時代を超えた『あしたのジョー』連載2 清水正

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube


時代を超えた『あしたのジョー
ーーちびっ子サチに捧げる死闘(テキストへの参入)ーー 

連載2

清水正


※  ※  ※

 ホセ・メンドーサとの壮絶な第7ラウンドが終わった後、丹下段平は「ジョー‥‥もうよそう。あ‥‥あの偉大なチャンピオンを相手にここまで、しかも片目だけでこんなにりっぱに戦ったんだ。もうこのへんでおしまいにしよう。わしは‥‥わしゃあ、もうこれ以上見ちゃいられねえ。もうたくさんだ」と言う。ジョーはそれに対し「待ってくれよ、おっちゃん‥‥おれは‥‥まだまっ白になりきっていねえんだぜ」と言う。段平はその言葉に立つすくみ「まっ白‥‥‥‥? まっ白たあ‥‥どういう意味だジョー」と聞き返す。
 先刻までの第7ラウンドの観客の歓声と壮絶なパンチの打ち合いの場面を言葉だけで再現しておこう。墨文字、白抜き文字、その他様々なヴァリエーションで手書きされているジョーのパンチ音は[]、ホセのパンチ音は「」、体の俊敏な動きは{}、ゴング音とレフリーの声は【】、観客の歓声と言葉は〔〕、ジョー陣営のセコンドの声は《》、ホセ陣営のセコンドの声は〈〉、ジョーの内心の声と呼吸音、呻き声は『』、ホセの内心の声は“ ”内に引用し、その他注意事項は()内に記した。


 【カァーン】(開始ゴング)〔ワー ワー ワー〕『ホセは5・6ラウンドのダメージが まだはっきりのこっている‥‥早いうちになんとかしなくちゃな‥‥』『いくぜ』[シュッ](当たらず){ビュッ}『おっと』『そう かんたんに 死角へばかり逃げこまれてたまるかね』『こうだっ』「バクッ」『ぐっ』〔ワーッ〕「ガスッ」《う うおっ‥‥》「ズシッ」「ピシ バキッ」「バキッ」『う‥‥ふ』「バーン」(ジョーがリングロープに打ち飛ばされた時の音)〔ウワーッ〕〔ワー ワー〕「ズバーーン」「ビシッ ドカ バン」〔ワァーッ〕[ビッ][シュ シュッ][ブン]「ビシッ」(ホセのガード音)「バキッ」「バン ドカ ドカッ」「ガスッ」「ベキィッ」(強烈な右アッパー)「ビシッ ドカ ドカッ バン ガスッ」【ス‥‥ストープ!!】〔ワーッ〕「ズル‥‥ドスン」(ジョー、ダウン)【ワン ツー スリー】〔ワー ワー ワー〕《ジ‥‥ジョー‥‥‥‥》【フォー】【ファイーーブ】【シーックス】【セブーン】〔ワーッ ワーッ〕【エイーート】〔ワー ワー〕〔ええい くそじれってえな‥‥!〕〔どうした矢吹 しっかりしろーーっ〕〔おめえのパンチ まるっきりあたらなくなっちまったじゃねえかっ〕〔ワー ワー〕【パン ファイト】〔ワー ワー〕〈ヘイ ホセ! 時間ハ マダ二分以上アルゾッ〉〈ジックリ 時間ヲ カケテ 的確ナ フイニッシュヲ キメロッ〉【ファイトだ チャンピオンッ】『はあ‥‥ふう はあ はあ』〔ワー ワー ワー〕〔や‥‥矢吹 がんばれっ 相手から目を はなすんじゃねえ! 5・6ラウンドの調子でつっかけるんだっ〕「シュッ シュッ」(当たらず)「ビッ」(当たらず)[ブン](当たらず)[ビュッ](当たらず)[シャッ](当たらず)「バン」「ベキッ」「ドカッ」「ビシッ」「バキィッ」「ズダーン」(ジョー、ダウン)〔ワーッ〕【ス‥‥ストーーップ!!】《お‥‥お(丹下段平)》[‥‥](白木葉子)〔あーー‥‥〕〔‥‥〕〔つ‥‥強え‥‥‥‥!〕【ワン】〔ワー ワー〕【ツー】【スリー】【フォー】【ファイーーブ】【シーックス】【セブーン】「ワー」【エイーート】〔ワー〕『よう‥‥かまえてるぜ もう』【ちょっと‥‥ちょっと待って‥‥】【傷を‥‥】『よせよ‥‥』『これっばかしの傷‥‥へでもねえ‥‥』【フ‥‥ファイトッ】〔ワー〕「バァン」「ガシッ スバッ」「ビシッ」「バキィッ」(強烈なパンチ)〔ワーッ〕《フィニッシュ‥‥‥‥!!》『うおお‥‥』「ビッ」「ガッ」(ジョー、ホセにクリンチ)「ダダダッ」(ジョー、ホセにクリンチしたままロープに駆け寄る)〔ワーッ〕【ブ‥‥ブレイク!】【ブレイク! ブレイクッ!!】【おい 矢吹 ブレイクだ はなれてっ】〔ワー ワー〕(ジョー、レフリーの腕をすり抜けて)[ブン](当たらず)[ベキッ](ジョーの強烈な右アッパー)〔ワーッ〕[バン バン]〈オオ‥‥〉[ドカッ](当たらず)[ビシッ](当たらず)「ガスッ」(強烈な右ストレート)「バシッ ドカ ガスッ」「ピッ」「ガシッ」「バン」「ビュッ」(当たらず)「ドスン」(ジョー、ホセに抱きつく)『は‥‥はあ ふう はあ』〈ホ‥‥ホールドダ レフェリー ホーールド!!〉〈レフェリー ヒキハナセーーッ〉【ブレイク! 腕をほどけ 矢吹っ ブレイク!!】(白木葉子の顔のアップ)【カァーン】(第12ラウンド終了ゴング)(第12巻280~302p)

 以上、言葉だけで引用、再現してもジョーとホセ・メンドーサの闘いは壮絶を極め、セコンド陣はもとより、観客の熱狂、興奮が直に伝わってくる。死闘場面を再現していて改めて感じるのは、ちばの作画力の凄さである。ちばはジョーと共に闘っている。そうであるからこそ、この死闘場面は異様な迫力とリアリティを獲得している。
 ちばてつやの作画力のうちには、コマ割、コマの形と大きさ、歓声・パンチ音のデザイン、頁構成など、映画における美術、音響、撮影、監督、編集などのすべての役割が含まれている。ちばは漫画家本来の絵を書く能力、脚本力(『あしたのジョー』の場合は高森朝雄の原作があるので、原作の解釈力と脚色力)、編集力が優れており、映画以上のリアリティを作り出している。
 熱狂・興奮の坩堝と化した第7ラウンドが終わった直後、画面は一挙に静謐な時間に支配される。観客のざわめきは無音に処置され、観客の姿にも薄幕が掛けられる。そんな静謐なリングにスポットライトが当てられ、読者は丹下段平とジョーの会話を間近に聞くことができる。熱狂の動的時空から瞬時に静謐な時空への変換、ちばの演出・編集力は卓抜である。  
※  ※  ※
 ジョーは丹下段平に問いただされて〈まっ白〉の意味を語る。試合の最中に、それも死闘の第7ラウンドを終わったばかりの、わずかな時(一分)の間にそれを回想シーンを交えて語るという、この演出が凄い。真に迫るリアリティは、ただ現実の法則に従っていたのでは描き出せないことをちばは知り尽くしている。
 
 〔リング上〕
 ジョー「いつだったかなあ‥‥。たしかあれは‥‥後楽園球場でカーロスと一戦をまじえたあとだったと思うが‥‥なんとなく目標をうしなってぼんやりしていた時期があったんだよ。そのとき‥‥あの林屋の紀ちゃんに、もうボクシングはやめたらどうか‥‥といわれてね。」
 〔回想シーン〕
【不自然なほど距離を置いてコンクリート塀に身を屈めて、暗い川面に視線を落としているジョーと紀子の後ろ姿をやや俯瞰的にとらえている。紀子の傍らに小さな風呂敷包みと傘が置かれている】
 紀子「矢吹くんは‥‥さみしくないの? 同じ年ごろの青年が、海に山に恋人とつれだって青春を謳歌しているというのに」
 ジョー「‥‥」
 紀子「矢吹くんときたら、くる日もくる日も、汗とワセリンと、松ヤニのにおいがただよう、うすぐらいジムにとじこもって、なわとびをしたり、柔軟体操をしたり、シャドー・ボクシングをしたり、サンドバッグをたたいたり、たまに、明るいところへ出かけるかと思えば、そこはまぶしいほどの照明に照らされたリングという檻の中ーーたばこのけむりがたちこめた試合場で、よっぱらったお客にヤジられ、ざぶとんを投げつけられながら、闘鶏や闘犬みたいに血だらけになってなぐりあうだけの生活‥‥しかも、からだはまだ、どんどん大きくのびようとしているのに、体重をおさえるために食べたいものも食べず、のみたいものものまず。みじめだわ、悲惨だわ。青春と呼ぶにはあまりにもくらすぎるわ!」
 ジョー「ちょっとことばがたらなかったかもしれないな‥‥。おれ、負い目や義理だけで拳闘やってるわけじゃないぜ。拳闘がすきだからやってきたんだ。紀ゃんのいう、青春を謳歌するってこととちょっとちがうかもしれないが、燃えているような充実感はいままで、なんどもあじわってきたよ‥‥血だらけのリング上でな。そこいらのれんじゅうみたいに、ブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない、ほんのしゅんかんにせよ、まぶしいほどまっかに燃えあがるんだ。そして、あとにはまっ白な灰だけがのこる‥‥燃えかすなんかのこりゃしない‥‥まっ白な灰だけだ。そんな充実感は拳闘をやるまえにはなかったよ。わかるかい、紀ちゃん。負い目や義理だけで拳闘をやってるわけじゃない。拳闘がすきなんだ。死にものぐるいでかみ合いっこする充実感が、わりと、おれすきなんだ」(第12巻303~308p)

 この場面は、ジョーと紀子のいわば〈真剣勝負〉の場面である。ジョーも紀子も自分自身の人生観、価値観を微塵の妥協もなく口に出している。ジョーと紀子の価値観が折り合うことはない。紀子はジョーに好意を寄せているが、ジョーと生活を共にすることはできない。ジョーの完全燃焼はリング上での〈死〉を意味しているのであるから、紀子の望んでいる〈生活〉とは少しも重なる面がない。二人は川面を眺めていても、その距離が縮まることはないし、二人で道を歩いても肩を並べることはない。二人は腕を組んだり、手をつないで歩くことができない。彼らの口は自分の人生観を語るのみで、相手の心と結びつく言葉を発することはない。
ちばは、手の届く場所にいる二人の距離の遠さを、さりげなく、しかし的確に描いている。紀子は言葉を発している時に、両手で傘をいじりまわしている。紀子の傘は、開かれてジョーの方へと向けられることはなかったし、〈生活〉そのものを象徴しているかのような風呂敷包みをジョーが共に手にすることもなかった。二人は各各の孤独を確認して去っていくほかはなかった。

 紀子はジョーとの距離を縮めることはできない。紀子は丹下ジムの掃除、洗濯、食事など、甲斐甲斐しく尽くしても、ジョーの心をつかみきることができなかった。紀子はジョーを愛している。しかし、ジョーは紀子の包みを持ってはくれない。紀子の肩を抱いてはくれない。紀子の手に触れてもくれない。ジョーは紀子の顔をじっと見つめ、その手をとって最後の別れの言葉を口にすることもない。ジョーに見えないようにそっと涙を拭いて、ひとり、別れを決断するしかなかった。
 ジョーは自分の〈完全燃焼〉に紀子を巻き込むことをしなかった。甘い言葉を発して、紀子を自分に引きつけ、自分の支えになることを願いもしなかった。ジョーの孤独に、紀子は入り込むことはできない。ジョーの孤独は他者の支えを拒むほどに峻烈であり、紀子の孤独は他者の支えを必要としている。
 紀子の第一声は「矢吹くんは‥‥さみしくないの?」であった。紀子はさみしいのだ。求めても求めても答えてくれないとき、恋する人間はどんなにかさみしいであろうか。紀子の〈さみしさ〉に、ジョーの〈さみしさ〉が重なれば、二人は確実に結びつくことができた。しかし、ジョーの〈さみしさ〉は紀子のそれに重なることはなかった。紀子の〈さみしさ〉は、まるで竹トンボのように胸の内から飛び出して、相手の胸に届かぬままに黄昏時の中空を舞っている。
 この竹トンボは〈生活〉の圏内へと落ちていく。拾ったのはマンモス西こと西寛一である。西は鑑別所でジョーと闘い、やがてジョーと共にプロボクサーの険しい途を歩むが、途中で断念し、乾物屋の一人娘紀子と結婚し、ジョーとは真逆の人生を歩むことになる。西の途は大半の人間が歩む堅実で平凡な人生である。ちばてつやが描く西には、平凡な生活にこそ価値はある、と言った人生哲学がにじみ出ている。

※  ※  ※
 わたしは批評の醍醐味はテキストの解体と再構築にあると常々言ってきた。批評はテキストとの格闘でもある。いっさいの妥協は許されない。『あしたのジョー』にはまず高森朝雄の原作があり、それに基づいたちばてつやの作画がある。原作と作画の共同製作が『あしたのジョー』である。ちばてつや自身の証言にもある通り、原作通りに作画しなかったその結果、『あしたのジョー』は多くのファンを獲得したとも言われている。 わたしは原作と作画を丁寧に検証しようという衝動にもかられたが、高森朝雄の原作はその大半が消失してしまったらしい。わたしが見ることができたのは、連載終了40周年記念完全保存版として刊行された「あしたのジョー大解剖」(2013年12月14日 三栄書房)の付録「限定特典」に収録された14枚のみである。これだけを見ても、ちばてつやは原作の言葉を変えている。原作の短い言葉を、わかりやすく説明的な言葉に変えている。言葉を変えられることは、高森朝雄に限らず、原作者にとって最も嫌なことである。が、原作通りに描かないことは最初から了承していたことであり、高森朝雄は妥協せざるを得なかったのであろう。それにちばてつやの作画は説得力があり、原作には登場しないマンモス西をさりげく登場させて場面に膨らみを与えたりしている。ちばは高森原作の骨格をもとにして、実に想像力豊かに肉付け作業をしている。
 もし原作通り、一時一句変更せずに作画したとすれば、今の『あしたのジョー』とはまったく異なった作品となったであろう。原作がすべて揃っていれば、様々な漫画家に『あしたのジョー』を作画してもらいたいとさえ思った。複数の作画によって、原作と作画の関係性はより明確に浮き彫りされるに違いない。
 作画は原作の〈読み〉の問題であり、批評(わたしの言う解体と再構築批評)と共通する面がある。つまり、漫画『あしたのジョー』は、作画者ちばてつやによる原作『あしたのジョー』の解体と再構築と言える。わたしは、このちばてつやによって再構築された漫画『あしたのジョー』をさらに解体・再構築したいと思い、現にそうしているわけである。

※  ※  ※
 ちばてつや梶原一騎と組むことになった経緯とその後の確執と和解に関して次のように語っている。

  感性が似ていて、同じところに感動しないとやりにくいということはあります。
  僕と梶原さんでは、ちょっと違う感性でしたね。
  僕だけでなく、「少年マガジン」の編集部の中にも“まったくタイプが違う水と油のような二人だから、感動するところも違うことがあるだろう。気持ちに行き違いがあったらす、悪くすると空中分解することになるぞ”って、心配した人がいたようでした。
  でも、ひょっとしてうまく噛み合えば、凄いエネルギーが生まれて大爆発を起こしてくれるかもしれない、とも言っていましたから、冒険だったんでしょうね。
  ただ考えてみたら、それ以前に福本和也さんと組んだ『ちかいの魔球』でも、消える魔球だとか、ああいうアイデアは僕一人ではなかなか出ないですからね。原作があったから『ちかいの魔球』も面白くなったんだなあと思い返したりして。それで僕は料理に徹してみようと。新鮮な素材を集めてくるのが原作者、僕はそれをどう料理するか、どう皿に盛り付けるかってことで、やってみようと思ったんです。
  梶原さんには“原作で酔わせてください。酔えたらいい作品が描ける”と言いました。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。15p)

  原作では、唐突に激しいボクシングのシーンから入っていったんですが、僕としては、それだとどうしても気持ちが入っていけませんでした。いきなりアクションから始まって“なんだこれは?”って引いておいて、後から状況を説明する演出もあると思うんですけど、僕は、ちょっと馴染めなかったんで、ゆったりと俯瞰から、その街の雰囲気や季節感を表して、それで(世界観)入っていったんです。
  梶原さんの原作はとにかくどんどんたたみかける感じで、グッとつかんでおいて、グイグイ読者を引っ張っていく。それがまた一つのパワーになっていくわけですけど、僕は何かそれだけだと描いていても息が詰まるし、読者としても疲れるんじゃないかと感じたんです。だから僕なりに考えて、ジョーがドヤ街にふらりと現れるシーンから入っていったわけです。
  川の流れが淀んで、いつの間にかゴミが集まってしまったような街。  山谷っていう場所、いろんなこういう人間が吹きだまりみたいにいるんだよっていうことを、読者に紹介しながらジョーが現れる。そこで段平と出会う。そういう考え方をしました。
  どんな街に、どんな人が住んで、どのように暮らしているかを描いて、そこから、梶原さんのストーリーにつなげていこうと。そのほうが、ジョーと段平の絡みのうえで描きやすいし、梶原さんの原作の面白さを生かすためにも、そのほうが効果的だと思ったからです。
  だから表現方法は違ったけど、原作をまったく無視して使わなかった、ということではないんです。梶原さんが“こういう男を表現したいんだろうな”とか“こういう雰囲気を出したいんだろうな”ということは、もう頭に入れて描きましたから。この人物をどうやったら描けるだろうって、あれこれ考えているうちに、原作と違ういろんなエピソードが入ってきちゃうんですね。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。32~33p)

  実は最初の2、3話分は梶原さんの原作に触っていないんです。
  担当編集者も脅されていたみたいで。「原稿をくれと言うけど、俺の原稿なんていらないじゃないか!」って(笑)。間に立った人は大変だったでしょうね。そりゃそうですよ。僕に原作を渡しているのに、まったく使わないんですから。
  でも、それは原作を使わないのじゃなくて、より原作やキャラクターを生かすための演出でした。骨をもらって肉付けするという感じ。骨格の部分は変えていないんですよ。セリフも大事な部分は変えていないけど、会話の流れとか間とかあって、そのままというのはまずないんですよね。ここは、こういうことが言いたいんだってわかったら、できるだけセリフは短くして、わかりやすく。ですから、僕は原作が表現したいことには忠実だったつもりです。その点、他のどの漫画家よりも梶原原作を大事にしているつもりでした。
  ただ、最初はちょっと誤解を受けて、僕が直に聞いたわけじゃないんですけど、梶原さんが“俺はもう辞める”くらいのことは言ったみたいです。
  担当編集者も弱りに弱っているし、僕も原作どおりに描いていないことについて申し訳ない気持ちだったんで、担当者を通して梶原さんにお詫びをしました。僕はそういうつもりじゃない。この人物にホレこんで、どうやったら描けるかってことでやるんだから長い目で見てくれってね。
  担当者も僕の作り方というものがわかっていましたから、「梶原先生の原作を使っていないわけじゃないんです。より原作の面白さを引き立たせるために、話をふくらませているんです」と説明してくれてね。そしたら梶原さんはわかったって言ってくれました。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。36~38p)

  原作通りに段平が出てくるシーンを見て梶原さんがようやく「ああ、こういう入り方なら、わかる」と思ってくれたようです。
  梶原さんは頭のいい方ですから、徐々に自分のアイデアが出てきて、僕の考えがわかってくると何も言わなくなりました。
  いくら変えてもいいよ、ということですよね。それからは、原作をいじる僕のクセも認めてくれるようになりました。それまでは、梶原さんも原作者として組みにくい漫画家だと思ったでしょうね。
  僕もずいぶん生意気でした。原作を生かして面白くなるんだったら、いくら内容を変えてもいいだろうで、通していたんですから。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。40p)

 ここに引用したちばてつやの話を読むと、梶原一騎の原作とちばてつやの作画の関係が実によくわかる。原作に忠実であること、セリフの一字一句の変更も許さないという梶原一騎にしてみれば、ちばてつやの作画に不満であったこと、というより怒り心頭に発していたことは容易に想像できる。原作を渡してから最初の三回ほどまったく違った作画を見せられれば、その時点で梶原一騎が原作を降りても何の不思議もない。
 わたしは自分の文章を直されるのは嫌なので、梶原一騎の気持ちはよくわかる。わたしと梶原一騎の違いは、わたしは金にならない文章を書いているが、彼の場合は莫大な金を生み出す文章を書いているということである。個人の主張や意志だけではどうにもならない出版社や編集者の意向があり、作画者の考えがある。メジャーで作品を発表する書き手は、自分だけの意見を貫けない場合もあるということだ。
 もし、梶原一騎が自分の主張だけを貫こうとすれば、第一回の掲載時で降りていただろう。幕開けの場面が原作とまったく違うのであるから、自分の原作の独自性を尊重すれば降りるのが当然ということになる。雑誌を見て怒り心頭に発した梶原一騎の顔がまざまざと浮かんでくる。
 それにしてもふしぎなことがある。『あしたのジョー』は原作者に作画を見せないで雑誌に発表していたのか、ということである。もし、そうならその時点で原作者は軽視されていたということになりはしないだろうか。
 作画者は原作を原作者にいちいち断らずにいじることができる。現に、ちばてつやの証言によればそうしていたことは事実であり、それは残った14枚の原作と作画を見れば明白である。原作と作画の関係は、ひとによって異なるのであろうが、『あしたのジョー』の場合、ちばてつやが主導権を握っていたように思える。当時、梶原一騎は「少年マガジン」に『巨人の星』(作画者・川崎のぼる)も連載しており、雑誌の売り上げに多大の貢献を果たしていた。この梶原一騎にして、『あしたのジョー』の主導権を握れなかったということは改めて検証するに値しよう。
 漫画作品を一人の作者が描いて、何の妥協もなくそのまま発表するのであれば、まさに著者はその漫画家一人ということになる。ところが、原作付きで、しかも商業雑誌に掲載するとなれば、漫画家一人の意志だけで描けるものではなくなる。要するに力関係がものを言ってくる。原作者が力を持っていれば原作通りの作画を要求してくるだろうし、作画者が力を持っていれば原作はいじられるだろうし、編集者が力を持っていれば編集者主導型の作品が描かれることになろう。
 映画の場合などは、共同製作であるから問題はさらにややこしくなる。出資、企画、配給、監督、撮影、音響、衣装、音楽、照明、俳優、編集など、実に多くの人間が関わって作品が作られる。わたしなどは単純に、映画は監督のものだと思っているが、そう簡単には割り切れないらしい。しかし、カリスマ性を存分に発揮する監督のもとでしか名作は制作されないのではないかという思いは拭いがたい。
 監督が指示した通りに映さない撮影者との間のもめごとを聞いたことがあるが、これは一人カメラマンとの問題ではなく、映画製作に関わるすべての担当者に当てはまる。映画の場合は莫大な金を必要とするから、当然スポンサーや配給会社の意見も強くなる。監督がすべてを担当できれば何の問題もないが、現実的にそれは不可能である。作品の出来不出来を最終的に決定するのは編集であるが、監督が編集に参加できない場合、作品は監督のものであるとは言えなくなる。編集権を持たない監督など、もはや監督という名に値しない。
 さて、『あしたのジョー』であるが、ちばてつやは原作をいじっているが、原作からまったく離れているわけではない。まさに彼自身が言っているように、あくまでも原作=骨を尊重し、それに想像力豊かに肉付けするのが彼の作画法ということである。が、しかしここにもまったく問題が生じないわけではない。作画者の想像力が原作をはるかに凌賀してしまった場合は、原作者の気分を損ねることにもなりかねない。原作の骨組みを完璧に解体して、骨を砕き粉末にして作画者が自らの想像力をいかんなく発揮した場合、はたして原作者はそのことに耐えられるのだろうか。
 かつて北野武監督の映画『その男、凶暴につき』を批評した時、野沢尚の脚本を読んで吃驚した。脚本と映画はまったく別物で、わたしが脚本家だったらさっさと降りてしまっただろう。もし、映画脚本がこういうものだとしたら、脚本は独立した作品ではなく、あくまでも調理されるための材料ということになる。包丁でどんな切り方をされようが、ミキサーにかけられようが、焼かれようが煮られようが、材料は調理師に文句は言えないということだ。野沢尚に、自分の脚本が影も形もなく解体されたことに対してどう思っているか聞いたことがある。野沢はべつに腹をたてているようでもなかったので、わたしはまたそのことがふしぎであった。要するに、脚本家と監督が双方ともに納得ずくであるのなら、他人がとやかく言うことないか、と思ったが、わたしは野沢の脚本に作品としての自立性を強く感じていたので、敢えてきいたのである。
 野沢尚の場合は、その脚本が残っているので、映画との相違が明確に把握されるし、脚本としての自立性も保持される。が、『あしたのジョー』の場合、原作がそのままの形で残っていないので、原作の自立性は剥奪されてしまっている。なぜ、原作を残さなかったのか。原作者梶原一騎にも、編集担当者にも、作画者ちばてつやにも、原作をきちんと保存するという気持ちがなかったということだろう。つまり、梶原一騎を先生と呼んで奉っていても、その作品を尊重する気持ちがなかったということである。漫画の原作は、あくまでも漫画作品という料理の〈材料〉であって、材料自体を保存するという考えはなかったのである。
 当時、漫画はようやく市民権を得て
、〈たかが漫画〉の侮蔑的な領域から脱皮しつつあったが、しかし漫画は依然として文学作品と同等に扱われることはなかった。漫画は子供向けの一過性の娯楽的読み物の次元にとどまっていた。『あしたのジョー』を小学5、6年生で読み、熱狂的なファンになった者たちが中学、高校生になっても読み継ぎ、「少年マガジン」は青年漫画雑誌の性格を強く帯びるようになった。月刊漫画雑誌「ガロ」は白土三平つげ義春水木しげる滝田ゆうなどを輩出し、手塚治虫を中心とした「トキワ荘」の漫画家たちも代表作を次々に発表し始めていた。石ノ森章太郎赤塚不二夫藤子不二雄など錚々たる漫画家たちが活躍するに至って、もはや〈たかが漫画〉などと蔑む者はいなくなった。が、『あしたのジョー』の原作がほんの一部を残して紛失してしまっているという事実は、漫画原作の位置づけがきちんと確立していなかったことを明白に証している。原作原稿が紛失していることで、『あしたのジョー』の原作と作画の関係についての厳密な検証は不可能となってしまった。

※  ※  ※
 ないものねだりをしてもらちがあかないので、原作と作画の違いについてはちばてつやの証言によって検証するほかはない。

 
 以前、『ハリスの旋風』で主人公の石田国松が拳闘部に入って大暴れするというエピソードがあったんですが、ボクシングのサンドバッグやパンチング・ボールといった練習器具とか練習風景や雰囲気が全然わからなくて、後楽園ジムや下北沢の金子ジムに取材に行きました。資料だけでなく実際に自分の目で見るということは絵を描くうえだけでなく、いろいろとアイデアも膨らんできて、作品が生きてくるんですね。
  その時に、ボクシングにすごく興味をひかれたんです。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。10p)

  だいたい僕の、主人公顔って決まっているんですよ。今回の主人公のキャラクターも最初は、『ハリスの旋風』とそんなに変わらない。国松という少年の、2、3年後のイメージで、まだふっくら子供っぽい顔をしています。やや大人っぽい、ただ少し寸を伸ばしてマジメな顔をさせた、くらいの意識しか僕にはないんですけどね、絵を描く段階では。ただ、思い入れは違います。こいつの性格はこういう影の部分とか‥‥ということを考えて、そういう顔になるわけで。髪型も勢いで描いたから、ああいう髪型になったけど‥‥。右を向いても左を向いても同じですからね。僕の中ではあれは、なんとなく伸び放題にしている、というイメージなんです。床屋にも行かない、櫛も入れないというね。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。17p)

ジョーが『ハリスの旋風』の石田国松と似ていることは、ちばてつやの愛読者なら誰にでもわかっていたに違いない。外見ばかりでなく、その暴れん坊の性格もまた共通している。わたしが注目したいのは、主人公のキャラクターがちばてつやの漫画世界から誕生していたことである。このことが、『あしたのジョー』の主導権をちばてつやが握った最大の理由ではないかと思う。
 それに最初の場面の変更である。原作においてはいきなりボクシングの格闘シーンだったのを、ちばは高層ビルが林立する日本の首都・大都市東京を上空から俯瞰する場面に置き換えた。カメラは上空から徐々に降下し、今度は下から東京タワーを見上げるアングルへと移行する。さらにカメラは「そのはなやかな東京のかたすみ」へ、さらに「ある‥‥ほんのかたすみ」へとアングルを絞っていく。
 読者が目にするのは「道ばたのほこりっぽいふきだまり」や「川の流れがよどんで、岸のくぼみに群れあつまる色あせた流木やごみくず」である。次頁は一頁丸ごとのスペースで、一泊百円の宿や風呂屋、居酒屋などが軒を連ねるドヤ街の殺風景な、ほこりっぽい通りを歩く一人の少年を俯瞰的にとらえ、「この物語は、そんな街の一角からはじまる」とコメントされている。その後、カメラはジョーの傍らを一時もはなれずに物語は展開していく。
 まさにちばてつや流の構成・演出によって物語は始まった。この時点で原作者梶原一騎ちばてつやの作画法に取り込まれたと言っても過言ではないだろう。『あしたのジョー』はジョーと力石徹、ジョーとホセ・メンドーサの死闘だけが描かれているのではない。舞台裏では原作者と作画者の死闘も演じられていたということである。
 『ハリスの旋風』から石田国松が飛び出して、ジョーとなって東京のドヤ街に現れた。あるいはジョーは天空から舞い降りて来たと言ってもいい。ジョーの経歴はほとんど明かされず、まさに彼は天空から孤児として舞い降りたヒーローなのである。
 ドヤ街には太郎をボスとするちびっ子軍団がいるが、彼らは『あしたのジョー』における永遠の子供たちとしての性格を付与されており、作品内の時間経過に支配されない、つまり成長しないキャラとして登場している。おそらくこのちびっ子軍団もまた梶原原作には登場していないのではないかと推測される。ちばてつやの証言をもとに考えると、乾物屋の一人娘紀子やマンモス西も原作には登場していなかった可能性が高い。ドヤ街に群れるちびっ子や下町娘紀子、紀子と結婚して平凡な暮らしに生き甲斐を見いだす西寛一などは、ちばてつやが独自に舞台に登場させ、膨らませていった人物と見ていいのではないかと思う。
 ボクシング一筋に生きるジョーの直線的な生き方はスピーディで熱く烈しい。こういった生き方で三十路を越えて生き続けることは難しい。ジョーは夭折する運命に逆らわずに生きた。この火のような運命に油を注ぎ続けたのが白木葉子であり、この運命にストップをかけようとしたのが紀子である。
 原作にはジョーの熱い直線的な生き方にブレーキをかけるような人物は登場してこなかったのではなかろうか。ちばてつやはちびっ子軍団や紀子を登場させることで、ジョーのヒーロー的直線に庶民的幅を与えたと言えよう。幅が広すぎれば、ジョーは非日常を生きるヒーローから普通人へと変容せざるを得ないし、原作通りの熱い直線のみでジョーを描けば読者に切迫感のみを与えることになったかもしれない。
 落語が緊張と弛緩によって笑いを生じさせるように、漫画も緊張だけでは読者を疲労させてしまう。梶原一騎が緊張でくれば、ちばてつやはそこに適度な弛緩を交えながら物語を展開していくという手法を採った。結果として、この手法が成功を収めたと言える。
 ジョーの顔が『ハリスの旋風』の石田国松のそれを受け継いでいたのも成功の一因であろう。ジョーの顔は要するに漫画顔の典型である。もしジョーの顔が、リアルなボクサーの顔であったら、ボクシングの試合場面など、あまりにもリアル過ぎて漫画的誇張をしずらかったと思う。ジョーは少年漫画の主人公にふさわしいイケメンでなければならず、その外貌からして多くのひとの憧れの的でなければいけないのである。『罪と罰』のラスコーリニコフがペテルブルグ随一の美男子であったように、ジョーもまたボクシング界のみならず、東京で一番の美男子でなければならないのである。

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 原作脚色で最も注目すべきは、やはり最終場面であろう。

  原作ではジョーがホセ・メンドーサとの激闘の後に、僅差の判定で負ける。リングサイドで段平がジョーに「お前は試合に負けたが、ケンカに勝ったんだ」と慰める。数日後、パンチドランカーになったジョーが、白木葉子の屋敷のテラスで、ボンヤリ日向ぼっこをしている‥‥というのが、ラストシーンでした。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。250~251p)

  5年半も描き続けて、いろいろなライバルと熾烈な戦いを繰り返し、最後に完璧な王者と死闘を繰り広げた末に、試合には負けたがケンカには勝った、という一言では、どうにも僕は腑に落ちなかったんです。(中略)
  どうにも仕方なくて電話で梶原さんに、「このままでは、ちょっと幕がおろしにくい。ラスト、変えさせてください」とお願いしました。
  そうしたら梶原さんは「今まで散々変えてきたくせに今さらなんだ! 任せる!」って(笑)「考え直す」って言うのかと思ったら「任せる」って(笑)
  でもその時、すでに締め切りは過ぎていて‥‥。任せてはもらったものの、じゃあどうすればいいのか、まったくわかりませんでした。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。251~252p)

  ラストでジョーが負けることはわかっているけれど、僕は『あしたのジョー』の一つのテーマが見つからなかったんです。苦しみながら、がむしゃらに、純粋に生きてきたジョーのラストシーンをどういうふうに締めくくるか‥‥。
  最後は、正直言って僕の好きな“生活している、ジョー”の姿って想像もできなくなっていました。まさに“リングで白く燃え尽きるジョー”、理屈のつかないものに追いたてられて、とうとう、もうあの穏やかな“生活するジョー”には戻れなくなったジョーしか、あそこにはいませんでした。(中略)
  少年誌の連載なので、死というイメージは出したくありませんでした。多くの子供たちが読んでくれていることですし、あからさまに“死ぬ”なんていう設定にしたら、子供たちはどう感じるだろう。僕自身、あまり悲劇的なラストは好きではありません。(中略)
  時間はどんどん過ぎていく。ここまで盛り上げて、読者はもちろん、「ジョーが終わる」って予告をしている編集部、任せてもらった梶原さん、全部が納得できるラストにしないといけないじゃないですか。
  そんな時に、担当編集者がゲラの束を持ってきて、「以前こんなシーンを描いてましたよ。これがこの漫画のテーマじゃないですか?」と、指摘してくれたんです。それはカーロス戦の後、紀子がジョーに、ボクシングばかりの人生に疑問を投げかけるというシーンでした。
  でもそれっきり忘れていました。そのシーンに、まるで灰をすくうかのような仕草の手のアップを描いたコマがあって、それを見た瞬間、あのラストがパッと脳裏に浮かんだんです。
  そうだ、確かにそうだったんです。燃えかすなんかまったく残らない、真っ白い燃焼が、ジョーの戦いのすべてだったんです。そして、ジョーは完全に燃焼し尽くした。
  担当編集者もネームを読んで、「うまいですっ!」って言ってくれて、後は2日徹夜して一気に描きました。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。255~257p)

 ラストシーンに関しては、原作とは明らかに違うものを考えたということになる。しかも、川辺での紀子とジョーのデートの場面は、ちばてつやの創作だとすれば、そこから導き出されたラストシーンはまさにちばてつやの独創ということになる。
 ここに引用したちばてつやの証言を読むと、『あしたのジョー』は様々な人たちのアイデアが取り入れられていることがわかるが、最終的な決定権を握っていたのは原作者ではなく、作画者ちばてつやだったことは明白である。

  僕は本能的に描いているだけですが、ホセ戦では、僕の中でジョーのコーナーは右側、ホセは左側になっています。だから、最後の燃え尽きた場面も、ジョーは右側に座って左を向いているんです。
  相手のホセも凄まじい闘いと恐怖のために、頭が真っ白になる。で、少し下を向いて満足そうに微笑んでいるジョーを見て、大人はジョーが燃え尽きて死んでしまったんだと理解し、子供たちは、ジョーはただ目をつむって休んでいるだけで、明日はまたサンドバッグを叩いて世界タイトルを目指すんだろうな、と考えられるように描いたんです。大きくなって、ジョーの最後を理解しても、やれるだけやって満足したんだなとわかるように。何とでもとれるように描いたんです。僕にはあれしかありませんでした。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。257~258p)


主要人物のキャラクターが明確になりさえすれば、物語は自然に動き出す。しかもジョーの目的ははっきりしている。ボクシングで完全燃焼するまで戦い抜くというのであるから、そこへ至るまでの筋書きも決して複雑にはならない。次々と現れる個性豊かなボクサーとの壮絶な試合内容、試合と試合の間に展開される様々なレベルでの駆け引き、ドヤ街の子供たちとの交流、それに丹下段平白木葉子、紀子、西とのやりとりなどを描けば物語は自然に展開していくことになる。それをちばてつやの言葉で言えば「僕は本能的に描いているだけです」ということになる。
 創作技術も〈本能〉にまで高められなければ、人物に魂を注入することはできない。ちばてつやが描く力石徹やジョーはまさに虚構の域を超えて〈人間〉となっている。だからこそ、力石徹の死に際しては葬儀まで行われることになった。
 ところで、ジョーの〈完全燃焼〉の後で、力石徹のような〈葬儀〉が行われなかったのはどういうことなのであろうか。一つには、ちばてつやがここで話しているように、ジョーの〈死〉を明確にすることを避けたということがあろう。最後の絵は、それを大人は〈死〉と受け止めるが、子供たちには〈休んでいる〉と見えるように配慮した、その結果、ジョーの〈完全燃焼=死〉という見方は相対化されたということである。
 ちばてつやが子供たちに配慮せざるを得ないほど、『あしたのジョー』の人気は異様に突出していたという事情もある。が、そういった配慮を別にすれば、ジョーがリング上で燃え尽きたことは事実であり、ホセ・メンドーサとの死闘の後に、ジョーが再びリングにあがることはないし、日常の暮らしの中にその姿を見せることもない。
 原作では「パンチドランカーになったジョーが、白木葉子の屋敷のテラスで、ボンヤリ日向ぼっこをしている。それを少し離れたとろから、優しい眼差しで葉子が見つめている」のがラストシーンであったらしいが、これで納得する読者はいないだろう。リング上で完全燃焼したジョーに、パンチドランカーとなって生き延びる姿は最も似合わない。それはジョーにとって屈辱恥辱の最たるものである。ジョーは完全燃焼という紛れもない〈死〉に向かって死闘を繰り返してきたボクサーであり、どんな形での〈日常への回帰〉は許されていないのである。

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 ジョーをパンチドランカーへと追いこんでいった張本人は白木葉子にほかならない。それでいて葉子はホセ・メンドーとの試合直前に、ジョーに愛を告白してまで試合をやめさせようとする。白木ジムの会長として、打倒矢吹丈のために次々と強豪を対戦相手として招聘し、試合を組んできた白木葉子が、よりによってホセ・メンドーサとの世界選手権の直前に、弱い女の側面を出してくる。
 わたしは、ぜひ、この場面の原作がどうなっていたのかを知りたい。原作通り、葉子はジョーに試合の棄権を迫ったりしたのか、ジョーは葉子に「ありがとう」の一言を発したのか。原作通りなのか、それとも作画者ちばてつやによる創作なのか、いずれにせよわたしには納得しかねる場面である。白木葉子はそんな柔な女(プロモーター)ではあってはならないし、「ありがとう」と言葉を返すジョーは想像もできない。
 葉子の「たのむから‥‥リングへあがるのだけはやめて‥‥一生のおねがい‥‥!!」とか「好きなのよ 矢吹くん あなたが!!」、ジョーの「ありがとう‥‥」はあくまでも彼らの内心の言葉にとどまるべきであって、絶対に口に出してはならないセリフなのである。こういったセリフは読者に想像させるべき性格のものであって、口にしてしまうと実に陳腐なセリフと化してしまうのである。葉子の陳腐なセリフは、むしろ乾物屋の娘紀子にふさわしいが、その紀子ですら自分のプライドを捨ててジョーに泣きすがるようなことはなかった。紀子はジョーに向かって、ボクシングをやめてとか、私と結婚してとかいうセリフは口が裂けても発することのない女なのである。 
 紀子はジョーと相合い傘をさして共に歩くことはできなかった。紀子がさりげなく傘をたたむシーンにはジーンと胸がいたくなる。ジョーに差し入れるはずの風呂敷包みを手に、ジョーの後ろを歩く紀子のけなげさと気丈夫さに胸が痛むのはわたしだけではないだろう。紀子はもう二度とジョーの方に視線を向けることはない。別れを決断した紀子の冷徹な表情は、ジョーからグローブを手渡された白木葉子の表情をはるかに超えて毅然としている。日々の暮らしに根付いた女の芯の強さに、白木家の令嬢葉子は敗北したとさえ言える。
 紀子がマンモス西こと西寛一と結婚した、その式の後「公民館」で開催された結婚披露宴での場面を見てみよう。指名されたジョーは「よう、西! そして紀ちゃん‥‥おめでとう。西‥‥おれたちがはじめて出っくわしたのは、わすれもしねえネリカンだったな。人里はなれたへいのなか~~この世に地獄があろうとは~~‥‥と歌にうたわれた東京少年鑑別所よ。そしておれたちふたりはずいぶんはでになぐりあったっけ‥‥そのなぐりあいが、こっちは商売になっちまって‥‥。‥‥おめえは、ふふふ‥‥ちんまりおとなしくおさまりやがって。模範青年、こんなかわいい嫁さんをものにして‥‥まあ、せいぜいしあわせになってくれや!」と言ってドスンと椅子に腰をおろす。紀子はジョーの言葉を黙って聞いている。その紀子の表情が尋常ではない。紀子にとってジョーはもはや過去の男ですらない。ジョーの言葉に動揺し、取り乱すようなことはない。
 思うに、結婚式以後、紀子はもとより、西もまたジョーとの関係を切ったはずである。もし、そうでなければ、この物語は骨を抜かれた煮魚のようにグズグズになってしまう。物語は肉は腐っても骨組みだけは毅然として立っていなければならない。ジョーと白木葉子の関係にわたしは一種のグズグズを感じるが、せめてジョーと紀子の関係だけはどんなことがあってもグズグスに煮くずれしないでほしい。

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 ジョーとホセ・メンドーサとの試合会場に紀子と西寛一は姿を見せていない。紀子がジョーを結婚式に招いたのは一つの区切りをつけるためであって、それは以後の交流を保証するものではない。おそらく紀子は、西とジョーの交流をも許さなかったはずである。紀子がそういう女でなければ、これまたジョーと葉子のグズグズと同じことになってしまう。つまり、試合会場には姿を見せなかったが、テレビ中継からは目を離さなかったというのではダメということである。紀子と西はジョーの世界選手権に意地でも無関心を装うぐらいでなければ、紀子とジョーの別離の場面、結婚式の場面は愚弄されたも同然ということになるのである。

 ジョーがホセ・メンドーサと15ラウンドの死闘を展開していた時、会場に姿を現さなかった紀子と西は何をしていたのか。バンタム級世界選手権がテレビ中継されていなかったはずはない。ドヤ街の連中、ちびっ子たちがテレビの前にかじり付いていたことは容易に想像できる。乾物屋の林屋でも紀子の両親がテレビ観戦していても何ら不思議ではない。しかし、ちばてつやは彼らがテレビ観戦する場面を完璧に描かなかった。
 ジョーの苦戦にいたたまれなくなった葉子は試合会場を後にして車に乗り込む。試合の模様はラジオの実況放送によって知ることができる。会場以外での試合模様は、紀子が社内で耳にするこの実況放送のみである。ちばてつやはドヤ街の連中にも、林乾物屋の居間にもいっさい照明を与えなかった。

 ホセ戦の日本武道館の観客席にサチがいてゲタをはいてコブシをふりあげていたら、ジョーの完全燃焼のジヤマになる。要するに、子供たちとか、マンモス西とか、あたたかいキャラクターなんで、それを出すと話が生ぬるくなっちゃう気がしたんでしょうね。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。238p)

サチが会場に登場しなかった理由はわからないわけではない。しかしマンモス西に関しては説得力がない。西は結婚披露宴で、ジョーに何と言われたか。彼は親戚知人一同の前で「ちんまりおとなしくおさまりやがって模範青年」と言われたのである。これを野生児ジョーの愛嬌たっぷりの挨拶と受け止められれば何の問題もない。結婚披露宴での常識的な挨拶をジョーに求める方がおかしいとも言えるだろう。
 が、問題はジョーと西の関係だけにあるのではない。紀子は〈完全燃焼〉を宣言するジョーを振って、ちんまりおとなしくおさまった西を結婚相手に選んだ。西にとっては冗談ですまされる挨拶も、〈模範青年〉を選んだ紀子にとっては聞き捨てならぬ挨拶だったということになる。自分が選んだ男を、ちんまりとおとなしく乾物屋の花婿におさまった模範青年と揶揄された紀子が、プライドをいたく傷つけられたことは疑いようがない。西を結婚相手に選ぶまで、紀子が好きだったのはジョーである。そのジョーの言葉を冗談で受け流すことはできない。
 ジョーが〈完全燃焼〉して、まっ白な灰になった試合を、紀子が西と一緒にテレビ観戦している場面をわたしは想像できない。わたしの目には、ジョーが15ラウンド、死闘を繰り返している間、紀子と西は乾物屋の仕事に追われている、そんな懸命に働く姿が見える。平凡な日常の暮らしを通して〈完全燃焼〉する途がある。紀子と西はその人生を選んだのだ。ジョーの烈しく短い〈完全燃焼〉に、紀子と西の緩やかで平凡な日常を積み重ねていく〈完全燃焼〉が拮抗していなければならない。西と紀子は、別にジョーのような〈完全燃焼〉をムキになって拒む必要はまったくないが、ことホセ・メンドーサとの試合に関しては、敢えて無関心を装う、そういった意地を通さねばならない時もあるということである。
 わたしは紀子の顔に、平凡を生きる下町娘の意地も人情も感じている。紀子はジョーの〈完全燃焼〉に負けることはない。紀子は、非日常の〈完全燃焼〉を、大きく包む込む日常の〈完全燃焼〉に向けて着実に生きることを選択した女なのである。

 白木葉子に関してちばてつやは次のように述べている。

  葉子という人間はわからなかった。少年院の頃から最後まで、ずっとジョーにかかわってくる女性なんですが、最初の頃は、葉子という女性の心がまったく読めないし、二人が今後どう絡んでいくかわからなくって‥‥。
  いがみあっている以外の普通のセリフは書けなかったんです。美人ぶっていて傲慢でね。少年院を慰問するのも、海外からボクサーを連れてきてプロモーションするというのも、何か金にあかせてという感じで。だから彼女のことは好きになれなかったし、理解もできなかった。ずーっとそうでした。
  葉子は力石の死後、浮き草のように放浪するジョーを再びリングにひきもどす出会いあたりから、ジョーのボクシング人生に深くかかわってきます。
  最初はジョーを侮蔑していたはずなのに、野生を取り戻すためだとか言いながら、どうしてもジョーのことが気になって仕方がない。ジョーとしても“この女、イヤな女だな”と思いながらも何かどこかに触っている感じがある。お互いに、強く意識しあっている。その心情は二人の視線と表情で表現してきました。
  そういう感じでずっと進んできて、力石を死に追い込んでいったことへの負い目とか、責任の一端を感じるようなところが出てきたあたりで、初めて僕もなんとなく、葉子としてもいろいろと募るものがあったんだろうなということがわかってきたわけです。ジョーの体の状態を知った葉子はジョーを案じ、だんだん素直になり、本音を言い始めるんです。僕もだんだん葉子にかわいい女としての感情移入ができるようになってきました。
  ホセ・メンドーサ戦の直前、まず最初に、葉子が“行かないでほしい”と自分の本当の気持ちをさらけ出しました。ジョーを力石の二の舞にはしたくないし、このままいったら自分の大切な人を失ってしまうかもしれないと。それまで悪態をつきながらも、やっぱりジョーのことが気になっていた。それが愛情になるのは、ちょっとしたきっかけでガラッと変わるわけで。(ちばてつや・豊福きこう著『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』2010年1月・講談社。235~236p)

 ちばてつやは正直に「葉子という人間はわからなかった」と述べている。この証言がわたしには実に興味深い。なぜなら、ちばてつやがわからないままに描いていた白木葉子が魅力的だからである。ちばてつやが理解できるようになった葉子は、それまでの秘密のヴェールに包まれたような神秘的な魅力が失せて、単なる恋する乙女へと変貌してしまう。ホセ・メンドーサとの試合前に、葉子がジョーに発する言葉のことごとくが「じつにやすっぽく見える」(ジョーの言葉)のである。
 葉子は涙を流しながら、ジョーの顔も見ずに言う「すきだったのよ‥‥最近まで気がつかなかったけど。おねがい‥‥わたしのために‥‥わたしのためにリングへあがらないで!!」と。ジョーは葉子の変貌ぶりに驚く。葉子は口が裂けてもこんなセリフを発する女ではなかった。ジョーは葉子の〈衝撃の告白〉に対して「女性週刊誌にそのネタを売ってみな。大よろこびでとびついてくるぜ」と返す。葉子はその言葉にひるまず「まじめに聞いて矢吹くん」と続ける。ジョーはベンチに腰掛けたまま両手指をきつく組み「よしてくれ。女がかるがるしく、そんなセリフをはくもんじゃねえ。じつにやすっぽく見えるぜ」と言う。葉子はひるまない。「やすっぽく見えようがどうだろうが、そんなこと問題じゃない‥‥この世でいちばん愛する人を‥‥廃人となる運命の待つリングへあげることはぜったいにできない!!」それに対するジョーのセリフは「リングには世界一の男ホセ・メンドーサがおれを待っているんだ。だから‥‥いかなくっちゃ」である。
 白木葉子は絶対に口にしてはならないセリフを発した。このりセリフは今まで葉子が築き上げてきた神秘的イメージを根底から突き崩すことになった。どうしてこういうことになったのか。ちばてつやの証言を読むと、要するにちばが白木葉子のわからなさ、その神秘性に耐えられず、自分の理解の範疇に葉子を落とし込んでしまったということである。ここに描かれた限りでの葉子は実に分かりやすい。まさにジョーの言う通り、女性週刊誌の読者にでも分かる、実に安っぽい女となっている。
 もちろん、ちばてつやはそのことを批判し非難する読者のあることを予め想定して、敢えて葉子を安っぽいセリフを口にする女として描いている。確かに葉子はそのことで、神秘の覆いをかなぐり捨て、どこにでもいる一人の恋する女になった。小中学生の読者ならそれでよかったかもしれない。が、わたしは神秘の覆いを自ら取り去った白木葉子を認めない。これでは白木葉子白木葉子を全うさせたとは言えない。力石徹に異様な減量を強いた白木葉子、ジョーに面と向かって「リング上で死ぬべき人間なのだ」(第6巻13p)と断言した白木葉子こそが、作品世界の中での白木葉子なのである。

※   ※   ※
燃え尽きてまっ白な灰になってしまったジョーに立ち会った者たちが、その後の人生をどのように生きるのか。ジョーに熱狂した多くの観客やボクシングファンは、ジョーの死をやすやすと乗り越えて自らの生活舞台へと舞い戻って行ったのであろうか。観客は次なるヒーローを求めるだろう。マスコミも同じだ。一世風靡したヒーローもやがては忘れられていく運命にある。
 『あしたのジョー』を愛読した多くの読者は、ジョーの死をどのように受け止めたのか。ジョーに入れ込んだ何人かの者は『あしたのジョー』論を書くことで、自らの思いを吐露したとは言えよう。が、問題はジョーの〈死〉後をどのように生きたかである。ジョーの〈完全燃焼〉を同時に体験した者、その代表者である丹下段平はどのように生き続けたのであろうか。ジョーと出会う前と同様、飲んだくれてドヤ街の藻屑と化してしまったのであろうか。丹下段平がジョー以上の天性のボクサーと出会う可能性はまったくないと言っていいだろう。ジョーの死後、丹下段平は生ける屍と化したに違いない。いくら想像を逞しくしても、丹下段平のまともな生の姿を思い浮かべることができない。白木葉子もまた、描かれた限りでの葉子であれば、もはやプロモーターとしての再起は不可能に見える。ジョーに愛を告白し、〈完全燃焼〉したジョーからグローブを渡された時点で白木葉子もまた生ける屍と化したのである。
 わたしが注目したいのは、西と結婚した紀子である。ちばてつやはジョーとホセ・メンドーサとの死闘の間、紀子と西に関してまったく照明を与えていない。先にも触れたように、わたしのイメージの中では、紀子はジョーの試合を観ていない。意地になっても観ないのが、ジョーと別れを決断した紀子の意地の通し方だと思うからである。結婚披露宴でジョーに「ちんまりおとなしくおさまりやがって模範青年」と揶揄されても黙って顔を赤くしている西が、結婚生活で主導権を握れないのは分かり切った話で、従って西もまた紀子と同様、ジョーの試合を観ていなかったに違いない。
 紀子がジョーの〈完全燃焼〉についていけないと判断した時点で、紀子は西との平凡な暮らしを選んだのである。わたしは、ジョーがホセ・メンドーサと死闘を展開している時、まさにその時に紀子は西と子作りに励んでいたとさえ思う。それぐらいに描かなければ、ジョーの〈完全燃焼〉に紀子の日常は太刀打ちできないのである。西は紀子の尻の下に敷かれた〈模範亭主〉としてその平凡な生涯を全うするであろう。ジョーのまっ白な燃焼の後にも、逞しく生きていけるのが紀子と西なのである。
 わたしの再構築批評では、白木葉子は世界選手権を前にしたジョーの控え室に入り込んで、試合をやめろとか、好きだとか、そんな安っぽいセリフを口にすることは絶対にあり得ない。
 もし、どうしてもジョーに試合をやめさせようとする女性を登場させようとするなら、ドヤ街のサチ以外にはいない。サチは〈永遠の子供〉〈成長しない子供〉として設定されているから、ジョーの控え室でいきなり大人ぶった少女として出現するわけにはいかない。が、サチならここで白木葉子が口にしているセリフを口にしても許容できる。サチがジョーのパンチドランカーに気づいた設定にすれば、無理矢理、控え室に入ることも、「すきだったのよ」「わたしのためにリングへあがらないで!!」のセリフも素直に感動的に聞くことができる。
 見方を変えれば、描かれた限りでの白木葉子はここで〈少女化〉してしまったということである。生き馬の目を抜くのが当たり前のビジネス界で、若くして敏腕を振るってきた白木葉子が、世界選手権の試合を控えたジョーに安っぽいセリフを吐くなどということはまずあり得ないのである。
 サチを〈永遠の子供〉の範疇から解放し、日々成長する女性として設定すれば、彼女こそがジョーの伴侶に最もふさわしい女性に思える。サチこそは格闘者ジョーの孤独も優しさも茶目っ気も、天性的に、体感的に理解している。無邪気で明るく、どんなことがあってもめげることなく、ジョーと共に行動できるサチは、描かれたジョーの〈完全燃焼〉とは違った形での〈完全燃焼〉へと導いていく力があったとさえ思える。
 紀子は日常の暮らしを何よりも優先したが、サチは何よりもまずジョーを優先している。白木葉子に女として対抗できるのは、成長していれば十五、六歳になっているだろうサチなのである。ジョーはグローブを渡す相手を間違えている。ジョーのグローブを悲しみいっぱいの小さな胸に抱きしめられるは、サチのほかにはいないのである。

※  ※  ※
 白木葉子、紀子、サチといったジョーをめぐる三人の女性のうち、一番最初に舞台に登場したのがサチである。
 突然、東京のドヤ街に現れたジョーは、出会ったばかりの丹下段平を足蹴り一発で倒してしまう。これに怒ったちびっ子軍団がジョーに立ち向かうことになる。が、丸太で襲いかかったボスの太郎もジョーのパンチと蹴りの前にあっけなくグロッキー、ジョーを丸く囲んだちびっ子軍団はジョーの強さにビビッて手も足も出せない。「けっ、ひねたつらがまえしやがって‥‥なんのことはない、そろいもそろって腰ぬけどものあつまりかい。話にもなんにもなりゃしねえや。おらあいくぜ!」ジョーはずだ袋を勢いよく肩にかけ、啖呵を切ってさっそうとその場を立ち去ろうとする、とその瞬間、背後から女の子の「は、はなしてえっ。おねがい、かんにんしてえっ」という悲鳴が聞こえる。ジョー、段平、ちびっ子軍団がいっせいに後ろを振り向く。彼らが目にしたのは、ドヤ街を仕切る暴力団鬼姫会の三人の男たちと小さな女の子である。この女の子がサチである。
 ちびっ子たちに「なにをやったんだ」と聞かれて、サチは「おでんをちょっとしつけいしただけだよう。たったの一くし‥‥」と泣きながら訴える。サチの手を強く引いていたチンピラが「な、なにがおでん一くしだ。売りあげ金をつかみどりしてにげやがっくせに!」と怒鳴る。サチは「うそよう、おでんだけよう。みんな、あたいを信じて!」と叫ぶ。チンピラは「ふざけやがって! あたいを信じてだとう!」と怒鳴りながら、右の平手でサチの顔を叩く。「おめえみたいなこそどろは、このドヤ街からたたき出してやるっ」チンピラはさらに何度もサチを平手で殴る。サチは悲鳴をあげて泣きじゃくる。頬に×印の傷を持ったチンピラが「おいおい、よさねえか、こんなところで」とたしなめ、さらに兄貴格のチンピラが「そんな小娘、とっちめたってはじまらねえ。そいつのおやじをとっつかまえて、ねじこんでやるんだ」と口にする。
 この三人のチンピラはその服装や履いているもの、口にする言葉などで明確にランク付けされている。三人共に暴力団員特有の〈虚勢〉(見栄と空威張り)と〈ダンディズム〉(薄っぺらで野暮ったい)を纏っている。
 チンピラにいじめられる小さな女の子、もうこれだけの筋書きで、『あしたのジョー』が子供向けの漫画であることが分かる。というより、これは原作者梶原一騎のものというよりは、作画者ちばてつやが作った筋書きと言えるだろう。なにしろ、最初の二、三話は原作になかったとちばてつや自身が証言しているのであるから。
 ちびっ子軍団やサチはちばてつやの創作で、原作には登場していなかった可能性もある。ところで、サチの言葉とチンピラの言葉のどちらを信じたらいいのだろうか。サチの言葉を信じれば、おでん一くし盗み食いしただけで、大の男三人がかりの連行は大げさ過ぎるし、チンピラの言葉を信じれば、子供とは言え、売上金を掴み取りして逃亡した罪は見逃せないということになる。
 いずれにせよ、「サチのおやじは中風で寝ているんだぜ。中風相手にねじこんだってしようがなかろ」という丹下段平の言葉が一番的を射ている。この理屈は子供の読者にだって分かるだろう。サチの父親が金持ちとか、ドヤ街で利権を握っている男だったら、チンピラたちのねじこみもそれなりに説得力を持つが、単なる中風の男だったら、まさに弱い者いじめの域を一歩も出ていないことになる。段平は屋根の上で酒を呷りながら「そんな小娘ひとりしょっぴいていくのに大の男が三人もかかってよ、大名行列でもあるめえし」とチンピラたちを挑発する。
 この挑発に乗ったチンピラのうちの一人(頬に×印の男)が、梯子から落ちた段平を木刀で叩きのめす。いっさいの手加減もなく、チンピラは段平のうつ伏せになった背中に木刀を打ち下ろし続ける。「バシッ」「ドカッ」「ビシッ」「ドスン」「バン」「ズバッ」「ピシー」この擬音語の連続だけで、チンピラの攻撃の凄まじさが生々しく伝わってくる。作画者は振り返るジョーの顔、ちびっ子三人、ちびっ子八人の恐怖に戦慄する顔の表情を三コマに描き分けて、暴力シーンのすさまじさをリアルに伝える。兄貴分がしたり顔で「おいおい、いいかげんにやめとけ。へたに死にでもしたらあとがうるさいぞ」と口先だけの注意をする。チンピラはこの忠告を無視して、「なあに、そんなかよわい男じゃないですよ。なんせ酒代がほしくなるとダンプ相手にでもあたり屋をやろうってほどのやつですから」と木刀を振り続ける。
 と、次の瞬間、「兄貴分がやめろといってるんじゃねえか、いうこときけないのか」と言って、チンピラの木刀を握った右手首を抑える場面がアップで描かれる。次コマ、「ぼうをすてろい」のセリフと共にジョーの顔がアップ。チンピラ、見知らぬ男の突然の出現に「な‥‥なんだ、きさまは!」と恐怖と怪訝な表情。反撃しようとしたチンピラの左腕を思い切り逆手にとって背中に捻りあげ「ぼうをすてろといってるんだよ、きこえねえのかっ」と大声で啖呵を切る。ジョーはチンピラの左腕を逆手に捻りあげたまま「あんたたち、ざんこくな人たちだな‥‥人になぐられるということが、どれほどいたいものか、ひとつあじあわせてやろうか?」と続ける。チンピラは弱々しい声で兄貴分に助けを求める。兄貴分はジョーの強さにビビりながらも「むむむっ、何者だ、貴様!」と大声を発する。次コマ、小さなコマ枠にジョーの得意げな顔のアップ、セリフは「ジョー‥‥」の一言。
 チンピラの兄貴分に「何者だ、貴様!」と訊かれて、ジョーは「ジョー‥‥」としか答えない。ラスコーリニコフに訊かれたポルフィーリイは「わたしはすっかりおしまいになってしまった人間でして」云々と答えていたが、ジョーの場合は単純に名前しか名乗っていない。次頁1コマ目、ジョーは「矢吹丈だ」と名乗りつつ、チンピラの顎に思い切り右ストレートをかましている。画面上に手書き白抜き文字で大きく「ズガッ」とパンチ音、画面下にこれまた白抜きで「げっ」とチンピラの呻き声が描かれている。
 チンピラの木刀攻撃よりも迫力のあるジョーのパンチが炸裂、今度は右ストレートがチンピラの顔面を「ビッ」と捕らえる。3コマ目、不敵な笑みを浮かべたジョーの顔のアップ。4コマ目、画面右に「ボスッ」「バキリッ」「ズン」といったパンチ音、画面左にその尋常でない暴力場面に恐怖の表情でたじろぐ二人のチンピラと、驚愕の表情で口を大きく開け、両目を大きく見開いたサチの顔が描かれている。5コマ目、殴られ続けたチンピラは意識不明で地べたに仰向けに延びてしまう。6コマ目、ちびっ子どもは驚きのあまり声も出ない。
 7コマ目、今までチンピラに叩きのめされ、地べたに這い蹲っていた丹下段平がおもむろに顔をあげ、右目を鋭く光らせて「や‥‥矢吹丈とかいったな」と口にする。8コマ目、立ち上がった丹下段平は右手を堅く握りしめ、左手を開いて、まるで魔に取り憑かれたような妖しくも厳しい表情で「あ‥‥あれだ、あの男だ! この丹下段平、長いあいだ、さがしにさがし、もとめていたのは。あの強烈なパンチ‥‥あ、あの殺人パンチだ!」と叫ぶ。

 ここに詳細に再現した場面には、ジョーとちびっ子軍団、ジョーと丹下段平、ジョーとチンピラどもとの関係、および『あしたのジョー』という漫画の〈お約束ごと〉が端的に表れている。ジョーは単独者、流浪者の相貌を持って、突然、ドヤ街へとその姿を現したが、姿を現した途端、すぐに丹下段平やちびっ子どもやチンピラたちとのごたごたの渦に呑み込まれてしう。もはやジョーは、このドヤ街を通り過ぎる一点と見なすわけにはいかなくなってしまう。ジョーはこのドヤ街の一角に居続けることを余儀なくされる。そのきっかけが、丹下段平との出会いであり、ちびっ子どもとの出会いにほかならなかった。

 ところで、今わたしが照明を当てたいのは、丹下段平ではなく、チンピラどもに連行されてきたサチである。サチはこの時、初めてジョーと会っている。ただ出会ったのではない。自分を平手で殴ったり、丹下段平を木刀でメチャメチャに叩きのめした鬼姫会のチンピラどもに、たった一人で素手で立ち向かい、容赦なく殴り倒したジョーに出会ったのである。
 ちばてつやの描くジョーの喧嘩っぷりは半端じゃない。延びたチンピラを再び立たせて、強烈な右パンチを顎に、左パンチを顔面に、腰を入れた足蹴りを腹部に、次の瞬間には相手の右腕をむんずとつかんで背負い投げを食らわしている。チンピラは宙で一回転して地べたに叩きつけられ、グーの音も出ない。
 ここまでの恐るべき攻撃を、ちばてつやは次頁五コマとさらにもう一頁二分の一のスペースを費やして描いている。チンピラ相手とは言え、ここまでやるかというほどの徹底した、まったく容赦のない攻撃で、その闘いっぷりには尋常でないものを感じるほどである。
 サチは自分の方へ投げ飛ばされたチンピラを見て「きゃっ」と叫び、両手で大きく開いた口を覆っている。ところで、このサチの「きゃっ」は、この瞬間、ジョーの闘魂魂から発せられた矢によって全身を貫かれたことをも意味している。サチはこの瞬間からジョーに魅了されてしまったのである。
 「ゴゴゴ~~ 風がないている ゴゴゴ~~」と歌って、肩で風を切って、粋に立ち去ろうとするジョーを必死で追っているのは丹下段平だけではない。見開き二頁を費やして描かれたこの場面(第1巻38・39p)を熟視すればいい。杖をつき、よろめきながらジョーを追う丹下段平の反対側の道を、大きなゲタを履いて懸命に駆けているサチの姿が目に入るだろう。


丹下段平がここでジョーと運命的に出会ったように、サチもまたジョーと運命的に出会ったのである。ジョーと丹下段平とサチを線で繋げば三角関係になる。まさに『あしたのジョー』はちばてつやの内では、この三人を中心として展開するはずだったのではなかろうか。が、サチは成長することのない〈永遠の子供〉の範疇に入れられてしまい、白木葉子や紀子のように一人の女としてジョーに関わることが封じられてしまった。
 もし、サチが成長していく女として『あしたのジョー』の舞台で生きることが許されていれば、サチこそがジョーの伴侶に最もふさわしかったと思うのはわたしだけではないだろう。
 サチはジョーとホセ・メンドーサとの闘いの場に観客として参加することも許されず、テレビ観戦する場面も描かれなかった。ちばてつやは前者に関しては「ホセ戦の日本武道館の観客席にサチがいてゲタをはいてコブシをふりあげていたら、ジョーの完全燃焼のジャマになる」云々と述べていた。が、それはサチをいつまでも成長しない子供として扱うということが前提になっている話である。サチが成長する子供であれば、彼女はもはやちびっ子どもの一員ではなく、ジョーの〈伴侶〉として試合を観戦できる〈少女〉になっていたはずである。

※  ※  ※
 サチに関してさらなる照明を与えるために、『あしたのジョー』初代担当編集者・宮原照夫のインタビュー記事に目を止めておこう。引用は「あしたのジョー大解剖」(2013年12月14日 三栄書房)に拠る。

  ーーーー原作のイメージは整った。いよいよ、ちばさんのご登場ですね?
  『ちかいの魔球』からの担当者として、千葉さんのとてつもない才能はずっと認めておりました。ただ、一連のちば作品は、登場する人物も物語も基本的にアットホームで、例えば、悪人が出て来ても、最後まで悪人として描ききれていなかった。つまり、“ニヒル”な主人公なんて、ちばさんの世界には存在しえなかったんです。
  ーーーーしかし、ちばさんに声をかけた。
  当時、ちばさんは30歳近くなっていました。そして、すでに少年誌の大スターであった。しかし、このまま同じような作品を描き続けていたら、やがて作風が固まり、結果、作品が飽きられ、一線から消えてしまうんじゃないか。実際、私はそうした作家を見てきましたからね、それは勿体ないと。今思えば誠にオコガマしい言い方ですが、こんな風に思っていて、今までと違う作品に挑んで欲しかったんですね。
  ーーーージョーはまさにピッタリだと?
  『ハリスの旋風』連載終了の一週間後に提案しました。もっとも、最初は原作付きとは言わずにです。つまり、ちばさんはオリジナルのボクシング漫画と思っておられたわけです。
  ーーーーやがて、梶原さんの原作付きだと明かした。
  え! って顔されてました。まったく乗り気ではなかったんですね。しかし、私も粘りました。ニヒリズムが描けてこそ、今後、より大きなヒューマニズムが描けるはずです‥‥こんなふうに何度も強引に口説きました。
  ーーーーそれにしても、過去、原作を一字一句変えたら激昂したという梶原さんと、ちばさんのコンビ。不安はありませんでしたか?
  無くはありませんが、まず、梶原さんもちばさんの才能はしっかりと認めていましたしね。だから、その上で、こう言った。ちばさんはオリジナルでも漫画を作れる人ですから、今までのように、原作を少しでも変えたらダメは通用しませんよと。
  ーーーー梶原さんはなんと?
  わかっていると言われました。そして、両横綱ががっぷり四つに組むんだから、頻繁に打ち合わせをしようじゃないかと続けてくれました。(24p)

ーーーーあしたのジョー連載第一回目は1968年1月1日号の少年マガジン誌上でしたが、当初、ちばさんは梶原さんの原作を使わなかったと?
  ちばさんから相談があると連絡を受け、馳せ参じると、梶原さんの原作だと話の導入部がつらい。人物がどうしても動かないから、新しいものを作りたいと提案されました。
  ーーーーいきなりですか?
  ええ。でも、話を聞いているうちに自分も納得をし、今度は梶原さんのところへ飛んで行った。そしたら、かなり微妙な顔をされたが、最後はわかったと承知していただいた。
  ーーーー諸説には激昂されて、連載をやめると言い出されたと?
  それはなかったですね。もちろん、喜んではおられなかったけど。でもね、梶原さんの原作って、すさまじい個性があって、並の漫画家じゃ、変えることなんかできないんですよ。それを変えて行けるちばさんもすごいと思いました。まさに異なった才能、個性がぶつかり合いながらも醸成した作品なんです、『あしたのジョー』は。
  ーーーー結果、連載当初から大ヒット作となりました。
  ファン層は主に大学生から若いサラリーマンでした。『巨人の星』とは違う層ですね。少年マガジンなのに、少年じゃなく大人がジョーの虜になった。ジョーに純文学のテイストを求めていた私にとってはしてやったりでした。
   (中略)
  ーーーー連載中の打ち合わせはどのようなものでしたか?
  私自身はあまり、打ち合わせに加わりませんでした。それほど、ちばさん、梶原さん、お二人は良いコミュニケーションを取っておられたんですよ。結局、第七話ぐらいまで、ちばさんは、原作をメインに使わなかったのですが、大きなトラブルにはなりませんでしたし。(25p)


宮原照夫がここで述べていることと、先に検証したちばてつやの話は概略同じである。改めて確認しておかなければならないことは、ちばはオリジナルなボクシング漫画を描くつもりでいたことである。原作の一字一句の変更も許さない梶原一騎、オリジナルで勝負したいちばてつやが、原作者と作画者としてタッグを組んだのだから、トラブルが起きない方がおかしいくらいのものである。ましてや、宮原照夫の証言によればちばてつやは第七話ぐらいまで原作を使わなかったというのであるから、梶原一騎でなくとも、原作者としては屈辱を感じて腹を立てるのが当たり前である。にも拘わらず、大きなトラブルにならなかったのは、宮原照夫が必死で梶原一騎を説得したことにあろう。宮原照夫は予め、ちばてつやは原作通りには描かない、オリジナルでも十分に通用する漫画家であることを伝えている。梶原一騎は不満ではあったろうが、承伏せざるを得なかったのである。
 ところで、梶原一騎の原作原稿は14枚しか残っていないので、『あしたのジョー』の出だしの場面が、原作と作画でどう異なっているのかを厳密に検証することはできない。それにしても、漫画原作者として巨匠であった梶原一騎の原作が14枚しか残っていないという、当時の漫画業界の〈常識〉に驚く。著者の梶原一騎、担当編集者の宮原照夫、作画者のちばてつや、三人のうちの一人でも原作を尊重する意識が強ければ、原作はすべてきちんと保存・管理されたはずである。当時、コピー機が普及していなかったとか、締め切りに間に合わせるためには原作原稿を書き写す時間などなかったなどという問題ではない。要するに漫画の原作に対する評価があまりにも低かったのである。梶原一騎を先生などと呼んでいても、彼の原作に対する扱いはまったくなっていなかった。やがて漫画は批評・研究の対象となるのだという認識がなかったというほかはない。
 ちばてつやは自分を調理師、原作を食材と考えていた。この考え方からは、食材を食材のままに保存しておくという発想は生じようがない。食材は調理師によって料理される運命にあり、原形をとどめることはない。一字一句の変更も許さない梶原一騎にとって、原作はそれ自体で作品なのだという、純文学作家なら誰でも思うことを思っていたに違いない。シェイクスピアの戯曲はそれ自体が独立した作品であり、その戯曲をもとに多くの演出家が独自の舞台を作り上げてきた。梶原一騎の原作もまた、本来、多くの作画者によって漫画化されるものだった。が、当時の梶原一騎にも、担当編集者の宮原照夫にも、そして作画者ちばてつやにも、そういった原作に対する認識はなかった。梶原一騎の原作は、ただ一人の作画者ちばてつやによって調理され、その原形は保存されなかった。
 原作はいきなりボクシングの試合から始まっていたということ、最初の第七話ぐらいまで原作を使っていないという証言に基づけば、ジョーが突然姿を現した東京下町のドヤ街、そこに住むちびっ子どもは、おそらくちばてつやが独自に設定した舞台であり人物であったと考えられる。もちろん、ちびっ子軍団の一人であるサチもまた、ちばてつやが創った人物であったに違いない。
 わたしがサチにこだわるのは、このサチこそがジョーにとって最も重要な、彼の伴侶にふさわしい女の子と思うからである。もし、ちばてつやがオリジナルなボクシング漫画を描けば、サチは〈成長しない子供〉の檻から解放され、白木葉子や紀子とは違った魅力のある美しい女性として登場したはずである。描かれた限りで見ても、サチはその〈子供の衣装〉を〈少女の衣装〉に着せ替えるだけで、ジョーに一目惚れしてしまった美しい〈恋する乙女〉へと大きく変貌する。

※  ※  ※
ジョーはドヤ街で丹下段平と運命的な出会いをした。読者の大半はこの二人の関係に目を引きつけられる。が、ちばてつやはジョーと丹下段平だけを描いていたのではない。ちびっ子軍団、鬼姫会のチンピラどもの群の中でジョーは丹下段平と出会っている。照明の当て方によっては、この群の中の誰もが主役級の光彩を放つのだ。例えば、鬼姫会のチンピラ三人の中で一番下っ端の男、サチにビンタをくらわした男に照明を当ててみようではないか。彼はなぜ、年端もいかないサチに平気で暴力を振るうことができるのだろう。なぜ、彼は鬼姫会に入ったのか。彼の生い立ちを調べれば様々な問題が浮上してくるだろう。ここで詳しく検証することはできないが、すべての人間ひとりひとりの人生に、逃れることのできない重い必然があり、浅薄な善悪観念で断罪することはできない。
 わたしが今、照明を与えたいのはサチである。この〈永遠の子供〉として設定されたサチは、年齢、家族関係などすべて闇の中に覆われている。父親が中風であるということだけは報告されているが、母親や兄弟姉妹の存在、暮らしの様態などは何一つ報告されていない。中風で寝たきりの父親と一人娘の家族構成だとすれば、生活保護でも受けていなければ生活できないだろう。が、ひもじさのあまり、おでんの一くしを盗み食いしてチンピラどもに連行されてきたのだとすれば、おそらく生活保護も受けていなかったのであろう。
 サチにとって盗みは、生きていくための一つの手段であったのかもしれない。サチの窃盗行為を、ジョーも丹下段平もちびっ子どもも非難しない。窃盗によってしか生きられない小さな命を誰が非難できようか。否、鬼姫会のチンピラどもだけが、サチの窃盗行為に〈罰〉を加えている。サチの窃盗行為にさえ因縁をつけて、それを糧にして生きていかなければならない連中がいる。このチンピラ連中に同情の眼差しを注ぐ者はいない。『あしたのジョー』の舞台で、彼らだけはその存在の必然に照明を与えられることはなかった。サチよりも〈小さな命〉を生きて行かなければならない、そのチンピラどもの生の必然は卑怯・卑劣・悪の烙印を押されて一方的に片づけられてしまう。ジョーの強烈なパンチと蹴りで助骨を二、三本折られたチンピラの痛みを体感的に受け止める読者はおそらくいないだろう。作品内でチンピラに同情する視点が完璧に設けられていないからである。
 サチの身なりに注目してみよう。大きな継ぎのあるミニの吊りスカートをはき、白い長袖のセーターを着ている。素足には大きな男用の下駄を履き、左足の脛には包帯を巻いている。頭髪はオカッパ風で髪を後ろで止めている。ジョーを追っていく駆けっぷりなどを見ると、サチは運動能力の高い元気溌剌な子供ということになる。
 それにしても、サチの履いている大きな下駄と脛に巻いた包帯は意味深である。まず下駄であるが、すぐに想起するのはゲゲゲの鬼太郎である。下駄を履き、目玉おやじを肩に乗せた鬼太郎は幽霊世界と人間世界の狭間にあって、両世界の仲立ち機能を存分に果たしている。サチもまた大人社会と子供社会を繋ぐ役割を果たしているように思える。否、そればかりではない。サチはジョーに体現された〈完全燃焼〉と、紀子と西に体現された〈日常〉を仲立ちする役目を負っていたように思える。そればかりではい。サチの包帯は、「脛に傷持つ」者の闇をさえ感じさせる。サチは〈闇〉と〈光〉の狭間にあって、両世界の仲立ちを果たす役目を負っていたも考えられるのである。
 先にも少し触れたが、中風で寝ているサチの父親を単なる貧しい病人などと思っていたのでは、鬼姫会のチンピラどもがサチを連行していく理由がわからない。サチの父親は鬼姫会と深い関係を持っていたと見る方が説得力がある。ジョーはサチを「おでんどろぼうのじょうちゃん」とか「おしめさま」とか言ってからかっているが、わたしの目には、サチは鬼姫会の〈お姫さま〉に見える。中風で寝たきりのサチの父親は、実は鬼姫会の親分であったが、なんらかの事情でその座を奪われたぐらいの裏設定があった方が、サチの存在感は増すのである。白木葉子は政財界の大物白木幹之介の孫だが、サチは闇世界のドンの娘であったとなれば、ジョーをめぐる葉子とサチの闘いにも深みが出てさらにおもしろい展開となったことだろう。


 下駄で想起するもう一人のキャラクターは『じゃりんこチエ』のチエである。『あしたのジョー』が「週間少年マガジン」に連載されたのは1968年1月1日号から、『じゃりン子チエ』が「漫画アクション」に連載されたのは978年10月12日号からである。
チエは小学五年生で年齢は十一歳ながら、ホルモン焼きの店を仕切っている。チエを中心にそこに集う庶民たちの暮らしが描かれている。サチもチエも男ものの大きな下駄を履いているが、決定的な違いはサチの家族が登場してこないのに対し、チエの場合は父親も母親も登場していることである。二人が履いている下駄は、彼女たちの男まさりの性格や背伸びの隠喩でもある。が、サチの履いている大きな下駄は、ジョーの短期間で烈しく燃え尽きるような〈完全燃焼〉と紀子に代表される平凡な日常の積み重ねで生涯を終えるような〈完全燃焼〉との間に横たわる深い淵を難なく渡っていける魔法の道具のようにも思える。
 ちばてつやの漫画において白木葉子はヒロインの座を保持することはできない。ちばは白木葉子のような政財界の大物の孫で、高慢な令嬢タイプが苦手で理解しがたいのである。ちばにとっては、庶民の貧しい暮らしのただ中から誕生してきたような、男勝りの、明るく、どんな苦難にも決してめげることのない、義理と人情に生きるサチのような女の子が最もヒロインにふさわしいのである。だが、ちばは梶原一騎の原作を生かすために、敢えてサチを〈永遠の子供〉の檻の中に封じ込めてしまった。サチはついにこの檻の中から脱出することかなわず、ジョーがホセ・メンドーサと死闘を繰り返している最中にも、その現場に姿を現すことができなかった。
 ちばてつやはサチの魂を白木葉子に移植したとも言える。サチを〈永遠の子供〉〈成長しない子供〉の檻の中から解放する代わりに、サチを白木葉子に移植した、その結果として白木葉子はそれまでの一貫性を剥奪されて、女性週刊誌の餌食となるような陳腐な言動をとらざるを得なくなった。ホセ・メンドーサとの対戦の前に、控え室で白木葉子がなした言動は、〈成長する〉サチがなしていれば何の問題もなかった。それはごく自然な言動であった。白木葉子のものは白木葉子に、紀子のものは紀子に、サチのものはサチにーーでなければならない。描かれた限りで見れば、紀子だけが紀子本来の姿で生きている。

※  ※  ※
 ここで、再び、丹下段平とサチがジョーを追っていく場面に戻る。ジョーが声に出して歌っているのは「風が泣いている」である。浜口庫之助が作詞・作曲、スパイダースの井上順が歌って大ヒットした歌である。時は1967年、『あしたのジョー』が発表された前年である。つまり、ちばてつやがこの場面を作画していたのは「風がないている」が流行っていた1967年で、ジョーはこの年に15歳であったということになる。,
 ジョーの年齢に関しては『あしたのジョー論』(1992年11月 発行・風塵。発売・パロル舎)の著者・吉田和明が第16章「ジョーはいくつで死んだのか?」、第17章「最後の日々にいたるまで!」で詳しく考察している。吉田の作成した矢吹丈年譜によれば、ジョーの誕生は1947年6、7月(13日まで)、ホセ・メンドーサとの世界選手権は1969年12月某日で、その試合後〈完全燃焼〉し、息を引き取ったことになっている。吉田は第17章の最後に「ジョーの死は、22歳の12月のある日のことであった‥‥。1エキジビジョンマッチを含めて26戦して19勝(おそらくすべてKO勝ちであろう)6敗(ホセ・メンドーサ戦における判定敗、力石戦におけるKO敗の他、2TKO敗、1反則敗、1失格敗)1分け、それがジョーの17歳から22歳にして「真っ白に燃え尽き」るまでの、6年強の期間にわたるリングでの成績であった」と書いている。
あしたのジョーの大秘密』(1993年12月 松文館)の著者・高取英と必殺マンガ同盟は吉田和明の説を踏まえた上で「基本的には「あしたのジョー」は『少年マガジン』の掲載の時と同時進行なのだ。/「矢吹丈ーー十五さい」と載っているのは1968年、3月3日号である。/すると、矢吹丈は、1953年の早生まれか、1952年生れということだ。(中略)吉田推論は、22歳の12月のある日、ジョーは亡くなるが、69年のことになっている。/「あしたのジョー」連載終了は、『少年マガジン』1973年5月13日号である。/いうまでもなく、ホセ・メンドーサとの世界タイトル戦終了の回である。この試合は、冬であった。試合決定を報じる新聞の日付は12月22日(金)で、72年(引用者注・73年の誤記)1月7日号だ。だから明けて1973年すぐのことだ。/ぼくたちは、ジョーを1952年生れだと考えているので、この発売号の時、すなわちジョーの死は、20歳か21歳ということになる」と書いている。

 ジョーの年齢に関しては高取英と必殺マンガ同盟の解釈に説得力がある。先に指摘したように、『あしたのジョー』の展開は時系列に忠実とは言えないし、まさに漫画的いい加減さもある。第一、ちびっ子どもが〈成長しない子供たち〉として設定されているのだから、『あしたのジョー』をすべて現実的に理解することには無理がある。わたしはこのことを踏まえた上で、敢えてサチを〈成長する子供〉と見なしてテキストの再構築をはかろうとしているだけのことである。
 サチはいったい何歳ぐらいに設定されていたのだろうか。六歳にも見えるし、十歳にも見える。ジョーが世界タイトル戦を戦った年、六歳のサチは十二、三歳、十歳のサチであれば十五、六歳になっている。サチを成長する子供として設定してあれば、彼女は葉子や紀子よりも、ジョーに相応しい少女として立ち現れてきたはずなのである。

 ジョーはチンピラを半殺しの目にあわせると、さっさと鼻歌まじりでその場を大股で去っていこうとする。ジョーの殺人パンチに魅せられた丹下段平はよろめきながらもジョーを追う。「や‥‥矢吹丈とかいったな‥‥おめえに‥‥おめえさんには‥‥話があるんだっ‥‥」。この時、サチは憧れの両目を見開いて、元気いっぱいにジョーを追っている。この場面からジョーと丹下段平だけを切り取ってみればいい。この構図は、まさに丹下段平がジョーの背後から従属的に追っていることが強調されている。
 ジョーはうるさく追ってくる丹下段平に向かって「ふん‥‥そっちに話があったって、おらあ酔っぱらいと口をきくなあまっぴらだよ。きえうせろっ」と大声で怒鳴りつける。段平はまるで土下座でもするような四つん這いの格好で「よ‥‥酔っちゃいねえ、もう酔っぱらっちゃいねえ」と言い、続いて右膝を立て、右手に強く握った杖を立て、上半身を上げ、左掌を大きく開いて腕をジョーの方へすがるように伸ばす。「目がさめたんだ。おめえのみごとなパンチを見て、すっかり酔いがさめちまったんだ。(ヒック)なあ、わかいの」と、口から唾を吐きながら一気に言う。ジョーは再び前を向き「けっ、なあにが酔いがさめただ! しつこいおやじ‥‥」と吐き捨て、急いで立ち去ろうとする。と、その瞬間、目の前にちびっ子サチが立ちはだかって、ジョーの顔を黙ってまともに見上げている。ジョーは思わず「あれれ」と漏らしている。この時のサチの顔の表情が実にいい。このサチの顔は、ジョーの本質を体感的に、直感的に見抜いて、信頼し切った〈恋する乙女〉のそれなのである。ジョーの帽子の上に何本もの短線が描かれている。言うまでもなく、それはジョーにとって、サチの出現がいかに意外であったかを示す線である。
 ジョーを恐るおそる取り囲んでいるちびっ子どもとは違って、サチは一瞬にしてジョーの本質的な優しさに感応している。画面右には、ジョーに警戒して大きなスコップを振り上げている子供までいるというのに、サチはもはや微塵の恐れも不安もなく、純朴な信ずる乙女の眼差しでジョーの前に立っている。


 ジョーはサチに向かって「なんでえ‥‥おでんどろぼうのじょうちゃん、まだそんなところにいたのかい」と笑顔で言う。サチは大きな声で「どろ‥‥」と言って前につんのめる。吉本新喜劇の定番のようなずっこけである。ジョーはサチの頭を右手でなぜながら「早いとこ家にかえってやんな。おまえのとうちゃん、中風で寝てるっていうじゃねえかよ」。サチは目をつぶり、ジョーに子供扱いされていることに腹をたて、両手の親指と人差し指を鎖状の輪にしてイライラしながら動かしている。ジョーはサチの心情を無視して「ほー、むずかしい顔してやがんなあ。もしや、おまえおトイレいきたいのとちがうか?」とからかう。
 サチはついに怒り心頭に発し、顔を真っ赤にして「かーっ」と叫ぶ。ジョーは「はははは、ま、いいや! こんどはおでん一くしだなんてけちなまねをするんじゃねえよ。どうせやるんなら屋台ごとかっぱらうんだ、屋台ごと。人間たるものすべてにでっかくいかなくちゃいけねえ。なあ! はっはっはっ、はっはっはっ」と豪快に笑いながら、怒りに歯を剥き出し右手に下駄を持ったサチを置き去りにして、大股でさっそうと立ち去ろうとする。サチはジョーに襲いかかる形相で後を追うが、他のちびっ子どもは必死でサチを止めようとしている。
 次コマは「でっかい~~ことはいいことだ~~! それっ」と、まるで酔っぱらいのように足を上げ、手を上げて大声で歌って去っていくジョーの後ろ姿を描いている。ジョーの歌っている歌詞は、当時、髭面の作曲家で有名だった山本直純がテレビコマーシャルでがなり立てていた「おおきいことはいいことだ」のもじりである。ジョーは喧嘩っ早い野生児の印象が強いキャラクターであるが、緻密に見読していくと、実に茶目っ気のあるユーモアに富んだ明るい性格の持ち主であることがわかる。
 しばし、ジョーとサチのやりとりを見ておこう。

 突然、ジョーの後頭部に下駄が勢いよく飛んできて、みごとヒット。下駄は画面右上に、帽子は画面左上に飛び、ジョーの顔はあまりの衝撃に歪んでいる。次の瞬間、ジョーは振り返りざま「だ‥‥だれだ!」と怒鳴る。ジョーは左手で帽子を押さえ(一度、飛んだはずの帽子がジョーの頭におさまっているというのは、ひとつの漫画的表現と見なそう)、右手は拳にして戦闘モードに入っている。このコマは41頁最終コマで、読者は興味津々、頁をめくることになる。もっとも、読者は三コマ前に下駄を右手に持ったサチを見ているわけだから、下駄を投げた相手がサチであることは分かっている。しかし、ジョーはサチに対して侮辱的な扱いをしたという意識が希薄であり、まさかちびのサチが攻撃してくるとは夢にだに思っていない。サチの背後からの下駄攻撃は、ジョーにとって予期せぬ出来事だったのである。
 頁をめくると、カメラはちびっ子どもの側に回り、振り返って頭を押さえているジョーの正面をとらえている。画面左側に描かれたちびっ子どもは確認できるだけで十五人(サチを除く)を数える。ジョーは「お‥‥おでんどろぼうか‥‥な‥‥なにしやがるんだ、いきなり!」と大声で怒鳴る。サチはまったく怯まず「なにもへったくれもあるかいっ。なにさ、おでんどろぼうだの、トイレいきたいのだの、失礼なことばかしいっちゃって! あたいはこう見えてもレディなんだよ!」とやり返す。ちびっ子どもは必死の形相でサチを押さえる。ズボンの後ろポケットにゴムパチンコを差し込んでいる子供は「こ‥‥こら、サチ、よさねえか!」と困惑の表情でたしなめている。画面左下には顔から大きな冷や汗を垂らし、大きな口を開けて「およしってば!」と言う子供の横顔も見える。

※  ※  ※
 注目すべきは、ちばてつやはジョーとサチとの烈しい喧嘩ごしのやとりをちびっ子軍団のただ中で描いていることだ。かつて手塚治虫の漫画版『罪と罰』を批評の対象にした時にも強く感じたが、手塚はドストエフスキー文学に魅了された文芸評論家や詩人、小説家とは違った視点から『罪と罰』を再構築していた。
 手塚治虫は『罪と罰』の漫画化にあたってドストエフスキー文学の根幹に関わるような重要な場面を省略した。○マルメラードフの告白の場面。○ソーニャがラスコーリニコフに請われて読み上げた「ラザロの復活」の場面。○流刑地シベリアでラスコーリニコフが復活の曙光に輝く場面である。手塚はこの重要な三場面を省略したばかりでなく、スヴィドリガイロフという重要人物を革命家スビドリガイロフに脚色したり、丸顔でぷくぷく太ったポルフィーリイ予審判事を鷲っ鼻で細身の体型に変えたりしている。
 手塚治虫ドストエフスキー文学の思想、信仰の神髄に触れることはできなかったが、注目すべきはドストエフスキー文学におけるグロテスクなカーニバル空間を見事に再現して見せたことである。詩人、批評家、小説家がドストエフスキーの文学をあまりにも深刻に受け止めた結果、ドストエフスキー文学の猥雑さ、そのグロテスクな祝祭空間を受け止めることができなかった。
 日本の小説家で憂鬱・深刻なしかめっ面のドストエフスキーではなく、明るく楽しいドストエフスキーを提唱したのは五木寛之で、ロシア文学者の江川卓が〈謎解き〉シリーズでそれを体現したと言える。が、それよりもずいぶんと早く、手塚治虫は漫画版『罪と罰』でそれを実現していた。因みに手塚治虫の『罪と罰』が東光堂より刊行されたのは1953年、江川卓の『謎とき「罪と罰」』が新潮社より刊行されたのは1986年である。