演劇学科日舞卒業公演を観る(連載2)

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四六判並製160頁 定価1200円+税


20日は午後六時より演劇学科日舞卒業公演を観る(連載2)

日本舞踊というと、芸者が酔客を相手に踊る場面をイメージするものがいるかもしれない。日本映画の中では料亭やお座敷に呼ばれた芸者が三味線を伴奏に畳の上で踊る場面が出てくる。この場合、踊る空間は畳一畳もあれば十分で、客は粋な芸者の踊りに満足する。芸者は接客業の一種であるから、酒を注いだり、話の相手をしたり、求められれば歌も歌うし、踊りも踊る。こういったお座敷芸としての日本舞踊は、ある一定の狭い空間で踊ることから、飛んだりはねたり、走り回ったりすることはできない。振りは小さく、動きはできるかぎり抑えて優雅な感じを出さなければならない。踊り手の衣装は着物、白足袋、髪型は日本髪と決まっている。着物姿で女性特有の色香や優美さを表現しようとすれば、とうぜん身体各部の動きは限定されることになる。顔の表情、うなじ、肩、腰、脚、足、腕、手、指を駆使して、どのように優美さを醸し出すか。踊る場所はきわめて狭いので、腕の延ばし、手先のひねりや差し、しゃがみ、立ち、ひねり、回しなどの動きも全般的にゆるやかにしなければならない。日本舞踊に唯一神に対する崇拝の念とか、地下の地獄に対する恐れといった感情の表出はないので、天と地と地下を結ぶ垂直軸の身体表現は基本的に要請されていない。天井に向けて垂直に飛び上がる動作や、地下に落下するイメージの鋭いしゃがみもない。日本舞踊の基本の振りは、螺旋と斜線と言っていいだろう。いわば身体各部の緩やかな水平的動作によって成立している。

お座敷での日本舞踊は、基本的に客の気分を損ねてはならない。客を含めたその場に存在するすべてのものとの融和、調和、愉楽に力点をおいた緩やかな水平的な動作によって、人間の感情・情念を表現しなければならない。動きの速い、激しい動作は、露骨で極端な表現であり、それは野暮の骨頂となる。粋な踊りは抑制のきいたゆるやかな動作・振りをもって表現されなければならない。泣いたり、笑ったり、叫んだり、悶えたり、呪ったりといった、激しく悩ましい情念の表出も、抑制のきいた型におさめて慎ましやかに表現することが求められている。ドストエフスキーの人物たちの多くは〈感情の爆発〉を起こすが、日本舞踊にあっては、そういった生の荒々しい感情の表出は許されない。それは日本人の美観に反するものとして拒まれてきたのである。

 先日、日芸江古田校舎・中ホールで観た演劇学科・日舞コース六人の踊りは、既成の日本舞踊に対するイメージを大きく覆しているが、しかし日本舞踊の伝統の上に立っていることに間違いはない。まず、衣装は着物で足袋をはいている。お座敷と違って舞台空間は広く、飛んでも跳ねても走っても別に差し支えないが、しかしより高く飛ぶとか、より速く駆けるということが第一に要請されてはいない。和服は飛んだり駆けたりするには都合が悪すぎる衣装である。バレリーナや女子体操選手の衣装ではなく、あくまで着物と足袋にこだわっているところに、日本舞踊の伝統を継承する者の明確な意志を感じる。

 今回の公演で強く感じたのは、踊り手の主体である。踊りが踊る主体の意志、思想、ビジョンを明確に反映している。過去の伝統を踏まえながらも、現在を生きる〈我〉を前面に押し出している。今回の舞踊を指導された花柳昌太郎氏は挨拶文で「大きな全体のテーマに沿って、自分の作品は何を言い、何をどう表現して行ったらよいか、作品制作の過程の中で問い、長い時間をかけて考え悩んだ結果が、今日の舞台で生き生きと「生きる」に結びついていると思います。一つの作品を創るのに自分の持ちうる全てのものを出し切って、各々の作品が完成された事と思います」と書いている。わたしは公演を観て、花柳氏のこの言葉を感動の震えのままに素直にきくことができる。パンフの〔指導〕の項に「創舞 花柳昌太郎」とあった。まさに今回の公演は〈創舞〉であった。一人一人の踊り手の特性を大切に育てながら、各自が自らの〈創舞〉に取り組んだ、その必死な稽古の現場が脳裡を駆けめぐって行く。指導者と学生の関係というよりは、やはり師匠と弟子の〈創舞〉に賭ける濃密な関係の渦のただ中から、今回の生き生きとした公演が実現したのだと思う。

 彼女たちの公演にわたしが感動したのは、まざまざと彼女たちの「生きる」現場に立ち会ったからである。どんな人間でも、この世に誕生すれば死ぬまで生きているわけだが、自分が本当に〈生きている〉という充実した感覚を持ち続けることは容易ではない。生きながらにして死んでいるような人間は多い。一見、元気はつらつに生きているようで、実はハイデガーの言葉で言えば、世界に頽落した様態(好奇心・おしゃべり・曖昧)を生きているだけの者は多い。今回の公演のテーマである〈生きる〉を表現するために、踊り手たち一人一人が、自分の人生を振り返り、現実を見据え、未来にどのような思いを寄せたのか、その内的揺らぎや葛藤のドラマが舞踊という身体表現に体現されていたからこそ、わたしの魂を直撃したのである。自らの舞踊に心血を注ぎ、真摯に自己と向き合えば、その思いは観るものに伝わる。自分の思いと構想が先走って身体表現に結びつかない場合もあろうし、既成の表現形式から脱却しきれないいらだちもあるだろう。しかし、第一の問題は、技術ではない。自己を見つめる真摯な姿勢であり、自己に対して偽りや妥協を許さない精神の姿勢である。哲学や思想は、借り物であってはならない。自分の頭で、自分の感覚で、自分の体験を踏まえて、人間とは何かという謎を掘り下げていかなければならない。未熟を恐れて、虚栄に走ってはならない。原寸大の己自身を表現しなければならない。文芸は〈言葉〉で、音楽は〈音〉で、絵画は〈色〉で、舞踊は〈舞い〉と〈踊り〉で表現しなければならない。表現されたものによって、表現者の内的世界は浮き彫りにされる。踊り手の自己内省力、不信と懐疑の振幅、葛藤、悶え、叫び、憤怒、悲嘆、歓喜、祈り、あらゆる人間感情のすべてが反映される。もし〈表現〉に虚栄が、嘘があれば、それはそのままに反映されてしまう。だからこそ表現は恐ろしい。

 踊り手は各々の〈生きる〉を表現していた。構想と表現が一致するとき、踊り手の実存が観客の魂を直撃する。わたしが、今回素直に感動したのは、踊り手たちに妙な、すれた変化球の投方を感じなかったこともある。若い踊り手たちが、必死に独自の表現を模索し、葛藤し、悩んだ痕跡はあるが、そこに甘えや妥協がなかったこと、舞踊表現に必死にしがみつくその真摯な姿勢に胸がざわめいたのである。若い踊り手たちの才能を確信し、踊り手たち各自の独自性を尊重する、花柳昌太郎氏の指導法と情熱にもいたく感動した。わたしはこういった感想を記すことでしか応援できないが、今回の「生きる」を観せていただいたことに心から感謝している。

スタッフの二人は私の担当する『雑誌研究』の受講生。演劇学科三年日舞コース上田薫さん(左)と長友友里さん(右)。

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