時代を超えた『あしたのジョー』 連載3  清水正

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube


時代を超えた『あしたのジョー
ーーちびっ子サチに捧げる死闘(テキストへの参入)ーー 

連載3

清水正


 ラスコーリニコフは棺桶のような屋根裏部屋に始終閉じこもっていたのではない。『罪と罰』の読者、特に若い読者はラスコーリニコフを世間から孤立した文学青年、単独者のように思いこんでしまいがちだが、客観的な眼差しを注げば、この青年は軽薄なお調子者の相貌を多分に持っていることが分かる。ラスコーリニコフは上京そうそう、下宿の娘ナタリヤといい仲になり結婚の口約束までしている。年金百二十ルーブリでかすかすの生活をしている母のプリヘーリヤは亡き夫の友人アファナーシイの〈いい人〉ぶりに頼って、年金を抵当に入れてまで金を仕送りしているというのに、ラスコーリニコフはドイツ製の山高帽子などをかぶって、まるで高貴な紳士気取りでネーフスキー通りを闊歩したりしていた。大学も途中退学し、下宿の女将には百十五ルーブリの金を借りていたが、バイトにもでかけずぶらぶらしているような青年である。
 こういった主人公が、明治・大正・昭和の若者たちの魂を鷲掴みにしたのは、彼が悩める青年であったからだろう。ラスコーリニコフは十九世紀ロシアの知的青年たちが例外なく当面していた〈革命か神か〉の問題に悩んでいた。この問題は『罪と罰』で先鋭的に浮き彫りにされることはなかったが、いずれにせよ、ラスコーリニコフが深くものに感ずることのできる青年であり、すべての人間の苦悩の前にひざまずくことのできる青年であったことは間違いない。
罪と罰』は三人称小説の形式を採っているが、実際はラスコーリニコフを主体とする一人称小説と言ってもいい。無防備に読み進めていく読者は、いつの間にかラスコーリニコフの内面と同化してしまう。ラスコーリニコフの悩みはわが悩みとなっていくのである。主人公〈私〉と読者〈私〉の同一化現象が進めば、危険な領域へと踏み込むことになるが、主人公ラスコーリニコフに取り憑いたデモーニッシュで神秘的な力が働かなければ、殺人という第一の〈踏み越え〉もなければ、従って最終的な〈踏み越え〉(復活)もない。

 手塚治虫は主人公ラスコーリニコフの内面に深入りすることはない。原作『罪と罰』において、カメラはラスコーリニコフの両目に張り付いていて、世界は彼の主観に彩色されて現象している。また、このカメラはラスコーリニコフの内部世界にも向けられている。従って読者は、まるで自分がラスコーリニコフと同一化したように世界を見、彼の内部世界を生々しく生きることになる。ひとたび、ラスコーリニコフの内部世界と合体化したような読書体験を持つと、なかなかラスコーリニコフの観念から抜け出すことは難しくなる。手塚治虫はこういった観念にとり憑かれるタイプの読者ではなかったらしい。手塚はマルメラードフの通夜の場面で、カチェリーナと家主アマリヤの、貧しい店子たちを巻き込んでの烈しいやりとりを思う存分に描き切っている。

 日本の近代の小説家や批評家はドストエフスキーの文学を観念的、思想的、神学的次元で深刻に受け止めた。人間いかに生きるべきか、自由とは、愛とは、神とは‥‥。十七歳のドストエフスキーは兄ミハイル宛の手紙で「人間は神秘です。その謎は解かなければなりません。そしてそのために一生を費やしたとしても、時間を空費したとは言えません。ぼくはこの謎に取り組んでいます、なぜならぼくは人間になりたいからです」(一九三九年八月十六日)と書いた。まさにドストエフスキーの全作品は人間の謎を解くために書かれたと言っても過言ではない。
 シェイクスピアに悲劇、史劇があると同時に喜劇もあるように、ドストエフスキーにも喜劇的な作品が存在する。と言うよりは悲劇的な作品のうちに喜劇的要素が埋め込まれていると言った方がいいかもしれない。が、ドストエフスキー文学における喜劇的側面は文学畑の人たちにはあまり重視されてこなかった。そんな中にあって漫画家手塚治虫は『罪と罰』におけるグロテスクなカーニバル空間にスポットライトを当てた。手塚はマルメラードフの告白場面を省略しても、マルメラードフの法事の場面には多くの頁をさいた。手塚は実に全11頁40コマを費やして、法事の場面をハチャメチャなドンチャン騒ぎとして描いている。この場面は圧巻である。

※  ※  ※
 新谷敬三郎訳『ドストエフスキイ論ーーー創作方法の諸問題』(一九六八年六月 冬樹社)は小林秀雄以来、人間主体的批評が主流であった日本の文学界に一つの大きな揺さぶりをかけたが、その著者であるミハイル・バフチンは「それぞれに独立して解け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の対位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキーの小説の基本的性格である」と書いている。
 バフチンドストエフスキーの文学を〈真面目な茶番というジャンル〉(ソクラテスの対話やメニッポスの風刺)でとらえ、その際だった特質性としてカーニバル的世界感覚に貫かれていることを指摘した。その上で、メニッペア(メニッポスの風刺)の特徴を次のように説明している。

  メニッペアに大変特徴的なことはスキャンダル、エクセントリックな行為、場違いなことばと話の場面である。それはことばをも含めて行為や礼儀作法の一定の基準、事件の普通一般の進行のあらゆる破壊である。(略)スキャンダルやエクセントリックな行為は世界の叙事詩的、悲劇的統一性を破壊し、人間の行為や事件の不動でノーマルな(《お上品な》)進行に穴をあけ、既製の基準や動機づけから人間の行為を解きはなつ。(略)《場違いの言葉》ーーシニカルな露骨さ、あるいは聖物冒涜とか礼儀作法の容赦ない破壊という点で場所柄をわきまえぬーーもまたメニッペアの特徴である。
  メニッペアは鋭いコントラストと矛盾した組み合わせとに満ちている。貞淑な遊女、賢者の心の自由と奴隷身分、奴隷となった皇帝、道徳的堕落と清純、贅沢と貧窮、高潔な盗賊等々。それは急激な移行、転換、倒錯、向上と堕落、遠く離れていたものの突然の接近、身分違いの縁組みを演ずることを好む。(174~175p)

 

 バフチンはカーニバルに関しては次のように書いている。

  カーニバルとはフットライトなしの、演技者と観客の区別のない見世物である。そこではみんなが積極的な参加者であり、カーニバルの正餐を享けるのである。カーニバルは観るものではなく、厳密にいうと、演じるものでさえなく、そのなかで生きるもの、その法則に働きかけられながら、それにしたがってカーニバル的生を生きるものなのである。カーニバル的生とは常軌を逸した生であり、なんらかの程度において《裏返しの生》《あべこべの世界》(《monde a lenvers》)である。
  日常の、つまりカーニバルの外の世界の体制や秩序を規定している法則やタブーや制約はカーニバルの時には取り除かれる。なによりもまずヒエラルキー的体制とそれに結びついている恐怖、畏敬、敬虔、礼儀といった形式がすべて取り除かれ、社会的・ヒエラルキー的、その他(例えば年齢など)の不平等によって決定されているもろもろのものが取り除かれる。人と人のあいだの距離がすべて除かれ、カーニバル独特のカテゴリーである自由であけすけな接触が力をえてくる。これはカーニバル的世界感覚の非常に重要な因子である。生活のなかで見透しのきかないヒエラルキーの柵で隔てられている人びとがカーニバルの広場では自由なあけすけな接触をもつ。あけすけな接触というこのカテゴリーによって群集劇独特の組織や自由な身ぶりや露骨な言葉が生み出される。(略)人間の行為や身ぶりや言葉は、カーニバル外の生活では全くあらゆるヒエラルキー(身分、位、年齢、財産)の状況によって左右されていたのが、その支配から解放される。それ故日常生活の論理から見るとエクセントリックで場違いなものになる。エクセントリックはカーニバル的世界感覚独特のカテゴリイで、あけすけな接触と密着している。それは人間性の隠れた面として、具象的感覚的な形をとって露わにされ、表現される。(180~181p)

 

 手塚治虫は漫画版『罪と罰』、特に〈マルメラードフの法事〉の場面においてドストエフスキー文学の特徴である《真面目な茶番》、そのメニッペアとカーニバル的世界感覚を見事に描いている。詳細は拙著『清水正ドストエフスキー論全集』第四巻(2009年4月 D文学研究会)にまかせるとして、今回、わたしがここで強調しておきたいのは、『あしたのジョー』におけるちばてつやの作画法がまさにバフチンの言うメニッペアやカーニバル的世界感覚に貫かれているということである。
 『罪と罰』は「七月初旬、異様に熱い夕方、一人の青年がS横町の借家人から又借りしている小部屋から通りへ出て、ゆっくりと、思いまどいながらK橋の方へ歩いていった」で始まる。カメラは主人公の〈一人の青年〉を間近からとらえている。三人称小説であるから、当然、カメラは主人公を客観的にとらえている。が、先に指摘したように、この小説は実に一人称小説的なのである。つまり、この出だしの文章を「七月初旬、異様に熱い夕方、私はS横町の借家人から又借りしている小部屋から通りへ出て、ゆっくりと、思いまどいながらK橋の方へ歩いていった」と読み替えても一向に不自然ではないということ、むしろその方がリアリティが増すかもしれない。

※  ※  ※
 ところで、『あしたのジョー』の出だしはどうであったろうか。わたしがテキストにしている講談社文庫版では、第1頁は全スペースをとって天空から大都市東京を俯瞰的にとらえている。初出「少年マガジン」ではこの第1頁の絵はなく、もう少し接近した上空からの俯瞰図となっている。
 いずれにせよ、カメラ(視点)は天空から降りてきた形になっている。つまり『あしたのジョー』は、カメラの視点にのみ注目すれば、神の視点から描かれていることになる。わたしの目には、この天空からのカメラと共にジョーがこの世界に降臨してきたかのようにも見えるのだが、この点に関しては今は触れない。
 手塚治虫の漫画版『罪と罰』もまた、カメラ(鳥)は時空を超えて二十世紀現代から十九世紀ロシアの首都ペテルブルクへと飛んで行き、まずは上空から都市ペテルブルクを俯瞰していた。この手塚版カメラは原作版カメラとは違って、主人公の内部世界を執拗に映し出すことなく、或る一定の距離を保って、人物たちが織りなすメニッペア的、カーニバル的生の現場を見事に再構築した。
 ちばてつや版カメラ(鳥)は東京上空を自在に飛び回った末に、都会の片隅のドヤ街へと至りつく。カメラ(鳥)は一泊百円の安宿や風呂屋や居酒屋などが立ち並ぶドヤ街の一角を上から映し出す。主人公のジョーはまだ名前も明かされない、まさに〈一人の青年〉として、ほこり舞う通りを歩いて来る。まさに、この青年は〈ドヤ街〉へとやって来た。カメラ(鳥)は通りの向こうから歩いて来る青年を小さくとらえている。つまり、この時点でジョーは未だ主人公としては扱われていない。むしろ東京の片隅にある〈ドヤ街〉そのものが主人公格としてその存在感を醸し出している。
 次頁(8p)1コマ目でカメラは青年に接近、服装や肩に担いだずだ袋、顔の表情などをとらえている。画面右から上部にかけて、リヤカーに積まれた新聞、庇に立てかけられた板戸、中の暗がりにはドラム缶が見える。ドブ板にはバケツや竹籠やトタン板などが置かれ、通りには新聞紙が埃風に吹かれて舞っている。

 さて、このドヤ街の光景や青年の表情をとらえているのは誰か。カメラはここで〈鳥〉から〈猫〉へと移っている。手塚治虫の漫画版『罪と罰』においても、時空を超えて飛翔したカメラは〈鳥〉の目から〈猫〉の目へと変換している。ちばてつやがどこまで意識していたかどうかは別として、まさにカメラは天空を飛翔する〈鳥〉からドヤ街に生息する〈猫〉の目へと移行している。
 この猫カメラは原作『罪と罰』の一人称的カメラとは違って、青年の内的世界を映し出したり、また青年に関する説明をいっさい加えない。読者は、猫カメラがとらえた青年の外的相貌によってしか青年を理解することができない。厳密に言えば、録音付き猫カメラは、その姿を消して自在にその立ち位置を変えることができるから、いわば神的偏在する視点と言えようか。
 いったいこの一人の青年はどこから来たのか、何のためにこのドヤ街へとやって来たのか、これから彼はどこへ行こうとしているのか。猫カメラでとらえられた青年は、そういった読者の誰もが知りたいと思う、いっさいの情報を伝えない。
 読者が分かるのは、公園での丹下段平との闘い、舞台をドヤ街の通りへ移してのちびっ子どもとの闘い、ボス格の太郎をぶちのめして一見落着かと思った途端、サチを連行した鬼姫会のチンピラが登場、チンピラと丹下段平の闘い、そしてチンピラとジョーの闘いと続く。まさに喧嘩に次ぐ喧嘩の連続である。鬼姫会のチンピラがジョーにこてんぱにのされ、一応〈格闘シーン〉は幕を降ろす。
 ところで、この一連の格闘場面がまさに先に引用したメニッペアの諸特徴を体現している。ジョーと丹下段平の突然の出会いと無礼な言葉のやりとり、格闘‥‥それらはまさに「スキャンダル、エクセントリックな行為、場違いなことばと話の場面」であり、続くドヤ街での一連の格闘シーンもまた「それはことばをも含めて行為や礼儀作法の一定の基準、事件の普通一般の進行のあらゆる破壊であ」ったことを見事に証明している。ドヤ街の公園や通りは、ジョー、丹下段平、ちびっ子ども、チンピラども、野次馬たちが織りなす文字通りのカーニバル空間と化している。
 バフチンは「カーニバルとはフットライトなしの、演技者と観客の区別のない見世物である。そこではみんなが積極的な参加者であり、カーニバルの正餐を享けるのである。カーニバルは観るものではなく、厳密にいうと、演じるものでさえなく、そのなかで生きるもの、その法則に働きかけられながら、それにしたがってカーニバル的生を生きるものなのである」と書いていた。
 ジョーが現れたことによって、ドヤ街の通りは、ほこり舞うしけた日常の暮らしを支える一本の通路から、突然、異様に活気のある祝祭空間へと変貌したのである。アル中で廃人同様の丹下段平を生き返らせ、太郎を中心にまとまっていたちびっ子どもの秩序に緊張を走らせ、ドヤ街で絶対的な力を誇示していた鬼姫会のチンピラどもは徹底的にぶちのめされる。まさにジョーは丹下段平の〈死〉を〈再生〉へと導き、ちびっ子どもの秩序の再構築をはかり、鬼姫会の権威を根底から打ち崩してしまう。
 今までの日常を支配していた規律、秩序は大きく揺さぶりをかけられ崩壊してしまった。ジョーはカーニバル時空の王として立ち現れたのである。丹下段平はジョーにボクシングの世界チャンピオンを夢想し、闘争心に燃えていたちびっ子どもは太郎がぶちのめされて恐怖のどん底に落ち、チンピラがのばされた光景に接して戦慄を覚える。この戦慄は、ジョーに対する畏怖の念を呼び起こし、彼を英雄として崇めることになる。

※  ※  ※
 さて、わたしが執拗にとりあげ照明を与えたいのは、格闘シーンが一段落した後のジョーとサチである。サチはジョーの後頭部めがけて下駄を投げた。その後、ちびっ子どもが止めるのもきかず、ジョーに向かって遠慮のない激しい言葉を吐き続ける。
 まさにサチの言動は「日常の、つまりカーニバルの外の世界の体制や秩序を規定している法則やタブーや制約」を取り除かれて、「恐怖、畏敬、敬虔、礼儀といった形式がすべて取り除かれ、社会的・ヒエラルキー的、その他(例えば年齢など)の不平等によって決定されているもろもろのものが取り除かれ」ている。サチはカーニバル空間において十分に主役を張っている。丹下段平、太郎、チンピラと相次いで倒したジョーであったが、唯一勝てなかった相手がちびっ子のサチであった。
 ジョーが口ずさんでいる歌「風が泣いている」の一番の歌詞に「誰を追いかけて行く どこへ 何が そんなに悲しいのさ」、二番の歌詞に「どうせ帰らない恋ならば 早く忘れたほうがいいぜ」という文句がある。
 ジョーに好きな女との別れの体験があったとしても、別に不思議ではない。そして、この歌詞が切なく響くのは、未来のサチの気持ちを先取りしているからである。
 誰よりも力強く、精一杯駆けてジョーの後ろ姿を追ったのはサチであった。追い越して、ジョーの前に立ったのはサチであった。からかわれて、下駄を投げつけたのはサチであった。サチはジョーの伴侶に最も相応しい〈レディ〉であり〈お姫さま〉として彼の前に立ったのに、ジョーは「はっはっはっはっはっ」と思い切り大声で笑いとばしながら「あばよ、おしめさま!」と行って駆け去っていく。サチは悔しさいっぱいで空き缶や石を投げつけるが、もはやジョーには届かない。ついにサチは道路に膝を崩し、「あ~~ん あんあん あ~~ん あんあん」と手放しで泣き崩れる。
 このサチの泣き声は、本当に、からだの芯からの悔しさ、悲しさ、切なさの迸りなのである。ちばてつやは本当に悲しいときの子供がどういう泣き方をするかを知っている。サチは年齢などを超えて、本当に泣いているのである。白木葉子も、紀子も、サチのように本気の本気で泣くことはできなかった。

 昼間の仕返しにドヤ街へとやってきた鬼姫会のチンピラどもが、ジョーと丹下段平を囲む。ジョーは一人でチンピラどもを叩きのめすが、本気になったチンピラの親分格の男が、子分たちにドスでやっつけちまえと命令する。丹下段平はジョーにパンチを食らわせ、気絶したジョーに自らの身で覆って必死に守る。と、そのとき警察のパトカーが現れ、チンピラともは逃げ出す。しかしジョーと丹下段平は正当防衛を認められず、逮捕され、警察の留置所にぶちこまれる。ここで、ジョーと丹下段平は二人だけの時間をもつことになる。この時、二人が交わした会話と、丹下段平が語った過去の断片を言葉だけで引用しておこう。

 

ジョー「どうだい、おっさん。すこしはらくになったんかい」
段平「ああ‥‥だいぶいたみはなくなったよ。さっきまではこのまんま、死んじまうかとおもったが‥‥」
ジョー「‥‥おれは、おっさんという人間がわからないぜ‥‥なんだって命を張ってまで他人のおれをかばおうとするんだい」
段平「ふふふ‥‥いまとなりゃあ、おめえはわしの生き甲斐みてえなもんさ。そのパンチにぞっこんまいっちまったんだ。その野獣の目にすっかり魅せられちまったんだ。わしゃあ、なんとしてもおまえと組んで」
ジョー「やめてくれっ。おれはボクシングなんぞに興味はないんだ。なんどいったらわかるんだ! ほっといてくれっ」
〔段平、ベッドに身を横たえたまま、ため息をつく〕
ジョー「それにしても、さっきのおっさんのパンチきいたぜ。さすがはむかしボクサーだったというだけはある。いっちょう退屈しのぎに、はなやかなりしむかし話でもきかせてくれないか、おっさん‥‥」
〔段平の見開かれた純粋な左目から涙が流れ落ちている。しばし沈黙が続いた後で、やがて段平は「ふ‥‥ふふ ふふふ」と自嘲的な笑いを漏らしながら静かに過去の一場面を語り始める〕
段平「この‥‥このわしくらい、徹底してついてねえ男もいねぇだろうな‥‥まあ、こんなことはじまんにもなんにもなりゃしねえが‥‥。おめえのいうとおり、わしはもとボクサーだった‥‥現役時代‥‥ようやく日本タイトルに挑戦ってときに、目をやられちまって、やむなく引退ーー。ちっぽけなボクシング・ジムの会長におさまるにゃおさまったが‥‥。きいてるのかジョー」
ジョー「ああ、きいてるよ。会長におさまってどうした?」
段平「‥‥‥‥つまり、なんとか会長におさまったと思えばだ、またまたつぎのようなざまよ」
【回想・ボクシング会場での試合場面】
段平「ええいくそっ。なにやってやがんだっ。打て、打て、打てぇっ。ちっ、かっこばかりつけやがって。打ちこまねえか、このうすらとんかち! ばっきやろーーっ、拳闘はなぐりあいだぞっ。にらめっこたあちがうんだぞっ。ほれ、このやろう、つっこまねえかーーっ」
〔ゴングが鳴り、ボクサーがコーナーに戻ってくる。段平は彼の首根っこを掴んでリングから引きずり出す〕
段平「こ‥‥こ、このどあほ。こいっ。さっさとひきあげるんだっ。だれが見たっておまえの負けにきまってる。もたもたして相手の勝ち名のりをおがむこともあるまいっ。けっ‥‥。〔段平、選手を足蹴りして控え室に入れる〕ええい、さっさとひかえにはいらねえかっ。このふぬけめ!」
〔控え室での選手とのやりとりの〕
選手「いいかげんにしてほしいな、会長」
段平「なにいっ」
選手「いいかげんにしてほしいといってるんだよう。くそみそにわめいたり首根っこつかんだり‥‥。ことわっとくが、おらあねこの子とはちがうんだぜ」
段平「こっ‥‥この‥‥‥‥」
選手「おれの恋人だってテレビ中継を見ているんだ。まったくかっこわるいったらありゃしねぇや!」
段平「ふ‥‥ふ‥‥。〔段平、机を思い切り蹴り上げ〕ふざけんなーーっ。おまえさえもっとまじめにやれば、おれだってすきこのんでどなりゃせんわいっ。〔段平、バケツを選手に向けて蹴り飛ばす。選手は身をかがめて避ける〕ポイントではあきらかに負けとわかっている最終ラウンド、逆転の方法はすでにK・Oしかないとわかっているのに、なぜ打ちこまねんだ! なんだってすて身の戦法に出んのだっ」
選手「〔グローブの紐を歯で解きながら〕へたに打ちこんだら敵さんも全力で打ちこんできまさあ。ぎゃくにK・Oでもされたら、判定負けよりさらにかっこわるいからね」
段平「〔段平、怒りに頭から湯気をたてながら〕う‥‥う‥‥そ‥‥それも、それもテレビで見ている恋人の手前か?」
選手「まあね‥‥正直いって、おれはもともとテレビにうつりたいためにボクサーになったんだ。会長の期待にそむいてわるいけどよ」
段平「‥‥世もすえだ‥‥二言めにはかっこいいだのわるいだの。すっかりタレント気どりでいやがる。飢えきった、わかい野獣でなければ、四角いジャングル‥‥つまりリングで成功することはできないっ。むかしからの格言どおりだ。勝たなけりゃ‥‥‥‥相手をたおさなけりゃ、あすのめしにありつけん。そこまで追いつめられなければ、四角いジャングルの弱肉強食弱にたえられんのだ!」
選手「〔グローブをはずし、ズボンをはき、シャツを着ながら〕ふふ‥‥この丹下段平のわかいころこそ、まさに飢えた野獣とでもいいたのでしょうが、〔ネクタイを締めながら〕むきになってなぐりあって‥‥その結果なにがのこりました。つぶれた片目と顔じゅうのきずのほかに‥‥」
段平「だ、だまれ‥‥〔右拳を振り上げながら〕だまれこぞう!」
選手「おっと〔左手で段平の右パンチをガード、続いて右アッパーを「ズバン」と段平の顎に決める〕」
段平「〔段平、後ろの壁に激しくぶつかり、前に倒れる。両腕で上半身を支えながら〕へへ‥‥お‥‥おいぼれだと強いんだな。〔鼻から血が流れ落ちる。よろよろと立ち上がって〕か‥‥片目ってやつは、攻撃も防御もまるで見当がくるいやがる。でなけりゃ、まだまだきさまごとき青二才に」
選手「〔すっかり着替え終わり、右手にはバッグを下げている〕あんたとの縁もこれまでだぜ。〔開けた扉を手で押さえながら〕かねがね、さそわれていたんだ。もっと科学的で合理的な大きいジムの会長からね」
段平「‥‥〔相手の言葉にハッとして立ち尽くす。扉は「バシーン」と大きな音で閉められ、段平を見切った選手が鉄の階段を降りて去っていく足音だけが「カツーン カツーン カツーン カツーン」と段平一人が取り残された部屋に空しく響いてくる」

【回想場面から戻る】
段平「あんな選手でもーーーーあそこまで育てるには、わしは借金を山ほどせおっていた‥‥バラック作りのちっぽけなジムをたたき売ると、拳闘ひとすじにうちこんで、いまだ妻も子もない片目の負け犬が、あとにたった一ぴきぽつんとのこった。そんな負け犬が、自分にふさわしいねぐらをもとめてたどりついたのが、このドヤ街ってわけさ。だが‥‥もちろんわしは、負け犬のままでおわるつもりはない。いまにきっと‥‥〔いつの間にか眠っていたジョーに気づき〕ジョー‥‥〔と、呟く〕」


 わたしは原作と作画の関係について関心があるので、ここに引用した場面などは特に興味がある。まず、ジョーと丹下段平のセリフや回想場面など、どこまで原作に忠実なのかに興味がある。現在残っている十四枚の原作と作画を見ても、ちばてつやが原作をかなり脚色していることが分かるので、この場面も原作通りに描いたとは思えない。
 ちばてつやは次のように語っている。

  原作では、唐突に激しいボクシングのシーンから入っていたんですが、僕としては、それだとどうしても気持ちが入っていけませんでした。いきなりアクションから始まって“なんだこれは?”って引いておいて、後から状況を説明する演出もあると思うんですけど、僕はちょっと馴染めなかったで、ゆったりと俯瞰から、その街の雰囲気や季節感を表して、それで(世界観)入っていったんです。
  梶原さんの原作はとにかくどんどんたたみかける感じで、グッとつかんでおいて、グイグイ読者を引っ張っていく。それがまた一つのパワーになっていくわけですけど、僕は何かそれだけだと描いていても息が詰まるし、読者としても疲れるんじゃないかと感じたんです。だから僕なりに考えて、ジョーがドヤ街にふらりと現れるシーンから入っていったわけです。(ちばてつや・豊福きこう『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月 講談社

 ちばてつやはここで梶原一騎の原作の特徴を十分に理解しながら、彼独自の作画法を駆使したことを明確に語っている。ちばてつやという作画者を得て、初めて梶原一騎の垂直軸的な緊張世界に水平的な幅(弛緩)をもたせることができたということになうか。それはそれでいいのだが、問題は原作が残っていないことだ。これは正直言って驚くべきことだ。『あしたのジョー』の原作、それも出だしの場面すら残っていないというのは、やはり原作軽視の誹りは免れないであろう。
 ちばてつやの証言で、原作が「唐突に激しいボクシングのシーンから入っていた」ことは分かるが、それが段平の回想シーンにあったように段平会長の弟子の試合であったのか、それとも段平自身の試合であったのかも原作に照らし合わせて確認することはできない。すべては原作を見たことのある人たちの証言に頼るほかはない。しかし、わたしの知る限り、作画者のちばてつやも担当編集者の宮原照夫もこういった点については触れていない。原作は残すべきだが、梶原一騎ほどの売れっ子大物の原作さえ残さなかった商業主義の功罪の罪をしっかりと受け止めなければいけないだろう。原作さえ残っていれば、複数の漫画家に作画させる可能性は開けていたはずだし、それでこそ原作独自の価値がある。原作者梶原一騎と作画者ちばてつやの葛藤を、単なるエピソードの次元で片づけてはいけないし、大きなトラブルにはならなかったなどという言葉で処理してはいけない。
 丹下段平はなぜボクシングにこだわるのか。段平にとってボクシングは何だったのか。私が知りたいのはそれだ。段平は言う「なんだってすて身の戦法に出んのだっ」と。この言葉に魂が震える。段平はすて身で生きる、その生き方にあらん限りの情念を、マグマを注ぎきることができる。が、段平はその説明がまったくなっていない。段平は勝つこと、四角いジャングルで成功すること、そのためには四角いジャングルの弱肉強食に耐える〈飢えた野獣〉でなければならないと言う。要するに、段平は〈飢えた野獣〉の目的を〈成功〉に置いている。ではその〈成功〉とはなんなのだ。段平の考えている成功とは金、名声、権力を得た生活である。段平がジョーにぶちのめされた後に発したセリフは「どうだい‥‥いっちょうおれと組まねえか? なあに組むったってどろぼうやこそどろをやろうってじゃねえ。おめえ拳闘をやってみる気ははないかい、拳闘をよ。お‥‥おれがコーチしてやるぜ。おれがコーチすりゃあ、おめえなんざ日本一のボクサー‥‥いや世界一のボクサーにしたててやるぜっ。なあよ、ふたりで組んで一旗あげようじゃねえか! そうすりゃ、こんなうすぎたねえドヤ街にくすぶってることなんざねえんだ。でっかい車のりまわして、でっかいプールつきの屋敷に住めるんだっ。なあよう! わるいようにゃしねえ。どうだ、このからだおれにあずけねえかっ」である。ジョーは段平のセリフに対して「ことわっとくが、おれあよっぱらい相手に話をするのはだいっきらいなんだ。ましてや、でっかい屋敷だの、一旗あげるのだってゆめみてえな話きいてるとへその奥がかゆくなってくるぜっ」と返している。
 ここで段平が夢に描いている〈成功〉が世界バンタム級チャンピオン、ホセ・メンドーサの豪勢で幸せな生活に合致していることは明白である。そしてジョーもまた、段平の言う〈ゆめ〉を否定してはいないことも押さえておく必要がある。
 段平は分かっていない。自分が口にしている〈すて身の戦法〉で〈飢えきったわかい野獣〉が求めている何かがまったく分かっていない。段平は「テレビにうつりたいためにボクサーになった」選手を責めることはできない。段平のイメージしている成功した生活と、捨て身になれずに判定負けする選手が目指す生活は五十歩百歩で、彼らは同じ穴のむじなである。
 段平はジョーと組んで成し遂げようとしていることが分かっていない。段平にとってジョーも、この選手も同一次元に存在している。選手になくてジョーにあるのは〈飢えきったわかい野獣〉性であるが、段平の目的は四角いジャングルでの〈成功〉であって、ジョーが果たした〈完全燃焼〉ではない。ジョーもまた、段平と出会った頃はボクシング自体に興味はなかったし、〈完全燃焼〉するしかない自分の生き方の終末を予感することさえできないでいた。