『あしたのジョー』を読む ーー矢吹丈の「ゆめの大計画書」をめぐってーー連載4  清水正

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

あしたのジョー』を読む
ーー矢吹丈の「ゆめの大計画書」をめぐってーー

連載4

清水正

 鬼姫会との乱闘事件で留置所に入っていたジョーは釈放されると、丹下段平の誘いに乗ってボクシングの練習を始める。これはジョーが本格的にプロボクサーを目指して、その第一歩を踏み出したということではない。サチは「あんた、あれほどボクシングをきらっていたのに、どうして急に本気でやる気になったの?」と訊く。さすが、一目でジョーに惚れたサチである、質問も本質を突いてくる。ジョーは答える「ふん、べつにボクシングをきらっていたわけじゃないよ。もともと興味がなかっただけの話さ。だいたい、いまもって本気でやるつもりはないね。固定収入を得るためのたんなる手段にすぎない。〔サチ「固定収入‥‥?〕ああ、あのおっさんはおれにボクシングを教えたくてしかたがねえらしいんだ。コーチをうければおれの生活のめんどうをすっかりみるってねいうのさ、いい話じゃねえか‥‥こづかいもくれるっていうしさ。ま、おれはのったね。ちょっと練習するふりをすれば三度三度のめしにはこまらねえんだ。おっさんが徹夜ではたらいてかせぎだしてくれる。そして、おれはこうして毎日あそんでくらせるって寸法さ」(一巻93p)と。

 ジョーのセリフには、純粋にボクシングに賭ける若者の内心の思いの発露はない。ジョーが熱心にボクシングの練習に励んでいたのは、丹下段平との〈契約〉による。段平はどんなことがあってもジョーを手放したくはない。ジョーはやっと見いだした殺人パンチの持ち主で野性味のある少年である。これから鍛えれば、世界チャンピオンを狙える逸材である。段平はジョーの生活を保証する代わりに、メニュー通りの練習をこなすことを命じる。それまで売血までして酒を飲みくらっていた段平が、ボクシングジムを一日も早くつくるために懸命に働き始める。それもこれもすべてはジョーと共に未来の栄光を掴むためにである。ところが、肝心のジョーはボクシングに命を賭ける気などさらさらない。ジョーは段平から金をくれなければ〈契約〉を解除すると脅して六百円を奪い取り、子分にしたちびっ子どもを引き連れてパチンコ屋に入って大もうけする。ジョーはちびっ子どもの心をすっかり鷲掴みにして、彼らのヒーローとなる。
 段平の熱い思いにジョーは何一つ応えようとはしていない。ジョーはパチンコ屋で不当にかせいだ大量の景品をふうてんの寅さん並の巧みな口上で売りさばき、警察官に追われれば必死に逃亡する。まさにジョーはちびっ子ギャングのボスよろしく振る舞って得意になっている。が、ある時、ちびっ子どもを代表して太郎がジョーに疑問をぶつける「おらたち、どうしてこんなことばっかしやってんだ?」と。ジョーは怒気を込めて「こんなことたあ、なんだ。まじめに商売やって金をかせいでるんじゃねえか」と答える。ジョーの説明に太郎は納得できない。太郎は勇気をだしてさらに問う「しょ‥‥商売はわかるけどよ‥‥金もうけしてなにをやるつもりなんだよ」と。ジョーのやり方に不満を抱いているのは太郎ばかりではない。チュー吉もキノコもトン吉も同じである。太郎は「毎日あぶねえ思いをして金をかせいだって、なににつかうのかわからないんじゃはりあいがねえや」とぼやき、サチは「ねえ、おしえてよジョー」と言い放つ。ジョーは「ようし、それほどまでにいうのなら、この矢吹丈さまのゆめの大計画書を見せてやる」と言って、ちびっ子どもを壊れかけた高層ビルの一室に連れ込み、そこで「ゆめの大計画書」を読み上げる。
 
 計画の一「この広い川っぷちの両岸一帯におとなも子どももあそべるでっかい遊園地を作ること!」
 計画の二「このドヤ街の西のはずれにりっぱな総合病院をぶったてること!」
 計画の三「東のはずれには、年をとってはたらけなくなった人たちのために養老院をたてるっ」
 計画の四「南のほうに、小さい子どものための保育園!」
 計画の五「北のはずれにしずかなアパートと、なんでも買える大マーケット!」
 計画の六「このドヤ街のど真ん中にでっかい工場をたて、仕事にあぶれているれんじゅうがひとりのこらずその工場ではたらけるようにするんだっ」

 これがジョーの口から読み上げられた「ゆめの大計画書」の内容である。ジョーの計画そのものは文字通り立派なものであり、誰も反対できない。問題は手段である。ジョーは「新しい金もうけの方法」を考えている。それはちびっ子どもが養護施設を追い出された里子と嘘をついて、世間の同情を煽って寄付金をせしめるという方法である。電話でビルに集まった新聞記者たちは、ジョーの嘘話を信じて大々的に報道する。「〈町角にさく美談〉ーー養護施設の子どもたちを守ってーー死んだ母の志をつぐ丈。丈くんをしたってあつまる子どもたち〔ジョーを囲んで笑顔で撮影に応じる子どもたちの写真〕」この新聞を読んだ読者から百万ほどの大金がジョーのもとに寄せられる。もはやパチンコ屋を相手にした〈賭場あらし〉の次元に収まる話ではない。チュー吉が「ジョーってのは意外に悪だね」と太郎にささやき、太郎はそれを受けて「おれたちより上手だぜ」と言っていたことを忘れてはならない。ジョーはおでん一くしどろぼうのサチに対して「どうせやるんなら屋台ごとかっぱらうんだ屋台ごと。人間たるものすべてにでっかくいかなくちゃいけねえ」と言っていた。
 ジョーの語る「ゆめの大計画書」をさらに国家規模に拡大すればどうなるか。それは容易に「目的のためには手段を選ばず」の革命思想と直結することになろう。ジョーが計画した「遊園地」「総合病院」「養老院」「保育園」「大マーケット」「工場」などの建築は、いわばドヤ街(地上世界)に人類の楽園を実現させようとする願いから発している。この理想を実現するためにジョーのとった手段は、道路交通法違反法、恐喝、脅迫、詐欺、横領、窃盗、器物破損といった、すべて法に背く行為であった。ジョーの違反行為は、ますますエスカレートし、子どもの悪ふざけの次元を越えたものになっていく。描かれた限りで見ても、ジョーの乱闘シーンは常軌を逸しているが、マスコミを利用した詐欺行為に至っては誰の目にも立派な犯罪である。

あしたのジョー』は「少年マガジン」に連載されたが、子どもたちだけに読まれたのではない。当時、漫画は「ガロ」の白土三平水木しげるつげ義春滝田ゆうなどの諸作品によって大人の読者にも支持されていた。「少年マガジン」も中・高校生はもとより大学生にも読まれつつあった。『あしたのジョー』は革命志向を抱いた青年たちにも広く支持された。その一つの証として「よど号ハイジャック事件」(1970年3月31日、共産主義者同盟赤軍派が羽田発福岡行きの351便・日本航空ボーイング727型機よど号を乗っ取り、北朝鮮行きを成功させた事件)の首謀者田宮高麿が、ハイジャックの前日30日に残した犯行声明文がある。田宮はそこで「我々は明日、羽田を発たんとしている。我々はいかなる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から沸き上がってきたことを知らない。最後に確認しよう。我々は『明日のジョー』である」と書いている。
この言葉は『あしたのジョー』が赤軍派のリーダーであった田宮ばかりでなく、当時の多くの革命志向の青年達に深く影響を与えていたことを端的に語っている。
 当時のテレビや新聞は、ヘルメット、マスク、鉄パイプで身をまとった革命青年達のデモ行進や、機動隊と火炎瓶や瓦礫投擲で闘う姿を連日伝えた。彼ら全共闘学生や革命戦士達は本気で暴力革命の成功を信じていた。ジョーは国家に対する不満や反逆の意志を示すことはなかったし、喧嘩相手にパイプや瓦礫、火炎瓶などを使用することもなかった。が、ジョーがまず第一に〈暴力〉に頼っていたことは紛れもない事実である。サチが鬼姫会のチンピラに連行されてきた時にも、サチの〈盗み〉の真実を確かめることなどはいっさいしていない。チンピラがサチや段平に暴力を振るえば、暴力によって応える。これがジョーのやり方であり、これは最後まで一貫して変わっていない。つまり、ジョーの問題解決の手段は暴力意外にはないのである。相談、話し合い、しかるべき場所に訴えるといった穏便な手段はいっさい使わない。ただひたすら、立ちふさがった壁に対しては暴力によって破壊し突破することしか考えていない。ジョーには暴力を疑う微塵の心の動きも見られない。段平と喧嘩し、太郎と喧嘩し、チンピラと喧嘩し、警察官とも喧嘩して、ついには鑑別所に送られることになる。ジョーには反省がないから、鑑別所から少年院、それも特等少年院へと送られることになる。
 ジョーのやっていることを見ると、本当に思慮の足りない、単純なバカ、不良少年のそれでしかない。殺人パンチで段平の野心を目覚めさせ、太郎をぶちのめしてちびっ子どもを自分の支配下に置くことは可能だが、鬼姫会のチンピラはもとより、国家の飼い犬を叩き潰すこともできない。つまりジョーの〈暴力〉などたかがしれている。が、『あしたのジョー』に熱狂した多くの読者はジョーの〈暴力〉を批判的にとらえることはなかった。この単純な直情径行型浮浪少年の凄まじい喧嘩っぷりに共鳴し陶酔した。注目すべきは、ジョーのこの単純さが暴力革命志向の若者たちの共感を呼び起こしたことである。喧嘩に勝てば事件はすべて解決すると思いこんでいるジョーの単純さ、その直情径行さと、暴力革命志向の若者のそれが見事に合致する。彼らに明確な将来のビジョンはない。現体制破壊の後にどのような未来社会を建設するのか、その具体的なビジョンを彼らは示すことができなかったし、あったとしてもジョーの〈ゆめの大計画書〉と五十歩百歩であったろう。当時の革命戦士のうち、おそらくドストエフスキーの作品を読んでいる者などいなかったであろう。
 ドストエフスキーは『地下生活者の手記』で「賢い人間は本気で何かになることはできない、ただ馬鹿が何かになるばかりだ(略)性格を有する人物、即ち、活動家は専ら浅薄な存在でなければならない」と書いている。ドストエフスキー反革命的書物と喧伝された『悪霊』中の一人物、「現存のものに代わるべき未来の社会組織の問題研究に精力を費やしてきた」シガリョフの口を通して「私の結論は、私がそもそもの出発点とした当初の理念とまっこうから矛盾するにいたったのです。無制限の自由から出発しながら、私の結論は無制限の専制主義に到達したのであります」(江川卓訳『悪霊』新潮文庫 下101p)と語らせている。シガリョフは無制限の自由と平等が実現された未来社会の究極の形態は一部の人間が大多数の人間を家畜化して支配する専制義体制にならざるを得ないと覚って革命運動から離脱した。

 描かれた限りでのジョーは、地下男に言わせれば馬鹿で浅薄な存在ということになろう。何でも暴力で片づけてしまえると思っているジョーはどう見ても賢い存在には見えない。
 ところで、『悪霊』の主要人物ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキー(秘密革命結社の首魁を装った二重スパイ)のモデルであったネチャーエフは革命家のカテキズム(教理問答)の第一条に「革命家は死を宣告された人間である。彼は、個人的関心、事情、感情、愛着物、財産、さらに名前すらももたない。彼のうちにあるすべては、ただ一つの関心、一つの思想、一つの情熱、つまり革命によってしめられている」(松田道雄編『ロシア革命史』1972年10月 平凡社 106-107p)と書いている。
 またルネ・カナックはネチャーエフの革命家のカテキズム第一条を「革命家とは社会の絆であれ、家族の絆であれ、友人の絆であれ、彼を結びつける絆の一切を自ら断ち切る人間のことである。どんな激しい感情が湧き起ろうと、それは革命というただひとつの目的に向けられる。彼はこのために、自己の利益、愛情、恋愛を犠牲にする」(佐々木孝次訳『ネチャーエフーーニヒリズムからテロリズムへ』1964年10月 現代思潮社 53p)と端的に紹介している。
 このネチャーエフの革命家のカテキズムにジョーの姿が重なって見えるのは、決して私だけではないだろう。ジョーはたった一人ふらっとドヤ街に現れた流浪者であり、社会、家族、友人の絆を断ち切る必要もないほどに、あらゆる絆から予め解放されていた。まさにジョーはネチャーエフの望んでいた〈革命家〉の鑑のような存在である。〈革命〉という言葉に抵抗を覚える者も、〈革命〉を〈完全燃焼〉に置き換えれば誰もが納得するであろう。まさにジョーは〈完全燃焼〉のために「自己の利益、愛情、恋愛を犠牲に」した青年であるのだから。

 「労働者たちは語っている。おれたち働く人民大衆は、黙々として働けるだけ働いてきた! おれたちは金持ちのために精いっぱい働いてきたが、自分自身はいつまでたっても貧乏暮らしだ! おれたちはもう、収奪されるのはいやだ! おれたちは団結したい。全労働者を一大労働者同盟〔労働者の党〕に統一させ、力を合わせてよりよい生活をかちとりたい。おれたちは、新しい、よりよい社会を築きたいんだ、と。/この新しい、よりよい社会には、金持も貧乏人もいてはならない。だれもが働かなければならない。一握りの金持ではなくて、働く者みんなが、共同労働の成果を受け取るようにしなければならない。機会の導入やその他の改良は、みんなの労働を楽にするためのものでなくてはならない。それらは、何千万という人民大衆を犠牲にして、少数の人間を富ませるためのものであってはならないのだ。/この新しい、よりよい社会が、社会主義社会と呼ばれる。これに関する学説が、社会主義である。この、よりよい社会制度を目ざして闘う労働者の同盟が、社会民主主義者と呼ばれる。」(56p)
「政府は軍隊を繰り出し、労働者に向かって発砲することまでやっている。(略)しかし労働者たちは、こんなことではへこたれない。彼らは闘争をつづけている。/彼らは語っている。どんな迫害だって、監獄だって、流刑だって、懲役だって、死刑だって、おれたちをおどかすことはできない。おれたちのやっていることは正しいんだ。おれたちは、働く者みんなの自由としあわせのために闘っているんだ。おれたちは、何億という人民大衆を、暴力や圧迫や貧乏から解放するために闘っているんだ。」(57p)

 これらの言葉はレーニンの『貧農に訴えるーー社会民主主義者は何を志しているかを農民に説明する』( 世界の名著52 江口朴郎責任編集『レーニン』1966年5月 中央公論社)からの引用である。
 レーニンは『国家と革命』(前掲書『レーニン』)では「プロレタリア国家がブルジョア国家にとってかわること、つまりプロレタリアートの独裁の創出は(略)暴力革命によって初めて可能である。そしてエンゲルスが暴力革命にささげた讃辞は、マルクスの再三にわたる言明とも完全に一致しているのである」と書いている。
 ジョーの「ゆめの大計画書」にこういったレーニンの文章が添えられていても別におかしくはないだろう。ジョーはあらゆる手段を駆使して金を集め、「ゆめの大計画」を実現しようとしていたのだから。ちばてつやはドヤ街にちびっ子どもを集め、棒やシャベルや鍬を持たせている。見ようによっては権力に立ち向かう被抑圧民の反逆の姿にも見える。が、『あしたのジョー』を読んで、ちびっ子どもを権力に立ち向かう戦士のようにみた者はいない。少なくとも、意図的に革命を扇動するようなセリフもないし、思想もない。現にジョーの「ゆめの大計画」は話が展開するにつれすっかり忘れ去られてしまう。
 原作がほんの一部しか残っていないので、ちばてつや作画の『あしたのジョー』で判断するほかはないが、ジョーは喧嘩好きの野生児から、元ボクサーの丹下段平力石徹と出会うことで、一直線にプロのボクサーへと向かっていく。もし、ジョーの前に丹下段平ではなく、ネチャーエフが出現していれば、ジョーが正真正銘の革命家へと成長していく物語も十分に可能であったはずである。が、ジョーの前に革命家はもとより、文学者も思想家も芸術家も現れることはなかった。ジョーの〈単純〉〈直情径行〉を揶揄するドストエフスキーの地下男も、それを最大限に利用する革命家ネチャーエフも登場することはなかった。その結果、ジョーは「ゆめの大計画」を思想的に深めることもできず、それを実現するためにどのような闘いを進めていくべきかも考えることができなかった。ジョーの「ゆめの大計画」は『あしたのジョー』において永遠に停止したまま放り出されている。

 レーニンは書いている「人民の貧乏に終止符を打つただ一つの手段は、国家全体のいまの制度を根本的に変革して、社会主義制度をうち立てることだ。つまり、大地主からその所有地を、工場主からその工場を、銀行家からその貨幣資本を没収し、彼らの私有財産を廃止して、これを、国じゅうの働く人民全体の手に引き渡すことだ。」「わが国の農村では、貧乏は、都市におとらないどころか、おそらくもっとひどい。農村の貧乏がどんなにひどいものか、ここでは述べまい。農村に行ったことのある労働者ならだれだって、また、農民ならだれだって、農村の窮乏、飢え、寒さ、零落のことはみ、じゅうぶん知っている。けれども農民は、なぜ自分たちが貧乏し、飢え、零落してゆくのかを知らない。そして、どうしたらこの窮乏から抜けだせるかを知らない。これを知ろうとするなら、何よりもまず、都市と農村を問わず、あらゆる貧窮と貧乏がどうして起こっているかを理解しなければならない」(前掲書『貧農に訴える』)と。ちびっ子どもの前で「ゆめの大計画」を打ち明けたジョーにレーニン並の革命思想を賦与すれば、ドヤ街は革命運動の処点ともなったであろう。
 描かれた限りで見れば、ドヤ街を支配しているのは鬼姫会の連中であり、そこに流れ着いた労務者たちは彼らに対抗できる力は持っていない。日雇い仕事でわずかな金を得ても、それはたちまち酒代に消えていく。丹下段平がボクシング界を追われてドヤ街のアル中に落ちていたように、彼らには生きるよすがとなる明日がない。彼らの多くは安い宿泊所にさえ身を横たえることができず、路上に酔いつぶれる者も少なくなかった。段平も川の橋の下にボロ小屋を立てて住んでいた。どういうわけか、段平はこのボロ小屋の撤去も立ち退きも迫られていない。この橋の下の掘っ建て小屋はまるで合法であるかのように扱われている。
 ジョーも段平も警察官に対して露骨に反逆的な態度をとることはない。むしろ段平などは警官たちと親和的な関係を保っている。段平は現体制に対して不満を抱いていない。段平は自分が売血までして酒を飲んでいること、ドヤ街で醜態を晒している、その責任を社会のせいなどにしていない。段平はドヤ街の連中と団結して社会を変革しようなどという考えは微塵もない。段平はボクシング界での返り咲きを望んでいる。もちろん片目になってしまった段平に現役ボクサーは務まらない。段平は世界チャンピオンを狙える若者を必死の眼で探していた。段平は本物のボクサーの発見とその育成に賭けていた。そこへ突然現れたのが殺人パンチを持ったジョーである。段平はジョーと組んでボクシング界への復帰を実現しようとする。

 つまり、段平はボクシング界で成功することによってドヤ街からの脱出を願っている。ジョーも段平の野望に沿って練習に励み、結果としてドヤ街のヒーローになっていく。ヒーロー・ジョーの誕生によって、ドヤ街の人々に連帯意識も芽生える。が、その連帯感は革命家のそれとはまったく違う。段平、ジョー、ちびっ子どもはもとより、ドヤ街の住人たちや労務者の中にも、現体制の矛盾を告発したり、糾弾したりする者は一人もいない。『あしたのジョー』の舞台は紛れもなく東京三谷のドヤ街に設定されているが、作者は路上生活者の惨めな姿そのものにスポットライトを当て、そうすることでドヤ街が抱えている政治的、社会的な問題をあぶり出すことはしなかった。サチの父親は中風で寝ているとは知らされても、その生活の実態は何一つ具体的に描かれていない。
 先にも指摘したが、ちびっ子どもはこの漫画世界において成長を止められた存在である。しかも、彼らの年齢さえ不詳である。いったいサチは何歳として設定されているのか。サチと同じく大人の男用のゲタを履いてホルモン焼屋を仕切っている少女チエは小学五年生として設定されている。この長編漫画『じゃりン子チエ』において、チエもまた小学五年にとどまり続けている。チエは新学期を迎えても進級することがない。その理由を作者のはるき悦巳は「マンガだから」と説明している。ひとを喰ったような説明だが、それなりに説得力がある。童話においては犬、猫、貍、狐、虎などの動物、バラ、ひまわり、ひなげし、百合などの植物、その他太陽、月、星から道ばた転がる変哲もない石など、すべての存在物が人間と同じように考えたり言葉を発したりすることができる。なぜかと問われれば「そりゃ、童話ですから」と応えておけばいい。『じゃりン子チエ』は漫画であるから、主人公のチエが現実時間の制約から免れていても、小鉄やアントニオやジュニアと名付けられた猫たちが人間のように振る舞っていても〈漫画〉ということで許容されるのである。
 『あしたのジョー』がいくら〈純文学〉を主張しても、〈漫画〉の域を越えることはできないし、また越える必要もない。作品の中でちびっ子どもが成長しない子供として設定されていること自体が、この作品の非純文学性を露呈しているし、逆にそういった設定が許容されることで作品に大いなる幅を与えることにもなっている。

 

  私たちは、山谷労働者を呪縛する「差別」「搾取」の二重のクビキを、部落差別と連鎖して捉える。“人間外の人間”(非人)を、“社会外の社会”(部落)に隔離する、階級社会の身分差別は、戦後部落である山谷に、もっとも顕著に露出している。それは、一貫して、下層プロレタリアートにくわえられてきた侮蔑である。

  大正十三年(一九二四)、『特殊部落一千年史』を世に問うた、雑誌“前衛”の編集員高橋貞樹は、「……無産の部落民を産業的に団結せしめ、戦闘的な労働組合の形態に結束させよ」と主張している。当時十九歳、そ論旨は客気にみちて、語気するどく人民の下層から触発し得る革命の可能性を弁証している。高橋は、“すべての虐げられた人民の階級闘争の共同の戦線”を、部落民の反逆のエネルギーを核として結集し、「米騒動」の群衆蜂起を再現して、一挙に国家権力を打倒する“窮民革命”を夢想した。「吾等はいま……、吾等が流血の闘争を以て自らの解放を叫ばざる限り、次のジェネレーションも、またその次のジェネレーションも永遠に鉄鎖より放たるる日のなきを想ふ。若しも吾等の闘争途上に於て暴力が行使されることがあるならば、それは正義と自由を守るための暴力、倫理の暴力である」(79p)

 深川区富川町の木賃宿に起居していた、テロリスト難波大助は、大杉栄の虐殺に憤激して、ただちに摂政の狙撃を計画した。ーー予審陳述、「私ドモ共産主義者ハ、銃剣ニ対シテモナオ思想デ闘ウホドノ、オ目出タイ信条ヲ有スルモノデハアリマセンーー、大震災以後、一部権力者中反動諸団体ノ者ドモガ社会主義者、労働者、鮮人労働者、支那人労働者ノ多数ヲ惨忍野蛮ナル方法ニヨツテ虐殺セシコトハ、私タチ主義者ノ憤激憎悪、措カザルトコロデアリマス……、故ニ私ハ反動団体ノコノ上ノ暴虐ナル行動ニ対シ、私タチノ向ウトコロヲ示ス手段トシテ、彼ラノ絶対神聖ト看做シ、尊信措クアタワザル皇族ニ対シテ、“テロリズム”ヲ遂行スルモノデアリマス」(90p)

  部落民、凶作農民、朝鮮人、沖仲士、土方人足、坑夫、工場労働者、失業者、さらには売春婦、浮浪者、犯罪者に至るまで、都市と農村にみちあふれる下層窮民の人間回復ーー自立への熾烈な欲求を、反乱に組織することだけが、天皇制支配の下における“革命”を唯一可能とする道でなくてはならなかった。これをルンペン・プロレタリアートと切り捨てる倨号那傲な錯誤を、今日も日本の“前衛”は継承している。(103p)

 いま、私たちは“解放”の旗標を、真正なプロレタリアートの街=山谷に高く掲げる。私たちの革命は、ようやくはじまったばかりである。だが、山谷の労働者はかならず人間解放の巨大な反乱を、「差別」と「搾取」の地底から、生起するであろう。(106p)

 一九四六年冬ーー、私は、東京・上野駅の引揚者仮泊所(在外同盟救出学生セツルメント)で働いていた。そこの光景は、悲惨などという月並みな形容を通りこしていた。じめじめと湿った、底冷えのするコンクリートの床に、着のみ着のまま引揚げてきた人びとは死んだように横たわっていた。ところ構わず撒きちらすDDTの粉塵と、すえた体臭とが混合して、けものの檻のような異様な臭気が立ちこめていた。ソ連国境から引揚げてきた女性は、髪をザン切りにしていた。ソ連兵の暴行から身を守るためであった。粉だらけの坊主頭が、裸電球の陰惨な光の下で、赤児に乳をふくませている姿は、むざんで正視するすることができなかった。子供たちを駅の構内につれていって、裸にすると、アバラ骨がぎろぎろと隆起して、小さな体にシラミの喰った痕が無数の斑点をつくっていた。こすると、垢がよれて、足もとに積もるのだった。目の前で両親を殺されて、そのショックで痴呆のようになっている子供もいた。ある日、ソ連兵に輪姦され唖(失語症)になった少女が、たった一人で引揚げてきた。仮泊所の片隅に死んだ表情で、うずくまっているかの女を、私はもてあました。そばへ行くと、おびえて後ずさりして、壁にぴったりハリついてしまうのだった。少女は、手とり足とり、施設に収容されていった。そうした現実の修羅との触れあいから、私は“革命の思想”に傾斜していったのである。フランス大革命が、サン・タン・トワーヌの暴動からはじまったように、最暗黒の東京から、……ニコヨン、立ちん坊、浮浪者、売春婦までをふくめた“地の群れ”から、ダイレクトアクションで反乱を、革命をおこすことを、私はゆめみた。いちばん貧しいもの、虐げられたものこそが立ち上がらなくてはならない、立ち上がるはずだ、私はそう信じた。(124~125p)

  オリンピック工事にしても、霞ヶ関のビルディングにしても、地下鉄、高速道路、橋梁架設、ありとあらゆる都内の工事現場に山谷労働者がはたらいている。岡林信康という、山谷出身の歌手が「山谷ブルース」という唄をうたっているが、その文句の通り、ーーだけど俺たちいなくなりゃビルも道路もできゃしねえ、のである。が、それらの諸建造物は、完成したとたんに山谷労働者から遙かに遠いものになり、俺たちが近づくことを冷たく拒絶する。(142p)

 山谷こそ、真正なプロレタリアートの街であり、そこに生存する労働者は、まったく市民的日常性を奪われているがゆえに、「秩序か混乱か!」という擬制の恫喝からまったく無縁であるがゆえに、もっとも果敢な反乱の尖兵たり得るのだ。(148p)

 日本資本主義の根本的な矛盾としての地下足袋ゲットーである山谷は、資本主義そのものを廃絶しない限り、みずからを廃絶することはできない。したがって……、山谷は革命をめざす。必然的に、革命を志向しなくてはならないのだ。プロレタリアート革命なくして、山谷の解放ーー自立はあり得ないという認識を持つとき、結論は明瞭である。山谷解放闘争は、目下の混迷した左翼戦線の突破口、橋頭堡となり、全般的プロレタリアート階級闘争有機的に連けいし得るものとして展開されねばならぬ。(151~152p)

  山谷全体が土建港湾資本の「タコ部屋」なのである。立ちん坊たちを無保障、無権利状態におくことで、高度成長経済下の建設業界は肥えふとっていく。私たちが調査したところでは、山谷の労働者たちは、霞ヶ関の三十六階ビルをはじめ、東京都内のビル建築現場、高速道路、京葉工業地帯埋立て、団地造成、夢の島の塵芥処理、ベトナムへの爆薬輸送の荷役にいたるまで、京浜、京葉のあらゆる作業場、港湾で労働している。とりわけ、一九六四年オリンピックの際、山谷はブームをむかえたけ。こんにち、私たちが見る競技場、体育館、武道館等々は、立ちん坊の文字通り下積みの労苦でつくられたものなのである。これは、あまり知られていない事実だが、日雇人夫ヨセバ(労働市場)は、山谷ばかりではなく、錦糸町高田馬場等に点在する。立ちん坊の労働力をぬきにして、都市の建設はあり得ない。それほど重要な役割りを果たしているにもかかわらず、労働者たちは法律の保護の外におかれ、不当に差別され収奪されている。(170p)

  山谷労働者は暴動を“お祭り”と呼び、あるいは「ヤマのストライキ」と称する。私たちは、山谷の夏の暴動が、ドヤ制度の抑圧を根底としながら、状況としては解放感にもとづいて生起されることに、とりわけ注目しなくてはならない。つまり暴動は、山谷労働者が人間回復の行動に立ち上がるに充分なエネルギーをたくわえた時点において、一挙に爆発するのである。裏がえしていうなら、山谷労働者は「暴動をおこしている情態」こそ、もっとも人間として正常なのであり、「抑圧に耐えている日常」のほうが異常なのである。(190p)

  六八年七月から現時点に至る、山谷闘争を概括していえば、転変につぐ転変の一年間であった。若い活動家の足は、また地についたばかりである。山谷二万の労働者は、全体としてこれを見れば、暴力のエネルギーを秘めながら、明確な反体制・反権力の志向に結集してはいない。山谷には、“左翼”の仮面をかぶった反革命が跳リョウし、右翼暴力団、公安も牙をといで、解放闘争を圧殺しようとしている。労働者を縛る「差別」「搾取」の二重の鉄鎖は、永遠にとけないように見えるほどである。だが、私タチは山谷の労働者が一つの意志に団結して、怒濤のような革命の進撃をおこす日を確信し、その日にむかって走らねばならない。この暗黒の街に、解放の太陽が輝きわたり、湿ったドヤのベッドをさわやかな自由の風が乾き上らせる、その日まで、私たちは闘いをやめないだろう。(227p)

  山谷労働者を日々に収奪し、非人間的な生活に囲いこみ、暴利をむさぼるドヤ主は、人間の正当な怒りによって報復され、一切の所有を剥奪されるであろう。労働者の要求をうけ入れぬ場合には、労働者は山谷を焼き、全都を焼いて、下層プロレタリアの生き地獄を、資本主義社会の虚栄の市を、灰燼とするだろう。そのとき、山谷労働者は決して素手では闘わず、武装して立ち上がるだろう。マイトで、手鉤で、スコップで、ぶくぶくと肥えふとった資本家どもを吹きとばし、その腐ったハラワタをひきずり出し、墓穴に放りこむであろう。(227~228p)

  むろん、山谷労働者の真の解放は、プロレタリア日本革命、世界革命の達成によって、はじめておとずれる。だが当面、この無階級共同社会にむかう、革命的過渡期において、私たちは山谷全地域の占拠、コミューン化を目ざして闘うであろう。その過程に奮迅し、その過程に斃れることがあっても、私たちは悔いるものではない。(228p)

  おそらく、今後、多勢の若者たちが、人間として、革命家としての自己を貫徹するべく山谷に来住するであろう。かれらは、労働に従事しつつ、活動し、“部隊”を級数的に拡大して、最強の反乱軍をつくるであろう。山谷労働者が革命地平に登場するとき、釜ケ崎もむろん起つであろう。一点の炎が燎原を焼くように、全国労働者スラムに暴動は飛火し、至るところにゲリラ戦の火ブタは切られるであろう。山谷は、それらの反乱と呼応して、ルンペン・プロレタリア、「非行」の汚名を着せられて、階級底部に沈澱する無告の人民大衆、青少年の蜂起を誘発し、野火のごとく革命の炎を拡げ、その紅蓮の裡に国家権力を死滅させるであろう。
  ……そしてまた、山谷は、全世界の被圧迫人民、被差別人民と連帯する。とりわけて、アメリカの黒人大衆と固く連帯する。“第三世界”の夜明けは、旧世界の破滅によって、もたらされねばならぬ。日本の革命はアジア革命を約束しなくてはならず、三大陸人民を団結して、アメリカ・ヨーロッパ文明の呪縛から全世界を解放する“世界革命”にむかわねばならぬ。山谷はーー、しんに革命を志す労働者、青年、学生に呼びかける。
   叛逆せよ! 蜂起せよ!
   人間を回復せよ!
   都市反乱の原点、山谷は諸君を待つ。
   労働によって、自己を変革せよ!
   革命の脈打つ心臓である山谷に、結集せよ!(351~352p)

 

 ここに引用したのは竹中労『山谷ーー都市反乱の原点』(一九六九年九月 全国自治研修協会)に拠る。
 『あしたのジョー』が赤軍派の田宮高麿が愛読した漫画であったということは、この漫画が“革命”的要素を多分に含んでいたことの一つの証ともなっている。『あしたのジョー』が連載された時期の日本は、まさに熱い政治的季節であった。そしてこの漫画の舞台は山谷であり、竹中労の『山谷』は漫画では直接的には描かれなかった“革命”的暴動の実態とその思想を明確に打ち出している。
 ちばてつやは東京の片隅に打ち捨てられたように佇むドヤ街と様々なゴミが流れ着いたどぶ川の光景を重ねている。行き場所を失ってどぶ川にその無惨な姿をさらしているゴミは、まさに山谷のドヤ街に流れ着いた無産者、日雇い労務者たちの醜悪な姿をシンボリックに描き出している。竹中労の『山谷』には「山谷労働者は、人生の落伍者であり、ルンペン・プロレタリアートであり、塵芥のように社会の吹き溜りに掃きよせられた生活無能力者の群である」という言葉も見られる。まさに、この言葉が当時の山谷ドヤ街に生きる人々に対する一般的な見方であった。彼らの暴動が竹中の言うような革命思想、革命エネルギーに基づいた計画的闘争と見る者はほとんどいなかった。ましてや、山谷暴動を世界革命に結びつける者もほとんどいなかった。革命運動が渦を巻いて何らかの社会的影響を与えていた『あしたのジョー』連載時からほぼ半世紀が過ぎ去った。竹中が夢想した“革命”は徹底的に壊滅したかのように見える。今日の山谷に往時の活気はなく、革命的気運は微塵もない。山谷の宿泊所は生活保護受給者と外国人旅行者によってその大半が占められるようになった。
 先に指摘したように、ドヤ街に流れ着いたジョーの前に、拳キチの丹下段平ではなく、ネチャーエフやレーニンが現れれば、否、十九世紀のロシアの革命家を出すまでもなく、世界革命を夢想する竹中労が現れれば、ジョーは正真正銘の闘う革命家に成長したかも知れない。ジョーのような直情径行の喧嘩っ早い若者に革命思想が付与されれば、まさに山谷ドヤ街は革命暴動の処点足り得たかもしれない。少なくとも、現『あしたのジョー』よりははるかに幅と深さを持った漫画作品となったであろう。
 『あしたのジョー』では、山谷に巣くう日雇い労務者の実態にスポットライトが当てられることはない。彼らの大半は闇の中に佇んだままであり、読者の目に触れるのは何人かの路上生活者にとどまる。彼らの誰一人としてやくざや警察に反逆の牙を剥く者はない。暴力はジョーと丹下段平、ジョーと太郎、チンピラと丹下段平、ジョーとチンピラの間で生起するだけで、そこに“革命”に繋がる要素は欠落している。ドヤ街で元気があるのはちびっ子どもだけである。が、このちびっ子どもは〈成長しない子供〉という枠内に閉じこめられている。彼らは漫画という虚構内虚構であり、虚構内の現実を現実として生きていくことができない。彼らは団結し、武器を持って闘うことのできる存在であるが、彼らの闘う相手はジョーでしかなかった。彼らはジョーに立ち向かった時と同じエネルギーを持って鬼姫会のチンピラたちに闘いを挑むことはなかった。太郎がジョーに屈服した後には、ジョーの子分に収まって、ジョーの〈悪〉に加担するが、そのしみったれた反社会的行為は“革命”に結びつくような行為とは言えない。ジョーの前に「ゆめの大計画」に執拗にこだわり、鋭い質問を浴びせるような、明晰な頭脳を持った〈ちびっ子〉が現れてこなければ、ジョーが内在させていた革命家の可能性は忘却の彼方へと押しやられてしまうのである。
 『あしたのジョー』において垂直的な掘り下げは無意識のうちにタブーとなっている。太郎に許されたジョーに対する質問は一回限りで、さらなる質問は用意されていない。ジョーの「ゆめの大計画」は竹中労の革命闘争を必要とするのかしないのか。そういった物騒な質問は発することすら許されていない。ジョーの「ゆめの大計画」はちびっ子どもに付与された性格と同様に成長し発展することを禁じられているのである。

 ジョーはちびっ子どもの〈親分〉格として振る舞うが、ドヤ街の民衆と団結して資本主義体制を覆すという革命運動のリーダーとして演説し行動することはない。ジョーはドヤ街に宿泊、ないしは路上生活に甘んじているルンペン・プロレタリアートをまとめ上げ、彼らと共に国家権力に立ち向かおうなどという思想もなければ情熱もない。描かれた限りでのジョーは、やさぐれた流浪者であり、喧嘩っ早い直情径行型の若者でしかない。逮捕されたジョーを救うべくちびっ子どもが警察署に押し掛けたり、ジョーが多数の警察官を殴り倒して脱走するなどという出来事は、現実ではまず起こらない〈漫画〉ならでは出来事である。『あしたのジョー』は〈純文学〉と見なすには、あまりにも荒唐無稽な漫画的設定が多すぎる。
 ちびっ子どもが年齢不詳で、読者は描かれた姿格好で推測するしかないが、太郎は中学生、ほかの子供たちはどう見ても小学生ぐらいにしか見えない。ジョーとの関係において最も重要な人物であるサチもまたその年齢が不明確である。じゃりン子チエと同じに見れば小学五年生で十歳か十一歳となるが、六歳か七歳にも見える。作画者ちばてつやは彼らの学校生活についていっさい触れていない。読者は彼らが学校に通っているのか否かさえ分からない。ちびっ子どもは不登校なのか、学校で差別されているのか、描かれた限りでは何一つ分からない。

 『あしたのジョー』はドヤ街の人々の非差別問題を抉る社会漫画でもないし、ましてや革命漫画でもない。武器(スコップ、棍棒、鍬など)を持ったちびっ子どもがジョーに立ち向かうことはあっても、国家権力側の警察に襲撃をかけることはない。あってもジョー救出のための投石ぐらいにとどまっている。
 『あしたのジョー』が革命思想を持った若者に支持されたのはいったいどういう理由によってなのか。この問題に関しては何度でも検証する必要を感じる。田宮高麿をはじめとして、当時の革命家はジョーの孤高な闘う姿に共鳴したのであろうか。両親に幼くして捨てられ孤児として成長したその生い立ち、流浪の身をドヤ街に寄せて、段平と共にボクシング世界チャンピオンを目指して必死に努力するその姿に我が身を重ねていたのだろうか。あらゆる絆を断ち切って革命運動に没頭しなければならない革命家にとって、〈孤児〉であることは必須条件である。ジョーは幼くして革命家の資格を得たエリートとさえ見なされよう。革命を実現するために日々闘争に明け暮れていた当時の若い革命家にとって、虚構世界に生きるジョーこそが最大のヒーローであり憧憬の的であったのかもしれない。
 それにしても、あまりにも単純過ぎはしないか。描かれた世界で見れば、ジョーは不可避的に山谷ドヤ街を生み出す資本主義体制をまったく批判していないし、むしろその世界で成功することを夢見ている若者である。ジョーが丹下段平と組んだその時から、彼は革命家が否定する資本主義の舞台に積極的に乗ったと言える。ジョーの暴力は子供っぽい次元を一歩も越え出ていない。ジョーの過激な暴力はボクシングに繋がることはあっても、過激な社会改革運動には繋がっていかない。ドヤ街に颯爽と現れたジョーの前に元ボクサーの丹下段平の他に、ネチャーエフやレーニン並の革命家、それにイエス並の救世主が登場すれば、『あしたのジョー』はまさにドストエフスキー並の〈純文学およびエンターテインメント〉作品になったであろう。
 〈イエス並の救世主〉はひとまず措くとしても、〈ネチャーエフやレーニン並の革命家〉は是非とも登場して欲しかった。その時はじめてジョーは〈革命〉か〈金〉の二者択一の前に深く佇むことになったであろう。単なる暴れん坊のジョーではなく、思索し苦悩するジョーの誕生である。そこまできてようやくジョーは『罪と罰』のロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフの姿を獲得することになる。ドストエフスキーの『悪霊』さえ読まなかった日本の革命家の〈革命〉など、微塵の説得力も持たないのである。もちろん彼らはそのことに関してはまったくの無知であり、暴れん坊のジョーの域を一歩も脱していない。
 ジョーの〈喧嘩=暴力〉は〈革命〉と結びつくどころか、それとはまったく逆の反革命的な〈ボクシング〉へと突き進んでいった。ジョーとボクシングの結びつきは、まず丹下段平との出会いに始まるが、決定的だったのは力石徹との出会いである。特等少年院での力石徹との出会いがなければ、ジョーが本気でプロボクサーを目指す気にはならなかったであろう。その意味でもジョーと力石徹の出会いは宿命的であったが、この出会いは別の意味でも決定的であった。


あしたのジョー』の読者なら誰でも知っていることだが、力石徹白木葉子の子飼いのボクサーである。そして白木葉子は政財界の大物白木幹之介の孫娘である。つまり、革命家が打倒しなければならない資本主義のシンボル的存在が白木家であり、その子飼いとなっているボクサーが力石徹である。ジョーはルンペン・プロレタリアートが集まるドヤ街のヒーローとして、力石徹は資本家の代表として闘っている。が、力石徹が政財界の大物・白木幹之介の子飼いのボクサーであることに注意を向けた読者がはたして何人いたのだろうか。力石徹バンタム級のジョーと闘うためにボクシングの常識を越えた凄まじい減量を自らに課した、その凄絶でストイックな姿に魂を直撃されない者はいないだろう。まさにこの無理な減量がたたって力石徹はジョーとの試合後に命を失うことになった。もし力石徹がプロボクサーとしての名声や金が欲しかっただけなら、ジョーとの試合に臨むことはなかったであろう。

 ジョーの〈完全燃焼〉を理解する為には、力石徹との出会いと死闘を検証する必要がある。注目すべきは高等少年院での最初のグローブをつけた試合である。そもそもこの試合の切っ掛けとなったのは、ジョーが旅芸人の娘エメラルダを熱演する白木葉子を〈茶番劇〉と揶揄したことにある。怒り心頭に発した力石徹はジョーを追い、決闘を仕掛ける。が、そこへ葉子が現れ大声でストップをかける。瞬間、葉子の方へ振り向いた力石徹の顎をジョーの左ジャブが連続でヒット、続いて強烈な右ストレート、左ボディ、左ジャブ三連発、右フック、ストレート、ジャブ、ジャブ、右ストレート‥‥。葉子、必死の形相で「おやめなさいといってるのにきこえないのっ」とジョーに向かって左拳を振りかぶる。瞬間、葉子の背後で力石徹が力尽きて崩れ落ちる。予期せぬ事態に動揺した葉子は「力石くん‥‥しっかりして、力石くん!」と力石に寄りすがって叫ぶ。ジョーは闘いのポーズをくずさず「へへ‥‥ど、どうしたい力石‥‥もう、まいっちまったのかよ」と侮蔑的な言葉を発する。
 瞬間、切れた葉子は「ひきょう者!」と叫ぶと同時にジョーの右頬に思い切り平手打ちをくらわす。白木家の令嬢の思い切った激しい行為に、周りを囲んでいた高等少年院の猛者たちも驚きの表情を隠せず、みんなうめき声のような溜め息を発し、大口を開けたまま呆然と立ち尽くしてしまう。ジョーもまた一瞬、呆然として殴られた頬に両手をあて、殴った葉子を大きな眼を見開いて凝視する。怒りの収まらない葉子は、両手を固く握りしめて「ひ‥‥ひきょう者!」とジョーを罵る。
 ジョーは思いもよらぬ言葉を投げつけられて、一瞬とまどいの表情を浮かべ「ひきょう者‥‥だと?」と確認するように小さく呟く。葉子は激しい感情に駆られたまま「そうじゃないの! ふりむいたすきにおそいかかるなんて、ひきょう者よ、あなたは!」と大声で叫ぶ。この葉子の感情の爆発にジョーの感情が呼応して爆発する。ジョーは「ふ‥‥ふざけんなっ。たがいに男どうしが挑戦したあと、ちょっと声をかけられたくらいで、気をゆるめるなんざ、ぶったるんでる証拠なんだ! ぶったるんでるやつをなぐってなにがひきょう者だ!」と叫びながら、葉子の首を両手で強くしめる。
 高等少年院の教官が三人がかりで引き離すが、ジョーは激しく抵抗し、両手両足を激しくばたつかせながら「は‥‥はなせっ。あんちくしょう! あの冷血女をしめ殺してやるっ」と怒鳴りまくっている。

 

 さて、ここで少しばかり立ち止まることにしよう。この場面だけに限っても、ジョーと力石徹の闘いには白木葉子がかなり深く介在していることが分かる。白木葉子力石徹がどこでどのように出会い、どのような会話を交わし、お互いにどのような思いを抱いていたのか。その詳細は描かれていないので読者が推測するしかない。学生劇団を主催している白木葉子の正確な年齢さえ詳らかではないが、仮に高校生だとすればこの時、十六、七歳ぐらいであったのだろうか。
 いずれにしても白木葉子は、暴力沙汰で高等少年院に入っていた元プロボクサー力石徹の有力なスポンサーであり保護者である。退院後、力石徹は白木ボクシング事務に所属してプロボクシングに復帰することになっているのだから、彼は白木葉子には頭があがらない。それに、力石徹白木葉子に恋心を抱いているのは明白である。
 ジョーはそんな白木葉子の舞台公演にいちゃもんをつけ、侮辱的な言葉を面と向かって投げつけた。力石徹が黙って見逃すはずはない。それで力石徹は会場を出て行ったジョーを追いかけ、決闘を申し込むに至ったということである。余りにも分かりやすい原因と結果である。
 ジョーも力石徹も絵に描いたような単純で直情径行型の若者で、なんでも喧嘩で解決できると思っている。この単純で激しい喧嘩っぱやい若者に白木葉子はどういうわけか魅力を感じている。こういった若者を好きになる女はべつに白木葉子に限ったわけではないが、彼女の場合はその感情に、大げさな言葉を使えば統治の感情が蠢いている。同世代のジョーと、おそらく年上である力石徹を君づけで呼ぶ、この高飛車な令嬢の支配欲は半端ではない。なによりも自由を求め、いかなる束縛にも激しく抵抗するジョーが、白木葉子のやることに反発するのは当然である。むしろ力石徹白木葉子に対する従順さが異様に見える。
 力石徹はジョーに言う「おめえはいま‥‥やっちゃならねえことをやったな。ぶじょくしちゃならねえ人をぶじょくしたな。いつぞやはほんのなでるだけですませてやったが‥‥こんどはそうもいかん」と。この言葉の中に力石徹白木葉子に対する立場が明確に表れている。力石徹にとって白木葉子は絶対に侮辱してはならない人、つまり女神のような存在だった。格闘寸前、突然発せられた「おまちなさいっ、力石くん!」の言葉(命令)に力石徹パブロフの犬のように反応してしまう。結果、ジョーに徹底的に打ちのめされてしまうことになる。白木葉子力石徹の関係は、主人と飼い犬のそれであり、力石徹はどんな場合でも白木葉子の命令に従う忠犬ということになる。白木葉子はジョーを〈ひきょう者〉と罵るが、男同士の闘いに口を挟む自分のおせっかいを反省する視点は見事に欠落している。
 ジョーはエスメラルダを演ずる白木葉子の欺瞞を直観的に看破し、それを公衆の面前で大声で告発する天性的な純粋無垢を持っている。ジョーのスキャンダラスな言葉は、まさに彼の殺人パンチと同様、相手の欺瞞の核心部を直撃し大打撃を与える。「エスメラルダは愛にみちたやさしい娘‥‥か。へっ、エスメラルダそのものは愛にみちているかもしれないが、役者がいけないね、そのなんとか葉子って女がよ。とんだミス・キャストだ!」このジョーの言葉に葉子は呆然と立ち尽くす。が、この時点では未だ葉子はジョーの言葉を真に理解していない。葉子は〈慈善の愛〉の偽善を明晰に認識する段階には至っていない。
 注意すべきは、ジョーは白木葉子の〈幻想〉に惑わされていないことだろう。力石徹は完全に葉子の飼い犬に甘んじて、彼女の企てる路線に忠実に従っている。葉子の命令にどこまでも忠実であろうとするのが力石徹で、いつも反逆的な態度を崩さないのがジョーである。つまりジョーと力石徹は葉子に対して全く逆の接し方をしている。葉子は力石徹に対してはいつも主導権を握って高飛車に振る舞っているが、ジョーからは遠慮会釈のないストレートな常軌を逸した乱暴な言葉を浴びせられている。
 祖父の白木幹之介に可愛がられ、自由奔放に生きてきた葉子にとって、ジョーという男は単に物珍しい無礼な存在の枠を越えて魅力的な、のっぴきならない存在へと変容していく。未だはっきりとは認識できていないが、やがてジョーに対する思いは募っていくばかりとなる。
 白木葉子はまだ若いがボクシングのプロモーターとして確実に実力を増していく。政財界の大物・白木幹之介の力が背後にあったことはまちがいないが、幹之介の血を引いた葉子の天性的な力が大きく働いていたことは確かである。葉子は男同士の関係に分け入り、そこに隠然たる影響を与えたいと思っている野心家である。

 プライドの高い美貌の持ち主で権力欲の強い女の前にひれ伏す男がおり、反逆する男がいる。前者が力石徹で後者がジョーである。力石徹にとって白木葉子は絶対的な存在で、反逆の牙を剥くことなど考えられない。力石徹は女神葉子を崇め奉る存在で、彼女に対して自立した存在とは言えない。力石徹の自由は白木家の子飼いの犬としての自由であって、独立した人間の自由とは言えない。ジョーは自由を奪われることを最も嫌う。孤児院を何度も脱走したこと、高等少年院に入ってもまず考えるのは脱走である。
 力石徹はジョーの脱走を拒む存在で、退院後は白木家の世話になることを喜んで承諾している若者である。こういった力石徹に共感を覚えて「我々は明日のジョーである」などという声明文を書き残す赤軍派の革命思想とはいったいなんなのだろうか。打倒すべき資本家の飼い犬力石徹に憎悪を感じるのならまだしも、どうやら彼らは心の底から力石徹に感動していたらしい。
 描かれた限りで見れば、ジョーも力石徹も自分の腕力(パンチ力)にしか頼めない直情径行型の若者で、彼らの精神性に惹かれる要素はほとんどない。ジョーは葉子に侮辱的な言葉を発する程度において、相手の心理心情の無意識の領域へ届く矢を吹き放つ若者で、まさに矢吹という名前に相応しい皮肉屋ではある。が、力石徹もジョーも、結局はプロボクサーとして資本家の興行に加担しているのだから同じ穴の狢であることに違いはない。