松原寛との運命的な邂逅ーー日大芸術学部創設者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証ーー

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清水正監修『日藝ライブラリー』3号 特集「日大芸術学部創設者 松原寛」(日藝図書館刊行 2016年7月7日)が刊行された。


『日藝ライブラリー』3号に掲載した批評の最初の部分を何回かにわたって再録する。

平成27年1月15日(金)
松原寛との運命的な邂逅ーー日大芸術学部創設者・松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証ーー

清水正日大芸術学部図書館長・日大芸術学部文芸学科教授)

江古田での神秘体験

わたしが江古田の地に初めて降り立ったのは、昭和四十三年三月一日であった。一年間の浪人中、受験勉強はそこそこに、ひたすらドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいた。失恋の痛手もあって体重は四十三キロにまで落ちていた。よく生きていたという状態で、わたしが最後に選んだ大学が日芸の文芸学科であった。三月に入って受験できる大学と言えば日芸くらいしかなかったのかもしれない。どうしても日芸を目指すなどという志とは無縁であったが、運命がわたしを江古田へと向かわせたことは確信できる。
 江古田駅南口の階段を降りてすぐ、日芸校舎に向かう途中で突然背中がゾッとした。何か霊的なものにつかまれた感じで、わたしはその感覚を忘れたことがない。場所も明確に覚えている。江古田駅を降りるたびに、わたしはいつもその奇妙な、神秘的な感覚を思い出していた。
 入学してすぐに大学紛争が勃発したので、まともな授業は各講座一回位だったので、その授業内容も明確に記憶している。特に印象に残っているのは千何百人かがぎっしり詰まった大講堂での一般教養科目の授業、見事にだれ一人として聞いていない。雑談、週刊誌を読むものばかり、老教授の講義を聞いていたのはわたし一人だったのではないかと思うほど、質の低い授業であった。講義はノートをただ読むだけの形式的なもので、学問に対する情熱も、学生に対する熱意も何も感じなかった。はっきり言って、まあこれは大学ではないな、という拭いがたい思いを抱いた。大学改革を求める学生がたちあがるのはごく当たり前ということだろう。

 全共闘の連中が動き出し、連日、校舎前ではデモ行進が行われた。わたしは大講堂の二階から彼らの熱い行動をひたすら見ていた。わたしには彼らと行動を共にする情熱も理論的な支柱もすでに崩壊していた。わたしは十七歳でドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読んで以来、行動する理論的根拠をなくしてしまったのだ。
 やがて江古田校舎は全学連の革命戦士たちによって占拠され、授業はすべて休講となった。わたしは彼らの活動を傍目に、平凡社版世界文学全集『悪霊』を小脇に、江古田駅から歩いて三十分ほどの所にあった段ボール工場に通った。バイト料金一時間百円、勤労時間は自由で、ひまな時にでかければよかった。当時、わたしは完璧な夜型人間で、夜はドストエフスキーを読むこと、批評することに費やした。朝方に二、三時間睡眠がとれればいいほうで、不断に自意識が働いてとげとげしい気分に支配されていた。朝食はとらず、昼にほんの少し、夜もほとんど満足に食事したことはない。当時、口にしていたのは煙草のニコチンとコーヒーくらいで、何を食べたのか具体的に思い出すことさえできない。
 大学が封鎖され、貧困な授業に煩わされることなく、わたしはドストエフスキーに没頭することができた。まず書いたのが『白痴』論、これは七十枚ほど書いた。次に書いたのが『悪霊』論でこれが九十枚、続いて『カラマーゾフの兄弟』論、これは百三十四枚、原稿用紙百枚を越えたときの手のふるえを未だ忘れることはない。最後に『罪と罰』論七十枚。こうしてわたしの最初のドストエフスキー論三百七十枚は完成した。わたしはこれを出版したいと思っていたので、江古田のダンボール工場で痩せたからだにムチ打って働き続けた。一時間働いて百円だったが、労働時間は拘束されなかったので一年間続けた。が、その費用だけでは印刷製本費に足らず、所沢のゴム工場でもバイトすることにした。ここは一時間二百五十円で当時破格のバイト料金であった。我孫子の自宅から、所沢のゴム工場まで往復六時間かかった。仕事の内容はトラックで運ばれたカットされた鉄パイプをひたすら数えること。わたしはここで一日八時間働き、ようやく本の出版にこぎつけた。タイトルは『ドストエフスキー体験』、発行元は清山書房と名付けた。刊行年月日は一九七〇年年一月二十日。わたしの二十歳の記念となった。
 わたしの大学一年間は、ひたすらドストエフスキーを読むことで終わり、全共闘の過激な活動は、いわば強大な国家権力の行使によって押さえ込まれた。連合赤軍事件としてあまねく世に知られた群馬県榛名山中における凄惨な内ゲバの実態が発覚、連日、テレビ・新聞が報道し、ここに日本における革命運動はその生命線を絶たれた。日本の知識人たちの間で、この事件と『悪霊』が関連づけられ、ドストエフスキーの文学の予言性など語られた。が、彼らのうちの誰一人として『悪霊』の本当の意味での凄さを理解していた者はいない。ふたつだけ例としてあげておけば、彼らが素朴に信じて疑わなかったに違いない、秘密革命結社五人組の首魁ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーが、実は社会主義者など最も愚かな人間の部類に属すると嘲笑愚弄していた二重スパイであったこと。もうひとつは『悪霊』の作中作者アントン・Gだが、アントンは自由主義者ステパンの元に国家から派遣されたスパイであったということ。つまり『悪霊』は国家から派遣されたスパイ(アントン)と二重スパイ(ピョートル)が重要な位置を占めているが、連合赤軍当時の評論家やドストエフスキー研究家でこのことをきちんと認識していた者はいない。
 大学紛争が一段落して、江古田校舎の封鎖も解け、授業は再開された。とは言ってもまともな授業などされるはずもなく、臨時措置としてレポート提出で受講科目の単位は与えられた。再開後に、わたしは国文学を担当されていた松原博一教授を知った。わたしは書き終えた『悪霊』論の原稿を松原教授に託した。おそらく松原教授の、教室での言葉に何か熱いものを感じたのだろう。ある日、江古田駅を降りてすぐ、例のゾッを感じたあたりで、松原教授にぐうぜんお会いした。松原教授は駅前の喫茶店にわたしを誘い、ホットコーヒーをごちそうしてくださった。
 わたしはこのとき、常日頃思っていた芭蕉について語った。「静かさや岩にしみいる蝉の声、この俳句に芭蕉という生身の俳人は存在せず、彼は自然そのものとなっていますね」これに対して松原教授は「芭蕉はかなり人間臭かったです」と一言。腑に落ちることもあり、わたしは改めて人間芭蕉に対する興味をそそられた。松原教授は缶ピーをひたすら愛する喫煙家で、この日は切らして、しかたなくショートピースを吸っているということであった。わたしはハイライトオンリーのヘビースモーカーだったが、松原教授はわたしにピース一箱を譲ってくださった。わたしはうれしくて一ヶ月ほど机の上に飾っておいた。何週間後に松原研究室を訪れ、『悪霊』の原稿を返してもらったが、内容に関する教授からの感想はなかった。
 二年次になって、わたしは日芸の授業にはきっぱりと見切りを付けた。それでも卒業するつもりはあったので単位だけは取得した。中学と高校の国語教員免許の資格も取った。わたしは今でもつくづく思うが、大学は学問研究・創造機関であるのだから、学生に自由に研究・創作に励める十分な時間を与えるべきで、それが日本大学が掲げる自主創造の理念にかなっていると考える。
 当時、ドストエフスキーは熱狂的に読まれていた。江川卓、新谷敬三郎、木下豊房等ロシア文学関係者が発起人となって「ドストエフースキイの会」を組織し、一般のドストエフスキー愛好家たちを集めて研究会・報告会を開いていた。わたしはぐうぜん新聞の紹介欄でこの会を知り、東京厚生年金会館で開催されていた第九回例会(1970年4月27日)に参加した。講演者は早稲田大学ロシア・フォルマリズムの研究者として知られていた水野忠夫で題目は「『カラマーゾフの兄弟』をめぐって」であった。わたしは『ドストエフスキー体験』(1970年1月1日)を持参、講演後の水野氏に一冊さしあげた。この時、拙著をお譲り願えないかと申しこまれたのが近藤承神子であった。近藤氏はわたしの本を誰よりも先に高く評価し、全面的な応援者になっていただいた。彼はわたしに坂口安吾、秋山駿、つげ義春滝田ゆう、そして当時あまり注目されていなかった大友克弘の存在までも教えてくれた。わたしが後につげ義春漫画の批評を展開するきっかけを作ってくれたのも近藤氏、『ドストエフスキー体験』を彼の行きつけの古書店、赤羽にあった豊島書房の主人に刊行を推薦したのも近藤氏であった。近藤氏は当時、郵便局員として働いていたが編集者としては先見の明を持っていた人で、豊島書房の岡田富朗には『内部の人間』の著者秋山駿の著作刊行を強く勧めていた。岡田富朗は秋山駿の本はついに出さなかったが、わたしの『ドストエフスキー体験』の増補改訂版を出版することを承諾した。
 二年の時、わたしはアルベール・カミュを研究していた大久保敏彦専任講師のゼミに所属し、ドストエフスキーと同時にカミュ文学の世界に参入することになった。その成果はゼミ雑誌「アルベール・カミュ」に「不条理の世界ーーアルベール・カミュドストエフスキー」として発表した。増補改訂版には一年時に執筆し終えてなかった『未成年』論とこの論文を増補して出そうと思っていた。二年時中には刊行されると甘く考えていたが、豊島書房からは何の連絡もなく、この話は没になったのかとさえ思ったが、大学四年時に刊行されることになった。タイトル「ドストエフスキー体験」に関して、すでに椎名麟三に『私のドストエフスキー体験』があるので変更したいという要請があった。それで不本意ながら最初サブタイトルにしていた「停止した分裂者の覚書」をタイトルに、タイトルに考えていた「ドストエフスキー体験」をサブタイトルにした。これではまるで精神病者の手記と勘違いされるのではないかと懸念したが、別にその理由ばかりではなかろうが、この本はさっぱり売れず、書評にもとりあげられず、みごとに商業出版として失敗した。
 『ドストエフスキー体験』を池袋西口にあった芳林堂書店仕入部担当者は、この店だけで百冊以上を売ってくれた。『停止した分裂者の覚書』刊行の折り、彼は、新人の本を売り出すのに、有名な作家、評論家の推薦文ひとつ付いていないのは異例中の異例と言っていた。それまでそんなことを気にしてもいなかったが、言われてみればもっともなこと、豊島書房ではドストエフスキーに多大な影響を受けている近代文学派の埴谷雄高荒正人などの本も刊行していたのだから、ふつうに考えれば彼らに推薦文を書いてもらうとか、そういう商業戦略もとうぜんあってしかるべきだろう。だがさらによくよく考えてみれば、そういった商業戦略などを考える社主であれば、わたしの本など刊行することはなかったであろう。近藤氏によれば、荒正人はわたしに会いたい旨、豊島書房社主に伝えてあったそうだが、それを聞いた近藤氏はおそらく清水さんにはそういう気持ちはないだろうから断っておいたということであった。むろん当時のわたしもそんなことは当たり前と思っていたので、近藤氏の断りに関しては、この人はよくわたしのことがわかっていると思っただけであった。とうぜん、近代文学派の著名人からの推薦もなく、タイトルもタイトルなので、この本はいわば刊行はされたが社会の表層で流通することはなかった。
 豊島書房は出版を兼ねた古書店でもあった。『停止した分裂者の覚書』は神田の古本屋「三茶書房」の割引定価のコーナーに平積みされることになった。三冊百円とかいったゾッキ本の箱に入れられていたわけではいが、定価千円の本が半額の五百円で売られていた屈辱は未だにわすれられない。誇り高き著者の心に烈しい怒りが生じた。わたしは自分の力で、この屈辱をはらすしかないと一人誓った。やがて『停止した分裂者の覚書』は定価の千円になり、それ以上の価格を獲得することになるが、定価通りになるまでに二十年以上の歳月がかかった。わたしのドストエフスキー体験は死ぬまで続くのだ。「ある時期、ドストエフスキーを熱心に読みました」とか、したり顔で口にする者と一緒にされては迷惑至極なのである。
 わたしは、荒正人ばかりではなく、埴谷雄高にも小林秀雄にも実際に会ってみたいと思うことはなかった。わたしが大学一年時、憑かれたようにドストエフスキー論を書いていたとき、日本の批評家で読んだのは小林秀雄ドストエフスキー論で、これは参考にしたとかいうのではなく、文字通り決闘であった。とうぜん、小林秀雄の影響も受けたには違いないが、小林秀雄の批評からの脱出も必死になって模索していた。ドストエフスキーの文学は小林秀雄の批評では太刀打ちできないということを、わたしは実際にドストエフスキー山の素人登山者として体験していたので、それは体でわかっていた。数年後、宇波章が小林秀雄の批評は人間主体的な批評で作品自体を論じていないという、まさにロシア・フォルマリスト風の理論を連続して発表し、日本の文芸批評界に新風を巻き起こした。
 当時、早稲田大学文学部の教授だった新谷敬三郎がミハイル・バフチンの『ドストエフスキイーー創作方法の諸問題』(1968年6月10日)を冬樹社から翻訳刊行し、これまた文芸界に衝撃を与えていた。かく言うわたしも、初めてこの本を読んだときの衝撃は生々しいものがあった。それまで読んでいた小林秀雄や、ドストエフスキー論者としても知られる哲学者ベルジャーエフの著作を通してドストエフスキーの文学や思想や人生を考えていた者にとって、バフチンの作品自体を分析解釈するその方法は、突然、太平洋上にその巨大な姿を現した白鯨を目にした者のごとき衝撃を受けたと言っても、決して大げさではない。ロシア留学中に、バフチンドストエフスキー』の初版本を読んでいたという小沼文彦は、どういうわけかドストエフスキーが味噌糞にけなすローマ・カソリック教の信者で、バフチンの言っていることは別にドストエフスキーでなくても適用できると言っていた。一見、バフチンなど評価していないという口ぶりであったが、彼が主宰していた「日本ドストエフスキー協会資料センター」(当時、渋谷道玄坂を登り切って何分か歩いたマンションの一室)のガラス張りの立派な書棚にはなんと新谷訳の前掲書が五冊も置いてあった。

 早稲田の大熊会館で「ドストエーフスキイの会」の総会が開催された。1970年5月7日のことである。司会は代表を務めていた新谷敬三郎、参加者に小沼文彦、江川卓、木下豊房などロシア文学研究者、それに近藤承神子とわたしも参加した。その席で近藤氏が、次回の例会報告者としてわたしを推薦した。この突然の思いもよらぬ提案に、司会者の顔に一瞬とまどいの表情が見えたが、さすが会を取り仕切るバランス感覚で冷静を取り戻し、結局、近藤氏の提案が受け入れられた。この時、わたしが持参した『ドストエフスキー体験』を小沼文彦がなんと二冊購入してくれた。同じ本が、なぜ二冊も必要なのか。わたしは妙な気持ちであった。後に本人に聞いたところ「本は二冊買うものです」ということだった。
 この時、小沼文彦は「ドストエーフスキイの会」の会員だったが、蔵書寄贈の件で会とは袖を分かち、あらたに「日本ドストエフスキー協会資料センター」(東京都渋谷区神泉町25番8号渋谷マンションウェルズ401号)を主宰することになった。わたしは近藤氏に誘われ、一緒に渋谷のマンションを訪ね、以来、その協会員に所属することとなり、「ドストエーフスキイの会」には脱会届けを出した。が、完全に「ドストエーフスキイの会」との縁が切れたわけではなく、その後も頼まれれば原稿も書き、講演などもしてきた。
 小沼文彦主宰の協会では会誌「陀思妥夫斯基」を刊行、そこには「ラスコーリニコフと老婆アリョーナ」(No.2 1970年8月12日)「肖像画に見るドストエフスキー」(No.2 1971年1月15日)「三角関係に見るドストエフスキー」(No.10 1971年8月30日)などを発表した。専門のドストエフスキー雑誌の刊行の企画もあり、わたしは「回想のラスコーリニコフーー自称ポルフィーリイの深夜の独白」の原稿をあずけておいたが、これはついに刊行の運びにはいたらなかった。原稿も返してもらえなかったが、当時のわたしは生原稿を二部作成していたので、催促もしなかった。いったいあの、第二の死せる青春の煩悶の文字を刻印した生原稿はどこに身を潜めているのだろうか。
 わたしの「ドストエーフスキイの会」での報告「『罪と罰』と私」の模様を近藤氏は会報10号(1970年8月31日)で書いている。当時の会場の臨場感あふれる文章で今や伝説的なものとなっている。わたしは具体的に何を語ったのかほとんど記憶にないが、途中、初老の男性会員が手をあげて、話の中断を要請したことは鮮明に覚えている。わたしは今でこそ、ドストエフスキーの文学を題材にして漫談風に語る術を身につけたが、二十歳過ぎの青年に、それこそドストエフスキーの霊がそのまま憑依したようにしゃべり続けられたら、ディオニュソス的陶酔を知らないままにアポロン的整合性を生きてきたような者の思考は破壊の危機に晒されるわけで、その会員もやむにやまれず中断を申し入れたのであろう。まあ、彼の耳に、わたしの話は、今まで聞いたこともない、途方もない独断と偏見に満ちたものに思えたのであろう。これは、二十歳の昔に限ったことでなく、今でもそうである。今は教授だったり、図書館長だったりするので、その肩書きに遠慮してか、面と向かって反旗を翻すような者はいなくなったが、本心のところでは納得していない者が多いのも確かだし、内容が理解できない者は〈変人・奇人〉の部類に入れてすましている。人間、歳をとったからといってその本質が変わるわけではない。

 わたしは『ドストエフスキー体験』を刊行した時、もうドストエフスキーとはおさらばするつもりであった。わたしの文学的野望はドストエフスキーのみを研究することにあったのではない。わたしは古今東西の哲学者や文学者を一人物に見立てて、究極の真理を見極める一大戯曲の創造を意図していた。この野望はどこで頓挫したのか。一つの契機は、大学三年になってドストエフスキーの処女作『貧しき人々』論にとりかかったことにある。ドストエフスキーから離れるどころの騒ぎではなくなった。第二作目の『分身』に関しては大学四年時にとりかかり、卒業後大学に残ってからも、半年の中断を含め、書き終えるのに丸二年もかかった。第四作目の『おかみさん』もずいぶんと時間をかけた。わたしの二十四歳から三十一歳に至るまでの七年にわたる副手時代に関しては一冊の本が準備されなければならない。この時代に書いた初期作品論は沖積舎版『ドストエフスキー 初期作品の世界』(1988年6月28日 沖積舎)にまとめてある。