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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載10)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ロジオンは屋根裏部屋の空想家、思弁家である。ペテルブルク大学法学部に通っていたエリートである。謂わばロジオンは知性的な青年で、自分自身の内部世界はもとより、世界の事象に関しても知性や理性に基づく眼差しを注いでいた。が、いつの頃からかロジオンは〈神か革命か〉というテーマを抱き、深く思い惑うことになる。

 『罪と罰』は表面上、主人公ロジオンから〈革命思想〉を慎重に排除している。従って多くの読者は、出だしの場面におけるロジオンの〈思い惑い〉を〈アレ〉ができるかどうか、すなわちアリョーナ殺しができるかどうかに限定してしまうことになる。十九世紀中葉を生きる大学生が革命思想に無関心であったはずはない。〈アレ〉は〈アリョーナ殺し〉にとどまるのではなく、〈皇帝殺し〉そして最終的には〈復活〉を意味している。ロジオンは大半の読者が考えているよりはるかに深く〈革命〉と〈神〉について考えている青年である。作者はそういった青年に敢えて殺人を起こさせ、改めて革命と神を問うているのである。

 ロジオンのネヴァ河幻想において特に注意しなければならないのは「彼にとっては、この花やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気にみちているのであった」(125)である。江川卓訳では「このはなやかな一幅の絵画が、唖、聾の鬼気にみたされているように彼には感じられるのだ」(上・231)、原典は「духом немым и глухим полна была для него эта пышная картина」(ア・90)である。この〈唖、聾の鬼気〉(духом немым и глухим)に関して江川卓はマルコ福音書九章に出てくる癲癇症状に襲われる少年をイエスが癒す箇所に注意を促している。

 

 〈おしの霊〉に憑かれた息子を連れてきた父親はイエスに向かって言葉を発する。その場面をマルコ福音書から引用する。

 

 「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。/その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」

  イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

  そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。

  イエスはその父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。/この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

  するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

  イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」

  するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。

  しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。

  イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」

  すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(9章17~29節)

 

 ドストエフスキーは初期作品から狂気に陥る人物を描いている。最も有名なのは『分身』のゴリャートキンだが、『プロハルチン氏』のプロハルチン、『おかみさん』のオルドィノフなどもドストエフスキーの癲癇病理を色濃く反映している。この点に関してはドストエフスキー自身が、自分の病理を積極的に作品に利用したと述べている。わたしはドストエフスキーの癲癇は側頭葉癲癇(複雑性精神運動発作)と推測して、癲癇病理学の側面からも『分身』を考察したが、ここでは繰り返さない。一つ確かに言えることは、ドストエフスキーの人物たちの狂気が癲癇病理と密接に繋がっていること、つまり『弱い心』のアルカージイや『罪と罰』のロジオンもまた、作者の病理体験が色濃く投影されているということである。

 マルコ福音書を現代の癲癇病理学者が読んだらいったいどんな反応を示すのだろうか。前世紀から今世紀に至るまで精神病理学者は癲癇を科学的な実験を繰り返しながら、その原因の解明と治療方法を模索してきた。癲癇病理の複雑なメカニズムを解明するためにどれほど多くの脳科学者が実験を積み重ねてきただろうか。しかしマルコ福音書によればことは実に簡明である。イエスによれば、信仰さえあれば〈唖、聾の鬼気〉(癲癇の汚れた霊)を追い出すことができる。癲癇は自然科学的な治療法などによらなくても、確固たる信仰さえ持てばたちまち回復するということになる。世界中の精神医学者に、わたしはこのマルコ福音書のイエスの言葉と行為(奇跡)をどう思うか聞いてみたいと思うほどである。

 いずれにせよ、マルコ福音書のイエスは父親に連れてこられた〈おしとつんぼの霊に憑かれた息子〉を「この子から出て行きなさい」の一言で救い出してしまう。同時にイエスは「二度と、はいってはいけない」とも命じているので、この息子は二度と癲癇発作に襲われることはなかったことになる。イエスは〈汚れた霊〉に対する圧倒的な力を持っており、〈汚れた霊〉はイエスの命令に従うほかはなかった。このイエスの力は、弟子たちにはなく、弟子はイエス一行を取り囲んでいた群衆と同じく、イエスからみれば依然として真の信仰に至りついていない。イエスの言葉を文字通り受け止めれば、イエスと同じ信仰を持っていれば、イエスと同様に〈汚れた霊〉を息子から追放できたことになる。

 わたしは若い頃、福音書岩波文庫で読んで、イエスの弟子たちに対する苛立ちをしばしば感じた。わたしはイエスと弟子たちのあいだに横たわるどうしようもない深淵、せばまることのない距離を強く感じ、そういったイエスと弟子たちの関係を〈実存の異時性〉と名付けた。物理的には同じ空間と時間を共にしていながら、イエスと弟子たちは〈実存の同時性〉を獲得することができないのである。イエスの選んだ十二人の男弟子たちはただ一人の例外もなく、生前(十字架上で息を引き取るまで)のイエスの言葉を信じた者はなく、みな例外なく裏切る者でしかなかった。

 ここに出てくるイエスは果てしない同情憐憫の心は持っていても、病人を救済することのできない無力な存在ではない。イエスは癲癇発作に襲われる子供をその病から救い出すことのできる、すなわち〈奇跡〉を起こすことのできる大いなる神秘的な力を備えた聖者として登場している。わたしはキリスト者ではないから、福音書に記述された事柄に様々な疑問を持っている。荒野で石をパンに変えろという悪魔の誘惑を拒んだイエスが、どうしてここでは弟子や群衆の前で奇跡を起こすのか。ある時は奇跡を拒み、ある時は奇跡を起こす、イエスの言葉と行為に一貫性がない。このイエスの非一貫性をキリスト教を信じる者たちはどのように理解し、受け入れているのだろうか、ふしぎでたまらない。

 さて、この辺でロジオンのネヴァ河幻想に戻ろう。もし、ロジオンの掌に握りしめられていた〈二十コペイカ銀貨〉がまさしく〈キリスト〉としての力を発揮していたなら、ロジオンの眼前に現出した幻想的光景はたちまち消え失せたのであろうか。小説で描かれた現実においては、ロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉(キリスト)と共にありながら、〈唖、聾の鬼気〉(汚れた霊)に取り憑かれてしまったことになる。結果として、ロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉(キリスト)をネヴァ河に投げ捨ててしまう。

 今度はこちらが幻想を視ることにしよう。確かにロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉をネヴァ河に放り投げ、その瞬間、彼は自分が世界から、人間社会から切り離されたように感じる。もはやロジオンは自殺することもできなければ、再生することもできない、絶対孤立の境涯に置かれてしまう。が、この直後、ロジオンがネヴァ河に背を向けて歩き去っていく後ろ姿を、ネヴァ河の河底から上昇した〈二十コペイカ銀貨〉が、ネヴァ河の上空に〈キリスト〉として現出し、静かに慈愛溢れる眼差しで見送っている。これがわたしの視た幻想だ。が、これは幻想であるから、たちまち雲散霧消してしまうことになる。

 

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令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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