Ф.М.ドストエフスキー『罪と罰』におけるразум考察の重要性


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清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。



「日藝ライブラリー」三号所収の清水正「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」を読んだ感想


Ф.М.ドストエフスキー罪と罰』におけるразум考察の重要性
―『日藝ライブラリー』No.3所収、清水正「松原寛との運命的な邂逅」、「苦悶の哲人・松原寛」に寄せて

坂下 将人


1
松原寛は、宗教的な観点から哲学を問い、哲学的な観点から宗教を問う。哲学の成果と課題を前に、松原は宗教を立脚点とし、哲学者一人一人の論考を再検討・再確認しつつ、哲学と宗教の「融合」を志向し、また両者をいかに藝術的な観点から照射でき得るかを、己の著作を通じて幾度となく問い続ける。
清水正は、松原に対する実存的検証を通して、松原の藝術観、宗教観、世界観を見事に「再現」している。松原は、神学的思惟を哲学に与えることで、哲学に「亀裂」を入れ、藝術と宗教の入り込む素地を作り、藝術と宗教と哲学を「結合」させることで、革新的かつ学際的な学問領域を創成しようとしたことが窺える。
筆者は、松原に対する清水の実存的検証を読むことで、ドストエフスキーの文学作品を研究するにあたって「指針」と成り得る、重要な「気づき」を得ることができたため、以下2において『罪と罰』論を展開することにしたい。
きっかけは、前述したように、松原が宗教を立脚点とすることで、既存の西洋哲学に「亀裂」を入れ、宗教と哲学を「融合」させることで、「宗教哲学」を志向しようとした点にあった。宗教は「感性」であり、哲学は「理性」であるが故に、言うまでもなく、両者は「対立」する概念である。宗教は「信仰」であり、哲学は「知恵」、「知性」である。
しかし、『罪と罰』において「信仰」と「知恵」を「同義」とするドストエフスキーの解釈からも明らかなように、宗教と哲学は必ずしも「対立」する概念ではない。従って松原は、自身の一連の著作の中で、『罪と罰』執筆時におけるドストエフスキーと同じ立場をとり、宗教と哲学を「同義」として解釈することで、両者を「融合」させようと試みていることが窺える。
なお、後述するように、ドストエフスキーは『悪霊』において「信仰」と「知恵」を「対立」として解釈していると考えられるため、宗教と哲学の「融合」を目指す松原の言説は、あくまでも、『罪と罰』執筆時におけるドストエフスキーの見解と同じものである、という点に留意されたい。
清水は他に例を見ないほど、松原の一連の著作における主題を、釈義上の思索を綿密に繰り返すことで実存的に検証している。清水の検証によって、松原が哲学者の著作に対して言語的な観察に宗教的な認識を重ね合わせることで、哲学者の世界観、並びに哲学書の釈義的解明に到達しようとする試みを何度も確認することができる。従って、清水の実存的検証は、松原の抱く純粋な問題意識と苦悶を浮き彫りにすることに見事に成功しており、松原の一連の著作を理解する上で非常に重要な言説となる。

2
罪と罰』では文字通り、「知恵」を意味する「ソフィア」を名前に持つソフィア・マルメラードワがロジオン・ラスコーリニコフの「知恵」となることで、ラスコーリニコフを「復活」へと導き、「愛」によってラスコーリニコフを「復活」させるという役割を果たす。
罪と罰』では「知恵」と「信仰」は「同義」であり、作者によって「知恵」と「信仰」の共存が作品内において認められている。しかし『悪霊』では、「知恵」か「信仰」かの二者択一であり、『罪と罰』とは違って、「知恵」と「信仰」の共存は認められてはいない。「知恵」を持てば「信仰」は失われ、逆に「信仰」を持てば「知恵」は失われる。「知恵」と「信仰」を同時に持つ「ソフィア」のような存在は、『悪霊』の舞台に主要人物として登場することを許されていない。『罪と罰』において「知恵」と「信仰」は「同義」であるが、『悪霊』においては「知恵」と「信仰」は同義ではない。従って『悪霊』では、ごく一部の存在を除き、「信仰」と「知恵」を共存させ、内包する人物は登場しない。
確かに、アダムとイヴは「知恵の樹の実」を食べた結果、天国を追放される。また、荒野でイエスを誘惑する悪魔が「知恵ある悪魔」と呼ばれていることからも、「知恵」は紛れもなく「悪」として解釈されていることが理解できる。しかし、「知恵」は本来、キリスト教において「神を象ったもの」であるが故に、「知恵」と「信仰」は「同義」として解釈されるべき概念である。
東ローマ帝国第一の格式を誇る「教会」であり、キリスト教の大聖堂だった「ハギア・ソフィア大聖堂」には「ソフィア」という名前があてがわれている。また、東ローマ帝国領の各地には「ハギア・ソフィア」と名付けられた教会堂建築が数多く残されている。従って、キリスト教において「ソフィア」が「神の知恵」を意味し、「イエス・キリストを象ったもの」として理解されていることがわかる。「ハギア・ソフィア」はギリシャ語で「聖なる叡智」を意味する。よって、「ハギア・ソフィア大聖堂」は「(神の)聖なる叡智の大聖堂」であることが理解できる。「ソフィア」が「神」を象っているからこそ、また「教会」が「「神」の肉体」であり、「「神」が降臨する場所」であると考えられているからこそ、教会や大聖堂には「ソフィア」という語があてがわれているのである。
ローマ・カトリック教会を信奉する上智大学Sophia Universityとして表記される理由も、「ソフィア」が「イエス・キリスト」を象ったものであることがわかれば、納得できるものである。Sophiaが「イエス」を象り、「キリスト教」を表していることが理解できれば、上智大学キリスト教系列の学校であると瞬時に判断することができる。Sophiaが「イエス」を象り、「キリスト教」を表現しているからこそ、上智大学創立者は同大学がキリスト教系列の学校であることを明示するために、大学名にSophiaをあてがったのである。
キリスト教における「ソフィア」は「神の知恵」を表現している。これは、知恵が「キリスト教」と結びつかなければ、「神の知恵」とはならず、また「イエス・キリストを象ったもの」にはならないことを暗示している。
「知恵」に「両義性」が存在する理由は、キリスト教と結びついた「知恵」と結びついていない「知恵」の二つが存在するからであると考えられる。キリスト教と結びついた知恵は「神の知恵」、また「イエスを象ったもの」となり、キリスト教と結びつかない知恵は「信仰」を阻害するものとなるが故に「悪」として解釈されるのではないだろうか。いずれにしても、キリスト教において「知恵」は「イエス」を象り、「神の知恵」を意味するが故に、「知恵」と「信仰」は「同義」となる概念であることに留意されたい。
このように、「ソフィア」はキリスト教において「神の知恵」を意味し、また「イエス・キリストを象ったもの」として理解されている。従って、『罪と罰』においてソフィアが「キリスト」へと変容するのも故なきことではない。
ソフィアの父マルメラードフの名前「セミョーン」(Семён)は、古代ヘブライ語で「聴く」を意味するから、マルメラードフはソフィアによる「ラザロの復活」の朗読の場面に居合わせ、ソフィアが読み上げる「ラザロの復活」を「聴いていた」と考えることができる。従って、ソフィアによる「ラザロの復活」の朗読は、「マルメラードフ」に対してなされたものでもある。また、マルメラードフの名前「セミョーン」を父称に持つソフィアは、ラスコーリニコフの「告白」を「聴く」者でもある。
マルメラードフの父称「ザハール」(Захар)は、古代ヘブライ語で「神憶え給えり」を意味する。「神」に対する生前の祈りが通じた結果、「神」に「記憶」されたマルメラードフは、当然の帰結として、死して「キリスト」になったと考えられる。よって、ソフィアには朗読時、マルメラードフとイエス・キリストの二人の姿が同時に見えていた、またはキリストとなったマルメラードフの姿が見えていたと判断することができる。ソフィアにはマルメラードフとイエス・キリストの姿が重なって見えていた、あるいはソフィアは両者の姿を重ね合わせていたとも考えることができるだろう。
「ラザロの復活」は、イエス・キリストの復活を「予告」したものでもある。従って、ソフィアによる「ラザロの復活」の朗読は、「イエス・キリスト」と「マルメラードフ」、あるいは「キリスト」となったマルメラードフ(「イエス・キリスト」=「マルメラードフ」)に対してなされたものであるが故に、ソフィアの「信仰告白」ともなる。
なお、マルメラードフの名前「セミョーン」(Семён)は、「種子の」を意味するсем、同じく「種子、種子の」を意味するсеменоを暗示する。семяには「種、種子」の他に、「原因、もと、芽」、「精液、精子」(=сперма)、「一族、子孫、末裔」などの意味がある。семенникにも「実、果実」、「精巣、睾丸」、「春の聖ニコライ祭日(旧暦5月9日、新暦5月22日)」などの意味が存在し、семеннойで「種子の」、「精子の、精液の」を意味する。従って、マルメラードフの名前「セミョーン」は「種子」、「精子、精液」を暗示するが故に、「セミョーン」を父称に持つソフィアが「精液に塗れた存在」であり、「売春婦」である理由も納得することができる。マルメラードフの名前「セミョーン」は、ソフィアが「売春婦」であり、ソフィアが「売春婦」として本編に登場することを「予告」したものでもある。
また、семは「家族」を意味する「семействоの省略形」でもあるから、「家族の、家庭の、家庭のための」、「家庭的な、家族のためを思う」を意味するсемейственный、「家族関係、家庭的生活、家庭的雰囲気」、「家族への愛情」を意味するсемейственностьより、マルメラードフは「家族」を持たざるを得ない運命にあったことが、すなわち、カチェリーナと結婚せざるを得ない運命にあったことが窺える。無論、最終的にマルメラードフは「キリスト」となることで、全人類の「家族」となる運命にあった、とも言えるだろう。なお、「家族」はсемьяとも表現される。
「カチェリーナ」(Катерина)の名前は「Екатеринаの口語形」であり、ギリシャ語で「純潔の」を意味するが故に、カチェリーナとマルメラードフとの間に肉体関係はなく、カチェリーナは前夫との間でしか肉体関係を結ばなかった可能性が考えられる。あるいは肺病を患っているが故に、カチェリーナはマルメラードフと肉体関係を結なかった可能性も考えられる。従って、マルメラードフは、念願の貴族出身であるカチェリーナと再婚できたにもかかわらず、一度もカチェリーナと肉体関係をとり結ぶことができずにいた、と考えることができる。
カチェリーナと肉体関係を結べなかったマルメラードフの「無念」を感じ取ることができれば、我々読者はマルメラードフに「同情」を寄せることができる。また一方で、再婚したにもかかわらず、マルメラードフがカチェリーナと肉体関係を結ぶことができなかったのは、カチェリーナの肺病がマルメラードフと再婚した時、すでに「末期」にあったからであるとも考えられる。
カチェリーナは、マルメラードフに肉体を与えたくても与えられなかった。当然の帰結として、カチェリーナはソフィアの代わりに売春婦になることもできなかった。カチェリーナの肺病がマルメラードフと再婚した時、すでに「末期状態」にあり、ソフィアの代わりに売春婦になることができなかったことがわかれば、カチェリーナを、義娘であるソフィアを地獄に突き堕とした非情の女として解釈することはできなくなる。「純潔の」を意味する「カチェリーナ」の名前は、カチェリーナの「自尊心」を表すと同時に、またカチェリーナ自身の「性行為における不能」を暗示する。
前述したように、マルメラードフの名前「セミョーン」は「種子」、「精子、精液」だけでなく、「家族」をも暗示するから、ソフィアもまたマルメラードフと同様、「家族」を持たざるを得ない者であり、従ってソフィアはエピローグ後、ラスコーリニコフの「家族」になったと判断することができる。
ロシア語で数字の7はсемьである。従って、семя並びにсемьяより、本作品においてマルメラードフの名前「セミョーン」が“7”を暗示していることが窺える。本作品はエピローグを含めると、七部から構成されている。7が強調されている描写を二例挙げると、スヴィドリガイロフがペテルブルクへ来たのが「七年」ぶりであること(1)、またエピローグにおけるラスコーリニコフとソフィアに対する描写、「七年、七年! 幸福をえた最初のころ、ときとしてふたりは、この七年間を七日のように見ることもあった」(2)がある。
よって、本作品内において“7”を強調するドストエフスキーが、“7”に対して象徴的な意味を見出し、独自の意味を付与していることは疑いの余地がない。

3
修士論文で述べたように、ドストエフスキーは人間の「内面性」、すなわち、人間の「心」、「魂」、「霊性」、「精神」を重要視し、「天」、「天国」(небо)の所在を「人間の心の中」に求めていることが窺い知れた。ロシア語では「心」、「知性」、「理性」、「精神」を一語で表現する語としてразумが挙げられる。従って、ドストエフスキーの精神世界において、небоとразумは「同義」となる。
「信仰」は「心」から発出されるものである。従って、「信仰」と「心」は「同義」であるから、「心」と「知性」の両方の意味を内包するразумより、「知恵」(「知性」)と「信仰」は「同義」として解釈されていることが確認できる。
ドストエフスキーが『罪と罰』において、「知恵」と「信仰」を「同義」として解釈していたことは、本作品のヒロインであるソフィア・マルメラードワの名前「ソフィア」の他に、ラスコーリニコフの親友であるドミートリイ・ラズミーヒンの名字「ラズミーヒン」(Разумихин)からも明らかである。「ラズミーヒン」の名字は、まさにразумに由来する。разумは、ギリシャ語で「魂」、「知性」、「理性」、「精神」を意味する「ヌース」に相当する語であるが故に、「神を象っている」ことが理解できる。従って、разумに由来する「ラズミーヒン」は、「神を象った語」である。
イワーノヴナ姉妹を殺したロジオン・ラスコーリニコフは、ソフィアの力によって復活の曙光に輝く。前述したように、ヒロインであるソフィア・マルメラードワの名前「ソフィア」も「神を象っている」から、「ラズミーヒン」と同様、「ソフィア」もまた「ヌース」と「同義」となり、「ヌース」=「ラズミーヒン」=「ソフィア」という図式が導出できる。
ソフィアとラズミーヒンがそれぞれ「神」を象っており、両者が「同義」であることに着目できれば、ラスコーリニコフはソフィアだけでなく、ラズミーヒンの力によって復活の曙光に導かれていたことが判明する。
ラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせたのは、ソフィア一人の力だけではない。ラスコーリニコフはソフィア一人の力だけで復活の曙光に輝けたのではない。ラスコーリニコフは、ソフィアとラズミーヒンの力によって、復活の曙光に輝くことができた。従って、ラズミーヒンが作品世界に存在しなければ、ラスコーリニコフは復活の曙光に輝くことができなかった。
ラスコーリニコフはソフィアに対して自分が犯した罪を「告白」する。ラスコーリニコフの「告白」を「聴いた」ソフィアは、ラスコーリニコフに対して「まず、あなたが汚した大地に接吻なさい」(3)と述べる。ラスコーリニコフに対するソフィアの上記セリフより、ソフィアが「大地信仰」を抱いていることがわかる。ラズミーヒンの名前「ドミートリイ」(Дмитрий)もまた、大地に農耕の恵みと穀物の実りをもたらす豊穣神「デメテル」に由来するが故に、ソフィアとラズミーヒンは「同義」であると判断することができる。
農耕・大地の神である「デメテル」はギリシャ神話の女神であり、オリンポス十二神の一人に数えられ、古典ギリシャ語で「母なる大地」を意味する。従って、「大地信仰」を持つソフィアと「母なる大地」を意味する豊穣神「デメテル」を名前に持つラズミーヒンは、作品内において「同義」となる。
ソフィア、разумがともに「イエス・キリスト」を象っており、さらにソフィアの抱く「大地信仰」、並びに「母なる大地」を意味する豊穣神「デメテル」を冠するラズミーヒンの名前「ドミートリイ」にも着目し、両者が「同義」の存在であると理解できれば、ラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせたのは、ソフィアとラズミーヒンの二人であることが判明する。従って、『罪と罰』では文字通り、「知性、理性、精神」を意味する「ラズミーヒン」がラスコーリニコフの「知性、理性、精神」となることで、ソフィアとともにラスコーリニコフを「復活」へと導き、「愛」によってラスコーリニコフを「復活」させるという役割を果たしている。

4
「知性、理性、精神」を意味するразумは、「分離、分割、分配、分散、分与」を意味する「接頭辞」разと「知」を意味するумが合体して形成された語であるが故に、「分離した知」を意味する。周知のように、ラスコーリニコフ(Раскольников)の名字は、「分離派」を意味するрасколを暗示する。「接頭辞」разは、「接頭辞」расと「同義」であるから、「分離した知」を意味するразумを「神」として解釈することが可能であれば、正統キリスト教から分離した「分離派」には「聖性」が担保され、従って「分離派」を暗示する「ラスコーリニコフ」は「神」を暗示していると考えることができるが故に、ラスコーリニコフもまた、ソフィアやラズミーヒンと同じく、「キリストを象った人間」となる。
繰り返すが、「分離した知」を意味するразумが「神」を象り、「神の聖なる知性、理性、精神、心」を意味するものであれば、正統から分離した「分離派」も同様に、「聖性」を担保していると考えられるが故に、「イエス・キリストを象った教派」となり、当然の帰結として、「分離派」を暗示する「ラスコーリニコフ」もまた、「神を象った人間」となる。
加えて、ラスコーリニコフの「父称ロマーノヴィチ(Романович)の「ロマーン」(Роман)は、ラテン語で「ローマの、ローマ人」を意味するが故に、ラスコーリニコフの「父称」であるロマーノヴィチは、正教会からローマ・カトリック教会が「分離」して誕生したことをも暗示する。
「知恵」と同様、разумにも「両義性」が存在する。「知」を意味するумは「神」そのものであり、「神を象った知」であるが故に、разумは「「神」から「分与」された完全に清く健全な知」であると解釈できる。しかし一方で、разумは「神から分与された知」が罪に陥り、汚れた結果、「本来の「知」から「分離」してしまった「知」」としても解釈できる。またあるいは、разумは「「神を象った知」から「分離」してしまった知」であるが故に、「聖性を喪失した知」であるとも解釈できる。従ってразумは、「聖性を備えた知」であるとも、また「聖性を喪失した知」であるとも解釈することができる。
разумの持つ「両義性」は、本編の主人公である「ラスコーリニコフ」に如実に「反映」されている。従ってラスコーリニコフは、「聖性を備えた、「神」を象った人物」であるとも、また「聖性を喪失した、「悪魔」を象った人物」であるとも解釈することができる。
ラスコーリニコフが「神」から「悪魔」に、あるいは「悪魔」から「神」に「変容」する場面は、ラスコーリニコフが振りかぶった斧の「刃」を自身に向け、「峰打ち」することで老婆を殺害した時であろう。ドストエフスキーは、ラスコーリニコフが老婆の脳天に「峰打ち」をしたという描写、並びに「峰打ち」という表現を何度も繰り返し用いている。従って、老婆を「峰打ち」で殺害するというラスコーリニコフの行為は、己の額に刻印された悪魔の数字666を破壊して「悪魔」から「神」へと変容する道を選んだとも解釈することができるし、逆に己の額に刻印された「神」を破壊して「神」から「悪魔」へと変容する道を選んだとも解釈することができる。
ロシア語で「人間」はчеловекである。「人間」は「額」を意味するчело、「世紀」を意味するвекに分解できる。「世紀」は100であり、100は正教会において「永遠」を意味するから、「人間」は「「額」に「永遠」が刻印された存在」であると解釈できる。「額」に「永遠」が刻印されているという表現は、「額の上」に、すなわち、「「天」に「永遠」が存在する」ことを意味する。ロシア語において「人間」とは「「神」を戴冠した存在」である。従って、ラスコーリニコフの老婆に対する「峰打ち」は、ラスコーリニコフ自身の「額」に刻印された「神」を破壊する行為と「同義」となるが故に、ラスコーリニコフは老婆を「峰打ち」して殺害することで、「神」を破壊し、「信仰」を捨て、「悪魔」へ身を売り渡したとも解釈することができる。
ラスコーリニコフは、老婆を「峰打ち」して殺害することで、実は自分自身をも殺害していた。ラスコーリニコフが老婆殺害を通して、自分自身を殺害していたことは、「いったいぼくは婆さんを殺したんだろうか? ぼくが殺したのは自分自身で、婆さんじゃないのさ!」(4)というラスコーリニコフ自身の言葉からも明白である。
ラスコーリニコフは、老婆を「峰打ち」して殺害することで、「神」と「悪魔」に「分裂」した。従って、前述したように、老婆を「峰打ち」で殺害するというラスコーリニコフの行為は、己の額に刻印された「悪魔」を破壊して「悪魔」から「神」へと変容したとも解釈することができるし、逆に己の額に刻印された「神」を破壊して「神」から「悪魔」へと変容したとも解釈することができる。
разумに対するドストエフスキーの解釈を解明することができれば、上記老婆に対するラスコーリニコフの「峰打ち」の解釈を明らかにすることが可能となる。また逆に、老婆に対するラスコーリニコフの「峰打ち」の解釈を解明することができれば、разумに対するドストエフスキーの解釈を明らかにすることが可能となる。
このように、разумはラズミーヒンやソフィアだけでなく、ラスコーリニコフを考察する上で、また本作品の謎を解く上で非常に重要な鍵を握る単語である。разумに対する考察は、『罪と罰』を底流する思想・信条・信仰、すなわち、作品執筆時におけるドストエフスキーの宗教観を浮き彫りにすることへと繋がる。また「分離」、「分裂」は、清水も指摘するように、ドストエフスキー文学の本質及び特徴の一つでもある。
上記разумに対する考察の重要性は、『悪霊』においてもあてはまる。『悪霊』における「悪霊」は、作品内において様々な意味で用いられているが、一般的には「西欧から渡来した無神論」、「無神論的革命思想」の意味で解釈されることが多い。従って「悪霊」とは、「西欧から渡来した無神論に憑依された結果、信仰を失った人間」を指す。しかし、「人間の心は神と悪魔の永遠の戦場である」と考え、「天」の所在を「人間の心の中」に求めるドストエフスキーの宗教観を踏まえた上で、再度『悪霊』において用いられている「悪霊」を考察すると、「悪霊」は外来的で外在的なものだけではなく、逆に自身の「心」から発生・発出するものでもあるが故に、内来的で内在的なものでもあると判断することができる。確かに、人間は外来的で外在的な「悪」に「憑依」された結果、「悪霊」へと変容する。だが一方で、人間は自身の「心」から発生した、内来的で内在的な「悪」に飲み込まれた結果、「悪霊」へと変容する側面も併せ持つ。
небоとразумの接続と発展に対する考察は、作品世界だけでなく、ドストエフスキーの精神世界並びに宗教観をも解明することが期待できるが故に、разумに対するドストエフスキーの解釈を考察することは意義がある。

5
罪と罰』のエピローグには、「ふたりを復活させたのは愛だった」(5)という記述が存在する。上記引用における「ふたり」とは無論、「ラスコーリニコフ」と「ソフィア」を指す。しかし、上記разумに対する考察を踏まえた上で、「ソフィア」と「ラズミーヒン」を「同義」として解釈すると、上記引用における「ふたり」は、「アヴドーチヤ」と「ラズミーヒン」を指すと考えることができる。ラスコーリニコフがソフィアの「愛」によって「復活」したのであれば、「もう一人のラスコーリニコフ」であるアヴドーチヤもまた、ラズミーヒンの「愛」によって「復活」したと考えることができるからである。
ラスコーリニコフの妹であるアヴドーチヤの名前「アヴドーチヤ」(Авдотья)は、「Евдокияの民衆形」であり、ギリシャ語で「愛顧」を意味する。「アヴドーチヤ」という名前が明示しているように、アヴドーチヤはラズミーヒン、スヴィドリガイロフ、ルージンに「求愛」されるが故に、本作品内において最も作中人物に愛される人物である。「愛」は作品内においてアヴドーチヤに向けられることが多く、従って「愛」によって「復活」した人物が「アヴドーチヤ」であっても何ら不自然ではない。本作品ではラスコーリニコフとソフィアの「愛」だけでなく、アヴドーチヤとラズミーヒンの「愛」もまた成就しているが故に、上記引用における「ふたり」に「アヴドーチヤ」と「ラズミーヒン」を「代入」することができる。
また、上記引用における「ふたり」は、「ラスコーリニコフ」と「アヴドーチヤ」を暗示していると考えることもできる。ラスコーリニコフはソフィアの「愛」によって、アヴドーチヤはラズミーヒンの「愛」によって「復活」しているからである。さらに、上記引用における「復活した「ふたり」」を、ラスコーリニコフによって殺された「イワーノヴナ姉妹」として解釈することもできるだろう。
繰り返すが、上記引用における「ふたり」とは、「ラスコーリニコフ」と「ソフィア」を指す。しかし一方で、разумとソフィアが「神を象った語」であり、ラズミーヒンとソフィアが「同義」として描写されていることが理解できれば、上記引用における「ふたり」に対して、「アヴドーチヤ」と「ラズミーヒン」、「ラスコーリニコフ」と「アヴドーチヤ」、さらには「イワーノヴナ姉妹」を重ね合わせることができる。
作品内において、разумの果たす役割と重要性に着目することができれば、すなわち、キリスト教における「信仰」と「知恵」の同義性、並びに「ソフィア」と「ラズミーヒン」の同義性を理解することができれば、テクストの「多義性」を明らかにすることができる。従って、разумに対する考察は、テクストに落とし込められた作者の真意を炙り出し、作者の精神世界に肉迫することが期待できる。


(1)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓岩波書店 2000 p.266。
(2)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.403。
(3)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.135。
(4)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.134。
(5)ドストエフスキー罪と罰』(下) 江川卓訳 p.401。