ユッキーの紙ごはん(連載28)

清水正への原稿・講演依頼・レポート提出は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税

京都造形芸術大学での特別講座が紹介されていますので、是非ご覧ください。
ドラえもん』の凄さがわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp

清水正へのレポート提出は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお送りください。


ユッキーの紙ごはん(連載28)


【not今でしょ】


ユッキー


 



就活の情報を集めようと思ってネットサーフィンをしていたら、いつのまにか当初の目的を忘れて関係のないページを見ているなんてことがよくある。
そのときに見つけたものなのだけど、「こんなことを考えている。仕事が辛くて辞めたいこと。本気で死んでしまいたいということ」といった内容の短い文章が、こんな一言で締められていた。

「今死んだらきっととても寒いということ」

死を考えるほど落ち込んでいる人に不謹慎で申し訳ないが、とても素敵な文章だと思ってしまった。

死んでしまうのに、その後の寒さを気にする。
不合理だと思う。素敵だといっておきながら、自分の解釈が合っているのか不安ですらある。

よく、「人は二度死ぬ」といわれる。肉体の死と、人々の心から忘れ去られるという死。
見知らぬネットの中でだけの人が「今死んだらきっととても寒い」と思ったのは、自殺してから二度目の死を迎えるまでのあいだのことなのかもしれない。

時は師走で、これからクリスマスや年末年始を迎えるためにみんな何かと忙しいというときに、自分は追い詰められて死を選ぶ。
事情を知らない人には「えっ」と思われて、知っている人には「ああ……」と思われて、どこかから「こんなときにやめてくれよ」だとか「残りの仕事どうするんだよ」だとか「弱い人だなあ」だとかいう心の声も聞こえてくる。
どうして死んだのかをあれこれ噂されて、古くなる2013年と一緒に取り残されて、二度目の死へと追いやられていくんだろうか。

それって、いくら凍えても足りない話だ。

主に思春期の女の子が夢見る、「私が死んだらみんな悲しんでくれるかなあ」という妄想。悲劇のヒロインになりたい願望。私も妄想したことがあるけれど、これも二度目の死を意識したものである気がする。
「私が死んだらみんな悲しんで、たくさん私のことを考えてくれて、忘れないでいてくれるんじゃないか」という、若い肉体の死を選び取ることで二度目の死を捨て去ろうとする気持ち。

そんなものは幻想で、世界は、思春期の子供が思っているよりずっと多くのことに忙しくて冷静だ。
「今死んだらきっととても寒い」といった人は、仕事する年齢であるし、それを知っていたのだろう。知っているから、寒いと思った。
死にたいと思う今死んだら、きっととても寒い。

「死んだあとのことなんかどうだっていいじゃん、知りようがないんだから」と思う人もいるかもしれないけれど、私だってそう正論を言われると「たしかに……」と思わなくもないけれど。
じゃあたとえば、深夜に書いたラブレターだとか恥ずかしい妄想を綴った小中学生の頃のノートだとかを部屋に開けっぴろげに遺して死んだら、やっぱり私は死んだあとのことでもどうだって良くない。これからの大掃除がんばろう、と今から気合を入れてしまう。

「今死んだらきっととても寒い」
思い出しては、良い文だよなあと耽る。死にたいという絶望的な思いと、でも死にたくないという思いが同時に伝わってくる。

こういう人が創作すると上手いんだろうなと考えて、編集者の知り合いがいる先生が言っていたことを思い出した。

「良い作品を創り続けることができる人は、いつも人生を抉られている人なんですよ」

彼はそういって、「だからある意味、辛い人生ですね。私は絶対にいやです」と吐き捨てた。

 たしかに、「今死んだら……」と書いた人も、人生を抉られなければ死にたいとは思わなかっただろうし、今死んだら寒いと感じることはなかっただろう。
 だけどなんとなく、少なくとも私が素敵だと感じるこの一言をインターネットに残したことで、彼あるいは彼女がいつか死んでも少しは寒くないんじゃないかと思った。



※肖像写真は本人の許可を得て撮影・掲載しています。無断転用は固くお断りいたします。