どうでもいいのだ

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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載55)


清水正


〈読み物〉と〈芸術〉


 今まで書いてきたことを念頭において、先に触れた『談志 名跡問答』 (2012年4月 扶桑社)における談志のドストエフスキー発言を具体的に見ていくことにしたい。



 談志 今考えている芸術論があってーーまだ解決はしていないんですけどもーー福田さんがどういう解釈をするか分からないけど、日本人にとって外国の文学、絵画、音楽、芸能は、それを見て感動はあるかもしれないけど、芸術とは違うんじゃないかなと思って。やっぱり育った場所というのが大事なんじゃないかと考えているんです。
  今年の二百十日はどう吹くかとか、赤いベベ着た妹の手を引いて、鎮守の祭りへ行って、今年の祭りはようできた、とかね‥‥‥そこからはじまる芸能というのは、日本人にとって芸術になり得るでしょうけど、そうでないものはな得ない。例えば神社のお神楽だとかいろいろなものが芸能とつながってきたけども、それも時代が変わって大衆と離れていっちゃう。落語なんかはやっとつながっているんじゃないのかなと思うんだけど。
  いくらアメリカの、またはスペインの、イタリーの、そういうものを観たとする。やれカルメンだオペラだって、感動する人もいるでしょう。だけど、それは感動であって、“品物”としては見世物だというのが俺の意見。ドストエフスキーでも結構な作品ではあるけど、日本人にとっては読み物だというんだ。荷風はやっぱり読み物ではすまないんじゃないのかなという気がする。これはいつ壊れるかもしれない一つの意見ですから、反論されると、ああそうかなと思うことがあるでしょう。でも曲げたくないですね。
 福田 ドストエフスキーは、日本人にとっては読み物だけれども、ロシア人にとっては芸術だということですか。
 談志 そうです、彼らにとって、ロシア人にとっては芸術なんですよ。それと同じように、アメリカのハリウッドでつくったいいものはアメリカ人にとって芸術。だけど、それをドイツ人が見たって分からないと思うんですよ。インディアンが見ても分からないと思いますね。それだね、芸術というのは。
  今もずいぶん真似っこが流行って、何だっていうと日本人は真似をしましたよね。ロシア舞踊がくればロシア舞踊の真似をする。バイオリンでもピアノでも、それに溺れる人もいていいと思うんですよ、鑑賞して素晴らしいなと思って。だけどやっぱり芸術という、くどいようだけど“美”へつながっているものとはす違うな。どうぞ反論があったら、どう思いますか。



 談志が言わず、福田が確認していないので、談志がドストエフスキーのどの作品を読んだのかは、この対談を読む限りは分からない。ここでの談志の発した言葉に限って言えば、ドストエフスキーの“品物”(作品)は、いくら日本人が読んで感動したにしても、それは所詮“見世物”であって“読み物”の次元を超えることはできない。ドストエフスキーはロシア人にとっては“芸術”だが、日本人にとっては“読み物”でしかない。と、まあ、こういったことになる。
 ところで、ドストエフスキーの『罪と罰』の前半が明治二十五年に内田魯庵によって英訳から日本語に移されて以来、ドストエフスキーの文学は熱狂的に読まれ続けた。

内田魯庵は「初めて『罪と罰』を翻譯した頃」で「私は今でもドストエーフスキイを時々讀んでゐる。しかし、讀み度くなつて本を机の上に置いて、いざ頁を繰り擴げようとする時、丁度劇藥を飮む時のやうな、一種の恐怖を感ぜずにはゐられない。(中略)ドストエーフスキイの小説は、忽ち讀者の魂に喰うひ入つて、巨きな手でその魂を掴んでしまふ。小説そのものの善惡は別として、ドストエーフスキイほどの力ある作家は、上下一千年間に又と出ては來まいと思はれる」と書き、新城和一は「ドストエーフスキイ禮讃」で「おゝ、大ドストエーフスキイ、彼こそは深淵中の深淵を極め、高峯中の高峯を極め盡したものである。彼こそは偉大なるものゝの中の偉大なるものである」と書いている。

 いちいち引用はしないが、二葉亭四迷、北村透谷、葛西善蔵島崎藤村萩原朔太郎坂口安吾小林秀雄横光利一野間宏椎名麟三武田泰淳などの詩人、小説家、文芸批評家はドストエフスキーの文学を深刻に受け止めてきたと言っても間違いではない。ひらたく言えば、日本の文学者たちはドストエフスキー文学を文字通り“芸術”と受け止めてきたのである。
 その一種の反動として五木寛之が「面白おかしいドストエフスキー」を唱え、江川卓がその線に沿って謎解きシリーズを「新潮」誌上に展開した。この謎解きシリーズは多くの読者に受け入れられ今日に至っている。つまり、日本の読者はようやく深刻なドストエフスキーから解放され、ドストエフスキーを“芸術”ではなく“読み物”としても楽しめる段階に至ったことになる。
 談志はその意味では“芸術”と“読み物”の概念を取り違えている。
 ところで、ドストエフスキーの日本人読者とは言っても、一括りできるほど単純ではない。ドストエフスキーを読んでキリスト教徒になった者もいるし、小説家、詩人、批評家、ロシア文学研究家、翻訳家になった者もいる。かと思えば、深刻、暗さ
、病的なものを感じて生理的に受け付けない者もいる。ざっと読んで、あまり影響を受けない者もいる。わたしのように五十年近くも繰り返し読み、批評しても飽きない者もいる。要するに千差万別で、〈日本人〉という大枠ではとらえきれない。
 一般論として談志の言うことがわからない訳ではないが、今や日本人でも世界的に活躍するピアニスト、ヴァイオリニスト、舞踊家声楽家、西洋画家、彫刻家がおり、逆に日本人以外の人々による日本文化・スポーツの継承者が現に存在している。現在(2015年1月現在)大相撲の横綱三人がモンゴル人であり、柔道家や空手家も世界中に存在する。民族独自の芸能・文化と言っても、大いなる時間のうちでは他民族の影響を受け、それらは融合・継承・発展していくものであり、決して固定化されるものではない。ロシア文学の影響を受けた日本人の読者は、本国ロシア人の読者以上にそれを理解しているかもしれない。
 まあ、こういったことを了解した上で、談志が日本人にとってドストエフスキーの作品は“読み物”であって“芸術”にはなり得ないと主張しているのであれば、それはそれで分からないことはない。ロシア正教の伝統の中で育ってきたロシア民衆の信仰、心情を日本人が体感的に理解することは困難であろう。が、同じ十九世紀ロシア人とは言っても、読み書きもできない農奴とロシア語よりもフランス語を正確に話したという貴族とを一括りにはできないだろう。ドストエフスキーなど一度も読んだことのないロシア人がおり、日本人なのにドストエフスキーを生涯をかけて読む者がいる。
 ドストエフスキーの文学を談志が言う意味でなく“読み物”として読む時代に入っていることは確かだが、まさにそのことがドストエフスキーの“芸術”(本質)から離れていくことにもなっていると言えるだろう。



 
 



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