまなキャラクター〉に出会い、成長して行くというわけだ。

 舞台上のゼッドの大げさな仕種や表情は発見の驚きに満ちている。好奇心と冒険心旺盛なゼッドは〈偉大なる女神ニュイやシャーマン、スフィンクスサテュロス〉などと出会うことによって新たな世界を発見し、自らの内部世界を豊穣なものへと変えていく。まさにゼッドにとって〈この謎に満ちた世界〉を彷徨うことは〈発見〉であり、自らの〈成長〉を促すことになっている。
 ゼッドは成長し発展する遍歴者として、二つの世界(対立し相剋する複数の世界)を一つに結合する使命を帯びた〈愚者〉として設定されている。ゼッドは、その意味で、「シアター東京」に集まった観客の位置に立っている。観客は、舞台上に次々と現れる、まさに〈奇想天外で躍動感に満ちたさまざまなキャラクター〉に圧倒される。それは間違いなく驚きであり発見である。観客はゼッドと歩調を合わせて、発見し、成長して行くというわけである。
 しかし、これは一般の観客に向けてのサービスである。ゼッドは何も知らないゼロ(赤ん坊)の地点から出発し、様々な独自の個性を持ったキャラクターや彼らが属する世界との接触を通して、徐々に成長していく〈愚者〉を演じている道化であることを忘れてはならない。
 タロットからヒントを得て生まれたというゼッドは、「シアター東京」という〈謎の世界〉を駆け回り、観客の感動を共にする役目を一身に負っているが、単にその地点にとどまる存在ではない。〈愚者〉は〈聖者〉であり、荒野を放浪する〈乞食〉であるが同時に全権力を握った〈王〉でもある。〈愚者〉は権威権力を根底から崩壊させるおちょくりの精神を持った道化であり、同時にその打倒すべき対象としての〈権力者〉でもある。
 〈愚者〉は世界を、宇宙を、天上界を、地下の冥界を、そしてドミートリー・カラマーゾフが言った神と悪魔が決着のつかない永遠の戦いを続けている、余りにも広すぎる人間の内部世界をも自在に動き回る霊的流浪者なのである。つまり、〈愚者〉はあらゆる世界を流浪し終えた者でありながら、未だにその旅を続ける者なのである。
 宇宙創世と終末を繋げることのできる〈愚者〉は、永遠回帰を直観したニーチェが「ならばもう一度生きよう」と言ったと同じ次元の虚無を抱え込んでいる。ゼッドに照らして言えば、彼は〈発見〉の驚きと〈成長〉の喜びを戯れ演じているということである。あらゆる世界を一周(ニーチェの思想によれば無限回)し終えて、今一度世界へ向けて旅立つ〈愚者〉の虚無の重さを思い知った上で、彼の軽やかさに同調しようではないか。
 「シアター東京」に設けられた〈謎の世界〉に限っても、観客は一回ないしは数回の観劇に〈発見〉と〈成長〉を体験するのみだが、ゼッドは興行が打ち切られない以上は、それこそ無限の〈発見〉と〈成長〉を繰り返すほかはないのだ。歓喜の風にも虚無が潜んでいる、それだからこその〈ショー〉なのである。


「ZED」を観る(連載⑧) 「Souvenir Program」を読む(その⑥)(初出「D文学通信」1205号・2009年08月12日)

「「ZED」の世界が『カラマーゾフの世界』に通底する  
解説家は、ピエロにも似た詮索好きなゼッド、彼は「私であり、あなたである」と断言する。続いて「ゼッドは、鏡をかざして私たちの本当の姿をそこに映し出し、人間のあらゆる側面と、人間がもつすべての知恵と愚かさとを、すべての強さと弱さという形で表現する」と語る。

 聞きようによっては実に恐ろしい言葉である。〈人間のあらゆる側面〉とくれば、人間は創造的、発展的な側面のみならず、破壊的、頽廃的な側面をも備えている。神を志向する人間が、同時に悪魔の唆しに乗ったりもする。神の前に祈る人間が、憎悪と殺意を抱えて呪うこともある。日々の暮らしを平凡に過ごしていた人間が、戦争に駆り出されて平然と敵の人間を殺したりもする。
 人間のあらゆる側面に徹底して照明を与えた作家にドストエフスキーがいる。その代表的な作品『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』を読了した後で〈人間のあらゆる側面〉という言葉に直面すれば、内面世界の奥深いところから戦慄が駆けのぼってくる。ドミートリイがアリョーシャに向かって語った言葉を、未だ誰一人として否定できた者はいない。ドミートリイは〈神に情欲を授けてもらった虫けら〉について語り、次のように続ける。
 俺はね、この虫けらにほかならないのさ、これは特に俺のことをうたっているんだ。そして、俺たち、カラマーゾフ家の人間はみな同じことさ。天使であるお前の内にも、この虫けらが住みついて、血の中に嵐をまき起すんだよ。これはまさに嵐だ、なぜって情欲は嵐だからな、いや嵐以上だよ!美ってやつは、こわい、恐ろしいものだ! はっきり定義づけられないから、恐ろしいのだし、定義できないというのも、神さまが謎ばかり出したからだよ。そこでは両親が一つに合し、あらゆる矛盾がいっしょくたに同居しているからな。俺はひどく無教養な人間だけれど、このことはずいぶん考えたもんだ。恐ろしいほどたくさん秘密があるものな! 地上の人間はあまりにも数多くの謎に押しつぶされているんだ。この謎を解けってのは、身体を濡らさずに水から上がれというのと同じだよ。美か! そのうえ、俺が我慢できないのは、高潔な心と高い知性とをそなえた人間が、マドンナ(訳注 聖母マリヤのこと)の理想から出発しながら、最後はソドム(訳注 古代パレスチナの町。住民の淫乱が極度に達し、天の火で焼かれた)の理想に墜しちまうことなんだ。それよりもっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想を抱く人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。そうなんだよ! 理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。ソドムに美があるだろうか? 本当を言うと、大多数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在しているんだよ・・お前はこの秘密を知っていたか、どうだい? こわいのはね、美が単に恐ろしいだけじゃなく、神秘的なものでさえあるってことなんだ。そこでは悪魔と神がたたかい、その戦場がつまり人間の心なのさ。 (原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』第三編「好色な男たち」三「熱烈な心の告白・・詩によせて」より)

 善、正義、倫理、道徳といった肯定的な側面は、悪の力によって、善悪観念の磨滅によってその拠って立つ根拠をなし崩しにされる。ロジオン・ラスコーリニコフの非凡人の思想を、思想の次元で論破できた者はいない。スヴィドリガイロフの淫蕩を、ルージンの功利主義を、ソーニャの売春を、マルメラードフのアル中を誰も否定できない。
 十九世紀ロシアの首都ペテルブルクに降臨したムイシャキン公爵は、「真実美しい人間」の造形を作者によって意図されていたにもかかわらず、彼はナスターシャを殺害したロゴージンの共犯者にとどまった。彼は現実の世界において何ひとつ奇蹟をおこすことはできなかった。福音書に現れるイエスは、『罪と罰』で題材にされた「ラザロの復活」のように、死んで三日もたった者を生き返らせる奇蹟を起こすことができた。しかし、ムイシュキンは余命いくばくもないイッポリート少年の結核を治す力さえ備えていなかった。
 彼は対立する二(たとえばナスターシャとロゴージン、たとえばロゴージンとムイシュキン自身、たとえばナスターシャとアグラーヤなど)を一に結合するためにではなく、二の対立をさらに深め、最後には破滅に追いやるために、わざわざスイスの療養所からペテルブルクに派遣されて来た、何か或る邪悪なる者の相貌を潜めている
 新約の神イエス・キリストは愛と赦しを体現する者としてのみこの地上の世界に降臨してきたとは思えない。「ゲラサの豚」のイエスは、一人の男に封印されていた〈悪鬼ども〉をわざわざ開放している。彼はこの地上の世界に平安をもたらすためにではなく、不幸と悲惨を、一を二に割る対立と抗争をもたらすために降臨したきたようにも思える。
 彼は超一流のスキャンダリストであり、その破壊力を思う存分行使することのできる霊的存在であり、同時に逮捕され、裁かれ、鞭打たれ、六時間の十字架上での人間的な苦痛に耐えなければならなかった弱者でもあった。つまりイエス・キリストこそが〈愚者〉の〈王〉であり、〈人間〉の姿を借りて地上世界に降臨した〈神の子〉であったということになる。この両義的な存在であったイエス・キリストが〈白い衣装〉に身をまとったゼッドと重なって来るのは当然と言えようか。
 『悪霊』のニコライ・スタヴローギンは完全に善悪観念を磨滅させてしまっている。もはやこの青年にはゼッドの〈発見〉もなければ〈成長〉もない。つまり〈人間のあらゆる側面〉を遍歴してきたニコライが対立する二を一に結合させることができずに、虚無の直中に漂っているということこそが問題となる。
 ゼッドが「私であり、あなたである」なら、「鏡をかざして私たちの本当の姿をそこに映し出」す者であるなら、彼もまたロジオン・ラスコーリニコフと、スヴィドリガイロフと、ムイシュキン公爵と、ニコライ・スタヴローギンと、そしてカラマーゾフの兄弟たちとの対話を欠かすことはできないだろう。


「ZED」を観る(連載⑨)「Souvenir Program」を読む(その⑦)
(初出「D文学通信」1206号・2009年08月13日)

「「ZED」の世界が『カラマーゾフの世界』に通底する 。
 わたしが「ZED」を観て直観したのは、「ZED」とドストエフスキーの作品世界との根源的な共通性だったのであろうか。ゼッドの相貌にはムイシュキン公爵とアリョーシャ・カラマーゾフの相貌が重なっているように見える。

 人間の経験の真髄を謳い上げるこの叙情的な冒険物語の中で、以前は調和のなかった二つの世界が、ゼッドを通じて、再び一つになるのだ。
 この言葉を読むと、わたしの中では『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面が蘇ってくる。淫蕩三昧な日々を送っていたフョードルは、長男ドミートリイと妖艶な女グルーシェンカをめぐる骨肉の争いの末にスメルジャコフによって殺されてしまう。ゾシマ長老の死後の死臭によって信仰心をぐらつかせたアリョーシャはグルーシェンカの純粋無垢な精神に触れて再生する。「神がなければすべては許されている」という思想をスメルジャコフに吹き込んだイヴァンは、「父殺しの本当の犯人はあんただ」とスメルジャコフに言われて狂気に陥る。フョードルに妻を寝取られたスネギリョフは、実はフョードルの子供である息子イリューシャの死に慟哭する。見習い修道僧アリョーシャの信仰は、今後幾多の経験のなかで絶えず試みられていくことになろう。
 しかし、取り敢えず『カラマーゾフの兄弟』一巻は幕を閉じた。作者ドストエフスキーは次のように書いて、あの世へと旅立っていった。ここでは最終場面の一部を引用しておく。

 「ああ、子供たち、ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません! 何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!」「そうです、そうです」感激して少年たちがくりかえした。「カラマーゾフさん、僕たちはあなたが大好きです!」どうやらカルタショフらしい、一人の声がこらえきれずに叫んだ。「僕たちはあなたが大好きです、あなたが好きです」みんなも相槌を打った。多くの少年の目に涙が光っていた。「カラマーゾフ万歳!」コーリャが感激して高らかに叫んだ。「そして、亡くなった少年に永遠の思い出を!」感情をこめて、アリョーシャがまた言い添えた。「永遠の思い出を!」ふたたび少年たちが和した。「カラマーゾフさん!」コーリャが叫んだ。「僕たちはみんな死者の世界から立ちあがり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語り合うんです」半ば笑いながら、半ば感激に包まれて、アリョーシャが答えた。(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』エピローグより)

 ここでアリョーシャは間違いなく、対立する諸世界を一つに繋げる役割を果たしている。「カラマーゾフ万歳」という言葉は、文字通り〈人間のあらゆる側面〉を肯定し賛美する言葉である。ニーチェは、アポロンディオニュソスを包むところの大いなるディオニュソスという言葉で、あるがままの全世界の事象を力強く肯定した。イヴァン・カラマーゾフは、神そのものの存在は認めたが、神の創造した世界は不条理に満ちているとして、その世界への入場を拒んだ。しかし同時にイヴァンは、この不条理に満ちみちたこの世界に対して「事実にとどまるほかはない」という諦めにも似た認識を示した。
 ニーチェ永遠回帰と全世界のディオニュソス的肯定、キリスト教のアーメン(神の御業のままに)、仏教の輪廻転生、イヴァンの「事実にとどまるしかない」、そしてアリョーシャを囲んだ子供たちの間から発せられた「カラマーゾフ万歳」・・・これらの声が今、一つになってわたしの耳に聞こえてくる。
 「天と地の狭間で宙吊りになっているこの謎に満ちた世界」を彷徨い、挑発し、誘惑し、誘惑され、さまざまな試みに遭いながら、ニーチェのように大いなるディオニュソス的肯定の言葉を発することができるのか。
 『カラマーゾフの兄弟』が書かれてから百年以上の歳月が流れた。その後人類は二回の世界戦争を起こした。戦争の悲惨の最中で、ゼッドは、わたしは、大いなる現実肯定の言葉を発することができるのだろうか。
 フランクルの『夜の霧』を読みながら、アウシュビッツの地獄を想像世界で体験しながら、ゼッドは、わたしは人間のすばらしさと、人間の卑劣・愚劣、そのすべての側面を肯定することができるのだろうか。
 かつてわたしは最初のドストエフスキー論の著作で、イヴァン・カラマーゾフの「事実にとどまるほかはない」という言葉にのみ共鳴できると書いた。大いなる痛み、大いなる苦しみを味わっている者の前で、あらゆる事象を肯定できる〈声〉を発することはできない。ゼッドが〈鏡〉をかざしてわたしに迫ってくるのであれば、わたしもまた鏡を貫いてゼッドの〈本当の姿〉を映し出すことになろう。
 それにしても、「ZED」の解説者の最後の言葉「友よ、生きることを恐れるな」(Fear not to live,my friend?)は、アリョーシャの言葉「ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません!」と見事に重なる。

  「カラマーゾフ万歳!」は「「ZED」万歳!」の声に重なる。アリョーシャは最後に笑いながら言う「さ、行きましょう! 今度は手をつないで行きましょうね」と。コーリャは感激して絶叫する「いつまでもこうやって、一生、手をつないで行きましょう! カラマーゾフ万歳!」と。少年たちは全員がその叫びに和した、と書いてドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』に幕を下ろした。
  わたしの中で、ショー「ZED」のエンディングの光景が鮮やかに蘇る。すべてのアーティストたちが中央舞台になだれ込み、手を繋ぎ、観客の万雷の拍手に応える。
 「シアター東京」の劇場内に「「ZED」万歳!」「カラマーゾフ万歳!」「シルク・ドゥ・ソレイユ万歳!」の声が響きわたる。
  わたしが「ZED」を観て直観したのは、「ZED」とドストエフスキーの作品世界との根源的な共通性だったのであろうか。ゼッドの相貌にはムイシュキン公爵とアリョーシャ・カラマーゾフの相貌が重なっているように見える。


「ZED」を観る(連載⑩) 「Souvenir Program」を読む(その⑧)
(初出「D文学通信」1207号・2009年08月14日)

  「Souvenir Program」を読むと、わたしがショー「ZED」を観て批評衝動に駆られた理由がすぐに了解できた。「The Creators」のひとたちのコメントがどれもすばらしいのだ。順を追って検証(対話的検証)を進めていきたいと思う。まずはガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテの言葉を引用しよう。

 世界に新たな太陽が昇り、私たちは想像力のフロンティアでくりひろげられる新たなる旅へ皆さまをご招待いたします。

 ここで言う〈新たな太陽〉とは、わたしたちが通常の現実世界で恩恵に授かっている自然の太陽ではない。それは〈私たち〉、つまり制作し演技する者たちと、それを観、体験する観客たちの、まさに〈想像力のフロンティア〉に昇る〈新たな太陽〉なのである。それは現実以上の熱と光を発し、人間をはるかに自由で幸福な状態へと導き、照らしだす〈太陽〉なのか、それとも、それは或る限定された劇場内に昇る、束の間の美しい幻想を抱かせるたけの人工的な太陽に過ぎないのか。
 紙面右上にギーの人懐っこい暖かな笑顔がある。彼が製作者側の人間として、自信たっぷりに発見と冒険と成長の〈新たなる旅〉を観客に約束しているのは確かなようだ。ギーの笑顔の両眼には、苦難と悲惨に満ちた世界を一度遍歴した者の祈りと温もりが感じられる。
 運命を指し示すアルカナ(タロット)は、私たちの目の前でさまざまに組み合わせを変えながら「一緒に冒険にでよう」と呼びかけています。

 タロットに人間の運命の諸相を見るということは、そこに描かれた図柄から限りなく想像力を働かせる自由な精神の働きがなければならない。自身の存在を一義的に固定化し、他者へと開かれた窓を心の内に持たない者はやがて硬直化し萎びてしまう。タロットに登場するさまざまな人物やものに象徴的な多義性を感じる精神は、想像の世界を自在に飛翔し、内的宇宙を豊穣なものへと変えることができる。
 ゼッドがタロットの〈愚者〉からヒントを与えられたキャラクターであったということはきわめて重要である。ゼッドはゼロ(0)であり、オー(〇)である。彼は本来姿なき〈風〉であり、世界全体を包み込むところのオー(〇)である。世界を創始し、展開させ、幕を下ろし、さらなる創世を約束する全能の存在である。この存在が一人の好奇心と冒険心に溢れた一人の〈聖なる愚者〉・ゼッドとして舞台上に現れ、さまざまなキャラクターと出会い、関係を結び、新たな世界の立会人としての役目を全うする。ゼッドは〈新たな世界〉の創造的〈語り手〉であり、その世界のすばらしさを観客にアピールする宣伝マンでもある。
 三人称小説において〈語り手〉の果たす役割は大きい。スケールの大きい小説においては、〈語り手〉を〈無形の説話者〉(この言葉を最初に使用したのは坂口安吾で、後にロシア文学者の江川卓はゼロの語り手という言い方をした)として設定することは有利である。〈無形の説話者〉は限りなく全能の神の視点を獲得している(あるいはそのような振りをすることができる)。語り手が一作中人物として登場して来た場合、小説で語られる世界は、その語り手の〈主観〉を通過したものとなり、神的な普遍性を獲得することは不可能となる。
 ドストエフスキーは『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』において〈アントン・г〉や〈私〉という一人物を語り手として設定したが、小説世界の具体的な展開は〈神的な視点〉から書かれた場面が大半を占める。
 ゼッドは言わば〈有形の説話者〉として舞台に登場している。ゼッドは様々な個性的なキャラやカーニバル時空(祝祭時空)に立会うことを義務づけられた登場人物であり、〈主人公〉とは言っても、常に独創的なキャラのわき役に甘んじている。言い方を換えるなら、ゼッドは舞台の中央に名目上は存在する〈主人公〉だが、実際においては不断にその周辺を忙しく駆け回っていなければならない道化的キャラである。
 「一緒に冒険に出よう」と呼びかけているのは誰なのか。ガイド&ファウンダーとしてのギーなのか、それとも最初から観客席や舞台を自在に歩き回り、観客をユーモアたっぷりに挑発し続けていた二人のクラウンなのか。クラウンが書物のなかに吸い込まれた後は、ゼッドが、眼前に展開される〈夢と冒険〉の世界の〈旅人〉となって、観客一人一人の思いを体現する者となっている。ゼッドは、観客一人一人の鏡像として、次々に展開される〈新たな世界〉の発見者、立会人として、驚愕と歓喜を味わい、次なる展開に熱い期待をこめて舞台狭しと駆け回る。
 「ZED」を観た者にはすでに自明のことだが、ゼッドは〈新たな世界〉を発見、成長するために舞台を駆け回っている存在であって、世界を破滅させるために登場しているのではない。彼は対立した複数の世界を一つに結びつけるという使命を帯びた〈聖なる愚者〉であり、その役割を全うする。彼は身に包んだ白い衣装を黒の衣装に代えることはなかった。彼は、悪魔の側につくことは許されない。彼は神と悪魔の両極に魂を引き裂かれる存在であってはならなかった。彼は世界の調和のために、〈新たな世界〉に現出し、その世界のすばらしさをアピールする。