「ZED」論再録(連載5)

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「ZED」を観る(連載21)
クロバットがすべてか!? 「Souvenir Program」を読む(その19)
(初出「D文学通信」1218号・2009年08月25日) 

 「すべてはアクロバットなのです」と言い切るスコット・オズグッドの真意に迫る
 今回はアクロバティック・パフォーマンス・デザイナーのフロランス・ポとアクロバティック装置デザイナーのスコット・オズグッドの言葉を検証してみよう。
 フロランス・ポは次のように語っている。

 私たちが求めるバランスを実現するため、スポーツマンとして活躍した経歴をもつアクロバットパフォーマーや、サーカス・アーティストを起用しました。「ゼッド」は、オペラ、叙情詩、ダンス、映画の要素を持つショーです。演出のフランソワ・ジラールは、舞台を映画の画面のように構成しましたが、これによって私たちには無限の可能性が生まれたのです。

 まず注目したいのは〈私たちが求めるバランス〉という言葉である。ショー「ZED」が全体のバランスを保つためには、超一流のアーティストたちを揃える必要がある。ショーのヴィジョンに相応しい優秀な人材を集め、さらに磨きをかける。これはどんな分野においても、成功を勝ち取るための必須条件である。スポーツは競技的側面を第一に考えるが、世界的記録保持者の競技姿はどんな種目選手にあっても見るひとを深い感動に誘う〈美〉を体現している。
 オリンピック種目の中でも特にフィギュアスケート、シンクロナイズド・スイミング、トランポリン、新体操のロープ、ボール、フープ、クラブなどは、演技者の演技に躍動的な、スピード感溢れる華麗さや美そのものが求められる。競技場はあたかも演劇の舞台ででもあるかのような華やかさに満たされる。また体操種目の吊り輪、鉄棒、按摩、床運動などを得意とする選手は、アスリートとしての基本的な技術をマスターしている。「シルク・ドゥ・ソレイユ」が、こういった種目のオリンピック・メダリストに注目し、スカウトして一流のアーティストに仕立て直す試み自体が画期的な出来事であったと言えよう。
 アマチュア・スポーツ選手の現役引退後の生活が保証されているわけではない。チームの監督、コーチとして選手の指導育成に携わる現役引退者の数は限られている。一流のアスリートたちが、スカウトされてアーティストの道を選ぶことができるということにも「シルク・ドゥ・ソレイユ」の存在意義がある。一流のアマチュアのアスリートから一流のプロのアーティストの道を切り開いたことは、このショー団体の一つの大きな功績であろう。
 オズグッドは次のように語っている。

 「ゼッド」は情熱に満ちたアクロバティック・ショーです。すべてはアクロバットなのです。フライング・トラピス(空中ブランコ)、ハイワイヤー(綱渡り)、ポール&トランポリン。私たちが造りあげたシステムはきわめて複雑で洗練されていますが、私の目標は、それを解体して、可能な限りシンプルなものにすることでした。もし一本のロープを使って実現できることであれば、手の込んだ道具は使わずにロープでやる、ということです。私はシンプルが好きです。

 オズグッドの言葉には「すべてはアクロバットなのです」と言い切ってしまう凄さがある。確かに「ZED」からアクロバットを抜き取ったら何も残らないかも知れない。しかし、この大胆な言葉はオズグッドに限らず、「ZED」に係わったすべてのクリエイターが発していてもかまわない。どんなに凄いアクロバットを展開しても、照明なしの闇の中ではショーとして成立しない。その凄いアクロバットに相応しい衣装、音楽、装置、そして裏方にまわったスタッフと観客がいなければ、ショーとしてのアクロバットは成立しないのである。
 これは総合芸術としての「ZED」においては当たり前のことだが、敢えて「すべてはアクロバットなのです」と言い切ってしまうオズグッドの大胆不敵な発言は、自分の仕事に誇りと自負を持ったクリエイターの言葉として説得力を持って迫ってくる。各部処を担当するクリエイターたちが、オズグッドのような情熱と確信をもって舞台造りに参加しているからこそ、観客をあまねく感動に導くショー「ZED」が出来上がったのであろう。
 オズグッドの言葉でもう一つ注目すべきは〈シンプル〉ということである。複雑多岐、超高度な技術を発揮するアーティストたちに対して〈シンプル〉を要求できるクリエイターはすばらしい。オズグッドの言う〈シンプル〉は、ガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテの言う〈世界の均衡に欠かせない調和〉、衣装デザイナーのルネ・アプリルが言う〈「線」の統一性と純粋性〉に繋がり、他のクリエイターたちも口を揃えて言う〈インスピレーション〉と同じ意味を持っている。
 もし、オズグッドの〈シンプル〉が「ZED」の基本的なヴィジョンやインスピレーションに反していれば、その一翼を担うことはできない。オズグッドの肖像写真を眺めていると、微動だにしない強い信念を感じる。強情とやんちゃが混じっているような顔だが、この顔には経験に裏打ちされたアクロバットに対する熱い思いが刻まれている。オズグッドの経歴をわたしはまったく知らないが、彼はショーの源初的な基本を何よりも大事にしているように思える。街路や広場、そしてそこに何人かのひとが集まれば、おれはいつでも凄いアクロバットで彼らの度肝を抜かすことができるんだぜ、といった大道芸人の自負と情熱を感じる。
 近代的な大劇場でなくとも、二千人の観客が集まらなくても、派手な衣装に凝らなくても、照明がなくても、立派な装置や舞台がなくても、おれにはひとを感動させるアクロバットがあるんだ、といった芸人の根性を正統に引き継いでいるような感じを受ける。オズグッドが〈一本のロープ〉でやる、という端的な言葉で表明しているのは、彼のアクロバティック・ショーに賭ける頑なまでの信念と情熱であり、芸道の根幹である。
 〈地球儀〉の底から〈一本のロープ〉で女神が舞い降り、〈一本のロープ〉で天使が中空を舞うストラップがあり、ソロ・ティシューがある。中空に水平に張られた〈一本のロープ〉で綱渡りする〈炎の振り子〉のハイ・ワイヤーがあり、〈一本のロープ〉で演ずる〈地の誕生〉のラッソがある。そして〈一本のロープ〉に象徴される花形芸としてのフライング・トラピス(空中ブランコ)がある。また〈ケルヌーンの火〉のジャグリングや〈すべての始まり〉のバトンにしても、そこには見えざる〈一本のロープ〉が存在しているようにも見えるし、〈天に向かって〉のポール&トランポリンのポールもまた垂直に延びて固まった〈一本のロープ〉に他ならない。〈バベルの塔〉のバンキンも、天と地を繋ぐ見えざる〈一本のロープ〉によって支えられている。
 まさにオズグッドの「すべてはアクロバットなのです」は、高度な技術と情熱を持ったアーティストたちのアクロバット芸に裏打ちされた言葉として大いなる説得力を持っている。


「ZED」を観る(連載22)
 ショーの振付と暗黒舞踏 「Souvenir Program」を読む(その20)
(初出「D文学通信」1219号・2009年08月26日)

 ショーの振付と暗黒舞踏
振付のジャン=ジャック・ピエとデボラ・ブラウンの言葉に迫る

 今回は振付のジャン=ジャック・ピエとデボラ・ブラウンの言葉に迫ってみたい。
 ピエは次のように語っている。

 私は、演劇から多くのインスピレーションを得ますが、静止した姿に動きを表現したオーギュスト・ロダンやアルトゥーロ・ジャコメッティの彫刻からも多くの影響を受けました。「ゼッド」における私の目標は、華麗な身振りの振付に頼ることなく、アクロバットと振付を通じて作品のサブテキストを表現すること。私は、動きというよりも情緒を振り付けることを大切にしています。
 
 ショー「ZED」の見所が華麗でスピーディなアクロバティックなパフォーマンスにあることは確かだ。しかし、わたしが眼を見張ったのは〈天と地の出会い〉と名付けられたハンド・トゥ・ハンドの演技であった。〈動〉の極限に〈静〉があり、〈静〉の極限に〈動〉がある。この男女二人が演ずる〈静〉とゆるやかな動きは、華やかな「ZED」の舞台にあって、その中心を指示するような迫力があった。
 〈ハンド・トゥ・ハンド〉というネーミングが、「ZED」の根本的なコンセプト(二つのものを一つに結びつけるということ)を負っていることは明確だが、この男女二人の演技は奇しくもそういったショー的次元における意味を超えていたことも確かである。彼らの演技は、日本特有の暗黒舞踏の系譜に繋がるものを感じた。
 西洋の舞踊においては、舞手がいかに高く飛び、いかに大きく旋回するかが重要視される。神は天にあり、崇高なるものを表現しようとすれば舞手は人間の跳躍力の限りを尽くして高く飛ばなければならない。しかし土方巽が創始した暗黒舞踏においては、立とうとして立てない身体、生きながらにして死んだ肉体が重要視される。より高く飛んだり跳ねたりする代わりに、がに股で這いつくばるような、限りなく静を保った微細な動きが要求される。暗黒舞踏においては、飛ばないこと、跳ねないこと、身体を〈静〉に限りなく近づけることで、宇宙大の動きを表現することが要請されている。
 〈ハンド・トゥ・ハンド〉の二人の男女の動きは、〈静〉を前提にしたきわめてゆるやかな動きに徹しており、華麗なアクロバティックな演技の連続の中で特異な位置を占めている。しかし、この〈ハンド・トゥ・ハンド〉もまたバランスを何よりも大切にする「ZED」の一部としてショー全体に見事に融合している。
 ロダンジャコメッティの彫刻から強い影響を受けたというジャン=ジャック・ピエは、「ZED」において、動かない彫刻を動かした。ロダンの彫刻は激しい〈動〉を〈静〉の形に凝結させた。ジャコメッティは形を極限にまで追い詰めた。形を極限まで追い詰めれば〈ゼロ〉になる。形を、その姿を消す極限まで追い詰めて〈形〉にしたのがジャコメッティである。
土方巽は宇宙を経めぐる究極の〈動〉を目指して、限りない〈静〉の舞踏へと至りついた。ピエは土方巽や大野一男、大野義人の舞踏を知っているのだろうか。舞踊、舞踏はさまざまな複雑な動きをするが、日本で誕生した暗黒舞踏は、〈動〉を通して限りなく〈静〉に近づこうと指向性を一貫して貫いている。
 わたしは「ZED」に〈ハンド・トゥ・ハンド〉が登場したとき、激しい〈動〉の中に〈静〉を登場させた、その演出に目を見張った。ロダンの〈彫刻〉が、ジャコメッティの〈彫刻〉が、舞台に登場することの衝撃は、激しいアクロバットの芸が凍結する危険性を孕んでいるということでもある。
 ピエは「アクロバットと振付を通じて作品のサブテキストを表現すること」と語っていた。この言葉を謙虚と受け止めるべきなのか。この言葉自体がわたしにはアクロバット風に思える。〈ハンド・トゥ・ハンド〉の〈静〉がアクロバティックな諸芸のすべての〈動〉を凍結し、その〈静〉が宇宙を飛翔する〈動〉ともなるのだ。ピエもまた、すべてを承知の上でショー「ZED」のハーモニーを第一にしたクリエイターと言えよう。
 もう一人の振付担当のデボラ・ブラウンは次のように語っている。

 「ゼッド」のアーティストたちの中にはプロのダンサーではない人もいるため、アクロバティックに潜在するリズムを基に動きを振り付けるという方法を取りました。アーティストは、それぞれ個性がまったく違いますし、まったく異なる文化から来ていますが、それぞれの最良の部分を引き出すことが私の役目だとおもっています。

 ジャン=ジャック・ピエがハンド・トゥ・ハンドに代表される〈静〉の側面を担当し、デボラ・ブラウンが〈動〉の側面をそれぞれ担当したのであろうか。サーカスにおいて華麗で躍動感溢れるアクロバティックな動きは主流を占めるが、ピエの〈静〉はその〈動〉に匹敵する迫力をもって迫ってきた。
 ハンド・トゥ・ハンドは男と女、天と地の融合という、まさに「ZED」の根本的なヴィジョンである二つのものを一つに結びつけているが、ショー「ZED」の舞台全体においては「リズムを基に動きを振り付けた」ブラウンの〈動〉とピエの〈静〉が見事に溶け合って一つの大いなるディオニュソス的な世界を造り上げていた。
ブラウンの言葉にも、異なった文化、異なった独自の才能を持った各自のアーティストたちの能力を最大限に引き出し、「ZED」全体のバランスを実現しようとする確固たる意思が表明されている。アクロバティックな激しい〈動〉と、彫刻のように限りなく動かないことを理想とする〈静〉とが、一つの舞台で見事なバランスをとったということは奇跡的な出来事でさえある。
 独自の強烈な主張を持ったクリエイターたちが寄り集まって、対話を重ね、リハーサルを繰り返し、大いなるインスピレーションに導かれて、一つの総合的なショーを造り上げる。「ZED」は、或る何か大きな力に導かれ、クリエイターやアーティストたちの分裂、葛藤、確執を乗り越えて完成に至ったのだという思いを強くする。