清水正 時代を超えた『あしたのジョー』

報告

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原孝夫七回忌

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時代を超えた『あしたのジョー
ーーちびっ子サチに捧げる死闘(テキストへの参入)ーー

清水正


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あしたのジョー』について本格的に批評しようと思ったことは一度や二度ではない。ジョーが闘い尽くしてコーナーから立ち上がらない最終場面は、わたしの批評の根本にも関わることで、烈しい批評衝動にかられた。が、わたしは『あしたのジョー』論にとりかかることはなかった。それにわたしは『あしたのジョー』を全巻読み通したことはなかった。わたしにとって『あしたのジョー』は断片的なもので、ジョーがドヤ街に流れ着いた最初の場面と最終場面が強く印象に残っていた。つまり、わたしは『あしたのジョー』論を最初の場面と最後の場面だけで書こうとした。
 今回「わたしが魅せられた漫画」の企画をたてたのはわたしだが、どの漫画を選ぶかについてはそうとう迷った。つげ義春の漫画に関してはすでに何度もとりあげているし、最近では『「ガロ」という時代』(2014年9月 青林堂)でつげ義春の「チーコ」、日野日出志の「蔵六の奇病」、白土三平の「カムイ伝」、池上遼一の「白い液体」、勝又進四コマ漫画蛭子能収の「愛の嵐」、水木しげるの「白い旗」、滝田ゆうの「寺島町奇譚」などについて批評した。つまり関心のあった漫画についてはほとんど書いてしまった。
 そこで思いついたのが、「赤銅鈴之助」であった。わたしにとって「赤銅鈴之助」は最初に漫画の魅力を存分に味わわせてくれた作品である。父親が買ってきてくれた「少年画報」に掲載されていた「赤銅鈴之助」はわたしの脳裏に刻印された。特に印象に残っているのは、鈴之助が竹のしなりを利用して複数の敵と勇ましく敏捷に闘う場面であった。わたしは「赤銅鈴之助」というと必ずこの場面を思い出し、復刻版でその場面を探したのだが、どういうわけか見つけることができなかった。鮮やかに、カラーで記憶されている一場面が、わたしの記憶違いとも思えないのだが、当時、漫画雑誌は消耗品扱いで、読み終われば何ヶ月後かには捨てられる運命にあったので、未だに確認できずにいる。
 先日(2015年2月24日)、アメリカの俳優ポール・ニューマン主演の映画『暴力脱獄』がテレビで放映されていた。わたしは途中からではあったが偶然、この映画を観た。ほんの暇つぶしのつもりでテレビを観ていたのだが、この映像にはただならぬ緊張感がみなぎっており、眼をはなせなくなった。観終わって、これはぜひ批評しなければならないと思った。パソコンでこの映画について検索してみると、原題は『Cool Hand Luke』で、邦題『暴力脱獄』は日本の映画ファンをなめきった、まさに暴力的な題名である。作品の内容を無視した、商業主義を最優先した愚かな邦題である。これほどすばらしい問題作があまり話題にならなかったのは、この邦題に一因があったのではないかと思ったほどである。
 ところで、検索を続けていると映画評論家の町山智浩のコメントにめぐりあった。わたしは町山の存在を初めて知ったが、この映画に関する彼のコメントには深く頷くものがあった。彼によれば、この映画はアメリカ映画における最初の実存映画に位置づけられるもので、ポール・ニューマン主演のほかの映画はすべてゴミ、この映画だけでいいと断言していた。小気味のいい断言で耳に心地よく響いた。彼はさらに、この映画と『あしたのジョー』の共通性にも触れていた。梶原一騎が『暴力脱獄』(原作者:ドン・ヒアース。監督:スチャアート・ローゼンバーグ。1967年制作のアメリカ映画。日本での公開日は1968年8月24日)を観ていて、影響を受けていたのかどうかは不明だが、脱獄や強制労働や人物設定において共通する点はある。さらに町山智浩ポール・ニューマン演ずるルークは福音書記者ルカの名前をもじっており、ルークは現代のキリストなのだとまで指摘している。これは実に興味深い指摘で、改めて深く検証しなければならない問題である。
 ベトナム戦争体験者であるルークは、人間が生きてあることの意味を根源的に問うようになる。この世界に本当に信じるものはあるのか。ルークは虚無のただ中に突き落とされる。まさにルークはドストエフスキーの人物たちが直面し、のたうちまわった神の問題に行き着く。ルークは何をしていても常に神に問い続けている。神を失ったルークが誰よりも神を問うている、神と共にあり続けていると言ってもいい。
 アメリカはピューリタン清教徒)たちによって建国された国であるが、キリスト教徒とは言っても、彼らはドストエフスキーが苦しみ抜いたような次元で神を問うことはなかった。アメリカの代表的な漫画『スーパーマン』の主人公は自分の“正義”をただ一度として疑ったことはない。彼にとって自分の“正義”は絶対であり、敵側の“悪”はその正義の名において徹底的に滅ぼされなければならないのだ。アメリカの“正義”は相対価値の渦の中でもまれることはない。あっても自らの“正義”を根底から疑うことがないので、“正義”のための戦争や残虐な行為を反省することはない。アメリカのピューリタンたちにはヨブの苦悩、神に対する不信も反逆もない。彼らの多くは能天気に自分たちの神を信じて疑わず、敵に回った者たちの神を絶対に認めようとしない。
 ルークは刑務所に入って、どんなに不条理な扱いを受けても屈することはない。彼はまさに神を喪失した時代における〈キリスト〉のように、いかなる試みにも屈せず、不撓不屈の闘いを続ける。ルークのその闘いの姿に感動を覚えるのは、彼のまなざしが常に神に向けられていること、彼のその姿が或る確信に基づいているからである。ルークは神が存在しないのであれば、自分が〈キリスト〉としての生を全うしようという断固たる意志に従っている。この現代アメリカに降臨した〈キリスト〉が、神を問い続けたということ、ここに『Cool Hand Luke』がアメリカ最初の実存映画と言われる所以がある。
 『スーパーマン』は幕を下ろしたが、それはアメリカが自分たちの“正義”に幕を下ろしたことを意味しない。スーパーマンは一度としてヨブの懐疑と反逆を、ドストエフスキーの不信と懐疑を体験したことはない。彼は、ロダンの〈考える人〉の、頭を抱えて思考の淵にのたうち回る体験を理解できないままに姿を消した。彼は、未だに様々に姿を変えて登場するが、その基本的な能天気な性格は見事なほどに受け継がれている。
 いったいアメリカ人はドストエフスキーを真剣に読んだことがあるのだろうか。今、世界はまさに、ドストエフスキーが『罪と罰』で予告した〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉に感染した者たちによる戦いが続けられている。ドストエフスキーの予言が的中すれば、人類は破滅の時を迎えなければならないことになる。
 脱獄したルークは、教会堂から出てきたところで、追ってきた係官の銃弾に倒れる。ルークを殺したのは、同じ地上世界に生きる人間だが、ルークのまなざしは人間に向けられてはいない。彼は、彼をそこへと追い込み、試み続けた神の方へ向けられている。ルークは神へ向けて微笑みながら息を引き取った。神なき世界において、自らが〈キリスト〉となって、最後の最後まで神に反逆し、自らの死を通して神をも超え出て行ったのがルークである。ルークの微笑みに体現された壮絶な反逆と信仰の姿が、彼の〈死〉によって永遠化された。

 わたしは『Cool Hand Luke』を観終えた時、『あしたのジョー』について書くことに決めた。『あしたのジョー』はわたしの青春期に大ヒットした漫画であるが、先に書いたように、断片的にしか読んでいない。発表誌「少年マガジン」を買ったことは一度もない。従って、夢中で〈つづき〉に期待し、ハラハラドキドキでページをめくったという経験はない。ドストエフスキーで頭を一杯にした青年が手にした漫画雑誌は「ガロ」一誌であり、文字通り少年マンガ雑誌などを読む暇はなかった。今回、『あしたのジョー』について批評することに決めたので初めて全巻を通読した。『あしたのジョー』は何種類も刊行されているが、批評するにあたっては、原則として講談社文庫本全12巻をテキストにし、適宜、他のテキストも参照することにしたい。

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 タイトル『あしたのジョー』をわたしは『明日のジョー』と思いこんでいた。単純に〈あした〉を〈明日〉に重ねていたわけだが、作者(たち)はなぜひらがな表記にしたのか、と改めて考えれば、ことはそう単純に処理できる問題でもない。発表誌「少年マガジン」は、いわば子供相手の雑誌であるから、作者や編集サイドになるべく漢字を使用しないという思いが働いたのかもしれない。
 さて、〈あした〉は〈明るい日〉を意味する未来、ないしは将来を意味する。つまり、〈あした〉は未だ来ていないが、将に来るべき〈明るい日〉と、まずは理解することができる。ここで、なぜ〈まずは〉とことわったかと言えば、『あしたのジョー』は、必ずしも〈明るい日〉を約束していないからである。『あしたのジョー』の結末を知っている読者の誰が、そのラストシーンを無条件に〈明るい日〉と断定できるであろうか。つまり『あしたのジョー』は、決して〈明るい日〉を意味する『明日のジョー』ではないのである。すると、『あしたのジョー』の〈あした〉は単に子供向けのひらがな表記であったのではなく、深くこの作品の内容に関わった表記であったということになる。つまり〈あした〉は、過去、現在、未来の通俗的時空の次元を超えた意味が込められていたと言える。

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 次に名前の〈ジョー〉について思いをめぐらすことにしよう。英語のジョー(jaw)は顎を意味する。ボクサーにとって顎は重要な身体部位の一つである。強烈なアッパーカットをくらえば一瞬でマットにしずむことになる。ボクシングにおいては自分の顎をどのように守り、相手の顎をどのように攻めるかは、きわめて重要な基本的な技術上の問題である。その意味ではボクシングに命を賭けた主人公の名前として実にふさわしいネーミングと言えるだろう。しかし、ジョーの名前はその次元にとどまるのであろうか。
 正式の名前は矢吹丈である。丈をジョーと表記することで、主人公は単なる日本人の域を超えて或る普遍性を獲得することになる。丈はジョーとなることで日本から世界へ、そしてさらなる世界を目指す者の象徴となる。苗字の矢吹は、ジョーのパンチが吹かれた矢のようなスピードを持っていること、およびジョーが或る何ものかの息によって吹かれた存在であることを意味している。ジョーはジョー一人で生きているのではない。彼は風に吹かれた落ち葉のように東京のドヤ街に流れつくが、この風は或る何ものかの息でもあるということ、つまりジョーは或る何ものかから選ばれた者としての運命を生ききらなければならない。
 矢吹丈は早くに両親を失い、孤児院に預けられるが脱走を繰り返したという経歴を持つ。そして十五歳になった丈が、いきなりドヤ街にその姿を現す。読者が丈について報告される経歴はこれぐらいなもので、その具体的なディティールはまったく知らされない。両親がどのような人であったのか、彼らは何が原因でなくなったのか、丈の孤児院での生活はどうだったのか、作者はそういった点に関して描く必要性を感じていない。丈はいわば、突然、首都東京の片隅にその姿を現している。丈は肉親や孤児院との絆を断ち切った存在であり、その意味で彼はある種、孤独なアナーキストの相貌を備えている。丈は世界に投げ出された孤児であり、安らぎの場所を持たない都市の漂泊者、流れ者として舞台に登場してきた。
 
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ジョーの出で立ちに注目してみよう。 ジョーはハンチングを斜に被っている。黒のシャツにコートを着て、袋のようなショルダーバッグを肩に掛けている。まさに彼の出で立ちは漂泊者にふさわしい。斜に被ったハンチングは彼の社会に対する反抗や反逆の意志表示となっている。この帽子はオレンジ色で、もともとは赤色であったものがくすんでしまったのかもしれない。もし赤色だったとすれば、ジョーは現代の東京に現れた〈赤ずきんちゃん〉、すなわち〈お婆さん〉(山の神)に選ばれた供犠(犠牲者)ということになる。ジョーは定職を持たない〈浮浪者〉であり、反抗・反逆の牙をもった〈英雄〉であり、同時に選ばれし〈供犠〉なのである。

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 わたしは『あしたのジョー』のジョーに『暴力脱獄』のクールをかぶせ、さらに天空から東京ドヤ街に降臨してきたイエス・キリストのイメージを重ねて批評したいと思っているのだが、おそらくこれはわたし独自の深読みとなるかもしれない。原作者・高森朝雄にも作画者・ちばてつやにもジョーと神を結びつける発想があったようには思えない。が、わたしはそこまでこのテキストを再構築してみせるのでなければ面白くないのである。

 『あしたのジョー』は東京のドヤ街に流れ着いたジョーが、そこで元プロボクサーであった丹下段平と出会い、ボクサーとしての修練を重ね、ついには世界バンタム級チャンピオンのホセ・メンドーサと死闘のタイトルマッチを展開した果てに、勝負には負けたが、全力を出し尽くして燃え尽き、コーナーの椅子から立ち上がれずにいる場面で幕を下ろしている。わたしは、初めてこの最後の場面に読んだ時に、強く批評衝動を感じたのだが、今までその衝動に従うことはなかった。今回は徹底的に批評したいと思う。
 ホセとリングで闘い続けたジョーの髪は最後まで黒々としていたが、最終頁に描かれたジョーの髪は一瞬にして真っ白になっている。闘い尽くしたジョーは、もはや二度とリングで闘うことはない。ホセとの闘いで、ジョーの闘うマグマは完全に消失してしまった。ジョーは命を燃焼し尽くして死んでしまった。が、ジョーの顔に苦しみは微塵もない。ジョーの俯いて両目を閉じた顔は穏やかな笑みを浮かべている。ジョーはここで死ぬことで永遠の命を得たのである。
 『あしたのジョー』という少年漫画雑誌に発表されたエンターテインメント作品は、この最終頁一枚の絵によって、永遠性を獲得した。わたしはこの作品が「少年マガジン」で完結してから42年後の2015年に全巻を読み終えた。今、『あしたのジョー』が読めるということは、この作品が時代性に寄りかかっていなかったことを証している。ドストエフスキーを五十年も読み続けているわたしが、『あしたのジョー』を飽かずに読めたのであるから、やはりこの作品の魅力については徹底して批評してみなければならない。
 批評は、『あしたのジョー』の最終頁の絵から始まる。

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 闘いはもはや不可能と見た丹下段平は「あの偉大なチャンピオンを相手にここまで、しかも片目だけでこんなにりっぱに戦ったんだ。もうこのへんでおしまいにしよう。わしは‥‥わしゃあもう、これ以上見ちゃいられねぇ。もう、たくさんだ!」と吐き捨てるように言う。その時ジョーは冷静な口調で「待ってくれよ、おっちゃん‥‥おれは‥‥まだまっ白になりきっていねえんだぜ」と言う。段平に理由を聞かれたジョーは、カーロス戦の後で紀子に語った言葉を口にする。
「おれ、負い目や義理だけで拳闘やってるわけじゃないぜ。拳闘がすきだからやってきたんだ。紀ちゃんのいう、青春を謳歌するってこととちょっとちがうかもしれないが、燃えているような充実感はいままで、なんどもあじわってきたよ‥‥血だらけのリング上でな。そこいらのれんじゅうみたいに、ブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんのしゅんかんにせよ、まぶしいほどまっかに燃えあがるんだ。そして、あとにはまっ白な灰だけがのこる‥‥燃えかすなんかのこりやしない‥‥まっ白な灰だけだ。そんな充実感は拳闘をやるまえにはなかったよ。わかるかい、紀ちゃん。負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない。拳闘がすきなんだ。死にものぐるいでかみあいっこする充実感がわりと、おれすきなんだ」と。
 ここに引用した言葉が、ジョーの側から説明された最終頁の回答である。〈まっ白な灰〉になるまで闘い尽くすこと、これがジョーの生きる意味のすべてだと言っても過言ではない。ホセは12ランドが終わった時に「イ‥‥イッタイ‥‥ジョー・ヤブキハ廃人ニナッタリ‥‥死ンダリスルコトガ、オソロシクナイノカ‥‥? 彼ニハ悲シム人間ガヒトリモイナイノカ‥‥?」と訝る。ホセには彼の帰りを待っている〈愛スル家族〉がいる。ホセはジョーに恐怖を覚えながら「アノ男ハワタシトハ、マルデベツノタイプの人間ダ‥‥!!」と呟く。
 ホセはジョーとの世界タイトル戦に勝利した。はたしてホセは今後もボクサーとしてリングにあがることが可能なのか。ホセもまたジョーとの闘いにおいて〈完全燃焼〉したのか。作者はどうとでも描くことはできるだろうが、ジョーの完全燃焼を描いた後で、この作品に付け加えるたった一つの言葉も、絵も必要とはしなかった。読者もまた、この最終頁と共に深い沈黙に沈むほかはない。

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 『あしたのジョー』はリング上で〈まっ白な灰〉になったところで終わる。批評はこの〈まっ白な灰〉から亡霊のように立ち上がってくる。『罪と罰』のポルフィーリイは作中で予審判事としての役割だけを果たしていたのではない。彼はラスコーリニコフに対する辛辣な批評家であり、予言者ですらあった。ラスコーリニコフに「いったいあなたは何者なのか」と訊かれて、まだ35歳のポルフィーリイは「わたしはすっかりおしまいになってしまった人間です」と答えている。わたしは20歳の昔からこのポルフィーリイの言葉にこだわり続けてきた。ドストエフスキーは二人の女を斧で叩き殺したラスコーリニコフをエピローグで復活の曙光に輝かせた。最後の最後まで罪意識に襲われることのなかったラスコーリニコフを、ドストエフスキーは「愛によって復活」したと記して『罪と罰』の幕を下ろしている。こういった幕の下ろし方に関して、わたしは一貫して疑問を抱いている。
 わたしは「すっかりおしまいになってしまった」ポルフィーリイに復活の曙光に輝く瞬間はあるのかと訝った。ドストエフスキーラスコーリニコフに関しては「思弁の代わりに命が到来した」のだと書いて、主人公の復活を保証しているが、スヴィドリガイロフやポルフィーリイの復活問題に関してはまったく言及することはなかった。
 わたしは十四歳の時に世界が真っ白になったことを経験している。時間は繰り返すと考えたその瞬間、眼前が真っ白になった。すべては必然と覚って、地上世界の善悪観念が瞬時に消失した。後にニーチェ永劫回帰説を知ったが、ニーチェの「ならばもう一度生きよう」という必然と自由の一致感覚はわたしにとっては体感的な理解のうちにある。過去と未来は今という〇(零)に収斂し、その〇(零)からすべての事象が現象してくるという、有と無の一致の体感的了承を体験した者には、ニコライ・スタヴローギンの虚無などはこの本来的な虚無とはまったく性格を異にする。

 ドストエフスキーの人物たちには思想が賦与されている。その思想をめぐって多くのドストエフスキー論が書かれてきた。さてジョーであるが、彼に思想というほどの思想があるわけではない。もしあったとしても、先に引用した、紀子に語った〈完全燃焼〉程度のものである。それは熱血漢なら誰でも口にするような、実に通俗的な人生論であり、その熱い人生論に多くの読者が共鳴して、『あしたのジョー』は大ヒットしたのである。 敗戦後、日本の男たちはおしなべて腰抜けになった。日本全土は度重なる空襲で焦土と化し、そのあげくに広島と長崎に原爆まで落とされたのだ。元気が出るはずもない。が、この腰抜けたちに大いなる元気を与えたのが、空手チョップで大活躍した力道山であった。プロレスが興行である限り、シナリオがあるのは当然であるが、敗戦後の日本人の大多数は力道山の試合を真剣勝負と見て興奮していたのである。テレビの普及はこの力道山人気とアンテナにある。世間体を気にする日本人にとって隣家の屋根に取り付けられたテレビのアンテナは何よりも購買意欲に火を付ける効果があった。いずれにしても、力道山人気は急速にテレビを普及させ、戦勝国は西部劇、アメリカのホームドラマを放映して、日本民衆の意識を娯楽番組で羊化していくことに成功した。
 矢吹丈の闘い方は力道山のそれを踏襲している。相手に殴らせるだけ殴らせておいて最後に決定的な反撃に出て勝利を収める。この闘い方が最も観客をハラハラドキさせる。どのような闘い方をすれば場内が興奮の坩堝と化すか、それを体得していないプロの格闘家は大成しないだろう。セコンドは演出構成家として、ボクサーの闘い方を効果的に演出できなければならないし、ボクサーもまたその演出に応えるだけの実力とセンスをそなえていなければならない。
 丹下段平はセコンドとして一流とは言えないが、ジョーを見いだして育てた功績は大きい。ジョーがドヤ街で段平と出会ったことは宿命である。ジョーは段平以外の誰とも組むことはできない。彼らに共通しているのは、中途半端な地点にとどまっていられないことである。行き着くところまで行かなければすまない性分なのである。ジョーが勝ち進んでいくに従って、段平はいくぶん慎重になってはくるが、彼は本来、社会的規範や秩序に素直に従うような男ではない。段平はジョーの〈まっ白な灰〉になるまでの同伴者であり、同時に先導者ですらあったことを忘れてはならない。彼らは、ボクシングという四角いリング上の秩序からも不断に逸脱してしまう男たちであり、そのある種狂気的な性格が、秩序の中に生きるほかない多くのひとたちの潜在願望に訴えて支持されたのである。

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 最終頁全一コマ絵の衝撃を超えた〈ボクシング〉を描くことは誰もできない。これでジョーのリング生命は幕を閉じたし、彼の人生そのものが終えた。が、そのことでまさにジョーは永遠の命を獲得した。この最終頁一コマ絵だけで、『あしたのジョー』は語り継がれていくだろう。
 漫画『あしたのジョー』以降、この作品を越えるボクシング漫画は出ず、現実の世界においてもジョーを超えるボクサーは存在しない。例え、リング上で命を落としてさえ、それはジョーの二番煎じでしかない。漫画界においても、ボクシング界においても『あしたのジョー』は酷な課題を残したと言えようか。
 批評とはポルフィーリイと同様に「すっかりおしまいになってしまった人間」がなす術であるから、一度、まっ白な灰になってしまった人間の眼差しで世界をさまようことになる。
 完全燃焼してニュートラルコーナーに坐り続けるジョーに、現実世界における〈今後〉はない。ジョーと死闘の末に髪を真っ白にしたホセにもボクサーとしての〈今後〉があるとは思えない。ホセもまたジョーと同様に完全燃焼して勝利を勝ち取った。ホセがたとえ今後、ボクサー生活を続けたとしても、ジョーとの試合以上の試合はできないだろう。それでは、この試合を観た観客および読者はどうだろうか。彼らに〈今後〉はあるのだろうか。もちろん、あるだろう。ジョーの最後の場面に衝撃を受けたにしろ、彼らが生きる日常の手強さもある。ジョーと同じような〈まっ白〉を体験した者でなければ、それがその時、どんな衝撃を与えようが一過性のものでしかないのだ。観客・読者の大多数はリング会場を出れば、本を閉じれば、相も変わらぬ日常の場を生きるほかはないのだ。世界チャンピオンのホセですら、妻のため、子供のためを思ってリング上で闘っていた。一つの試合に完全燃焼する者に死を通しての永遠化は達成されても、ビジネスとして闘う者には死もない代わりに永遠もない。
 ホセとジョーの闘いに、観客・読者は勝敗を超えたものを求めた。ホセの勝利に酔う者はいない。ジョーの〈まっ白な灰〉と化すに至る完全燃焼の闘う姿にすべての観客・読者が酔ったのだ。ジョーの完全燃焼は対戦相手のホセはもとより、すべての観客・読者に生きるとはどういうことかを烈しく、微塵の妥協もなく突きつけた。

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 ジョーの完全燃焼型生き方に、彼に好意を寄せていた紀子はついていけなかった。紀子が選んだのは、ボクサーを止めて乾物屋の仕事を誠実にこなすマンモス西であった。いわば、紀子は愛ではなく生活を選んだ。
 ジョーの完全燃焼に、結果として寄り添うことになったのは白木葉子であった。葉子は、白木財閥の令嬢で、力石徹の後援者であった。葉子はジョーと会うまで、力石徹に心を寄せていた。その寄せる心を恋心と単純に結びつけることはできないが、しかし葉子が力石徹のような闘うキャラに牽かれていたことは確かである。これは若い頃にボクシングをしていた祖父白木幹之介の影響があったかもしれない。祖父に人一倍可愛がられて育った葉子には明らかに祖父コンプレックスがある。力石に昔の祖父のイメージを重ねて、彼に肩入れしていたことは間違いない。葉子の冷徹な表情には、強い男を、自分の統制下において庇護者として君臨したいという欲望がにじみでている。
 ちなみに、この漫画に葉子の父親は一回しか登場してこない。精神分析すれば、あまりにも強い祖父によって、その息子(葉子の父)はすでに殺されており、葉子はその敵である祖父を倒す為に、祖父以上の強い男を育成して、祖父に立ち向かわせようとしていたのだということにもなる。が、力石はジョーとの闘いに勝利はしたが、その後遺症によって死んでしまう。
 力石徹の体は大きく描かれた。これはボクシングを知らなかった作画者のちばてつやがそのように描いてしまったと伝えられている。ジョーはバンタム級、ジョーとリングで闘うために力石は常識を越えた減量を強いられた。二階級を越えた減量は医学的には死を意味する。力石は自らの死を覚悟してジョーとの闘いに臨んだことになる。この無謀な減量を強いた張本人に葉子がいる。力石が極度の減量に苦しみ、ついに発狂状態に陥って水を求めて暴れ出した時、すべての水道の蛇口を針金でしっかりと結んでいたのが葉子であった。いわば、力石を死へと誘導した張本人が葉子である。描かれざる、力石が抱え込んでいた闇も深かろうが、それ以上に深い闇を抱えていたのが白木財閥の令嬢葉子である。
 葉子は、ジョーがすでにパンチドランカーになっていたことを直感して、「ボクサーの健康管理研究における世界的権威」であるキニスキー博士に相談している。博士は、ジョーはパンチドランカーでないと診断するが、葉子の直感の方があたっていた。葉子は、愛を告白してまで、ジョーにホセとの闘いを止めるように懇願する。が、完全燃焼を願っているジョーに葉子の言葉は聞き入れられなかった。
 描かれた限りで読めば、ジョーもまた葉子を好きなことは明白である。ジョーは葉子が好きな男を知っている。葉子が好きな男は、紀子が結婚相手に選んだマンモス西のような男ではない。命を徹底的に燃焼する男、パンチドランカーの症状を自覚していてさえも戦い抜くことを選ぶジョーのような男を葉子は愛するのだ。闘い終えたジョーが、血で染まったグローブを葉子にプレゼントするのは、それが葉子に向けての何ものにも代え難い〈愛の証〉だからである。このグローブこそがジョーの魂、命であった。葉子は、ジョーから命の証を手渡されたのだ。葉子は敬愛する祖父が成しえなかった〈勝利の証〉(完全燃焼の証)を、愛するジョーから手渡された。葉子はこの時、ジョーと共に永遠の命を得た。葉子が真にジョーを愛していたなら、彼女にとっても〈今後〉はない。
 しかし、女は一筋縄ではいかない。白木葉子という女を『あしたのジョー』という漫画世界から解放すれば、葉子が次なるジョーを求めて生きることは明白である。葉子が男に絶対性を求めて、そこに殉教するような女であったならば、力石徹が死んだ時に自らの命も絶っていただろう。葉子は実業家として、興行者として、プロデューサーとして精力的に生き続ける女である。そのことでしか、葉子もまた完全燃焼できない女なのである。葉子は、〈リングに死んで永遠の命を獲得したジョー〉と闘えるボクサーを発見すれば全精力を傾けて育成しなければ気のすまない女である。葉子は、ジョーのグローブで完結するような女ではない。力石徹とジョーの亡霊を背負って、なお未来に向かって生きていく女である。が、『あしたのジョー』に、葉子が陰の主役となる続編が出現する余地はまったくなかった。

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 講談社漫画文庫『あしたのジョー』第1巻のカバー表紙と扉には、ジョーが読者に背を向けたまま振り返っている上半身が描かれている。ジョーが身に付けている帽子、コート、肩に掛けたザックについてはここでは触れない。わたしが、今、ここで問題にしたいことは、ジョーが振り返っていることだ。振り返ったジョーの顔を見つめれば、彼の瞳はしっかりとこちらの瞳を見つめてくる。ジョーの振り返ったその顔は、彼を見る者に対して挑発的である。ジョーは黙って、読者に背を向けたまま過ぎ去っていくことはできない。この顔は読者を試している顔である。俺は完全燃焼する人生を生き切る、おまえはどうなんだい、といった顔である。
 ジョーはこの世界に〈孤児〉として投げ出された存在である。〈孤児〉は東京のドヤ街へと流れ着き、そこで丹下段平と出会う。ジョーは本来、漂泊者として一カ所に留まる存在ではない。ジョーはどこまでも流れ流れていく存在でなければならなかった。しかし丹下段平と出会うことによって、ジョーの漂泊者としての性格は変容を迫られる。否、ジョーの〈漂泊者〉としての性格が明確に浮き彫りにされたと言うべきであろうか。
 つまり、ジョーは丹下段平をも乗り越えて漂泊し続けることができなかったということ、ジョーは自分にふさわしい〈定着点〉を求めて漂泊していたということである。ジョーは行く手に障害物が現れた時に、それを無視して通り過ぎることができない。ジョーはその障害物を回避して自分の身の保全をはかることはない。ジョーはその障害物と闘わずにはおれない。ジョーはまず丹下段平と闘い、次にドヤ街のガキ大将太郎と闘う。ジョーは闘い、勝利を収めることで、自分の生きる場所を開拓していくタイプで、これは彼の持って生まれた性分である。
 舞台に登場したジョーは十五歳で無職である。ジョーはひとのものを盗んだり、喧嘩をしながら生きながらえている。漫画を読むかぎり、ジョーは自分の生き方をいっさい省みないし、将来の目標があるわけでもなく、ただ行き当たりばったりに生きている。まさにジョーはどぶ川の淀みに流れ着いたごみくずのような存在なのである。もし丹下段平と出会わなければ、そのまま朽ち果てていくような不良少年であった。
 ジョーの髪型は漫画のヒーローにふさわしい長髪でふさふさしている。その前髪は長く斜めに垂れているが、片目を隠すことはない。もし片目が隠されているようであれば、社会に対する拗ね者の側面が強調されることになる。ジョーは不良少年として登場してくるが、反社会的な刻印を押された存在ではない。ジョーは世を拗ねたニヒリストではない。カバー表紙に描かれた、振り返るジョーの瞳は汚れを知らぬ無垢な輝きに満ちている。ジョーはドヤ街に現れた〈純粋無垢〉な無宿者・漂泊者であり、やがて文字通り〈スター〉となっていく存在なのである。 
 わたしはドストエフスキーの愛読者であるから、ジョーの姿に『白痴』のムイシュキン公爵を重ねてしまいたい誘惑にさえかられる。ムイシュキンが十九世紀ロシアに降臨した〈真実美しい人間=キリスト〉として設定されていたように、ジョーもまた二十世紀日本の首都東京に現出してきた〈純粋無垢な存在=キリスト〉に見えないこともないからである。が、おそらく原作者高森朝雄と作画者ちばてつやに、ジョーとキリストを重ねる発想はなかったであろう。

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 ジョーは闘う不良少年で、喧嘩を売られれば必ず買う。その場から逃げ出したり、勝つために策を弄するようなこともしない。いわば、考える前に行動を起こす単純な少年であって、その単純さ故に多くの子供たちや若者の支持を集めたと言っても過言ではない。『あしたのジョー』が発表された期間(「少年マガジン」1968年1月1日~1973年5月13日)は、いわば学生運動や革命運動が盛んな時と重なる。暴力革命を正当化していた革命運動家たちにとってみれば、暴力を否定しないジョーは彼らの英雄的存在とも見なされる側面を持っていた。
 ジョーは暴力以外の方法で問題を解決しようなどと考えたことはない。ジョーは暴力に対してはいつも暴力で対抗する。ジョーにとって暴力は忌避するものではなく、正義とすらなっている。が、ジョーは思考する少年ではないので、自らの暴力を革命思想と結びつけるようなことはしない。ジョーはいわば〈思考停止〉したヒーローであって、読者もまたこの〈思考停止〉を共有することで、ジョーの暴力(やがてそれはボクシングの格闘に移行する)を共に生きることになる。
 『あしたのジョー』において、ジョーの〈暴力〉〈格闘〉を非難する者は一人もいない。〈暴力〉は前提として肯定されている。言い方を変えれば、登場人物や読者に許容される範囲で〈暴力〉が描かれているということである。漫画的誇張はあっも、作品内暴力の行使によって人間が死ぬことはない。ジョーがボクサーとしてグローブを付けるまで、彼は常に素手で喧嘩している。ナイフやピストルを使わず、あくまでも素手で相手と闘うことが、ジョーにおける喧嘩の美学である。おそらく、この喧嘩の美学は原作者高森朝雄梶原一騎)のものでもあったのだろう。彼はこの喧嘩の美学を根底から疑ったりはしない。彼がプロレスラーの力道山極真空手大山倍達に惹かれたのも、自らの美学に共通するものを見ていたからであろう。高森朝雄にとって男は肉体的に強くなければならない。喧嘩を売られて引き下がるような男は男ではないのである。少なくとも『あしたのジョー』において〈非暴力〉の強さなどは一顧だにされていない。
 高森朝雄は中途半端にブスブスとくすぶっているような生き方、マイホーム・パパに代表される小市民的な生き方を断固拒否して、闘い続ける男に最高の価値を置く。ジョーは原作者の理想の男像を体現している。が、『あしたのジョー』最終頁のコマ絵に体現された〈完全燃焼〉した姿は、原作者の後の生涯に深刻な影響を与えた。原作者は、作品内で自己完結したジョーと共に死ぬことはできなかったからである。生き続ける原作者は、自らが創作したジョーの言葉「あとにはまっ白な灰だけがのこる‥‥燃えかすなんかのこりゃしない‥‥まっ白な灰だけだ」に打たれ続けるほかはない。『あしたのジョー』が完結したのが1973年5月13日号、その時高森朝雄は37歳であった。高森朝雄(本名・高森朝樹)がなくなったのは1987年1月21日(享年50)、実に13年にもわたって彼はジョーの言葉に打たれ続けたことになる。

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 ジョーは不良少年であるが、完全なアウトローではない。斜めに被った赤いハンチング、肩に掛けたナップザック、半コート‥‥粋なマドロスさんの旅姿を思わせるこの出で立ちは、ジョーが社会と反社会の境界域を生きる者であることを語っている。完全なアウトローに社会復帰は閉ざされている。彼は社会秩序を支える掟によって処理され、まるで初めから存在しなかったかのように埋葬されてしまう。ジョーの出で立ちは、後に彼が批判した〈中途半端〉そのものを晒している。やくざ世界にあてはめれば、ジョーは要するに半端者であって、組組織の中枢に食い込むことのできないチンピラである。社会秩序の側にも属せず、やくざ世界にも属さない浮浪少年(不良少年)など、漫画世界以外のどこにおいても生きられないし、ましてやヒーローになどなれるものではない。
 ジョーがヒーローになれたのは、丹下段平の言葉を受け入れて、拳にグローブをはめたからである。この〈グローブ〉こそが、半端者のチンピラ浮浪者を社会秩序の側に引き入れた。拳で喧嘩していくら勝利を収めても、それは所詮、ガキ大将の延長でしかない。ドヤ街、少年鑑別所、高等少年院で、ジョーは次々にボス的存在を叩き潰して頭角を現すが、そんなことは社会秩序の側にとっては痛くも痒くもない。ジョーが社会の中で輝くためには、丹下段平の差し出した〈グローブ〉をはめ、厳しい練習を積み重ねて、リング上で勝利を収めなければならないのである。
 
 丹下段平は異形なる者である。右目はギョロ目、左目は失明して黒い眼帯をまるで海賊のようにつけ、額には大きな傷跡が刻まれている。頭はつるっパゲ、大きな口に大きな出っ歯、上唇の両端に剃り残した髭が張り付いている。黒いダブルの背広を着込み、杖をついている。幅広の帽子でも被せればまさに海賊の船長そのものである。大海原で海賊どもを仕切っているのが最もふさわしいような風貌の男が、今や、ボクシング界を追放され、ドヤ街のはずれの泪橋の下にボロ小屋を建てて住んでいる。日雇い労務で日銭を稼いでは酒に溺れている丹下段平ではあったが、ボクシングに掛ける夢だけは捨てずに生きていた。
 この丹下段平とジョーが出会い、組むことで、物語は展開していく。今、〈出会い〉と書いたが、この〈出会い〉の場面が面白い。ジョーは公園のブランコに乗ろうと思って、まるで子供のようにはしゃいで公園へと続く階段をのぼろうとする、とその瞬間、何かに蹴つまづいて倒れる。この〈何か〉が、酔いつぶれて階段に寝ていた段平であった。つまり、丹下段平はジョーが〈ブランコ〉(子供の世界)に行こうとするのを阻止して、〈ボクシング〉(大人の世界)へと導くために、〈階段〉(子供と大人の境界)に待ち伏せていたようなものである。
 『あしたのジョー』とは浮浪者ジョーが異形なる者丹下段平と組んで、社会秩序(ボクシング界)へと殴り込みをかけ、平らな段から、世界最高の段までのぼり詰めようとする壮絶な闘いのドラマであるが、その最初の出会いの場面は重要な隠喩を潜めている。ジョーにとって丹下段平に躓いたことが、彼の人生における栄光の始まりであったと同時に、まさに〈完全燃焼〉という死をもたらす最初の決定的な〈躓き〉でもあったことを忘れてはならないだろう。

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 『あしたのジョー』最終場面をどう評価するかによって、丹下段平とジョーの出会いは文字通り〈躓きの石〉ともなり、栄光の一契機ともなる。ジョーとホセとの死闘に酔いしれた観客、そして読者の大半は、ジョーの〈完全燃焼〉を自分の生き方の手本とはしないだろう。高森朝雄が最も嫌ったマイホーム・パパのような庶民が、同時に『あしたのジョー』の死闘に酔いしれるのだ。ジョーの死闘に共鳴し、憧れても、その死闘はあくまでも漫画世界のヒーローのなせる術であって、それ以上でも以下でもない。彼らに待っているのは、死闘とはほど遠い日常での労働であり暮らしである。作品の中でそれを体現したのが紀子であり、彼女と結婚したマンモス西である。
 ホセ・メンドーサは世界チャンピオンが目標であったのではない。ホセはチャンピオンとなることで社会的地位、名声、金を獲得し、幸せな家族に恵まれた。ホセはチャンピオンであり続けることで、その豊かな生活の維持を願っている。ジョーのように、たった一度のリングに〈完全燃焼〉する情念を持ち合わせていない。ホセにとってボクシングは金を稼ぐビジネスであって、生きるか死ぬかの真剣勝負ではなかった。しかし、ジョーとの死闘において恥も外聞もなく反則行為に走ったホセ、試合後に髪を真っ白にしたホセに次の試合は不可能であったろう。ジョーの〈完全燃焼〉は勝者ホセ・メンドーサをもリング上から葬り去ってしまったのである。
描かれた限りでの表層テキストを見れば、ジョーの〈完全燃焼〉と共に自らの命を燃焼させた者に丹下段平がいる。ジョーが〈完全燃焼〉した後に、丹下段平に残ったものは何もない。彼もまた〈まっ白な灰〉と化した。そしてもう一人、試合前のジョーに愛を告白し、試合後のジョーに血にまみれたグローブを手渡された白木葉子である。彼女もまた、ジョーと共に命を燃焼し尽くした人間である。が、先に少し触れたように、白木葉子には前科がある。葉子は力石徹を愛し、力石徹に賭けていたのではなかったか。力石徹の死に燃焼仕切れなかった葉子が、ジョーの〈完全燃焼〉を共にしたとは断言仕切れない。
 テキストで葉子は「すきなのよ 矢吹くん あなたが!! すきだったのよ‥‥最近まで気がつかなかったけど おねがい‥‥わたしのためにリングへあがらないで!!」「この世でいちばん愛する人を‥‥廃人となる運命の待つリングへあげることはぜったいにできない!!」と告白している、が、白木葉子という女は最後の最後までこういうセリフを口にしてはならなかったし、ジョーもまた葉子に向かって「ありがとう‥‥」などと口にしてはならなかった。
 ジョーが〈完全燃焼〉した後にも、ボクシングのプロモーターとして冷徹に敏腕を振るってこその白木葉子でなければいけない。そうであってこそ、葉子はジョーの永遠のマドンナ足り得るのである。「すきなのよ 矢吹くん」などと口に出したその瞬間、葉子はマドンナから相対的な女へと化してしまう。これでは相対的な判断のもとにマンモス西と結婚した紀子と同じ次元に立ってしまう。葉子は、テキストの流れからいっても、「すきなのよ」などというセリフは絶対に口にしてはならなかった女性なのである。白木葉子は〈完全燃焼〉したジョーにさえ君臨し続けなければいけない。
 描かれた限りで見れば、葉子は〈完全燃焼〉したジョーに敗北している。ジョーはすでに死闘の果てに〈まっ白な灰〉になってしまっているのに、葉子はその灰になってしまったジョーからグローブをプレゼントされている。つまり葉子はジョーと一緒に〈まっ白な灰〉になれなかった、その一点において敗北している。生き残ってしまった葉子にいったい何ができるのだろうか。まさかジョーのグローブを応接間に飾っておくわけにもいかないだろう。それとも矢吹ジョー記念館でも建造するのであろうか。そんな生活こそ死にながらの生でしかあるまい。

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不良少年ジョーの実態を検証しておこう。ジョーが舞台に登場して来るまでにどのような〈不良〉を犯してきたのか、その具体例を知ることはできない。が、容易に想像することはできる。かっぱらい、無銭飲食、暴力沙汰ぐらいのものだろう。ジョーの出で立ちは、彼が定職についた経験のないことを示している。漂泊者(浮浪者)に定職は最も似合わない。ところで、ジョーが普通の不良と決定的に異なっているのは、酒と女と煙草に手を出さないことである。プロボクサーになってからも、ジョーは特別の場合を除いて酒・煙草をやらず、女にちょっかいをかけることもない。描かれた限りで見れば、ジョーはストイックな禁酒家で、女に興味のない童貞ということになる。この点に注目すれば、ジョーは青春期の男性を悩ます女性、飲酒、煙草問題を予め免除された存在ということになる。
 盗みに関しても、その場面は省略されている。唯一許された不良行為は喧嘩である。先にも指摘したように、『あしたのジョー』において暴力が根底的に糾弾され非難されたことはない。この漫画においてジョーの暴力は、法的な裁きを免れることはないが、その暴力自体は肯定されている。売られた喧嘩を買うということが、ジョーの喧嘩の美学であり、男の美学なのである。
 ジョーが表層テキストにおいてアルコールと性愛の重力から解放されていることが、ジョーの喧嘩に潔癖性を与えている。しかし、観点を変えれば、ジョーの喧嘩にはアルコールと性のマグマがたっぷり込められているとも言えよう。ホセ・メンドーサとの15ランドにわたる死闘は、白木葉子との性愛的格闘に重ねて見ることもできる。ジョーが最後に葉子に手渡したグローブは、完璧に精気を抜かれた男根の隠喩ともなっている。
 ジョーは漫画世界で成長し、ヘヤースタイルは同一性を保持しているが、その顔つきや体は明らかに変容している。が、ジョーは〈十五歳〉から成長を続けても、酒に溺れず、女に性愛的欲求を感じて煩悶することもない。この意味で、ジョーはきわめて人工的な存在と言えよう。ジョーは酒・煙草・女そしてギャンブルに夢中になるような現実に生きる生身の青年をまったく体現していない。拳で闘う〈喧嘩〉からグローブをはめた〈ボクシング〉で〈完全燃焼〉するまで、ジョーはある意味、純血なヒーローであることを全うした人工的な存在であったと言えよう。

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 ここで改めて問題にしなければならないのは、『あしたのジョー』がエンターテインメント作品であるということである。この作品が「少年マガジン」に発表されたことは、主人公ジョーの性格をどうしようもなく規定することになる。この雑誌名が「少年マガジン」であるということは、出版社及び編集サイドが、読者対象を〈少年〉に置いていたことを示している。彼らは、読者層を小・中・高の生徒から上は大学生ぐらいまでを想定していたはずである。当時、ようやく漫画が市民権を得て、大学生や大人が漫画を読むことに抵抗がなくなりつつあった。手塚治虫とその門下たち(石ノ森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫など)の諸作品、梶原一騎原作の『巨人の星』などによって、もはや漫画=子供の読み物という見方は完全に覆された。今や、漫画を一方的に〈悪書追放〉の対象とすることはなくなった。
 〈少年〉読者に酒、煙草、性、ギャンブル(競馬、競輪)大好きな主人公を設定するわけにもいかなかったろう。『あしたのジョー』は分類分けすればスポ根漫画(スポーツ根性漫画)ということになる。的を〈喧嘩〉(暴力)から〈ボクシング〉(格闘)に絞り、それにのみ邁進するストイックな男を主人公とすることで一貫している。乾物屋の紀子、白木財閥の令嬢葉子との関係などが発展して〈青春恋愛物語〉となることもない。ジョーは暴れん坊で、暴力で何でも解決しようとする単純・短絡的な性格の持ち主であるが、その〈暴力〉が相手に致命的な傷害を与えたり、死に至らしめるほど極端には発揮されない。少年鑑別所や高等少年院で酷いリンチにあったり、その倍返しをしたりして物語は進行するが、死に至った者は一人もいない。『あしたのジョー』において暴力は強烈な制御が働いており、設定された境界域を越えることはない。ジョーの顔はどんなことがあっても殺人者の貌に化すことはない。ジョーは『ハリスの旋風』の暴れん坊石田国松のキャラを継承している。国松が被っている学生帽をハンチングに変えて、少し大人っぽくすればジョーと瓜二つの顔ができあがる。ヘヤースタイルは全く同一である。ちばてつやの読者であれば、『あしたのジョー』を見たとき、すぐに石田国松の再来と思ったに違いない。
 つまりジョーは、少年漫画の主人公石田国松の性格を大きく逸脱できないという制約のただ中に誕生している。浮浪者からギャンブラー、暴力団員、殺人者といった経路は予め封鎖されている。ジョーは元ボクサー丹下段平と組んで、拳にグローブをはめる途を選ぶ。本物のアウトローへの途ではなく、グローブ一つで正規の秩序の中に生きようとした。ジョーに特別の人生観や哲学があったわけではない。ジョーは天性の能力、つまり喧嘩が強いという、その能力をボクシングに活かしただけである。
 『あしたのジョー』が多くの読者を魅了した最大の理由は、ジョーの壮絶なボクシングスタイルにある。それはホセ・メンドーサとの世界タイトルマッチで存分に発揮された。この試合に限ったことではないが、ジョーの繰り出すパンチはその一発一発が相手をマットに沈める威力をもって描かれている。現実にこのパンチをまともにくらったらすぐにノックアウトするだろうという強烈パンチを、ちばてつやは惜しげもなく何度も描いている。もちろん相手のパンチもジョーと同様に強烈である。観客は闘争本能を刺激され、夢中になって声援する。読者も観客と同様に興奮する。まるでその場にいるような臨場感を味わっている。ジョーとホセ・メンドーサの闘いだけに絞っても、彼らの繰り出す一発一発がサディズムの極地であり、打たれて歪み切ったその顔はマゾヒズムの極地である。特にジョーの場合は〈完全燃焼〉を願った試合であったから、それは〈死=エクスタシー〉に至る格闘そのものであった。家庭の幸福を願うホセ・メンドーサは〈死に至るボクシング〉をすることはできない。もし、ホセ・メンドーサを主人公としたボクシング漫画であったなら、いつまでも連載を続けることが可能であったろう。が、ジョーの〈完全燃焼〉は、それ以上の連載を許さない。ジョーのボクシングは、スポーツを、興行ビジネスを、恋愛感情を超えてしまった。
 こういった漫画を書いたしまった高森朝雄梶原一騎)、描いてしまったちばてつやはその後、いったいどのような作品を残したのか。興味のある問題だが、敢えてここでは触れないでおく。

※  ※  ※
 ジョーが舞台に登場した時、十五歳であることは記されているが、その後、ホセ・メンドーサとの闘いで〈完全燃焼〉するまでに何年経過しているかについては不明である。作者はジョーの年齢ばかりではなく、時代についても明記しない。ジョーが十五歳で舞台に登場したのは西暦何年何月のことであったのかはもちろん、あらゆる出来事がいつ起こったのか、その期日を明記しない。
 ジョーの年齢は曖昧だが、彼が漫画世界の中で成長していることは確かである。ところがドヤ街の子供たちはまったく成長していない。ジョーが来るまでガキ大将であった太郎はもとより、サチやキノコ、チュー吉、トン吉などのちびっ子たちが、数年経過してもまったく同じ姿形で描かれている。彼らは現実の子供と違って〈成長を止められた子供〉、すなわち〈永遠の子供〉として存在している。ジョーが最初から最後まで心を許したのはこの成長することのない〈永遠の子供〉たちであったことは注目に値する。
 ジョーもまた〈永遠の少年〉でありたかったに違いない。そうであればこそジョーは、いつまでも大人の社会や秩序に反抗的態度を取り続けられたからである。しかし、ジョーは両の拳にグローブをはめた時点で、大人社会に否応もなく組み込まれていくことになった。この点が、白木財閥の令嬢葉子と決定的に異なる。葉子は少女の頃から大人社会に組み込まれており、本来の少女性を喪失した存在としてジョーの前に現れている。葉子がジョーに惹かれたのは、彼が天性的に持っていた少年としての純粋性であったかもしれない。ジョーはその純粋性によって〈少年〉から〈大人〉へと脱皮することができずに完全燃焼した。葉子は〈大人〉から〈少女〉へと回帰できないままに、ジョーの完全燃焼に立ち会わなければならなかった。
 わたしは先にも記したように、ジョーに愛を告白する葉子は、葉子本来の性格から逸脱した偽装葉子にしか見えない。力石戦をはじめとして数々の試合をプロモートしてきた実業家葉子が、ジョーとの純愛の次元に生きることはできない。葉子は自らの内深くに封印されてしまった〈純潔な少女性〉を力石徹やジョーによってすらも解き放たれることはなかったのだ、とわたしは見ている。

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 ジョーはいったい〈何〉と闘っていたのか。漫画で描かれている対戦相手が〈誰〉であったのかは分かる。まず、ボクサーとしてリングにあがるまでの喧嘩相手は、丹下段平から始まって、ドヤ舞のガキ大将、黒姫会のチンピラ、少年鑑別所でボスを張っていたマンモス西、そして東光特等少年院で出会った運命の男力石徹ということになる。
 マンモス西まで負け知らずの暴れん坊であったジョーが、力石徹と戦って初めて屈辱的な敗北を喫することになった。力石徹は少年院に入る前は、ウェルター級のプロボクサーで13連続KO勝利を収めていた男である。いくらジョーが天才的に喧嘩が強くても元プロボクサー力石徹に勝てるわけがなかった。いずれにせよ、ここでジョーは最も得意な分野で最初の挫折を味わったことに間違いはない。
 十五歳になるまでのジョーは、すべての問題を〈暴力〉で解決してきた。従って力石徹に〈暴力〉に負けを喫したことは、ジョーの生きる価値、生きる規範を一挙に根底から突き崩すことになる。ここから立ち直るためには、丹下段平についてしっかりとボクシングの基礎を学び、必死の努力を重ねて強くならなければならない。以後のジョーの生の目的は、力石徹打倒に絞られる。
 『あしたのジョー』の主役は力石徹だと見なす熱狂的な力石ファンも 存在する。が、力石徹もまたジョーと同様にその過去は闇に包まれている。ジョーは十五歳で舞台に登場したが、力石徹はその年齢さえ定かではない。特等少年院に入っているからには未成年には違いないが、その年齢を特定することはできない。プロボクサーとしての戦歴が13連続ノックアウト勝ちということは分かっているが、何歳でデビューし、どれくらいの期間プロボクサーとして活躍したのか、何歳で少年院に入ったのか、運命的なジョーと力石徹の喧嘩はいつ(何年何月何日)行われたのか、そういったある意味基本的な情報が明確に記されていない。
 ジョーは鑑別所に送られる前、〈警察の者〉の口から「矢吹丈ーー十五さい。両親ならびに親族関係いっさい不明。数か月前ーーどこからともなくあらわれドヤ街に住みつく。鬼姫会のちんぴら数十名を相手にーー乱闘事件をおこすこと二度。その後‥‥もとボクサー丹下段平氏の保護のもとに風来橋の下で生活。生活費そのほかいっさいのせわを丹下氏よりうけ、また日に一度はボクシングのコーチをもうける。コーチをうけるとき以外の矢吹丈は、ドヤ街の子どもたち数十名をひきつれて町の各地に出没ーー○道路交通法違反をはじめ○恐喝○脅迫○詐欺○横領○窃盗○器物破損などの罪科をかさねる」という不明だらけの簡単な履歴と数々の罪状が報告されている。
 力石徹の罪状は、興奮してヤジをとばした観客を殴り重傷を負わせたということだが、こと履歴に関しては何も語られない。読者に報告されるのは、白木ボクシングジムの白木葉子が、少年院を出た後の力石徹の面倒を一手に引き受けているということぐらいである。葉子が力石徹にそれほど力を入れているのにはそれなりの理由があるわけだが、作者は〈恋愛感情〉の次元ですら沈黙を守っている。葉子が力石徹に一人の男として惹かれているのかどうかすらあきらかにしていない。描かれた限りで見れば、白木葉子はプライドの異常に高いお嬢様で、力石徹に君臨する女王的絶対者の冷徹な表情を保っている。
 ジョーは文字通り〈孤児〉であるが、力石徹とてジョーと五十歩百歩である。年齢さえ報告されていない点において、力石徹はジョー以上の〈孤児〉とさえ言えるだろう。〈孤児〉力石徹が欲していたのは金、名声、社会的地位といったものである。白木葉子力石徹の欲望を叶えてやることを条件に彼を支配下に置いている。白木葉子力石徹に〈純愛〉のパイプは繋がれていない。繋がれていたにしても、力石徹の前にジョーが出現したことで、このパイプは切断されざるを得ない。
 葉子は白木財閥の力を最大限利用して君臨しているが、本当の意味での君臨を知らない。力石徹はボクシングビジネスを発展させるための有力な材料であり道具である。葉子は力石徹に性愛的魅力を感じ、それに応じる用意もできていない。『あしたのジョー』という少年漫画雑誌に発表された少年漫画において、白木葉子は純潔な処女としての聖性を保持し続けなければならないという約束事に支配されている。葉子が力石徹と性的に結ばれていたという〈裏舞台〉が存在していれば、『あしたのジョー』は一挙に実存的なリアリティを獲得することになったであろう。が、この少年漫画においてはジョーや力石徹の激しいとどまることをしらない性衝動は、すべてリング上で繰り出すパンチによって代行されている。

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 ジョーは素人時代に三回、プロテスト一回、プロになってから二十四回のボクシング試合を行っているが、そのすべての期日は記されていない。ホセ・メンドーサとの世界選手権は新聞にも大きく報道されるが、その新聞も〈刊スポーツ〉と不完全に記され、刊行年月日は完璧にはずされている。わたしのように毎日、日記を付けている者にとって、このように物語の中で出来事の日付を記さないことにまず違和感を覚えたのだが、おそらくそこには商業戦略としての理由があったに違いない。『あしたのジョー』はまず「少年マガジン」(1968年1月1日~1973年5月13日)の読者を相手に描かれている。雑誌の発売を今か今かと待っている読者にとって、ジョーが漫画世界で展開する喧嘩やボクシングは、まさに発売日の出来事としてリアルに受け止められる。特にボクシングの試合は、読者が〈読む時〉に展開されていなければならない。試合期日が過去であったり、未来であったりすればリアリティは半減することになる。試合会場でボクシングの一瞬一瞬に心躍らせる観客と同じ時間を読者に共有させるためには、敢えて試合期日を伏せておく必要があったということになる。
 ところで、わたしは『あしたのジョー』発表時の熱心な読者ではなかった。完結から40年以上も経過した2015年3月に、初めて全巻を読み通した。それで気づいたのは、ジョーのボクシング試合は〈時〉を超えていたということである。わたしは『あしたのジョー』を批評するために、ホセ・メンドーサとの試合を再読した。再読に一時間をかけた。試合に熱中し、途中でやめることができない。ジョーの闘いはひとの目を釘付けにする。そこで改めてそのことについて書きたくなった。
 ホセ・メンドーサはコンピューター・ボクサーと称される近・現代ボクシングを体現する象徴的存在であり、ジョーはドヤ街の浮浪少年からのし上がってきたボクサーで原始的野生の象徴である。ホセはボクシングの権威であり体制側に属する。それに立ち向かうジョーは反抗者の貌を崩さない。ホセ・メンドーサとの闘いに勝利を収めることは、永遠の反抗者ジョーには相応しくない。
発表時、学生運動が盛んで、一部の学生は過激な革命運動に身を投じていた。体制に不満な若者たちは、鉄パイプ、石礫、火炎瓶などで闘った。日本における革命運動の終焉を告げることになった浅間山荘事件は1972年(昭和47)2月19日~2月28日に起きた。この事件から約一年後にジョーは〈まっ白な灰〉となって燃え尽きた。まさに革命運動の最盛期にジョーもまた活躍していたことになる。
当時の革命戦士や反権力を標榜する多くの若者たちがジョーの〈完全燃焼〉的生き方に我が身を重ねるようにして生きていたとは言えるだろう。が、連合赤軍内ゲバ事件が明らかになるにつれ、日本人の大半は〈革命幻想〉から覚醒したとも言える。以後、若者たちは〈宗教幻想〉をオウム真理教サリン事件によって、〈金幻想〉をホリエモンの逮捕によって打ち砕かれ今日に至っている。

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 『あしたのジョー』の最終場面は、ひとは〈まっ白な灰〉になって燃え尽きた後、どのように生きたらいいのか、という極めて深刻な問題を突きつけてくる。小林秀雄は「「罪と罰」についてⅡ」で「ラスコオルニコフを知ろうと思うものは、先ずポルフィーリイに転身し、希薄になった空気の中で、不思議な息苦しさを経験してみる必要がある。息苦しさのなかに、希薄な空気の中に批評の極限の如きものが漂うのを感知するであろう」と書いた。ポルフィーリイは作中で予審判事として設定されているが、辛辣な心理分析者としてラスコーリニコフの犯罪を物的証拠なしに看破している。この男はまだ35歳であるが、ラスコーリニコフに「いったいあなたはなんなのか」と訊かれた時に「私はおしまいになってしまった人間です」(Я поконченный человек)と答えている。小林秀雄は『罪と罰』論の最後でロマ書から「すべて信仰によらぬことは罪なり」を引いている。まるでキリスト信者であるかのような批評の閉じ方をしているが、同時に「すっかりおしまいになってしまった」ポルフィーリイに批評の極限を見ている。小林秀雄は〈信仰〉と〈批評〉の揺らぎのただ中で『罪と罰』論を書いたが、その分裂そのものには批評の眼差しを注がなかった。
 わたしは〈まっ白な灰〉になってしまったジョーに、〈すっかりおしまいになってしまった〉ポルフィーリイを重ねている。ジョーはおそらくホセ・メンドーサとの闘いに完全燃焼して穏やかに〈死〉を迎え入れている。すでにパンチドランカーの症状を呈していたジョーが世界チャンピオンとフルラウンドを闘って生きているとは思えない。ジョーがグローブをはずして葉子に渡したことは、彼のボクシング生命がここで閉じたことを意味している。ジョーにおける〈復活〉は〈死〉そのものに中に体現されている。ジョーは今再び立ち上がって、この現実の世界で生きる必要はない。ところが、ポルフィーリイは〈すっかりおしまいになってしまった〉人間であったにも拘らず、予審判事としての役割を存分に発揮して生きている。この違いをどのように受け止めたらいいのか。
 ボクシングに限らず、プロのスポーツ選手は引退後の第二の人生をいかに生きるか、というのが大きなテーマとなっている。ジョーのようにリングで完全燃焼するボクサーは極めて稀である。パンチドランカーであったたこ八郎でさえ、由利徹の弟子となって喜劇役者としての第二の人生を歩んだ。世界チャンピオンになったほどの実力者は、引退後にボクシングジムを経営するなり、解説者として活躍することも可能だが、多くの場合はマンモス西のように普通の仕事につくことになる。ひとによってはヤクザの世界に踏み入れるか、『あしたのジョー』でも描かれているようなドサ廻りの〈八百長ボクサー〉になる場合もあろう。しかし、ジョーのようにボクシングに命を賭けて完全燃焼してしまったボクサーに第二の人生は用意されていない。〈まっ白な灰〉になった時点で人生は完結し、そのことで永遠性を獲得したのである。

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 ジョーの完全燃焼の試合の後では、どんなボクシングも色褪せてみえてしまう。世界ヘビー級チャンピオンとなったマイク・タイソンの試合は〈凄い〉の一言に尽きるが、あまりにも強すぎて、タイソンが燃焼する前に相手がマットに沈んでしまう。その意味では、どんなに凄いタイソンの試合もジョーのそれを超えることはできない。日本では強い野性的なボクサーが現れると、すぐにマスコミはジョーの再来などと囃したてたり、テレビ局などもまるで子供だましのような演出をして盛り上げたりするが、結局はジョーのイメージを超え出ることはできない。もはや、ジョーは漫画世界にのみ存在するボクサーではない。ジョーは現実のボクシング界にも異様な影響力を及ぼしている。漫画世界に登場した虚構のボクサーが現実世界のボクサー以上のリアリティを獲得してしまったのである。
 どんな天才的なプロモーターもジョーを超えるボクサーを作り出すことができない。虚構がリアルであり、現実がチンケな虚構に化してしまったのだ。『罪と罰』のラスコーリニコフが、殺人者のリアリティを、現実の殺人者の誰よりも強く深く体現してしまったことと似ている。ドストエフスキーの全作品を読んだ者には分かるだろう、現実に起きている様々な事件や出来事の大半がすでに描かれてしまっているのだということを。極端な言い方をすれば、リアリティはドストエフスキーが描いた虚構の側にあり、今日のジャーナリストのペンやテレビカメラがとらえた現実の映像にはない。ジョーの〈完全燃焼〉を、現実のリングで体現できるプロボクサーはいない。だからこそジョーの〈完全燃焼〉は、誰によっても相対化されない永遠性を獲得しているのである。
 問題は、ジョーの〈完全燃焼〉に立ち会ってしまった者たちが、その後、どのように生きていくかである。丹下段平はもはや第二のジョーを育て上げる微塵のマグマも残してはいないだろう。彼もまたジョーと共に燃え尽きて灰となってしまったに違いない。段平の余生はまさに生きながらの死である。白木葉子はどうだろう。彼女は真にジョーと共に燃え尽きたであろうか。わたしには葉子が燃え尽きたとは思えない。葉子にはジョーの死に同化し切れない余剰を感じる。葉子には葉子の、ジョーが死んだ後のドラマが展開されるような気がする。力石徹の死後も生き延びた葉子は、ジョーの死をも跨ぎ越えていく力を備えているように思える。葉子は男を不断に相対化しながら〈絶対〉視するようなところがある。ジョーから血と汗にまみれたグローブを受け取った時、葉子はジョーと解け合った瞬間を体験したかもしれない。が、葉子はその瞬間を永遠化して生きていくことはできない。葉子はその瞬間をも相対化して、さらなる絶対を目指していく、そのような女に見える。

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 ジョーが両手をだらりと下げてリングに立つ、そのスタイルについて考えてみたい。この姿勢は相手に奇妙な感じを抱かせる。闘うためにリングにあがっているのに、まるで戦意喪失したかのような姿勢を相手にとられれば不安を覚えるのも当然である。まったく戦意喪失した相手に致命的なパンチを繰り出すことははばかれるし、同時に両手ぶらりは見せかけの戦意喪失とも考えられる。ジョーはもちろん試合放棄しているわけでもないし、戦意喪失しているわけでもない。これもまた試合上の駆け引きであり戦略の一方法である。現に試合は続行されるし、ジョーの戦略は功を奏している。が、わたしがここで問題にしたいのは、そういった戦略上のことではない。わたしはジョーのこの姿勢と最後の〈まっ白な灰〉になって燃え尽きた姿が重なるのである。両手を下げた立ち姿をそのまま静かに横たえれば、ジョーの完全燃焼して息を引き取った姿になるだろう。漫画はニュートラルコーナーに座り続けるジョーの姿を描いて幕を下ろしているが、わたしの脳裡には静かに横たわるジョーの姿が浮かんでくる。
 ジョーの両手は闘うために使われた。彼の両拳は相手の顎を、顔を、胸を、腹を打ち抜くために繰り出された。『あしたのジョー』はジョーの死闘に多くの頁を割いた。読者の大半もまたその凄まじい死闘を求めた。ちばすすむの作画も、まるでジョーと一体化したような異様な熱気、妖気を感じさせる。ちばは作画を通してジョーと共に闘い、ジョーと共に完全燃焼したと言っていいだろう。
 人間の手は、闘うためだけにあるのではない。愛する相手を抱きしめたり、愛撫したり、考えるために腕組みしたり、腰に両手を回してリラックスしたり、料理したり、食事したり、トランプ遊びをしたりと、さまざまな使い方がある。ジョーの両手はほとんど喧嘩とボクシングに使われ、葉子や紀子には指一本触れることがない。ジョーはこと女性に関してはきわめてストイックで、紀子とデートした時も彼らの距離は決して縮まることはなかった。
 ジョーが女性と親密な関係を結べないのは、彼が幼くして両親を失い、孤児院をたらい回しされていたことに原因するのかもしれない。幼少時に両親や身近な者たちの愛を十分に注がれたことのない者は、他者に対してどのように愛を表現していいのかわからないということも考えられる。ジョーにおける主感情は怒りである。あたかも怒りだけが、ジョーの生きる糧になっていたのではないかと思えるほどである。ジョーは罵り合い、殴り合うことでしか、相手とコミュニケーションがとれない。良くとれば、ジョーは肉体を賭けて、本気で相手にぶつかっており、いっさいの妥協がない。一途で純粋であり、欺瞞がない。こういった人間は長生きできない。
 ジョーと本気で闘った者たちは、勝っても負けても、その本気の部分で深く交流し、強い絆で結ばれることになる。この絆は闘った者同士でなければ本当には理解できないであろう。マンモス西力石徹などはその代表的な存在である。西は途中まではジョーと同じプロボクサーの道を邁進するが、最終的には紀子との結婚を選ぶ。力石徹はジョーとの死闘の果てに試合には勝利したが、常識はずれの減量が災いして試合後まもなくして死んでしまう。力石徹の死は『あしたのジョー』の愛読者にショックを与えた。寺山修治が葬儀委員長となって力石徹の告別式が行われた。漫画の、それも主人公ではない一人物の告別式が計画され、実際に行われたということは特記すべきことである。
 試合中、試合後に選手が死ぬというスポーツはボクシング以外にないかもしれない。死の危険性がある極真空手異種格闘技戦の場合においては、死を回避するための厳しいルールがもうけられている。プロの格闘家は死に至る急所を知り尽くしているから、急所攻めは回避する。ボクシングはグローブをつけることで、拳の衝撃を緩和する手だてがされているが、パンチ力のあるボクサーが本気で殴り合いをするのであるから、死の危険性は大きい。ましてやジョーのように打たれても打たれても立ち向かっていくようなタイプのボクサーはパンチドラッカーになりやすい。死なないまでも廃人同様になってしまうのは必然なのである。
 ジョーはガードを固めて闘う防御型のボクサーではない。なるべく肉体の衝撃を避けて、相手にダメージを与えようとするテクニシャンではない。ジョーは試合に勝つこと、勝利を重ねて莫大な金を獲得しようなどという欲望に支配されたボクサーではない。その意味でもジョーはホセ・メンドーサとは対極に位置するボクサーであり、商業主義的な興行主にとっては決して望ましい存在ではない。ジョーとホセ・メンドーサとの世界選手権は、観客にとって最高の試合展開であったことは間違いないが、この試合が後のボクシング界に与えた影響のデ・メリットは計りしれないものがある。ジョーや力石徹の模造品は作り出せても、彼らを越えるボクサーを育て上げることはできない。これは単にボクシング漫画界のことだけにあてはまるのではなく、現実のボクシング界にもあてはまる。
 先にも書いたが、世界最強のボクサーと言われたマイク・タイソンの試合はかなり刺激的で圧倒されるが、しかし余りにも強すぎてリング上でのハラハラドキドキ感はジョーのそれとは比較にならない。ジョーのホセ・メンドーサ戦にまさる〈ボクシング〉はもはや虚構と現実の両世界において不可能のような感じさえする。極端な言い方をすれば、『あしたのジョー』の最終頁でボクシングは終わってしまったのである。

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 ジョーの魅力は〈死闘〉にある。この死闘はエンターテインメントの作られた死闘ではない。ボクシング漫画は現実のボクシング試合やボクサーの人生からヒントを得、その影響を受けながら、誇張化やパロディの手法を駆使して創造される。が、『あしたのジョー』以降の現実界のボクシングはもはやジョーや力石徹の死闘を実践することができない。出来うることは、彼らの模倣、それも中途半端な模倣にとどまるほかはない。リング上で燃え尽きて、たとえ命をなくしても、それさえジョーの二番煎じにしかならない。興行主、放映権を持ったテレビ局、そしてボクシングジムのオーナーやボクサー自身がいくら、魅力のある、観客を興奮の渦に巻き込むような演出・構成を考えても、もはや『あしたのジョー』のボクシングを越えることはできないのだということである。
 ジョーの試合、特に力石徹ホセ・メンドーサとの試合は何度でも繰り返し読むことができる。虚構のボクシングが現実を越えてしまい、現実のボクシングが虚構の模倣にとどまっている。となれば、ボクシングよりはプロレスの方がはるかにエンターテインメント性において勝っているということになりかねない。が、プロレスが敗戦後の日本において熱狂的に受け入れられたのは力道山時代のそれであって、今日のプロレスではない。
 わたしは力道山時代のプロレス人気を体験的に知っている。街頭テレビに群がったことは、さすがにないが、テレビ観戦はかなり初期の頃から観ている。当時のプロレスファンの大半はプロレスがシナリオのある興行と認識してはいなかった。多くの観戦者が、プロレスを四角いリング上での真剣勝負と見ていたのである。ウブと言えばウブ、バカと言えばバカの次元で、敗戦後の日本人は力道山プロレスに熱狂したのである。興行主にしてみれば、赤子の手を捻るよりも簡単であったろう。何しろ、白人の巨人レスラーに痛めに痛められた力道山が、最後の最後に伝家の宝刀、空手チョップで相手を瞬時にマットに沈めてしまうというシナリオ通りに事を進めさえすればよかったのであるから。
 日本人の大半は、勧善懲悪的なシンプルな筋書きに涙を流したり熱狂したりする傾向を持っている。力道山プロレスのシナリオは、対戦相手がいくら変わっても、この基本的な構図を変更することはなかった。試合開始のゴングが鳴って、すぐに力道山が白人プロレスラーを空手チョップでなぎ倒しても、観客を熱狂させることはできない。プロレスは試合時間(力道山時代は61分三本勝負)に制限されており、その時間枠の中で魅力的なシナリオ構成を実践しなければならない。テレビ放映が一時間しかないのに、それを越えた試合時間を設定することはあり得ない。プロレス興行は放映権を握ったテレビ局、プロレス団体、選手、スポンサーなどの思惑を抜きにして成立しない。ふつうの社会人としての常識を備えていれば、力道山プロレスが〈真剣勝負〉などと思うことはまずあり得ないはずなのに、当時、テレビで観戦していた大人たちはその常識をかなぐり捨てて力道山プロレスに熱狂したのである。力道山プロレスの場合、時代性や興行の常識を超えて、観客に訴えてくる何かがあったのだと思わざるを得ない。
 力道山北朝鮮の生まれで、日本で育ち、大相撲部屋に入門し、関脇にまでなった、将来を嘱望された力士であった。親方との折り合いが悪く、力道山は力士を廃業して、ハワイに渡り、そこで沖織名と知り合い、プロレスラーとしての道を歩み出すことになる。生い立ちといい、大相撲からの離反といい、力道山の内部に蓄積された憤怒と悲嘆のマグマは尋常ではなかったであろう。差別と虐待に耐えて堪えて、最後に強大な怒りのマグマを噴出させる。この試合スタイルは、力道山であればこそ熱狂的な支持を得られたのではないかと思う。
 ヒーローとなるための必須条件がある。日本で活躍するスポーツマン、芸能人に在日韓国人が多数存在することでも分かるように、ヒーローには〈異人性〉が不可欠である。将来、銀行員や公務員になるような生真面目な性格者が大衆の注目を浴びるヒーローとなることは不可能に近い。既存の社会秩序から排除された者、あるいは境界領域に生きざるを得ない者たちが、秩序の中に参入する一つの手段としてスポーツや芸能がある。
 ジョーが、もし普通の家族の一員として生育していたとしたら、わたしたちが『あしたのジョー』で見たようなジョーは生まれようがない。ジョーのようなヒーローは、〈単独者〉として〈孤児〉として〈異端者〉として、突然、世界の内に投げ出されなければならない。ジョーは時系列的に順序よく描き出されてはならない。ジョーの〈過去〉は本来、完璧に抹殺されていなければならない。もしくは神秘に包まれていなければならない。両親は行方不明、預けられた養護施設からの度重なる脱走‥‥ジョーの具体的な経歴はこの程度で十分である。舞台に登場してきた時の年齢〈十五歳〉は推定であり、名前の〈矢吹丈〉も戸籍上の正式の名前であるかどうかは分からない、そういった曖昧な設定であればなおよかったのだ。
 ヒーローは、身元が分かっていてはならない。それは神の場合と同じである。イエスはマリアの子供であるが、キリスト教は処女マリアが産み落とした子供であると教える。神の子イエスが、大工ヨセフとマリアの子供であってはならないというわけである。ジョーの両親や兄弟の顔、養護施設の諸々の顔が浮かんできたのでは、ジョーのヒーロー性が希薄化してしまうのである。得体のしれない少年が、突然、フラッと日本の首都・東京のドヤ街(辺境)に現れなければ、ヒーローとしてのジョーは成立しない。
 ジョーの両親が行方不明ということは、ジョーが血縁関係から解放された存在であることを意味している。預けられた養護院は国家の管理下に置かれた施設であり、ジョーがそこから何度も脱走したということは、彼が不断に秩序からの解放を願っていた存在であることを意味している。言わば、ジョーは自分を束縛するものから果てしなく逃亡を試みる者である。ジョーに自分の行動原理を語らせれば〈自由〉という一語に尽きるかも知れない。はたして自由であることは可能なのか。
 わけも分からず世界の内に投げ出されてしまった人間にはたして自由はあるのか。ジョーは流浪者であるが、あらゆる束縛から自由であったわけではない。人間は生きている限りは社会の枠組みから解放されることはない。社会秩序から逸脱した行為を犯せば、法によって裁かれる。現にジョーは道路交通法違反、脅迫、詐欺、横領、窃盗、器物破損等の罪で逮捕され、鑑別所から少年院、さらに特等少年院へと送られている。丹下段平力石徹との出会いがなければ、ジョーの一生は刑務所で終わったかもしれない。体制側の秩序に反抗する者は、逮捕され裁判にかけられ、結局は体制内の刑務所に収容されることになる。社会秩序から限りなく自由であろうとする試みは、それが合法的に犯罪と見なされれば、より過酷な秩序の檻の中へと放り込まれることになる。要するに、世界内存在にとどまる限り、自由はあり得ない。人間は秩序の中でしか生存できない。ジョーは何でも暴力で解決しようとするが、これは彼がきわめて幼児的な段階にとどまっているからで、当然、本来的な解決とはならない。
 そもそもジョーは明確な人生の目標を持って生きていたわけではない。何しろジョーは、過去を持たない〈ヒーロー〉として登場しているから、彼が十五歳になるまでどのような教育を受けてきたのか、どのような人間とどのように関わってきたのかさっぱり分からない。従ってジョーを実存的に理解することは困難を極める。過去のない人間はいない。記憶喪失者やある種の精神病者は過去から切断された現在を生きるほかない。が、ジョーは別に過去の記憶を喪失しているわけでもないし、ビンスワンガーの現存在分析の用語を使用すれば、頽落世界化した現存在として過去と未来から切断された切迫した時性を生きているわけでもみない。
 『あしたのジョー』の主要人物たちはジョーをはじめとして、丹下段平力石徹白木葉子など、彼らの過去が明確にされていない。読者は彼らの生年月日を知らず、家族関係を知らない。葉子は政財界で活躍する白木幹之介の孫であることは分かっているが、彼女の両親はほんの一瞬しか登場しておらず、いないも同然の扱いしかされていない。つまり、彼らは程度の差はあれ〈過去〉から切断された〈現在〉を生きている。ジョーの〈現在〉とは、リング上でまっ白に燃え尽きる、将に来るべき、この世界での最終的将来に向かってのそれである。力石徹の〈現在〉もジョーと同様、ボクシングを通して完全燃焼する将来へ向かってのそれであった。
 それでは、白木葉子の〈現在〉とは何であったのか。彼女の〈現在〉は、ジョーの〈完全燃焼〉へ向かってのそれであったろうか。描かれたテキスト通りに読めば、葉子はジョーの〈完全燃焼〉を共にしたように見える。が、先にも書いたように、わたしは葉子がジョーの〈完全燃焼〉に立ち会った存在であることは認めるが、〈完全燃焼〉を共にした存在とは思わない。この見方は、テキストに対する異議申し立てでもある。
 力石徹の死体を前にして白木葉子は次のような言葉を口にしている。

  力石くんが死んだのは‥‥だれのせいでもない。わたしが‥‥わたしが力石くんを殺したのよ‥‥どんな手を打ってでも‥‥この試合はやめさせるべきだった。それが‥‥力石くんの「男の世界のことだ」‥‥というひとことでひきさがって‥‥ひきさがっただけでなく、白木ジムじゅうの水道の蛇口に針金をまきつけーー地獄の苦しみにのたうつ力石くんの減量に協力さえしたわ。なんてばかなことを‥‥なんとおそろしいことをわたしは‥‥(5巻279~280p)

 力石徹の死後、ジョーも葉子もそのショックから立ち直れない。二人が出会ったのは、葉子が悲しみを紛らわすために通い詰めていたゴーゴークラブ「バロン」である。葉子はジョーに向かって次のように言葉を発している。

  自分のことをたなにあげるつもりはないけれど‥‥わたしは女、あなたは男。いいかげんにあまったれるのはやめて、目をさましたらどうなの、矢吹くん! 【怒りにかられたジョーは両手で葉子の襟首を締め上げ、「いつ、おれがあまったれた!」と大声をあげる。葉子は少しもひるまず、ジョーの目をしっかりと見据えて、言葉を続ける】はっきりいいます。あなたはリングでウルフ金串アゴを割り、再起不能にし、そしてまた力石徹をも死に追いやった、罪ぶかきプロボクサーなのよ。こんなところで酒にひたり、ぐちをこぼし、おだをあげてる気楽な身分ではないはずだわ! 【ジョーは気が抜けたように、葉子を壁に突き放す。葉子は壁にもたれたままさらに強い口調で続ける】このままでは男として義理がたたないでしょう。あなたはふたりから借りが‥‥神聖な負債があるはず! いま、この場ではっきり自覚なさい。ウルフ金串のためにも、力石くんのためにも、自分はリング上で死ぬべき人間なのだと! あなたはいま、リングをすてるつもりらしいけど‥‥そうはさせないわ! おそらく力石くんも、ウルフさんもゆるしはしないでしょう。わたしもだんじてゆるしません!(第6巻12~13)


 この二つのセリフを聞いただけでも、葉子の性格は明確である。葉子は力石徹やジョーのようには完全燃焼しないタイプの人間なのである。もし葉子が完全燃焼する女であれば、力石徹が死んだ時に、ボクシング関係の仕事からいっさい手を引いたであろう。力石徹はジョーとの死闘の果てに完全燃焼したが、〈力石くん〉と共に戦ってきた葉子は燃え尽きていなかった。葉子は政財界でのし上がってきた祖父白木幹之介の血を受け継いだ経営者である。企画・広報の能力に長けた敏腕プロモーターであり、ボクシングの一選手に血道を上げるほどうぶではない。葉子のような女は力石徹が死んでも生き続け、ジョーが死んでも生き続けるのだ。そうでなければ白木葉子の存在意味は失われるのである。力石徹力石徹の運命を生ききった。ジョーもまたジョーの運命を生ききった。葉子が自分の運命を生ききるとは、ジョーの〈完全燃焼〉に重なることではない。葉子は、まだ自分を生ききっていない、彼女はまだ〈まっ白な灰〉になっていないのだ。
 『あしたのジョー』を読み終わって、わたしが興味を抱いた最大の人物が白木葉子であった。ただし、描かれた限りでの葉子ではない。
 
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 力石徹が死んだとき、『あしたのジョー』は幕を下ろさなかった。葉子もジョーも、力石の死に衝撃を受け、なかなか立ち直ることができなかった。力石徹は漫画世界の中の一人物でありながら、彼の死に読者の多くがショックを受け、その葬儀まで行われた。が、しかし、力石徹と共に死んだ読者はいない。力石徹の死を無駄死にさせないためにもと、ジョーは再び過酷な再起の道を歩み始める。敏腕プロモーター・葉子は、ジョーの対戦相手を次々に招聘し、ついにバンタム級世界チャンピオンのホセ・メンドーサとの試合にまでこぎつける。
 力石徹の死と共に〈完全燃焼〉できなかった者たちは、その後のジョーの試合に熱狂する。ジョーの壮絶な死闘に観客たちは熱狂する。ちばてつやの作画は見事に観客一人ひとりの表情をデッサンしている。が、彼らの熱狂は、自らの思いを他者に仮託することであって、自ら引き受けることではない。力石徹の死をいたく悲しむことはあっても、彼の死を引き受けた者はいない。彼らはジョーの〈完全燃焼〉に立ち会うことはできても、その〈完全燃焼〉を自らのものとして引き受けようとはしない。
 観客の熱狂のうちには、応援の声ばかりではなく野次馬的罵声や叫声が入り混じっている。彼らの多くは、日常の煩瑣と苦労を忘れて、熱狂的な祝祭時空での開放感を満喫したいと願っている。そのためにこそ、金を払って会場にまで足を運ぶのだ。プロの格闘技者は、こういった観客たちの欲望を満足させるための様々な技を持っている。リング上で死んだり、殺したりすることは、プロの格闘技者にとってはどんなことがあっても避けなければならない。ボクシングは観客のまったくいない場所での果たし合いではない。体重差による階級、グローブの選別はもとより、厳格なルールのもとで試合は行われる。死を覚悟して試合に臨むことは必須条件ではあっても、限りなくそういった事態にならないように配慮されている。
 力石徹の過酷な減量が、ジョーとの試合後の死の要因となったことは誰しも認めるところである。〈力石くん〉の減量に積極的に加担した葉子のプロモーターとしての責任は重大である。が、ジョーも、丹下段平も、テレビ解説者も、観客も、ボクシング関係者も、マスコミも白木ジムの会長・葉子の責任を追求する者はいない。葉子だけが「力石くんが死んだのは‥‥だれのせいでもない。わたしが‥‥わたしが力石くんを殺したのよ‥‥どんな手を打ってでも‥‥この試合はやめさせるべきだった」と悔悟の思いを口にしている。葉子が、こう言っているので、ひとが彼女の罪を責めづらくなっていることは確かである。しかし、葉子のこの言葉が説得力を持たないのは、ジョーにおいても同じ〈罪〉を犯しているからである。
 葉子は力石徹の死に懲りていない。葉子はジョーを唆し、〈リング上で死ぬべき人間〉と断言している。葉子はまるで魔性の女のように〈男〉の闘争心や、〈男らしさ〉に火を焚きつける。そうしておいて、自分の罪深さをみんなの前で嘆いてみせる。言わば、葉子はどうしようもない女なのであるが、この女の妖術に登場人物も読者もみんなかかってしまう。葉子の妖術に原作者と作画者が加担しているのであるから、この妖術から免れる読者は極めて稀であろう。葉子が、ジョーに愛を告白して試合を止めさせようとしたり、ジョーが「ありがとう」の言葉を口にしたり、試合後、ジョーがグローブを葉子にあげたりすることは、彼ら二人の存在を安っぽいメロドラマ仕立てに改変したということにほかならない。
 白木葉子はあくまでも冷酷なプロモーターとして、力石徹とジョーの二人を栄光の死へと演出構成した女でなければならない。その苦悩と悲しみをやぼなセリフを発することで汚してはならない。白木葉子力石徹とジョーの二人の天才的なボクサーをリング上で〈完全燃焼〉させた悪魔的なプロモーターとして記憶すべき女であり、センチメンタルな〈愛〉の欺瞞になどおぼれさせてはならなかったのである。

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 ジョーに好意を寄せていた女性は葉子の他に、乾物屋の一人娘紀子とドヤ街のちびっ子サチがいる。葉子と紀子は作品展開に沿って成長していくが、ドヤ街のちびっ子軍団はサチを含め成長しない。彼らは永遠の子供として『あしたのジョー』に登場している。サチは女の子として純粋にジョーに好意を寄せている愛すべきマスコット的存在である。
 紀子は、漫画世界の人物でありながら、もっとも現実的な女性として描かれている。紀子に虚勢はないし、現実離れした野望に支配されることもない。食事の世話から、手作りパンツをプレゼントするなど、ジョーのために献身的に尽くすが、ジョーの〈完全燃焼〉のための同伴者となることはできない。紀子は典型的な世話女房型の女性で、彼女が望んでいるのは慎ましやかで幸せな家庭である。紀子はジョーの激しい燃焼型のライフスタイルについて行くことができず、プロボクサーの途に見切りをつけたマンモス西との結婚を選ぶ。もし、ジョーが女性に対して優しい配慮を見せるような男であったなら、紀子の心も激しく揺らいだであろうが、ジョーはボクシング一辺倒で、女と性的関係を結んで事態を泥沼化させるようなことはなかった。
 『あしたのジョー』は様々な制約がかかった商業漫画であり、その一つに性的側面がある。発表誌「少年マガジン」はタイトルが端的に示しているように、読者対象を〈少年〉に絞っている。上は、高校生・大学生を含むが、下は低学年の小学生もいる。あまり露骨な性的場面を描くことははばかれたであろう。しかし、漫画が文学作品と同等の位置を獲得するためには性的要素を排除するわけにはいかない。『あしたのジョー』にエロ漫画雑誌並の性愛的場面を求めはしないが、人間ジョーを、人間力石徹を、人間マンモス西を、人間白木葉子を、人間紀子を‥‥描こうとすれば、とうぜん性的側面もさまざまな手法を駆使して描かなければならない。
 『あしたのジョー』を描かれた場面だけで読めば、ジョーは童貞であり、白木葉子は処女ということになってしまう。もちろん、そうであっても一向にかまいはしないが、しかしそれではジョーも葉子も人間としては深みに欠けた存在にとどまるほかはないだろう。ジョーも、葉子も誕生日は不明であり、ジョーと力石徹の対戦日、ジョーとホセ・メンドーサとの対戦日に彼らが何歳であったのかを性格に判断することはできない。しかし十五歳で登場したジョーが、〈完全燃焼〉した時点で二十歳を過ぎていたことは明白であり、その間に何らの性的関係をもたなかったというのであれば、それこそジョーに何らかの肉体的欠陥があったということになろう。
 ジョーに限らず、丹下段平力石徹マンモス西など、すべての男性登場人物がこと女性に関してはストイックである。ジョーは力石徹の死後、悲しみ苦しみを忘れるために酒を呷ることはあっても、ギャンブルや女に溺れることはなかった。ジョーは暴れん坊の衣装をまとってはいるが、ある意味きわめて〈品行方正〉な男なのである。

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 ところで、描かれざる人物の性的側面に照明を当てれば、『あしたのジョー』は単なるボクシング漫画の域を越えて、まさに人間のドラマとなる。力石徹白木葉子の関係をボクシングジムの会長と有力選手の関係と見て、その間にいっさいの性的関係はなかったと見るか、そうではなく性的関係があったと見るのでは、二人に対する印象はだいぶ違ったものになるだろう。
 描かれた限りで見れば、力石徹は葉子に惚れている。葉子は力石徹に対して圧倒的に優位に立っており、まるで女王様のように振る舞っている。葉子は鞭こそ振るっていないが、基本的には〈力石くん〉に対してサディスティックに振る舞っている。ジョーとの試合を成立させるために、異様に過酷な減量を力石徹に強いているのは葉子にほかならず、葉子が存在しなければ力石徹は減量に失敗していただろう。
 なぜ、力石徹はみずからの命を削ってまで無謀な減量にのぞんだのか。そこまでしてジョーと闘い、決着をつけたかったというのが、表層テキストでの説明である。
 多くの読者が力石徹の男気に惚れ、無条件にしびれた。が、人間はそんなきれいごとだけで命を賭けたりはしない。力石徹はふつうの人間がだれでも抱く野望を胸に抱いていた。チャンピオンになって金と名声を獲得しようとしていたし、現にそれを口にもしている。口にしなかったのは葉子に対する性的欲望だけだと言ってもいい。
 ジョーとの闘いに勝利すれば、いずれは葉子を自分のものにすることができるという思いが、力石徹になかったとは言えないだろう。葉子は聡明で美人であり、プロモーターとしても敏腕を振るっているが、力石徹が試合に勝ち続け、世界チャンピオンにまでのし上がれば、葉子との関係もいずれは違ったものになったであろう。約束はしないまでも、葉子と力石徹の間に暗黙の了解があったにしても不思議ではない。が、『あしたのジョー』における葉子と力石徹の関係は女と男の関係の深みに落ちていくことはなかった。
 力石徹とジョーの壮絶な闘いは、男と男の熱い絆、渾身のパンチを打ち合ったものにしか分からない男同士の、なにものにも代え難い友情へと昇華される。この力石徹とジョー関係は神聖な領域へと押し上げられ、力石徹の死によって絶対化された。力石徹の現世的な欲望(金、名声、女)など、まるではじめからまったくなかったかのように、誰も改めて検証しようとしないし、そんなことをすれば神聖な領域を汚す者として激しくバッシングされかねない。が、人間の問題はきれいごとですまされないし、すましてはいけない。力石徹やジョーを〈神〉のごとく祭り上げて、自らの存在を厳しく問わずにすまそうとする単なるファン(愛好家)になってはならない。
 『あしたのジョー』に童貞・力石徹と処女・白木葉子の純愛(愛と誠)、童貞・ジョーと処女・白木葉子の純愛(愛と誠)の、ボクシングを真っ正面に据えたドラマを見ればそれでいいのだというファンは多いだろう。が、わたしは『あしたのジョー』を批評の対象として選んだ時点で、人間のドラマとして読んでいる。いっさいの妥協も遠慮もしない。批評もまた壮絶な死闘であり、テキストとの真剣勝負なのだ。
 わたしの螺旋批評において、白木葉子はこれからも繰り返し照明を与えることになると思うが、今は、マンモス西との結婚を選んだ紀子を徹底的に検証してみたい。